第一話 魔族領
「わあ……!」
目の前に広がる雄大な光景に、思わず声が漏れた。
暗い森を抜けた先にあったのは、今まで平地だったシュトルムラントの最果てを高台とした、大きく窪んだカルデラの大地。
岩で出来た高台が、左右にどこまでも続いていて、地平線の先はきっとこの国をぐるりと一周しているんだろう。遠く霞む岩壁がそれを物語っていた。
まるで、特別に抉り取られた聖地かのよう。
『赤の森』の端からは、魔族領のありようをはっきりと捉える事が出来た。
高い岩肌に囲まれた土地にいくつもの村や街が点在し、シュトルムラントのような広さではないものの、窪地の中が一つの国家として形成されている。
ほとんどが岩場で構成された土地に、ぽつりぽつりと草原があって、いくつかの湖と、森と、それに小高い丘が散在する。湖と湖の間には細い川が流れ、村や街などの生活圏はその周辺に出来ていた。
この世界に来てから、沢山の自然に出逢い心奪われてきたけど、その中でも一、二を争う美しい眺めだった。
「ここが……魔族領……」
ここがカナの故郷。
ここが響子ちゃんの目指す魔王が棲まう土地。
「そうだぜ。魔族領へようこそ……ってな!」
カナが両手を広げ、私たちにとびきりの笑顔を向けた。
――そしてここが、私たちの新しい冒険の大地。
§ § § §
魔族領は窪地の底にあるので、まずは長い坂を下る必要がある。
降りてしまうのが勿体ない絶景から、急な斜面を慎重にゆっくりと私たちは降りていく。
カナだけなら一気に駆け下りる事も出来るって話だけど、少しでも踏み外すと下まで真っ逆さま。しっかりと足場を確保しながら歩いていくしかない。
斜面の途中からは、頭上をハーピー――人と鳥の半獣人や、ヒポグリフ――有名な鷲の怪物グリフォンによく似た、半鳥半馬の魔物が飛び交うようになる。
この悪い足場で空から襲われたら、きっと不利な戦いになると思うけれど、彼らは離れた場所を飛んでいるだけで襲ってくる事はなかった。最初から戦う気のないおだやかな魔物たちなのか、上級魔族であるカナをおそれているのか。
かなりの時間をかけて、ようやく平らな場所へとたどり着く。
平らとはいっても、この土地の中央へ向けて傾斜するゆるやかな下り坂。
その勾配はとてもゆるく、体感的には平地と何も変わらない。丸い玉を置いて、それが転がった時に初めて傾斜であると分かる程度だ。
「よーし! 目指すは『魔王城』……でいいのかな?」
「城とかねーよ。魔族領の家は、みーんな平屋だ」
「うーん……それじゃ、あんまり魔王と対峙するって雰囲気出ないなあ……」
生活圏内である大地の底は、とてものどかな空気が流れている。
魔族や魔物が跋扈する怖ろしい土地……という気配ではない。
そんななごやかな場所を、私たちはのんびりと歩き始めた。
すると、十分も歩かない内に向こう側から土煙を上げて、巨大な何かが私たちに向かってくる。流石は魔族領……早速、魔物のご登場だ。
私は剣を創り出し、構える。
もの凄い速さで走ってきて、私たちの前を塞いだのは巨大な犬の魔物。
それも、ただの犬ではない。
三つ首の巨犬……冒険者なら一度は噂に聞く『ケルベロス』だ。
土埃が舞う中、太陽を背に六つの眼光が私たちを睨めつける。
§ § § §
「「「……ケ、ケルベロス……!」」」
カナ以外の全員が、大きな声で叫んだ。
幸いなのか不幸なのか、響子ちゃんもその魔物の名前を知っていたようだ。
ジルは錫杖を抜き、ミオは魔法陣を展開し始める。
響子ちゃんは……ケルベロスの大きさに、泡を吹いて気絶した。
これで、全員の戦闘態勢は整った。……ただ一人、カナを除いて。
「そーだぜ、ケルベロスだ。魔族領の番犬をやってる。可愛いだろ?」
カナが呼ぶと、ケルベルスが頭を垂れる。
顔が近くなって分かったのは、その見た目が本当に可愛らしい事だった。
三つ首の猛犬……ではなく、三つ首のアイシー。
「ケルベロスってのは、アイシーの親戚みてーなもんでな。この通り、人懐っこい犬っコロなんだよ。ま、頭が三つもあるバケモンだけどな」
「「「……ええー……」」」
三つある頭の一つが、カナの頬をべろりと舐める。
さっきまで眼光と勘違いしていたつぶらな瞳が、その無害さを主張している。舌を出し、はっはっと息を吐くさまは、まるで家犬。
フェンリルを除けば犬系最強の魔物のはずが、肩透かしを食らった気分だ。
私、ジル、ミオの三人は緊張の糸が解けた途端、へなへなとその場に座り込んでしまった。
響子ちゃんは、まだ気絶している。
「それで……カナ、本当に危なくないのね?」
「当然だろ」
私の問いにカナは平然と答えた。
何を馬鹿な事というような、不思議そうな目で私を見つめている。
「人を頭から丸呑みにして、食べてしまう……という伝説は?」
「そりゃあ、ただの甘噛みだ」
今度はジルの質問にあっけらかんと答える。
甘噛みって……確かに、アイシーもそんな甘噛みをするけど……。
「かみつきませんの……?」
「大丈夫だって」
「あら、ほんとうですわ。ふかふかしてきもちいいですわ!」
始めに順応したのが、ミオ。
ケルベロスに抱きついて、その毛並みを楽しんでいる。
「じゃあ、このケルベロス……何しに来たの?」
「言ったろ? 魔族領の『番犬』だって。人間が侵入すると、今みてーに脅かして人間を追っ払うのが、コイツの仕事なんだよ。確かこいつは百番目の番犬で、名前はクルーガー……だったかな?」
あー……それで、番犬なんだ。
「響子みてーな反応が普通でな。気絶した人間を咥えて、元のトコまで帰すって寸法よ。気絶しなかったら、甘噛みで咥えて元んトコに帰す」
甘噛みの方は嫌だなあ……。
多分、運ばれている間に、口の中の獣臭さで気絶するかも。
「つーこってよ、クルーガー。……コイツらはアタシの仲間だから、追っ返すなよ。いいな?」
三つの口が、同時にわんと吠えて返事をした。
「丁度いーか。近くの村までは、コイツに乗せてって貰おーぜ!」
アイシーより二回りは大きい、ケルベロスの背に乗って……響子ちゃんは、気絶したまま乗せられて……あっという間に村の前へと到着する。
つい癖で干し肉を与えると、他の二つの首がもの欲しそうな目でこっちを見る。
他の首たちにも肉をあげると、ケルベロスは満足して走り去っていった。
去りゆく姿も、どことなくアイシーに似ている。
……今考えると、来た時の走ってくる仕草も一緒だったかも。
そして、私たちは魔族領で最初の一歩を踏み出した。
カナの話によると、ここは『アラクネの集落』
迷宮や大森林で出逢った、あの巨大な蜘蛛女たちが住んでいる集落だ。
一体、どんな村なんだろう……?