第二百十八話 森の主
轟音をたてて大地に降り立った怪物――。
それは大きな蜘蛛の下半身に、裸の女がついた凶々しい姿の魔物だった。
その魔物の名は、アラクネ。
どうしてこんな所にアラクネが……。
アラクネは前に迷宮攻略をした際、下層で遭遇した好戦的な魔物だ。
八本もの脚から繰り出される連続攻撃は強力で、戦闘スキルまでも使いこなす。
そのアラクネが、私たちの目の前に現れた。
ただ、彼女には一点だけ、それまでのアラクネと違う点があった。
その巨体。
全高はゆうに八メートルを超え、上についている女体も巨人のよう。
私が戦ったアラクネのリーダーと比べても、サイズ感は倍。巨鬼よりも二回り以上大きい。
蜘蛛部分もあるせいで、亜竜並といえる大きさだ。
その巨大アラクネが、その大きな両腕を振り上げる。
問答無用で私たちを殺す気だ――!
そう思った瞬間……。
アラクネは両腕で自らの頭を必死に庇い、その体を左右に振って『いやいや』をし始めた。
「待って……待って下さいです! 私は人間さんと戦う気はありませんですっ!!」
§ § § §
彼女は明らかに人間に怯えた素振りを見せている。
たかが人間相手に八メートル以上の怪物が、どうしてこんなに縮こまる必要があるんだろう?
私たちは三人共、あまりの事に口をぽかんと開けたままになってしまった。
「「「えっ……、えっ?」」」
その後、巨大なアラクネを何度も見返しては、え……と声をあげる。
「ねえ……一体、どういう事?」
「ま……全く分かりませんわ……」
「だな……」
全然状況が掴めないし、飲み込めない。
とにかく、私たちと彼女が落ちつくのを待とう。実は私もまだ混乱している。
私たちが一切攻撃をしてこないと、この巨大アラクネが気付くまで約十分。
「……攻撃しないのです?」
「して欲しいの?」
私はアラクネの問いに、質問をし返した。
「嫌です! 嫌ですっ!」
上半身をぶんぶんと振り、本気で嫌がるアラクネ。
その巨体でどたばたと激しくのたうち回り、鋭い鉤爪のついた脚を振り乱す。
避けないと……死ぬ!
とにかく私たちは、このアラクネが披露する狂乱の舞を避け続け、また落ちつくまで数分を要する事になった。
§ § § §
「ごめんなさいです……」
八メートルの高さから頭を下げ、暴れた事を謝罪しようとするアラクネ。
地面にぶつけんばかりに姿勢を低くしようとしたから、私たちを押し潰しそうになっている。一体、謝ろうとしているのか、殺そうとしているのか……。
「いいから、いいから! ……頭を上げて!」
私は両手を振って謝るのをやめさせた。
「それよりも、色々聞きたい事が……っていうか、もう……何から聞けばいいのかな……。ジル、あとはお願い……」
頭の中が未だ整理出来ていない私は、ジルに丸投げした。
こういった交渉はジルに任せるのが一番。
「承知しましたわ。えっと、アラクネさん……で合ってるのかしら?」
「はい……」
「とりあえず、まずは貴女が『噂の魔物』でよろしいですか?」
「……え。私、噂になってるんです?」
まず、そこからだった。
噂といっても、人間同士の噂であって、彼女は知りようがない。
ジルはこの森林で『怪物』が現れる噂が流れている事、ギルドで調査依頼が出ている事、依頼を受けた冒険者が大怪我をして帰ってくる事など……とにかく彼女に伝えるべき情報を上手くまとめて、分かりやすく説明した。
「それでしたら、私で間違いないと思いますです」
「ですってよ、アリサさん」
怪物である事を肯定するアラクネと、わざわざ私に話を振ってくれるジル。
ジルが解説をしている間に、私の中で聞きたい事はまとまっていた。
「じゃあ、まず……冒険者が大怪我をしてる件だけど……」
私は周囲を見渡す。
低木が何本も折れ、地面はめちゃくちゃに踏み荒らされて、いくつもの穴が開いている。彼女の『いやいや』を一撃でも食らったらこうなる……というのが、何も聞かないでも分かってしまう。
「確認するまでもないわね……」
「ですわね。あんなのを受けたら、当然ああなりますわ」
ジルは指を唇に当てて、思いにふける。
きっと昨日治した冒険者や、さっき逢ったパーティを思い出してるんだろう。
「じゃあよ、なんでオマエ……この森にいるんだ? アラクネつったら、魔族領か……いても迷宮の中だろ? 迷子にしちゃあ、魔族領からも迷宮からも遠過ぎだろ」
カナが聞く。
それ、大事な疑問点だ。私も気になっていた。
「えっと……私、ちょっと前に『狩猟者』に任命されたのです」
「狩猟者?」
「そうです。最近、悪い人間さんに魔族の狩猟者さんが捕まる事が多くて……。それで、角のない魔物なら、人間さんに狙われないで済むだろうって、魔王様のご命令で……」
狩猟者の角を狙う人間……ゾディアック帝国の事だ。
「今ではいろんな森に私たち大型の魔物が、『狩猟者』として来ているのです」
狩猟者――森の危険から人間を守るため、一部の魔族が請け負っている仕事。人間と魔族、その種族間での和平の証として、国内の森に派遣されている。
カナも元々は狩猟者だ。
「角がなければ、狙われない……確かにそうかも」
「いえ、狙われない以前に、魔物を倒すのに魔物を派遣するのでは本末転倒ですわ……! 今回みたいに『森に怪物が現れた!』ってなりかねないですし……」
「あっ、そうか……」
そのせいで怪我人まで出ているんだった。
そう考えると、迷惑な人選だ。角を狙われないようにって聞いた時は、流石は魔族を束ねる魔王、頭のいい方法だなって思ったけど。
とにかくギルドにどう報告しよう?
……まあ、これもジルに丸投げでいいかな。
あと、気になる事といえば……。
「ねえ、さっき私たちが見つけた大っきな繭は……?」
「あ、それは私が熊さんを糸で縛ったのです。森に来る人間さんを守るために、熊さんやイノシシさんを糸でぐるぐる巻にしてるのです」
巨大蛾の繭じゃなくて、蜘蛛の糸だったのね。
五メートルもあったのは、中に暴走熊が入っているから……うん、納得。だとすると……。
「もしかして、あのワイヤートラップも……」
「ワイヤートラップ? あれは蜘蛛の習性なのです。私たち蜘蛛は帰り道が分からなくならないように、いつも糸を出しっぱなしで移動するのです」
「あれ、放置してたら人が死んじゃうから。お願いだから撤去して……」
私たちも危なかった。
ただの道しるべと言うのには無理があり過ぎる、とんでもない殺人兵器だ。
「えー……、面倒です……」
「そのままにしてるとあなたが敵だと思われて、攻撃されちゃうから。ね?」
「それなら、仕方ないです……」
本当に面倒くさそうな声だけど、渋々撤去に応じてくれた。
人間を森の危険から守るための仕事なのに、あんな危険なものを放置してたら……それこそ、本発転倒だからね。
「ところで、人間さん……。奥の人のお声なんですけど、どこかで聞いたような憶えがあるのです……。フードを脱いで貰えますですか?」
――カナは上級魔族。
迷宮でもよく声をかけられていた程、魔物には有名人だ。
おかげで迷宮攻略は、ほとんど階層ボスと戦わずに済んだ記憶がある。
「ああ、いいぜ」
カナがフードを脱ぐ。
アラクネは一歩……というには巨大な一歩を退き、土下座のような姿勢になって地面に顎をつけ、カナの顔をじっくりと観察する。
そして、カナの顔を確認して激しく驚いた。
「あっ……! あなたは……カナリア様! 上級魔族のカナリア様じゃないですか! 昔よく遊んで戴いたんですけど、憶えてますですか?」
……まさか、カナの個人的な知り合い?