第百五十九話 交渉
《思考感知》という心強い味方を手に入れた私は、ジーヤを従えて自信満々の足取りで応接室へ向かう。
召使いに開けさせるために作られた両開きの扉を、私自身の手で開ける。鈍い音を立て開く、大きな扉。その先には、豪華なソファに座った男が一人。ソファの後ろには、五人の護衛と思しき騎士が立っている。
座っている男がドラグニ侯爵。見るからに脂ぎっていて、でっぷりと太っている。飽食貴族そのものといった姿で、やや高めの身長も手伝ってかなりの巨漢だ。脂肪で細くなったまぶたから、濁った瞳を覗かせている。
騎士たちはおそらく、騎士学校の卒業生と思われる名ばかりの騎士。ずっと起立状態で待たされていた事から体幹がぶれ、体が小刻みに震えている。
騎士学校は、基本的に職にあぶれた貴族の次男、三男が行く職業訓練校だから、練度が低くても仕方がないといえば仕方がない。
私は来客たちを軽く確認した後、対面のソファへと座る。
「お待たせしました。領主のアリサ・レッドヴァルトです」
私がそう告げると、ドラグニ侯爵がただでさえ細い目を更に細めた。
五人の騎士たちの視線も私に集まる。
(ほほう……小娘とは聞いていたが、これは中々の上玉。奴隷にして鎖に繋いで、毎晩可愛がってやるのもよいな……)
侯爵は酷く失礼な事を考えている。
けれど、ここで怒ったら交渉は台無し。心を落ち着けないと。
(((あれが噂の剣聖、なんてお美しい……)))
一方、護衛騎士たちは、私を素直に褒めている。
ここで照れても台無しだから落ち着け、私。
……顔、赤くなってないよね?
「おお、お待ちしておりましたぞ。アリサ・レッドヴァルト・シュヴェルト・グロスマイスター伯爵殿。さあ……早速、土地についてのお話をしましょうぞ」
(ふん、小娘の分際で三日も待たせおって。とっとと湖と迷宮を奪って帰るぞ! ……あれは俺が持つに相応しいものだ!)
侯爵は口調こそ柔らかだけれど、心の中ではかなり苛立っていた。
建前に対して、その本音は酷いもの。
侯爵に何かを言われる前に、私が先に切り出す。
「土地については、全てジー……執事に任せております。出来れば、執事とお話戴けたら……」
「いやいや。これは貴族と貴族における、貴族同士の重要な話し合いですぞ! 召使いごときが口を挟むなど、差し出がましいとは思いませんかな? ……そうであろう、執事殿?」
私の言葉をさえぎって、ジーヤに牽制の一手を打つ侯爵。
思考と会話が一致する時は、心が読めてもあまり意味はないみたい。
(やはり、この手を打ってきたか。これで私は何も言えなくなってしまった)
ふとジーヤの心の声が聞こえてくる。
つまり、ここからはジーヤの助けなしでがんばれって事?
……絶対、無理。
「そのように仰られても、私の領は全て執事に任せていますので」
ジーヤが交渉出来るように食い下がる。
事実、全てジーヤ任せなんだけど。
それに対し、侯爵はこう考えた。
(二度も三度も、あんなタヌキジジイと話なんかが出来るか! 貴様だ。貴様から直接、湖か迷宮を……いや、両方奪い取ってやる!)
そして、喋る。
「いやいや。領主が領地を『把握していない』など、それこそ領地の一部を優秀な別の領主……そうですな、ワタクシなどに任されては、いかがですかな?」
この言葉を受け、ジーヤが心の中で呟く。
(そう来たか。今、私が口を出す事は許されない……お嬢様は大丈夫だろうか)
うん……?
ジーヤの心が読めると言う事は……。
私は軽く振り向いて、すぐ後ろのジーヤに目配せで合図を送る。
故郷を出るまでの十五年、ずっと私に従ってくれていた彼なら……きっと分かってくれるはず。
(お嬢様、湖の収益は九ヶ月で金貨五千枚の損失を補填し終わり、現在、白金貨三百枚の売上。税収は純利益八十枚の三割二十四枚を予定。迷宮は三ヶ月で金貨二万五千枚の損失から白金貨九十枚の黒字に、税は翌年より徴収となっております)
ジーヤが心で答えを返してくれた。
私はジーヤが心の中で言った言葉を、そのまま復唱する。
「湖の収益は九ヶ月で金貨五千枚の損失を補填し終わり、現在、白金貨三百枚の売上。税収は純利益八十枚の三割二十四枚を予定。迷宮は三ヶ月で金貨二万五千枚の損失から白金貨九十枚の黒字に、税は翌年より徴収となっております」
そして、一言付け加える。
「いかがです? これでも、優秀な他領の領主様の助けが必要ですか?」
把握してればいいんでしょ。
これでまずは、相手の初手を封じる事が出来た。
私の返しを聞いて驚愕し、公爵は悔し紛れにお茶をすすった。
(そんな馬鹿な……全てあのジジイが運営しているんじゃなかったのか? こんな二十歳にも満たない小娘が、売上どころか税収まで管理しているだと……? 俺ですら、全て税務官にやらせているのに……!)
ここまで混乱してくれると、思わず『勝った』という気分になる。でも、交渉はまだ始まったばかり……気を引き締めないと。
それにしても、白金貨なんて言葉初めて使った。
白金貨――普通の冒険者では一生手にする事が出来ない貨幣。国家予算や国同士の外交、豪商の大型取引でしか出てこない。
金貨は一万円程度の価値なのに対して、白金貨はなんと百万円。
つまり、湖の収入は三億円!
三億円……私の領地、そんなに儲かっているの?
確かに他の領主が欲しがるのも頷ける。
この瞬間、私は初めて自分が『貴族』になったんだと、心から実感した。
絶対に湖……領民の利益を護らないと!
§ § § §
私が決意をしたと同時に、侯爵は皮算用をし始めた。
(しかし……九ヶ月で白金貨三百か……一年だと、四百。金貨にしてひぃ、ふう、みぃ……四万枚だと? それだけあれば、女遊びがし放題ではないか。なんと素晴らしい……)
そして、悪知恵を巡らせる。
(では、いつものあの手でいくか。あの手ならば煙に巻いて利益だけをさらう事が出来る……)
侯爵は、かなりずるい手段を考えているみたい。
あの手というのはよく分からないけれど、私はどんな言葉がきても返せるように身構えた。
「ところで……湖と言えば、ワタクシの領にも美しい湖がありましてなぁ……。湖がある領の先輩として、ご助言などを授けたいのですが、よろしいかな?」
侯爵領の湖、それに先輩……? 急に何を言っているんだろう。
その声を聞いて、騎士たちが同時に考えた。
(((あーあ、また始まったよ。関係ありそうで関係ない話をして、最後は言いくるめて煙に巻く戦法だ……。これ、始まると長いんだよなぁ……)))
そして、一人がこう考える。
(第一、俺たちの領には湖なんてないだろ。口からでまかせだよな)
彼の心の声を聞いて、私はすかさず反論を考える。
でも、目の前の侯爵……ファーストネームは憶えているんだけど、領の名前を忘れた……。ジーヤ助けて。
私はジーヤに目配せする。
(……『ゴーシュ領』です、お嬢様)
ありがとう、ジーヤ。
「はい? ゴーシュ領には、湖はないと聞きましたけど……。私の聞き間違いですか?」
「ぶふっ……!」
カップに口をつけたまま、お茶を吹き出す侯爵。
「あ、ああ……間違って、南隣の男爵領の湖の話をしてしまいましたな。これは失敬……」
(なんでこの小娘が、我が領地の地理まで知っておるのだ? な……ならば、あの手だ……)
冷や汗なのか脂汗なのか分からない汗を拭きながら、侯爵は言った。
「で……では、湖の観光につきものといえば遊覧船。遊覧船を我が領から手配しましょう。出来得る限りの豪華客船を……!」
ただで観光地をよこせと言ったその口で、ただで遊覧船を提供……?
侯爵、一体何を企んでいるの?