第百五十七話 選択
ミスリルの服の重さと、足の痛み。焦ってもがく程沈む体。
上を見ると白く煌めく水面、下は群青から黒へと変わっていく深い闇。
時間と共に煌めきが遠ざかっていく。痛む足が闇に掴まれて、引きずり込まれるような錯覚さえも感じる。
私の口から、大小の泡が浮き上がった。……あれは、私の息。
急激に肺から空気が失われて、その激しい苦しみは、やがて酸欠による不思議な高揚感へと変わる。この感覚は本当に不味い……死の感覚だ。
私の体も意識も、湖の底へと落ちていく――。
もう、お終いと思った瞬間……何者かに首の後ろを掴まれた。
凄い勢いでぐんぐんと引き上げられていく。
あっという間に水の上へと連れて行かれ、私は助かった。
助けてくれたのは、誰?
朦朧とした意識の中……考える私の耳元で、聞き覚えのある美しい声が響いた。
§ § § §
私を助けてくれたのは、女神様。
猫のように私の首をつまんで語りかけた。
「あなた方が落としたのは、この戦隊、戦隊とやかましく、しょっちゅうドジをするポンコツ剣士のアリサさんですか?」
右手に何故か『もう一人の私』を掴んで、更に尋ねる。
「……それとも、この銅像のように聡明でリーダーとして頼もしい、隙のない剣聖のアリサさんですか?」
ええーっ!?
これって、もしかして……。
窒息の前後不覚から醒めて、しっかりと前が見えるようになると、ジルが顎に手を添えて悩んでいる姿が見えた。
本物はどう見ても私でしょ? 悩まないでよ。
「うーん……。凛々しくて聡明なアリサさんもいいですわね」
いいですわね、じゃないでしょ!
迷わず本物を選んで!
「それでは、こちらの……」
女神様は右手の私を湖に投げ捨てると、また別の私を引っぱり上げた。
「おしとやかで作法も完璧な、麗しき貴族令嬢のアリサさんですか?」
隣の私を見ると、ふわりとしたパーティードレスを身にまとい、孔雀のような扇子を口に添え、おほほほと笑っている。五割増しで美人だけど……。
これって、どこをどう見ても偽物だよね?
同じ人間をもう一人創り上げるなんて、流石は『創世の女神』様――。
なんて、感心をしている場合ではない。
だからドジ扱いされるんだ、私。
これはあの有名なお話と同じ状態。もしも、今悩んでいるジルが間違えたら、私は偽物もろとも泉……いや、湖へと没収されてしまう。お願いだから、ジル……正解して!
「……おしとやかで綺麗なアリサさんも……捨てがたいですわね」
捨てがたい、じゃないでしょ!
そこに、カナが横入りした。
「ガキの頃から大親友やってるアタシは、騙されねーぜ! 本物のアリサは、こっちのドジでポンコツな方だ!」
ド……ドジでポンコツ。親友にまでそう思われていたなんて……。
女神様の手の中で、がっくりとうなだれる私。
それでもありがとう、カナ。これで私も助かるよ。
「正直者のカナリアさんには、この本物でポンコツのアリサさんを差し上げましょう……」
また女神様にポンコツって言われた。
それはともかく、なんとか私はボートへと戻る事が出来た。
「――もう二度と、湖に大切な仲間を落とさないようにして下さいね。……それと私、『泉の女神』って一度やってみたかったんです……」
そう告げると女神様は、微笑みながら湖の底へと消えていった。
やってみたかっただけなんだ……。
§ § § §
「ありがとう、とにかく助かったよ。カナ」
「いいってコトよ!」
笑いながら、私の背中を叩くカナ。
ふと、何かが気になったという表情をして、私に聞いてきた。
「ところで、あのやたら格好いいアリサとか、いけ好かねー感じのアリサとか選んでたら、どうなってたんだ?」
「多分、私は永久に湖の底に没収……結局、溺れ死んでたかも……」
「ゾッとしねー話だな……」
カナが両手で自分の肩を押さえて、ぶるっと身震いする。
水に濡れた冷たさと、このまま助からなかったかも知れない恐怖から、私も一緒に震えた。
「そうでしょうとも、そうでしょうとも! 悩んだふりをして、カナさんに答えさせる……私の作戦勝ちですわね!」
「いや、ジルのお手柄じゃないから。大体ジル、本気で悩んでたじゃない」
「そ……そんな事は、ありませんわよ」
「もうっ、ジルの裏切り者ー!」
私はジルに軽く抱き付き、お仕置きにくすぐった。
痛みに弱いジルは、くすぐりにも弱かったようで、激しく船上で暴れると……。
そのまま湖へ、ぼちゃんと落ちた。
――しばらくして、湖面へと上がってくる女神様とジル。
右手には偽物のジルも添えられていた。
「あなた方が落としたのは、この金の聖女ですか? それとも、この銀の聖女ですか?」
それに、女神様は一言付け加える。
「ちなみに……金の方は、何事にも完璧で頼りになる品行方正な、文字通りの聖女で、銀の方はいつも魔力不足で大食らい、粗忽者の自称聖女です」
結構酷い事言うなあ、女神様。
……私たちは指差し、迷わずに答えた。
「「「右の金色の方です!」」」
「ひ……酷いですわー!」
§ § § §
勿論、冗談だからとすぐに訂正して、本物のジルを返して貰う。
私の死にざまが滑稽だと笑っていた女神様は、お笑い好きで冗談が通じる神様だから、快く返してくれた。
「聖女ジルヴァーナ……あなた、本当に人望がないんですね……」
憐れんだ目で、べそをかくジルを見つめる女神様。
肩が震えているけど、これは間違いなく笑いをこらえている仕草だ。
その証拠に、唇が小刻みに揺れて口角も微妙に上がっている。
「余……余計なお世話ですわ!」
顔を真っ赤にして怒るジル。
その表情を見た女神様は、限界がきて大笑いを始めた。
そして、ひとしきり爆笑した後、笑い涙を拭って湖の中へと消えていった。
「――もう二度と、湖に大切な仲間を落とさないようにして下さいね」
§ § § §
「まったく、酷いですわ! ぷんぷん!」
ジルはまだ怒っていた。泣きながら怒っていた。
そういえば二人旅の頃、『昔、人間に裏切られて絶望していた時期があった』と言っていたっけ。冗談でも裏切ってしまったのは悪かったかな……。
「ほんと、ごめん! お願い、なんでもするから許して!」
私が頭を下げると、ジルの涙がぴたりと止まる。
そして、にやりと顔を歪めて……。
「その言葉を待っていましたわ! さあ、今日はアリサさんの奢りで贅沢三昧ですわよー!」
ジルは途中から嘘泣きで、この瞬間を待っていた。
一万年前に受けたという裏切りの傷は、すっかり癒えているようだった。
それなら、そのお祝いに奢りくらい……と思ったけれど、よく考えたらジルの食欲は腹八分目でも金貨十枚分。満腹までとなったら、いくら食べるか想像もつかない。それを私が全額負担って……ちょっと待ってよ。
「カナもアスナもテラソマさんも同罪じゃない? 皆も少しは払ってよ……」
偽物の金ジルを指差したのは、私だけではない。
一緒になってふざけた、三人だって悪い。
「いーや、聖女サマがアリサの奢りと言ったら、アリサの奢りだ」
「そんなあ……カナ、酷いよー。裏切り者ー!」
結局、その日のご飯は全額私の奢りに。何故かカナたち三人の分まで支払わされていた。当然ジルは、ここぞとばかりに食べまくって、合わせて金貨ニ十五枚。
もう二度と、なんでもするなんて言わない。
こうして、ハプニングがありながらも楽しいバカンスは過ぎていった。