第百三十五話 解放
学校長が開いた扉の向こうには、筋肉質な男性が待っていた。
二メートル近くの長身で、上半身は裸。体中にびっしりと古い傷跡があり、黒い眼帯で隠された隻眼。それに、褐色の肌と……折れた角。
彼が、噂の『奴隷刻印を消せた魔族』
折れた角の痕は一つ、二つ……合わせて、五つ。……上級魔族だ。
角の数は、魔族の格の証。カナも角を折られる前は、四本角の上級魔族だった。私は思わずカナの頭を見てしまう。
しかし、そのカナは……私の方ではなく、その男性を泣きながら見つめていた。
「……メギディオ」
カナは震えた声で呟く。そして、声を張り上げて叫んだ。
「メギディオ、メギディオじゃねーかっ!! 今まで、どーしてやがったんだ!!」
男性の両肩をつかんで、怒鳴りつけるカナ。
いつもなら、何があっても楽観的に笑っている彼女が、今回だけは酷く焦燥している。いくらなんでも、この取り乱しようは異常だ。
「メギディオ? カナの……知り合い……?」
「……前に話したろ。失踪中の魔族の王子だ!」
失踪中の王子――私も騎士学校に旅立つ前、カナから聞いた事がある。
五本角の王子が、ある日突然いなくなっていたと。
しかし、この現状から考えると……それは失踪などではなく、奴隷としてゾディアック帝国に捕まっていた。そういう事になる。
ゾディアックの手は、魔族の王子にまで及んでいた。
その事実を知った私の背筋には、怖気に似た何かが走った。
§ § § §
カナに強く揺さぶられて、メギディオ王子がようやく口を開く。
「おまえは……誰だ?」
彼の第一声は、カナを知らないという否定の言葉。
焦点の定まらない瞳でカナを見つめ返すが、その視線はどこか虚ろだ。
「……っ! 何言ってんだよ! アタシだよ、カナリアだよ!!」
「知らん……憶えていないのだ……」
「ど……どうしてだよっ!!」
申し訳なさそうな顔をするメギディオ王子。
そして、カナの叫びに呼応するかのように、一人の女性が研究室の奥の部屋から現れた。
「それは、魔族刻印を消したからですよ……」
その白いローブ姿の女性に、私は見覚えがあった。
驚く私に彼女は優しい声をかける。
「アリサお姉様……お久しぶりです」
大人しげな表情、愛らしく大きな目。とんがり帽子に収まっているセミロングの髪は、窓から差し込む逆光でピンクに輝いている。私と一緒に卒業試験を受けた魔法学校生。
オズホーカ・マジレーン――。
あだ名はホーカちゃん。自らをあだ名で呼ぶ、やや幼い雰囲気の女の子だ。
「『アリサお姉様』ぁ……?」
彼女が私を呼ぶと、カナが微妙な顔をした。
その横では、事情を知っているジルが手を口に当てて笑っている。
私の学生時代のあだ名は『アリサお姉様』……私が姉御肌という事で、誰もがそう呼んでいた。お上品な貴族の令嬢ばかりだから『姉御』ではなく『お姉様』なんだと思うけど、同い年から呼ばれるのは、最後まで慣れる事が出来なかった。
「カナっ……この話はあとで! ……久しぶりね、ホーカちゃん。魔法学校、卒業したんじゃなかったの?」
「あの後、もっと沢山魔法を勉強したくて研究員になったんです」
「あ……そうなんだ」
あとで聞いた話、研究員というのはいわゆる大学院生とか、助教授みたいなものらしい。
「……で、『刻印を消したから』ってどういう事?」
「はい。奴隷刻印を消す術式を作ったのは、実はホーカなんです」
一人称が愛称なのは変わらずだった。
それにしても、刻印を消すのに成功したのがホーカちゃんだったなんて。試験の時に怯えていた彼女からは、とても想像出来ない成長振りだった。
ホーカちゃんは、説明を続ける。
「奴隷刻印は強い呪いの刻印で、消すためには大量の魔力と……代償が必要になります」
「その代償が、記憶なのね……」
「いいえ、厳密には『一番大切なものが消えてしまう事』なんですけど……まあ、大体そんな感じです」
ホーカちゃんからその言葉が発せられると、私は視線を感じて振り返った。
戸惑いとも、驚きとも、恐怖ともつかない複雑な表情をしたカナがそこにいた。
「奴隷にされてしまった魔族は、もう全てを失ってます。だから、唯一残った『記憶』が一番大切なものなんだと思うんです。そのせいで、今までの人生を全て失くして、こんな姿になっているんです……」
「そんな……」
私が見つめると、虚ろな目で返すメギディオ王子。
記憶をなくして呆けたような表情は、痛々しさすら感じた。
「でも、どうして記憶を失ってまで、奴隷刻印を消そうとしたんですの?」
ジルが割り込むようにして、疑問を投げかける。
その疑問には、カナが答えてくれた。
「それは……魔族としてのプライドだと思うぜ……。コイツは人間の奴隷なんて、死んでも嫌だったんだろうな。今でも人間を見下してる魔族は沢山いる。特にコイツは王子だからな……そういう事なんだろうぜ」
そして小さな声で、ぼそりと呟いた。
「……アタシは……アリサの奴隷なら、それでも構わないんだけどな……」
§ § § §
その後、私たちは奴隷刻印を消す魔法の概要を、ホーカちゃんから聞いた。
この魔法は先程も話があった通り、膨大な魔力で、一番大切なものを代償に行う儀式魔法。
詠唱には一時間程度の時間がかかるという事。
失うのは大抵の場合、『記憶』だろうという事。
必要な魔力は、巨大剣を出せるだけの魔力があればいけるとの事。
演習場での一件、ホーカちゃんも見ていたんだ……。
まあ……目立つからね、あれ。
つまり、私が魔力を供給すれば、いつでもこの儀式は行える。
それらの説明がなされた。
今日はもう無理だけど、ホーカちゃんは明日までに儀式の用意をしますと言ってくれた。
説明を聞くたび、私の中でカナを解放出来るという希望が膨らんだ。
問題は、カナの『記憶』がなくなってしまう事。
「記憶かあ……どうしよう……」
「あら、それでしたら記憶を取り戻す魔法がありますわよ!」
ジルが高く手を上げて、私に提案した。
「失くして一日以内でしたら、《記憶回帰》の魔法で戻す事が出来ますわ!」
流石はジル……。
どんな魔法でも揃っているのは、本当に有能過ぎる。でも……。
「でも……それって、ちょっとずるくない?」
「アリサさんの信念と、カナさんの自由。どちらが大事ですの?」
「……カナ」
不正は嫌いだけど、これだけは天秤にかける事が出来ない。
ちょっと納得がいかないけど、カナを解放するためなら……と我慢して、ふてくされた顔で私は答えた。
「決まりですわね!」
儀式は明日行うという話になって、とりあえず今日は帰る事にした。
夕暮れの帰り道。
ようやくカナが救えると、笑顔で歩く私。でも、陽の落ちかけた夕闇に隠されて、カナがずっと暗い顔をしていたなんて、その時の私は気付いていなかった。