第百十一話 魔犬
ジルが稼ぎを飲み代に溶かした翌日、私は旅支度を始めていた。
王都なら、カナの奴隷刻印を消せるかも知れない――迷宮で手に入れたその情報を頼りに、私は王都へ向かう事に決めた。
「えー……面倒くせーから、そんな事しなくていーよ」
カナはこう言っていたけど、カナが奴隷だという事で虐げられないか心配だし、何より私たちは対等な親友のはずだから。
ジルも、王都行きには大賛成。
布教活動が滞るのもおかまいなしに、王都に直行する事を奨めてくれた。
「私の布教よりも、カナさんの事の方が大事ですわ」
二日酔いの頭を押さえながら、そう笑っていた。
ジルが動けるようになってすぐに、村の商店で保存食と消耗品――黒パンに干し肉に水、ランタンの油やロープ……それに、日用品を買い揃えた。
本来なら、薬草や包帯も必要だけど、ジルの《治癒》でなんとかなってしまうし、かさばる品物は《次元収納》に入る。ついでに言うと、《浄化》でお風呂と洗濯まで済んでしまう。ジル様々、ジルこそパーティの要だ。
燃費は恐ろしく悪いけど。
買うものも買って、身なりを整え、さあ出発……と言いたいところだけど、一つだけ問題があった。
交通手段。
そう、王都までは馬車で軽く二週間はかかる。徒歩なら一ヶ月以上。
乗り合い馬車を何度も乗り継がないといけないから、馬車から馬車へのつなぎで待ち時間、待ち日数も発生する。
一刻も早くカナを奴隷から開放したい私としては、とても気が長すぎる話。しかも馬車は、王族御用達の高級馬車ならともかく、乗り合い馬車では腰やお尻に負担がかかる。固い座席に揺れる車体、これは結構辛いものがある。
馬車乗り場で徒歩か馬車かと悩んでいる私とジルに、カナが言った。
「そんならいい乗りモンがあるぜ。ついて来な!」
カナは馬車乗り場を通り抜けて、すたすたと歩いていく。
§ § § §
カナについて行って到着したのは、村の外れ。
……と言うよりも、村を出てしまっている。
「何もありませんわね……」
ジルも辺りを見渡しながら、不審がっている。
「ちょっと待ってな」
カナが自らの指を口にくわえ、思いきり指笛を吹く。それは、すかっという感じの音に鳴らない指笛だった。私には何も鳴ってないように聞こえたけど、ジルが耳を押さえて驚く。
「突然、なんですの!?」
人間には聞こえないけれど、真竜には聞こえる高周波の指笛。そんな指笛をカナは吹いていた。吹いた当人、魔族のカナには当然聞こえているんだろう。
口から指を離し、カナが笑いながらジルを諭す。
「まあ、ちょっとだけ待ってな。すぐ来っからよ」
何分かすると、大きな音を立てて、南の方から何かが走ってくる。
「ほらな」
カナが言うと、その音は私たちに向かって近付いてきた。
その大きさと速度がよく分かる、低く短い間隔の足音。そして、わんわんと吠える愛らしい鳴き声。
「アイシー!」
思わず、私は叫んだ。
アイシー――レッドヴァルト領を生息地とする、領固有の魔物。大きさはとんでもないけど、とても友好的な生き物だ。私の故郷、レッドヴァルト領ではタクシー代わりに領民が使っている。
私はその巨大な体躯の犬を、久しぶりに見た。
彼……それとも彼女は、人懐っこそうな顔をして、はっはっと息を吐いてお座りをしている。
「な……な……何なんですの、この化けものは!?」
激しく驚愕し、狼狽するジル。本人がそれ以上の化けものだというのに、まるで取って食われるとでも言いたげな表情をしている。
一気に二日酔いも醒めたみたいだけど、彼女の顔は二日酔いの顔色ではない、恐怖の色で真っ青に染まっていた。
「何って、アイシーさ。レッドヴァルト領に住んでるデッケー犬だ」
「『デッケー犬』と言われましても……これ、魔物ではありませんの?」
「ああ、魔物だけどな。この通り安全だ」
カナの顔をべろべろと舐めるアイシー。競争馬並の大きさを除けば、飼い犬となんら変わりはない。……私とカナは慣れっこだけど、ジルだけは酷く怯えていた。
「それにしても、アイシーなんてよく呼べたわね……。関所とかどうやって越えたんだろ……」
ふと疑問に思った事を私が口走る。
レッドヴァルト領からここまで、馬でも軽く一週間以上はかかる。馬より早いアイシーにしたって、数日は必要なはず。それに領同士の間には関所があって、こんな大きな魔物が関所を越えるのは難しい。
領内の誰もが、その安全性を知っているレッドヴァルトならともかく、他の領に入った途端、沢山の衛兵や騎士に討伐されてしまうのが落ちだ。実際、私がレッドヴァルトを出た際、隣領の街まで行ってしまって驚かれた事がある。
そういう理由があって、今まで私はアイシーを呼ばないようにしていた。呼んでも犬笛なんか聞こえないだろうし、来れる距離じゃないと思っていたけど、カナが呼んだらあっという間にやって来た。それが、とても不思議だった。
「ああ、コイツらは見た目と違って、結構強力な魔物だからな。呼べば、時間も空間も越えてやって来るんだ。凄ー忠犬ぶりだろ?」
「忠犬……っていうより、そういうところはやっぱり魔物なのね。……ところで、遠くから走ってきたけど、あれは? 空間を越えれるんでしょ?」
そこも疑問点。私が呼んだ時も、彼らは必ず遠くから走ってきていた。
こんな無駄な事をしないで、雇い主の所まで瞬間移動すればいいのに。
「あれは、コイツらなりのアピールだ。『私はこんなに早く走れますよ』ってな」
「あざといわね……」
「だろ? ……だがよ、コイツを使えば半分の日数で王都に着くぜ。それに、ケツが痛くならねーってオマケ付きだ」
じゃれつくアイシーの頭をなでながら、カナは答えた。
「た……食べられたりしませんの?」
おそるおそる近づきながら、ジルが聞く。触っても大丈夫なのかを確認しながら、腕を伸ばしたり引っ込めたりしている。
「大丈夫だって。あ……ただな……」
カナはなでるのをやめて、アイシーに向かって一言告げた。
「悪いな。今日はオマエの餌、用意してねーんだわ」
それは、アイシーに対して絶対に言ってはいけない言葉。
彼らはタクシー代わりとして働く対価として、必ず人々から餌を貰っている。その餌が『無い』という事になると、当然……。
「きゃあああっ!! カ……カナさああーん!」
カナの首から上が、丸々アイシーに頬張られてしまった。
ジルが慌てふためく。
頭が丸呑みされたようになって、その下で宙吊りなったカナの体がぶらんぶらんと揺れている。そうこうしていると、アイシーの口の中からカナの声が聞こえてきた。
「ほらな。報酬を用意しねーと、こーやって甘噛みされちまうんだ」
「甘噛みって……食べられてますわよ!!」
零さんばかりに涙を溜めて、叫ぶジル。
「カナさんを離しなさい!」
アイシーは、ジルが押しても引いてもびくともしない。必殺技の《竜闘志》を発動して無理矢理に押すも、ずるずると地面を引きずるだけで、彼はカナを口から離そうとしなかった。
「一体どうすれば、よろしいんですの……?」
「あー、はいはい。……ジル、干し肉出して」
「どうして、干し肉なんか……?」
「いいから」
ジルが胸の《次元収納》から、保存食として買いだめした干し肉を出す。私は干し肉を一切れ掴むと、アイシーに見せつけて、こう言った。
「ほら、アイシー。干し肉食べる?」
すると、アイシーはカナの頭を口から離して、干し肉に飛びついた。
「ね? 報酬さえあれば、安全なのよ。少し問題はあるけど、ね……」
カナの方へと目をやると、カナの頭はアイシーの涎でべたべたになっていた。やや粘度のある唾液が、カナの顔に髪にとまとわりつき、獣独特の異臭を放っている。
私も領にいた頃、アイシーへの報酬を忘れてあんな目に遭った事があるけど、あれは生暖かくて、臭くて、とにかく酷かった。べとべとした感触と臭いが、数日は落ちなかったのを憶えている。
§ § § §
アイシーが干し肉に夢中になっている間に、唾液と臭いを《浄化》の奇跡魔法でジルが洗い流す。
「ありがとな、聖女サマ」
「もう、こういう無茶はしないで下さいまし!」
すねてそっぽを向きながら、頬を膨れさせるジル。
「悪い、悪い。こーした方が分かりやすいって思ったんだ」
干し肉を食べ終わり、お座りに戻っているアイシーをなでてカナは言った。
「じゃ、行こーか。――コイツなら、王都まであっという間だぜ!」




