第九十八話 ボスⅣ
厳重に閉ざされていた鋼の扉が開く。
その先は、縦横数十メートルの広さを持ち、高さもゆうに十メートル以上はあろう大部屋。中央には、私が先程まで戦っていた大アラクネよりも、更に巨大な魔物が鎮座していた。
裸の女に、腰から下は節足動物。一見すると……大きなアラクネ。
蜘蛛女であるアラクネとの違いは、その前肢には巨大な鋏が付き、後ろには長い尻尾があった事だ。
「セルケト……ですわ。Sランクモンスターがどうして階層ボスに……」
ジルが表情を強ばらせて、冷や汗を垂らしている。
セルケト……初めて聞く名前だ。
「セルケト?」
私がそう尋ねると、ジルは手の甲で汗を拭いながら私に言った。
「ええ、セルケト。アラクネが蜘蛛女なら、セルケトは蠍女。私と同じSランクモンスター……と言えば、お分かりになります?」
「ジルと……?」
「伝説級……という事ですわ。アルラウネやアラクネでも、せいぜいAランク。目の前にいる存在は、紛う事なきSランクの強さですわ……」
「それって、やばくない?」
私の頬にまで、冷や汗が伝った。
そして、私たちの会話を聞いて、やっとその『セルケト』が重い腰を上げた。
「おやおや、三年ぶりに冒険者が来たかと思えばー……」
体の大きさに比例した、やや低い声が部屋中に響き渡る。
私も二振りの忍刀を持ち直して、構えをとる。
ジルも、先程の《治癒》の時にはしまっていた錫杖を、いつの間にか取り出していた。決死の覚悟が、その横顔から見て取れる。
「ねえ……さっきみたいに、腕だけ真竜に戻すの、出来ない?」
「あいにくと、MP切れですわ……」
「本当にやばいわね」
まだ相手の間合いですらないのに、一步、また一步と後ろへ下がってしまう私たち。敵のあまりの強大さに、体が勝手に動いている。
カナは、というと……。
前にすたすたと歩いていき、武器をしまって右手を上げた。
「よお」
「カナリア様じゃありませんかー。本日は一体、どのようなご用向きでー?」
気さくに話しかけるカナ。その声にセルケトはうやうやしく答えた。
「ああ、アタシたちは今、冒険者をやっててな。迷宮を攻略中って訳だ」
「冒険者……つまり、私と戦いにいらっしゃったとー。それに……お連れはー……ふむふむ」
セルケトの瞳が怪しく光る。
「上位魔族であるカナリア様に、『剣聖』に、それにー……。化け物ぞろいのパーティ、という訳ですねー。これは、とても楽しみですー」
カナとセルケトが、楽しそうに談笑している。
カナの後ろでは、私とジルが真っ青になりながら慌てていた。中央の二人とは対照的に、小声でひそひそと相談をし始める。
「……ねえ、ジル。あの能力値っていうの、見れるのジルだけじゃなかったの……?」
「……私も驚きましたわ。私以外に、この世界であの魔法が使える者がいたなんて……」
「……私たちの事、全部ばれちゃってるっぽいんだけど……」
「……本当、どうしましょう……」
手で口元を隠しながら内緒話をしている私たちに、戻ってきたカナが言う。
「おーい。話はついたぜ」
カナの言葉に、私たちは目を見張る。
「話が……」
「ついた……?」
一階層の時のように、何もせずに通して貰えるとか?
私とジルは、安堵から胸をなで下ろした。
私は、以前ジルの正体と戦った時の恐怖を憶えているし、ジルはジルで、真竜状態ならともかく、人間状態ではあんなのと戦いたくはないだろう。
それに、この『ボス部屋』の奥にもう一つ扉があって、次の階層がある事ははっきり分かっていた。まだ先があるのに、ここであれと戦うのは無謀もいいところだ。
カナ、お手柄!
無用な戦いを避けてくれたカナを、あとで沢山褒めてあげよう。
「ああ。本気で闘り合うって事にな!」
……全然、お手柄じゃなかった!
カナ……なんて事を……。
「ねえ……カナ、どうしてそんな事に?」
あまりの事に、声が震えてしまう私。
私の問いかけに、カナはその愛くるしい笑顔で、無邪気に微笑んで答えた。
「『剣聖』と闘ってみたいってよ」
「目的は、私!?」
これは、不味い。
アラクネよりも大きな体で、彼女たち同様に備えた六本の鉤爪。挟まれたら、多分胴体が真っ二つになるだろう巨大な鋏。それに、刺されただけでも、致命傷はまぬがれない鋭い毒針。
ジル程の規格外な大きさはないものの、明らかに巨鬼以上の大きさだ。何より、鈍重な巨鬼と違って、全ての攻撃手段が、必中必殺の鋭さと威力を持ち合わせている。
ジルと戦った時は、まだ彼女が打撃……パンチだけで戦ってくれていたから、あの程度で済んだけれど……目の前の怪物に挟まれ、そして刺されたら、絶対に全身の骨が折れる程度では済まない。
今度こそ、確実に死ぬ。
女神様……せっかく生まれ変わらせてくれたのに、たったの十八年で死んじゃって、ごめんなさい。
「ああ。あと聖女サマも、腕をドラゴンに変えれて凄えんだぜって話したら、そちらも、ぜひ……って!」
「まったく! カナさんったら、余計な事を!!」
間違いなく、ジルの正体が分かっていて、カナの話に乗る振りをした上での申込みだ。ジルの額から、拭い切れない程の汗がしたたり落ちている。
「あのー……セルケトさん? 私、もうMP……いえ、魔力が尽きていまして。……真竜に戻る……いえ、変身する事が出来ませんのよ?」
「あっ…ジル、一人だけずるい! 裏切るの!?」
「おだまりなさい! 私、こんな所で死にたくはありませんわ!」
「そんなの、私だって一緒よ!」
口喧嘩を始めた私たちに、カナは笑いながら言う。
「なーに、勝ちゃーいいんだよ」
「「無……無理いいーっ!!」」
地獄のような戦いが、今始まる。