第九十五話 蜘蛛Ⅰ
私たちとアラクネの、先へ進む権利をかけた模擬戦が始まった。
まず最初に動いたのが、小さいアルラウネ。滑るような速さでアラクネの近くまで這っていく。前階層のアルラウネたちも、この子も、これまでゆっくりと這う姿しか見ていなかったので、その真の能力に驚かされる。
目の前まで進むと、アルラウネは蔦を展開した。
全部で五本もの蔦が、彼女の周りで触手のように蠢いている。
対して、アラクネはお尻――正式には蜘蛛の『腹部』と呼ばれる部分をアルラウネに向けて、先端から糸を吐き出した。
五本の蔦が、迫りくる糸を細切れにする。アルラウネは軽快に蔦を振り回して、蜘蛛糸に絡め取られるのを防いだ。
しかし、最初はアルラウネが有利かに見えた戦況も、少しずつ旗色が変わる。とめどなく糸が出続け、アルラウネの蔦が間に合わなくなっている。焦りの顔を見せるアルラウネ。一方、アラクネ側はまだ余裕の表情だ。
それもそのはず、この二体、そもそもの大きさが違う。
アルラウネの方が不利になるのは、当然の事だった。じりじりと後退しながら、アルラウネは辛うじて糸を切り続けている。しかし、このままでは逃げ場のない壁際に、追い詰められてしまうのも時間の問題だった。
§ § § §
アルラウネの横で繰り広げられているのは、カナの戦い。
二本の短剣を腰から取り出し、それが蜘蛛の前肢とぶつかり合う。
金属同士を叩きつけたような鋭い音が鳴り、互いに弾かれ合った。
回廊で遭遇した巨大毒蜘蛛。あれの『タフさ』の秘密がこれだった。蜘蛛というと柔らかそうな見た目だけど、ここの蜘蛛は例外なく鋼のように硬かった。だからこそのBランク。
当然、アラクネも同様に硬かったという事になる。
「中々やるな!」
「カナリア様こそ!」
魔族と魔物、とても楽しそうに戦っている。
何度か短剣と前肢で打ち合うと、カナがアラクネの周りを回り始める。軽快な足取りで、アラクネの前肢を華麗に避けていた。
避けながら、短剣を当てていくカナ。その硬さに阻まれて有効打にはならないものの、少しずつアラクネに打撃を与えている。
円を描くような回避運動でも躱し切れない攻撃は、二刀で受ける。
アラクネも負けじと攻めの速さを上げてきた。カナが受ける隙間をくぐり抜け、カナの横を何度もかすめる。
「ところでカナリア様、お角はどうなさったんですの?」
「ああ、これか。ちょっとヘマしちまってな! 人間にとっ捕まって、奴隷にされちまってたんだ」
「……おのれ人間!」
激しい攻防の中でも、会話を楽しむ二人。……その内容には既視感があるけど。二刀対二本。一進一退の膠着状態が続く。
しかし、そこに一石を投じたのは、カナではなくアラクネだった。
「ぐっ……あっ……!」
互角に受け切っていたはずのカナが、苦痛に呻く。
二本の前肢を完全に受け止めたはずの短剣。二刀はそれぞれ、間違いなく一本ずつの脚と交差し、それを止めていたはずだった。
しかし、もう二本の脚が、カナの両脇腹に刺さっている。アラクネは八本もある脚の、残りの脚まで使ってきた。
アルラウネが魔法生物なら当然、似たような生き物であるアラクネも魔法生物。その鋭い爪は、カナに深々と突き刺さっている。
……ちょっと、これ模擬戦じゃなかったの!?
§ § § §
そして、ジルはというと……。
「降参ですわ」
いきなり両手を上げて降参するジル。さしものアラクネも、何を言われたのか理解出来ず、きょとんとしてしまう。
「私、見ての通り聖職者ですもの。戦いは苦手なんですわ」
納得したアラクネが、勝ったと思って後ろを向いた瞬間――。
「隙あり、ですわ!」
……卑怯だ。
警戒を解いたアラクネの後ろ姿に、全力で錫杖を突き刺していた。そういえば、私もこうやってジルに寝込みを襲われたんだっけ……。ジルは本当にこういう戦法が好きだなあ……と呆れた。
敵とはいえ、アラクネに同情してしまう。
しかし、このアラクネ、ただで負けはしなかった。
よく見ると、後肢の一本で錫杖を絡め取っている。ジルが刺そうとした鋭い先端は、その本体に一ミリも届いていない。
空いているもう一本の後肢が、ジルを易々と吹き飛ばす。
「きゃああぁぁっ!!」
――策士、策に溺れる。
§ § § §
一方……私は私で、よそ見なんかしている暇はなかった。
「うふふ、『剣聖』……『剣聖』ですわ……」
完全に本気の大アラクネと、命をかけて戦っている真っ最中だ。目が血走っていて、もう『剣聖』と戦う事しか頭にない。ごまかすつもりもなく、私を殺しにかかって来ている。
カナと戦っているアラクネが、切り札としていた三本、四本目の脚。彼女は、その脚すら最初から使って、隙間なく刺突を繰り返していた。なんとか受けきってはいるものの、少しでも気を抜けば巨大な脚が私を貫いてしまう。
全ての脚を受けられている事も気にとめず、とにかく数で圧倒してきている。私もアルラウネのように、一步、また一步と後ろに追いやられていた。
「うふふ、もう後がありませんわよ?」
恍惚の表情で、舌なめずりをしながら囁いてきた。
ここで負けるもんか――。
私はもう一本、魔法剣を創り出すと、しっかりと四本の攻撃を受け止める。
「二刀流……ですのね。流石は『剣聖』アリサ様! では、ワタクシも切り札を出させて……戴きますわ!」
切り札? 四本脚での攻撃が切り札じゃないの?
私の疑問は、すぐに氷解する事になった。
大アラクネが立ち上がった。たった二本の後肢で体を支え、六本もの脚を私に向けてくる。
「これが、切り札……。同時六連攻撃、受けきれますか?」
四本ですらぎりぎりだったのに、それが六本に。
しかし、私にはこの六連撃は記憶にあった。
――剣聖マスター・シャープ。
彼の奥義だ。私はあの六連撃を躱した時のように、大きく真上へと飛び上がる。
虚しく宙を切る大アラクネの六本の脚。そして私は、大アラクネの肩を蹴りつけ、もう一度高く飛んだ。
そのまま難なく、大アラクネの後ろへと着地。
「避けきったわ!」
「お見事ですわ、アリサ様っ!!」
振り返って、もう六連。それも大きく後ろへと跳んで、避けきる。
右手の剣をアラクネに向け、私は言い放つ。
「残念だけど、その技は見た事があるの……。先代剣聖の技、それを破って私は『剣聖』になったの」
「先代の『剣聖』に同じ技を使って戴けていたなんて、ワタクシも鼻が高いですわ。ですが、これなら……どうかしら!! 《二連撃》!!」
「二連……撃……?」
これは、騎士や戦士が使うスキル宣言。
アラクネはスキルも使えるの?
それに、六本がニ連で……十二連撃!?
流石に十二もの同時攻撃を避け切る事は、今の私には不可能だった。
二本の魔法剣が、いとも簡単に弾き飛ばされてしまった――。