(完結中編)英雄たちと、休日を。
以前某機会(苦笑)に書いたものに加筆修正して公開します。
沖縄・先島史が大好きな作者の、琉球に対する臆面もないラブレターです。
あれの伝来は! とか 史実は! とかは笑って許してくださいね。
お楽しみいただければ幸いです。
Act 1
「次のバスは……一時間半後かあ……」
思えば、羽田の空港で買った缶チューハイがいけなかったのかもしれない。
飲めないお酒を無理して飲んで、東京からのフライトで気持ち良く酔うつもりが、すっかり乗り物酔いしてしまった。
空港のベンチでしばらく伸びて、ようやく起き上がった時にはバスは行ってしまっていた。
「初めての宮古島なのにな……」
やっぱり自分は要領が悪いんだ、とため息をつく。初めて有給休暇を取って出た旅行は、やっぱりいつものため息から始まった。
空港の玄関にしばらく立ち尽くしてから、ぼんやりした頭でズボンのポケットを探る。タクシー呼ばなきゃ……とスマホを掴んだ時──不意に声が降ってきた。
「どうした少年。何を深刻な顔をしている」
目を上げると、秋だというのに目を差す沖縄の太陽。そして視線の先の声の主は……どう見ても馬に乗っていた。
小柄な茶色い馬。ああ、これが宮古馬ってやつか……とどこかで冷静な自分が思う。
馬上の青年は怪訝な顔で僕を見つめていた。多分、歳は二十代半ば……僕と同じくらい。日焼けした肌に、沖縄らしい彫りの深い顔立ち。着ているものは……どう見てもキモノだ。腰には立派な拵の刀。
「えっと……、すごい気合の入ったコスプレですね?」
客観的に、かつ失礼のないように相手を褒める。東京者の処世術だ。
馬上の青年はにこりともしない。
「こすぷれ? 暑さでおかしくなったのか?」
ほれ、と馬の後ろを指差す。
「ぐずぐすするな、さっさと乗れ」
「え? いいんですか?」
「街に行くのだろう? 急がんと置いてゆくぞ」
沖縄の人は親切だ。聞いてはいたけど、本当なんだなあ……。馬に乗っているとは知らなかったけど。
バックパックを背負い直すと、よいしょ、とまたがる。
馬に乗るなんて、子供の頃にポニーに乗って以来だ。
小さな馬は、ぽくぽく、と歩きだす。
「あの、親切にありがとうございます」
「気にするな」
小柄とはいえ、馬の背は高い。そこから見る景色は何とも爽快だった。まばらな車、まばらな建物。のどかだなあ、さすが沖縄。だけど。
「あの……」
「何だ?」
「馬って車道走って良いんですか?」
怪訝そうな声が返ってくる。
「馬が道を走らなくてどうする」
びゅっ、と車が気にするふうでもなく横を通り過ぎていく。
ああ──沖縄って本当に大らかなんだなあ。
「あの、僕は佐藤 大輝って言います。東京から旅行で来たんです」
「ほう、旅か」
「お名前、なんておっしゃるんですか?」
そこで相手は少し黙って……答えてくれた。
「ソラビーだ」
“そらびー”。外国の人なのかな?
あんまり細かく聞くのも失礼な気がして、その先は追及しなかった。
それにしても、本当に本格的なコスプレだよな……。着物の生地なんか高そうな織物だし、髪もお団子に結ってある。男の人でも髪の毛伸ばしてまでコスプレするんだなあ……。
「宮古は初めてか?」
「ええ、修学旅行で沖縄本島に行ったことはあるんですけど。なんていうか、もっと遠くへ行ってみたくて、それで」
ふむ……とソラビーさんは時代がかった口調で呟いて、それから言った。
「少年さえ良ければ、私が宮古を案内してやらんでもない」
「え、ほんとですか? 馬で?」
頷くソラビーさんの後ろ姿に、正直自分はラッキーだ、と思った。
現地の人と仲良くなって、しかも馬で観光案内してもらえるなんて──こんなにSNS映えすること、ないんじゃないか。
「そうと決まれば、急ぐぞ」
スマホを取り出す暇もなく、ソラビーさんは手綱を握り直す。
「しっかりつかまっておれい、少年!」
「わあああマジですかっ」
ソラビーさんの掛け声に合わせて、宮古馬が小さな体には信じられない速さで走り出す。
そんな風に、僕とソラビーさんの旅は始まったのだった。
どれくらい走ったんだろう。馬から降りる時には、足がもつれてしょうがなかった。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「すいません……。まだ飛行機酔いが続いてるみたいで……」
情けないのう、とお年寄りみたいな口調で言って、ソラビーさんは背中をさすってくれた。多分、ぶっきらぼうだけどすごく良い人なんだと思う。
あらためて見ると、ソラビーさんはすごくハンサムだ。
元々のはっきりした顔立ちに加えて、精悍な表情。切れ長の目元ときゅっと引き結んだ口元なんか、アジア圏の俳優さんみたいだ。
僕が見とれている間にソラビーさんは裾を撫でつけ、落ち着いた声で言った。
「着いたぞ」
目の前に広がる、白い砂、砂、砂……。それに、アクアマリンの海。
遠くに、海をまたぐ長い橋が見える。
どこまでも続く白砂のビーチに、僕は子供みたいに歓声を上げた。
すげー、とかやばーい、なんて言いながら、スニーカーと靴下を脱ぎ捨てる。波打ち際まで走ると、そのまま足を水に浸けた。秋だというのに温かい。
「マジやばいですねこのビーチ⁉ 僕、水着持ってくるんだった! まだ全然泳げますね?」
「楽しいか?」
「はい、とっても! 地元の人は泳がないんですか?」
「我らにとって、海は魚をとる所だからな。それだけ、世も平和になったということか」
孫を見るおじいちゃんみたいな顔をしたソラビーさんが見守る中、僕は水を蹴ったり、砂で小山を作ったり……スマホで写真を撮りまくって無心に騒いだ。
小一時間もはしゃいでから、僕はようやく我にかえった。
「ごめんなさい、僕だけ楽しんじゃって!」
ソラビーさんは何やら砂の上にしゃがみこんでいた。謝りながらそちらへ戻ろうとした時──
「痛っ!」
慌てて片足を上げて確かめると、足の裏から血が出ていた。
顔をしかめたソラビーさんが近寄ってくる。
「見せてみろ」
砂の上に座り込んだ僕の足の裏を見分すると、ソラビーさんは割れたビール瓶の欠片を注意深くつまみ取って、海水で傷を綺麗に洗ってくれた。懐から藍色の布を取りだすと、丁寧に巻きつけてくれる。
手当てをしてくれるソラビーさんの傍らには、白いビニール袋があった。中には砂まみれのペットボトルやら釣り糸やら……なんだかよくわからないプラスチックのゴミが一杯に詰まっていた。
「……まったく、けしからんな」
短く言ったソラビーさんの瞳は、何ともいえない色をしていた。
何かを言おうとして言葉が出ない僕に、空広さんは気を取り直したように声を掛けてくれる。
「どうだ、歩けそうか?」
首を縦に振ると、ソラビーさんは満足そうに頷いた。
馬の背に戻ると、僕たちは次の目的地に駆けだした。
耳を切る風の音、草の匂い。
宮古馬の背に乗っていると、問題なんか何もない気がしてくる。東京であった嫌なことなんて、遠くに行ってしまった気がする。
駆ける馬の行き先に、やがて開けた青草の原が見えて来た。そして、そこで動く茶色い姿──。
「馬だ!」
僕はまた、子供みたいに声を上げた。
ソラビーさんの背中も、心なしかウキウキしているように見える。
降り立った視線の先には、のどかに宮古馬たちが草をはむ牧場が広がっていた。
「すごいや……! 仔馬もいる!」
大きい馬、ちいさい馬……。小走りに駆ける仔馬に、母馬のお腹に顔をこすりつける仔馬……。めいめいに太陽の光の下で過ごす宮古馬たちは、とても幸せそうに見えた。眺めるソラビーさんも目を細めている。ソラビーさんの愛馬も仲間の姿を認めて嬉しそうだ。
「宮古馬、お好きなんですね」
「馬は我らの誇りだ。宮古の馬はいつも人と共にあった」
傍らで、ソラビーさんの愛馬が小さく鳴く。
「そういえば、ソラビーさんの馬は何て名前なんですか?」
何故かそこで、ソラビーさんは顔を背けて少し照れた。
「……宇津免嘉」
「え? うつ……?」
「忘れてよい」
「なんか顔赤いですけど……? じゃあ、そらびー号って呼びますね」
なんだかすごく微妙な顔をされたけど、まあいいか。
「たしか、宮古馬って天然記念物なんですよね?」
「そうだ。一時は随分数が減ってしまったが。以前来たときは、ようやく保存の動きが始まったところだった」
興味が沸いた僕はスマホで「宮古馬」と検索して……黙ってしまった。
「どうした?」
「あの……なんか宮古馬の保存、大変らしくて……」
ソラビーさんが顔色を変えてスマホを覗き込む。
しばらく険しい顔をして画面を見つめていたソラビーさんは、やがて視線を天に向けて息を吐いた。
「少年よ……人は試行錯誤をして進んで行くものだ。私は、宮古の民を信じている」
そう言ったソラビーさんの横顔は決然としていて、僕と同年代だとはとても思えなかった。いい年して「少年」なんて呼ばれてしまう子供っぽい僕とは全然違う。僕はなんだかすごく恥ずかしくなって……そして、少し落ち込んだ。
そうやって、僕らはあちこち寄り道しながら──僕はスマホで写真をぱしゃぱしゃ撮りながら──市街地へと向かっていった。
もう午後も遅い。
お礼にもならないけど、と僕はソラビーさんをお茶に誘った。旅行前から行こうと決めておいた有名店だ。
「ネットで調べたんですけど、イートインもあるらしいんです」
ここで待っててね、とそらびー号を外に繋ぐと、かわいい瞳の馬は不満そうにひひん、と鳴いた。
ソラビーさんの装束が人目を引かないか心配だったけど、店に入っても誰も気にするふうもなかった。やっぱり沖縄はおおらかだ。
甘い香りの漂う店内でソラビーさんはきょろきょろし、運ばれてきたケーキを見ると、目をきらきら輝かせた。
じっ、と皿の上のケーキを見て、僕をちらっ、と見る。
「あ……どうぞ召し上がってください」
「そうか」
なんだか慣れない手つきでフォークをつまむと、一口切って口に運ぶ。
もぐもぐ、と口を動かすソラビーさんの切れ長の目がまん丸になる。無言で、もう一口。さらにもう一口。
あんまりおいしそうに食べるから、僕は思わず笑ってしまった。
「口に粉砂糖ついてますよ」
口をもぐもぐさせながら指で唇を拭い、ソラビーさんは再びフォークを立てた。
「我が島に、こんな美味いものがあるとは知らなかったぞ」
僕もケーキを頬張る。
しっとりしたスポンジと、ふわっとしたバナナの風味が絶妙のバランスで混じり合う。一日馬を駆ってくれたソラビーさんには、やさしい甘さも殊更染み渡るに違いない。
僕たちはケーキを一皿ずつお代わりして、それからコーヒーもお代わりした。
ソラビーさんはコーヒーを飲んだことがないらしく、最初は苦さにびっくりしていたけど、砂糖を三本も入れた後はうまい、うまいと言って飲んでいた。
ほっこりした気分でお店から出ると、もう日が傾いていた。
ホテルまで送ってくれるというソラビーさんに甘えて、僕はソラビー号の背中でお礼を何度も言った。ソラビーさんは絶対にガソリン代……じゃなくて、飼い葉代? を受け取ってくれず、僕は恐縮するばかりだった。
やがてぽくぽく歩く馬の視線の先に、今夜のホテルが見えて来た。名残惜しいけど、もうすぐお別れだ。
「本当にありがとうございました。あの、ソラビーさんはSNSとか……」
馬から降りてソラビーさんに問いかけた、その時。
ソラビーさんが叫んだ。
「伏せろ少年‼」
「わああああああ⁉」
何かが地面に当たる鈍い音。
恐る恐る顔を上げると──綺麗なお姉さんが、アスファルトの地面に肘鉄を食らわせていた。黒い表面がひび割れて、粉塵がパラパラと舞っている。
「よくかわしたわね。でも、次は外さないわ」
ゆるゆると立ち上がるお姉さんの手が、カールした黒髪をかき上げる。
エキゾチックなぱっちりした目に、肉感的な唇。小麦色のすらりとした手足がシンプルな着物から伸びている。手には不思議な入れ墨。そして外国人のモデルさんみたいに背が高い……いや、高すぎる。
ソラビーさんが低い声で呟く。
「サンアイ・イソバか。今回は一人か?」
「残念ね、鬼虎も一緒よ。今日こそは覚悟なさい」
イソバと呼ばれた女の人はソラビーさんを不敵な笑みで見つめた。
と。
「イソバ阿母ぅ~! スムージー買ってきたぞぉ~!」
のんびりした声に振り返ると、道路の向こうで男の人がにこにこ笑っていた。筋肉隆々で、やっぱりすごい長身だ。中途半端に伸ばしたくせっ毛と、ぎょろっとした目がどこかかわいらしい。
男の人は両手にストローの刺さったカップを持って、小走りに道を渡ってくる。
「マンゴーとパッションフルーツ、どっちに……」
イソバさんがカップを引ったくった。
「鬼虎、あんた空気読みなさいよ!」
「なっ……! だって、阿母がスムージー飲んでみたいって言ったんだろうがよ!」
「飲まないとは言ってない!」
二人の巨人が言い争いを始めた隙に、ソラビーさんはくるりと背を向けた。
「少年、逃げるぞ」
「えっ、あっ……そうですね?」
「乗れ‼」
僕たちはそらびー号に飛び乗ると、全力で逃げた。
町はずれの港の近くで、ゼイゼイと息を整える。
「ソラビーさん、どういうことですか? あの女の人、すごい殺気でしたよ?」
「仕方あるまい。私は彼らの仇敵だ」
全く状況が分からず混乱する僕を尻目に、ソラビーさんは小さな公園の水飲み場でそらびー号に水を飲ませてやっている。
あっけにとられた僕は芝生にぺたんと座り込み、道路の方に目をやった。
ぼんやりと眺めていると、街路樹の茂る遊歩道から僕たちみたいな男の二人連れが歩いて来るのが見えた。やっぱり着物姿だ……。
そのうちの一人が見上げるような長身で、僕は身を固くした。さっきの人かもしれない。
けれど、すぐに違うと分かった。肩を越えて風になびく長髪が、綺麗な金髪だったからだ。
傍らのもう一人は、遠目に見てもはっとするような黒髪の美青年。
何を話しているかは遠くて聞こえない。
そのうち、金髪の人がこちらを向き──そして、全力で駆けてきた。
「ソラビーさん! あの人、なんか一直線にこっちに来ますけど⁉」
「む?」
目と鼻の先まで来ていた金髪の男の人が、雄叫びと共に何かを振り上げる。
「王府にへつらう犬野郎! 今日こそは覚悟しやがれ!」
え、棒? ちょっと待って銃刀法違は……。
ひゅ、という風切り音。
「わああああ⁉」
二メートルはありそうな棒の先が、僕の頭を割った……いや。
ソラビーさんが僕の前に立ちふさがり、叩き付けられた棒を刀の鞘でしっかりと受け止めていた。
「民間人も巻き込むつもりか? 相変わらず頭に血が上りやすいと見える」
「なるほど、宮古の獅子は健在って訳か……」
金髪の男の人が、さっ、と間合いを取り構え直す。
「やめなよアカハチ! 公共の場所で喧嘩はだめだよ‼」
傍らの美青年が血相を変えて取りすがる。
「離せ長田大主‼ さてはお前も王府の側に付く気だな⁉」
美青年を引き剥がそうと暴れる男の人の目がぎらぎらと光る。その目は青くて、西洋風のハンサムな顔立ち。
「あっ……あの、お知り合い……ですか?」
冷汗を流しながら横目で見ると、ソラビーさんはもの凄く面倒臭そうな顔をしていた。
「オヤケアカハチに長田大主……。全く、今回は間の悪い……」
ぱっ、と身を翻す。
「ええ、また逃げるんですか⁉」
「無駄な争いは好まぬ! 死にたくなければ全力で走れ‼」
命からがら、僕らは街中にあった図書館に逃げ込んだ。
肩で息をしながらドアを開けると、さあっ、と冷たいクーラーの風が顔を撫ぜる。
やっと一息つける……。そう思って目を上げると──目の前の閲覧席にはやっぱり、大仰な衣装の男の人が座っているのだった。
どこか眠そうな二重の、品のある美丈夫。たっぷりとした長いガウンのような着物に、金色の被り物。中国の王様みたいな格好だ。
「やあ玄雅、君も来たのか」
男の人はにこにこと笑って、親しげに片手を挙げた。
やっとまともな人がいた……。そう思ってソラビーさんを見ると、顔がすごく険しい。
「尚真王、あなたまで……。 今度は何を企んでおられる⁉」
「ちょっとソラビーさん、なんで刀の柄に手、掛けてるんですか⁉ 乱闘騒ぎはもう御免ですよ⁉」
にこにこと笑いながら、尚真……王? 王様? は軽やかに立ち上がった。
「そうだよ玄雅、少年の言うとおりだ。皆、こんな時くらい仲良くしようじゃないか」
さっ、と振り返ると、図書館の入り口にはさっきの人達──イソバさんと鬼虎さん、アカハチさんと長田さん……が我先にと詰めかけ、職員の人達に必死に止められていた。
尚真さんはそんな様子もお構いなしでにこにこしている。
「こういう時こそ、素晴らしい文化があったじゃないか。ええと……何と言ったかな? パーチー? パーリイ?」
「ビーチ……パーリィでございますな……」
苦々しく、絞り出すように言うソラビーさん。
「そうそう、それ。皆、パーリィで交流を深めようじゃないか。玄雅が準備してくれるよね? 地元だものね?」
尚真さんはにこにこしながらソラビーさんの肩をぽん、と叩いた。
苦虫を噛み潰したような顔で黙り込むソラビーさんを尻目に、尚真さんは「港の先のビーチで六時だよ」なんて言って笑っていた。
それから──僕たち二人はスーパーでお酒やおつまみをどっさり買い込んだ。
そらびー号の背に買い物袋を括りつけ、ぽくぽく歩く馬の両脇に付く。車で一杯の夕方の車道を、僕たちは縫うように進んだ。ソラビーさんの顔がとにかく険しくて、僕は何とか和ませようと必死だった。
「あの……ソラビーさん。本当は玄雅さんっておっしゃるんですね?
いや~かっこいいなあ。僕もそういう歴史モノっぽい名前がよかったなあ……」
「……少年よ。名前には親の思いが込められているものだ。少年の名も良い名だぞ」
「そうですかね? 僕は出来損ないだったから……。名前負けしちゃったかな」
ごまかすように僕は笑う。
「ソラビーさんは、お子さんいるんですか?」
「ああ……。だが……」
そう言って、ソラビーさんはすごく遠い目をした。多分、僕は立ち入ったことを聞きすぎたんだ。
「私も、親としては出来損ないだったかもしれんな……」
ぽつりと言った声には深い悲しみがあって、僕はそれがソラビーさんのコスプレ上のキャラクター設定だとはとても思えなかった。
「あの……そろそろ状況説明とかしてもらってもいいですか……?」
ふむ、と呟き少しの間沈黙してから、ソラビーさんは吹っ切れたように言った。
「ビーチパーリィで話すとしよう」
Act 2
市街地からほど近いビーチには、皆がすでに集まっていた。
どこから調達したのか、レジャーシートの上に円座になり、何かを覗き込んで騒いでいる。
円の真ん中にあるのは、山と積まれた沖縄のガイドブックに本、それにパンフレット。
「へえ……こんな風に書かれてるんだ」
「ちょっと待て、この解釈はどうなんだ⁉」
皆、僕たちが到着したことも気づかないほど熱中している。
「おお、玄雅。来たかね」
僕らに気づいた尚真さんが立ち上がってにこにこする。さっきまでの冠や装束はどこへやら、白いハーフパンツにさわやかなポロシャツ姿だ。よく見ると、他の皆もTシャツに短パンやハーフパンツ。イソバさんは綺麗なパレオに着替えていた。
「は……。して、これは」
輪の中心を見るソラビーさんに、尚真さんがにこにこしながら答える。
「さっき図書館で借りてきたのだよ。その後もなかなか興味深いことになっているね」
ソラビーさんは眉をひそめる。
「よろしいのですか? あまり未来のことを知っては……」
「固い事を言うな。それより良い機会じゃないか。君、皆と仲直りしたまえよ」
ソラビーさんは何かを言いたそうに尚真さんを見て、さっきよりもさらに苦虫を噛み潰したような顔をした。そのまま無言でレジャーシートに歩み寄って行く。
輪になっていたアカハチさん、長田さん、鬼虎さん、イソバさん……が次々に顔を上げる。皆、目が怖い。
ソラビーさんはお酒でぱんぱんになった袋をシートの上に置く。僕も、おつまみとお菓子の詰まったレジ袋をおずおずと置く。
緊張が走る。そして。
ソラビーさんは唐突に、高らかに叫んだ。
「オトーリを回します‼」
一同がざわつく。
「マジか……。こいつ本気だな……」
唾を飲み込む鬼虎さん。
「やはり宮古の傑物……。受けて立つぜ」
好戦的な笑みを浮かべるアカハチさん。
長田さんはオロオロしているし、尚真さんとイソバさんはなぜかにこにこしている。
「え、何ですかオトーリって?」
状況が分からない僕に、「まあ、見ていれば分かるよ」と尚真さんがさわやかに笑いかける。
ソラビーさんは一升瓶をどん、とレジャーシートの上に置くと、買い物袋から取り出した大きなピッチャーにどくどく注ぎ、ミネラルウォーターと溶けかけの氷をいれて、がっしゃがっしゃと豪快に混ぜた。
唖然とする僕の目の前で、ソラビーさんはプラスチックのカップにピッチャーの中身を並々と注ぐ。
何かを決意したような顔でカップを持つと、ソラビーさんは毅然とレジャーシートの上に立ち上がった。
そのまま一同をぐっと見回す。雰囲気に飲まれて、全員が深く頷く。
ソラビーさんはすう、と息を一つ吸い、
「私は宮古の玄雅! 過去の確執を忘れろとは言わぬ! だがこうして一堂に会したのも何かの縁。
この杯が新しい琉球の門出となることを願って……。一杯ずつ回します!」
なんだかすごいハイテンションで言い切って、ぐいー、とカップを飲み干した。
……あのカップ、九分目まで入ってたよな……。
据わった目をしたソラビーさんは空になったカップを再び泡盛で満たし、隣に座っていたアカハチさんに渡す。
一瞬ぴりり、とした緊張が走る。
それでも、アカハチさんはやっぱりぐいーと一気に飲み干して、無言でカップを両手で返した。
ソラビーさんの顔にちょっとだけ笑みが浮かぶ。そして、また同じカップを満たし、アカハチさんの隣の長田さんへ渡す。
……え、まさかこれ、全員同じ事するの⁉
ああ、やっぱり長田さんも一気に飲み干してる……。
次は鬼虎さん。
その次はイソバさん。
それから尚真さん。
そして……
「次は君だよ」
上機嫌の尚真さんが笑いかける。
「ええっ、僕、大丈夫かな⁉」
戸惑う僕に、綺麗な顔をほんのり赤くした長田さんがにこにこしながら声を掛ける。
「らぃじょうぶらょ~。潰れちゃったら、豊見親がつれてかえってくれるょね~」
長田さん、もう目がトロンとしちゃってる……。
「そーだそーだ、とぅゆみゃがいいだしたんだからな~」
アカハチさんも、口調の年齢がかなり下がってる……。
力強く頷いてカップを差し出すソラビーさんに、僕もつられるように頷き返す。立ち上る泡盛の良い香りに、問題なんて何もない気がしてくる。
「おっ、少年! なかなかだな!」
傾けたプラスチックのカップ越しに、嬉しそうな鬼虎さんの声。
「……っはー‼」
どん、と干して顔を上げると、イソバさんが妖艶に笑っていた。
「いいわね、少年」
「そそそ、そうれすかー? ウレシーなー」
「ほらっ、親に注ぎ返してあげたまえよ」
「皆、私の酒を受けてくれたこと、礼を言うぞ! 次の親は……」
ぺたん、とソラビーさんに肩を叩かれたアカハチさんがすっく、と立ち上がる。
「アカハチかっこいい! 八重山の英雄!」
「金髪碧眼ずるくねえ⁉ 背ぇ高いし!」
「あんたも高いわよ鬼虎!」
「阿母だって二メートルじゃねえか~!」
わいわいわい。
「オヤケアカハチですっ!
首里と宮古が石垣島攻めてきたことは許したわけじゃないですけどっ!
オレ達が八重山の自由のために精一杯戦ったって、ちゃんと後世に伝わってるの、ほんと嬉しくてっ……」
アカハチさんが手の甲でぐいっと目を拭う。
「あ~アカハチ泣いてるよ~!」
「泣かないで~!」
「……回しますっ!」
こうして。皆のハイテンションな口上と、泡盛の一気飲みが続くことになった。
「波照間島出身の長田大主です~。
僕わぁ……やっぱり……宮古と八重山の間で板挟みでぇ…………本当に辛かったんだよ!
僕だって、幼馴染と、妹と敵対したくなんかなかったんだよおお!」
「おいっ こいつ酔うと暴れんのかよ⁉」
「わああ誰か止めたまえっ‼」
わいわい。
「与那国島の鬼虎だ!
玄雅ァ、貴様には与那国攻めの落とし前をつけてもらっていなかったな! 我らの誇りは貴様などには屈しないぞ!
そもそも与那国はァ……、カジキも美味いし花酒最高! うらやましーだろー‼」
「宮古だってカジキくらいとれるわい!」
「んだとォ、ハンマーヘッドはいねーだろー! やーいやーい!」
わいわいわい。
「サンアイ・イソバよ。今日はこうしていい男に囲まれてうれしいわ。
でもやっぱり、琉球史に輝く女傑はこのわたしね。イソバ阿母じゃないわよ、与那国の若くて綺麗な女王はわ・た・し」
「キャー、姐さんかっこい~!」
「やっぱり美人はズルいよなー!」
わいわいわいわい。
「おっと、お待ちかねかな? 首里の尚真だ。
私については色々な意見があるようだね?
だが君たち、考えてもみたまえ。あの激動の時代に、首里だ、宮古だ、八重山だなどと言っている場合だったかな? 大局から物事を見なくては、政などできぬものなのだ……」
「あんたが言うなー‼」
「ははは、君ぃ、怒ると体に悪いよぉ?」
わいわいわいわい。わいわいわい。
そうしてやっと、僕の番になった。
何杯飲んだのか思いだせない程、朦朧とした頭で立ち上がる。
「佐藤 大輝です。初めての宮古島旅行で、こんなにフレンドリーな皆さんに会えて嬉しいです!」
皆がにこにこしながら頷いてくれる。
「出身は東京で……仕事は……研修医してます。この間、チームで担当してた子が死んじゃって……」
場がしん、と静まり返る。
「ご家族は延命治療、本当は望んでいなかったんですけど……。でも結局、治療の末に亡くなってしまって……」
どうしよう。喉の奥が熱い。
「僕、医療ってこんなだと思わなくて……なんか、もうわからなくなっちゃって。それで……逃げてきたんです」
止まらない。声が震えてる。
「沖縄のきれいな海見て、美味しいもの食べたら忘れられるんじゃないかなんて……。逃げですよね。僕……僕は……」
ソラビーさんが気遣うように肩に手を置く。
「すいません、僕、何言ってるんだろう!
いつもこうやって空気読めなくて! ごめんなさい! お詫びに飲みます!」
慌てて止めるソラビーさんを振り切って、僕は泡盛を一気にあおった。
世界がくるくると回りだす。
遠くで、少年、少年──! と呼ぶ声がしていた。
それでも僕は、無責任に意識を失った。
気が付くと、僕は誰かに両腕を支えられてふわふわと宙に浮かんでいた。
真横の気配を確かめようと顔を向けて、僕はぎょっとした。もじゃもじゃの蔓草を体中に巻きつけ、全身に泥を塗りたくった異形の仮面姿が、二人で僕を支えて浮いている。
でも、異様ではあったけど不思議と怖くはなかった。
パーントゥ──宮古の仮面の来訪神。言葉を使わずに、仮面の姿が僕に名前を告げる。
前方にはもう一人パーントゥが浮かんでいて、僕に見て欲しそうに無言で下を指差している。つられるように視線を下げると、遥か地上の緑の平野に、数え切れないほどの人、人、人──人の波がうごめいていた。
皆、手に武器を持っている。怒声と悲鳴。ああ、戦争なんだ──。歴史に詳しくない僕だって、それくらいは分かる。
黒い兵士の人垣が割れる。あの金髪は、アカハチさんだ。
粗末な着物に簡素な胴鎧を着けただけで、あちこちから血が噴き出している。
それでも、長い棒を振り回すたびに何人もの兵士が吹き飛ばされ、悲鳴が上がる。
やがてアカハチさんを目がけて、矢が雨あられと降り注ぎ──。
僕は思わず目をつぶる。
人垣の向こうから、血を吐くような声で叫んでいる人がいる。
あれは長田さんだ。必死でアカハチさんのいる方に手を伸ばし、髪を振り乱して名前を呼んで、周りの兵士たちに止められている。
僕の意思とは関係なく、視点が動く。
小高い丘の陣の中に、鎧に身を包んだ武将が座っている。
僕はその人を知っている。
目の前に差し出されたじっとりと血の染みる布包みの中を見分し、頷いている。
あれは……ソラビーさんだ。
その表情は、兜の陰になって見えない。
また視点が動く。
緑の島にそそり立つ山の断崖に、口元を引き結んだイソバさんが立っていた。
胸当てを着け、手には鈍く光る槍。その目は遠い蒼い海を厳しく見つめている。
瞬きする間に、そこに立っている姿は鬼虎さんに変わる。
視線の先の海に、白い帆を上げた船が向かって来るのが見える。
その船の舳先に立っているシルエットを、僕はよく知っている。
また、怒号と騒乱。
夕暮れのオレンジ色の光の中、鬼虎さんと歳を取ったソラビーさんが戦っている。
鬼虎さんの一撃がソラビーさんを吹き飛ばす。怒声と共に武将達が鬼虎さんに斬りかかる。
鬼虎さん達が組みあっている間にソラビーさんはゆるゆると身を起こし、ぱっと鬼虎さんに踊りかかる。白刃が鬼虎さんの首に沈み、真紅が飛び散る──。
僕は耐えられなくて目を覆う。
次に目を開けると、豪華な宮殿でソラビーさんが跪いていた。
玉座から見下ろしているのは尚真さんだ。
ソラビーさんは一振りの刀を取り出し、恭しく捧げる。
玉座から下りた尚真さんは、大切そうにそれを受け取る。その表情は厳しくも、どこか痛ましい。
僕の視線がソラビーさんの顔に移る。
決して表情を出さないようにしているソラビーさん。でも、その目はとても哀しくて。
僕の傍らで、パーントゥたちが泣いている。僕は思わず、必死に名前を呼んでいた。
「ソラビーさん! ソラビーさん‼」
目を開けると、尚真さんとイソバさんが心配そうに覗き込んでいた。さっき見た昔の装束じゃない……ポロシャツにパレオ姿だ。
「大丈夫かね?」
僕は泣いていたらしい。
「ソラビーさんが……それに、アカハチさんと鬼虎さんが……」
二人が顔を見合わせる。
「彼らならそこにいるがね?」
尚真さんが指さした先を見ると、三人が大喧嘩を繰り広げているところだった。
「豊見親、貴様ァ、そもそも俺は貴様と同じ宮古の出身なんだぞォ⁉」
「戦に情けは無用、油断するそっちが悪い!」
「いや、やっぱりアンタが悪いよな! 長田のことも引き込んだし!」
……喧々囂々。しかも三人とも酔っているからタチが悪い。
長田さんがスヤスヤと酔い潰れている横で、ソラビーさん、アカハチさん、鬼虎さんの喧嘩はさらにヒートアップする。
「こうなったら、実力で片をつけるかァ!」
足元がおぼつかない鬼虎さんが、どこからか刀を取り出す。
「あぁ、それしかないな!」
ろれつが回らないアカハチさんも、長棒を構える。
「ちょっと、まずいんじゃないですか⁉ 尚真さん、止めてくださいよ⁉」
「私は王様だよ? 無理に決まっているじゃないか」
「じゃあイソバさん! お願いしますよ!」
「わたしは女の子だもの。無理よ」
「なんでこんな時だけ女の子なんですか!」
僕たちがまごまごしている間に、事態は一触即発になった。
アカハチさんと鬼虎さんがソラビーさんをねめつける。
二対一──圧倒的に不利なはずなのに、ソラビーさんは何故かぞっとするような笑みを浮かべた。
「ならば、不本意だが仕方あるまい……」
ソラビーさんが、腰の刀をゆっくりと抜く。
刃が鞘から離れるにつれて、空気が重く動き、むせ返るような熱風が巻き起こった。
僕とイソバさん、尚真さんは悲鳴を上げ、アカハチさんと鬼虎さんも歯を食いしばって今にも吹き飛ばされそうだ。
「とくと味わえ──琉球の命を吸った血の刃、妖刀治金丸の力をな!」
刀が、鳴いた。そして白刃が、一閃した。
その時、どんな心の動きがあったのか……自分でもわからない。
でも、気づいた時にはソラビーさんにがむしゃらに組み付いて、砂浜に二人で転がっていた。
弾き飛ばされた刀がビーチの白砂に投げ出され、ソラビーさんがぽかんとした顔で僕を見上げている。
「命どぅ……命どぅ宝!」
叫ぶ僕に、ソラビーさんは呆気にとられたままだ。
「大和が知った口ききやがって……」
いまいましそうに呟くアカハチさんを見据えると、僕は夢中で言いつのった。
「だってそうでしょ⁉ あなた達の言葉でしょ⁉ 命こそが宝だって!」
僕はさっき見た古の光景を思い出していた。
「僕、全部わかりました。パーントゥが教えてくれたんだ……この琉球で何があったか。あなた達が、誰で何をしてきたか」
僕はアカハチさんに向き直る。
「オヤケアカハチ……あなたは十五世紀に首里王府の支配に対して立ち上がった八重山の英雄だ。
首里と宮古の連合軍に制圧され、処刑されたけど……あなたの自由を求めて戦った強い心は、今でも多くの人々を勇気づけてる!」
僕はやっと意識を取り戻した長田さんを振り返る。
「長田大主、あなたはオヤケアカハチの幼馴染だった。アカハチに妹を嫁がせて、義兄弟になって……そうやって、何とか戦いを避けようとした。
民を思うがゆえに王府側に付いて、アカハチと敵対することになったけど──あなただって心から平和を求めていた」
長田さんの目が潤む。
「サンアイ・イソバと鬼虎は、与那国島の英雄だ!
荒波の打ち付ける最果ての島で、知恵と武勇で迫り来る外界と渡り合い民を守った。
宮古との戦には負けてしまったかもしれないけど、今でも二人は与那国の人々の心に深く残ってる!」
鬼虎さんが、構えていた刀をゆっくりと下ろし、イソバさんが俯いて髪をかき上げる。
「尚真王……あなただって。
アカハチや鬼虎、それに宮古の豊見親……戦乱の琉球をまとめ上げ、五十年も在位にあった善政の王だ。
確かに、宮古を恭順させ八重山を下し……征服された側からしたら、悪役なのかもしれない。
でも、そうやってあなたは国を一つにし、大和の国をはじめとする外国と渡り合って琉球全体を守ろうとした」
尚真さんが目を伏せる。
そして、僕はゆっくりと視線をソラビーさんと合わせた。
「ソラビーさん……。あなたは仲宗根豊見親玄雅、童名は、空広。時代の流れを察知して、首里王府への恭順を選んだ聡明かつ勇壮な宮古の英雄だ……。
激動の生涯の中で、王府に従わないオヤケアカハチや鬼虎と戦った。
でも、あなただって好きで琉球の同胞と戦ったわけじゃないはずだ。あなたは、平和な世界を求めて戦った」
ソラビーさんはどこか遠くを見つめた。
「後世の人は、色んなことを言うかもしれない。でも……本当のことなんて、誰も知らないんだ。
それでも僕は分かってる。みんな悩んで、苦しんで……それでも自分を信じて、命を燃やして駆け抜けたんだって! 僕はちゃんと……ちゃんと分かってますから!」
言葉が止めどなく溢れだす。
「だからもう、やめましょうよ……。みんなのまわりにもいたでしょ、死にたくないのに死ななきゃいけなかった人とか、生きたくても生きられなかった子供とか……。
だから、もう、戦わないでください……」
そして、僕はもう言葉が続かなかった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭う僕に、ソラビーさんの優しい声が降ってくる。
「少年……」
涙の向こうに、刀を鞘に収めるソラビーさんが見える。
「少年の言うとおりだ。我らは皆、命を燃やして駆け抜けた……」
アカハチさんと鬼虎さんが俯いて立ち尽くす。長田さんとイソバさんが目を赤くし、尚真さんがポケットから出した白いハンカチで目を押さえる。
「我らは戦いを生きた。平和な未来を夢見て戦い、生きて、生きて、生き抜いた……」
ソラビーさんが皆を一人ずつ見回す。
「我らの手を離れて、平和は後の世に託されたのだ。我らも過去の痛みではなく、未来の光に向かって進もうではないか」
皆、めいめいに目頭を押さえたり、鼻の頭を拭ったり……。そして、僕はぼろぼろ泣いていた。
包み込むような、優しい沈黙が落ちる。
その時──どこからか、防災無線みたいな音で音楽が流れてきた。優しい沖縄民謡のメロディーだ。
「そろそろ……時間だな」
ソラビーさんが静かに言い、皆が顔を見合わせる。
「ああ、今回もあっという間だったわね」
イソバさんが目を拭って伸びをする。
「いや、このメンバーもなかなか楽しかったねえ」
尚真さんはいつものにこにこ顔に戻って、レジャーシートの上を片づけ始める。長田さんも微笑み、カップやお皿を重ねてゆく。
鬼虎さんとアカハチさんはちょっと不満そうな顔を見合わせて、それから粛々と後片付けに加わった。
「時間って……どういうことですか?」
あっけにとられる僕に、ソラビーさんが静かに笑いかけた。
「私たちは帰らなくてはならない。自分たちの時代に、生きた島に」
「え……」
ソラビーさんの視線の先を追うと、砂浜の向こうに不思議な姿が立っていた。白いお面のような顔に黄色い着物を着て、ゆらゆらと団扇でアカハチさんと長田さんを招いている。
「ちぇ……もう弥勒様が迎えに来た」
「しょうがないね。僕たち帰ろうよ」
ほら行こう、と長田さんがアカハチさんの手を引いて、不思議な姿について行く。
長田さんが優しい目をして振り返る。
「次は、きっと八重山にも来てね。
僕たちが生きた石垣島や波照間島……八重山の島々も君に見てほしいな」
背を向けたまま、アカハチさんも片手を上げて別れの挨拶をしてくれる。
二人の姿が、だんだん遠くに霞んでゆく。
振り返ると、イソバさんと鬼虎さんが、空中に浮かんだサバニ船に乗り込んでいた。船を支えているのは、金色に輝くカジキとハンマーヘッドシャークの群れだ。
「ちょっと鬼虎! ただでさえ図体でかいんだから詰めなさいよ!」
「何だとォ! 阿母はそもそも少ない女キャラってだけで得してるんだからな! 出しゃばるなよ!」
ひとしきり賑やかにしたあと、二人は力強く櫂を漕ぎ始める。
「少年、なかなか楽しかったわよ!
そうそう、気をつけなさい……琉球は素敵な所だけど、沖縄病に罹らないようにね!」
イソバさんが男前に親指を立て、鬼虎さんが大きく手を振る。
二人の漕ぐサバニも、夜空の彼方に消えてゆく。
そして尚真さんは──振り返った僕はぎょっとする。僕の真後ろで、昔話に出てきそうな長い体の龍がぱかっ、と赤い口を開けていた。尚真さんは背中の小さな翼の間からひょこ、と顔を出し、笑った。
「今でこそ『沖縄』と一括りになっているようだが、私たちの時代には、一つの島がそれぞれ一つの独立した世界だった。
百花繚乱の時代を治めた私の苦労、少しは分かってくれたかな?」
強く頷く僕に尚真さんが微笑む。
「そなたとのビーチパーリィは楽しかったよ。我が都、首里にも是非来てくれたまえ」
不思議な龍が顔に似合わないかわいい声でピューと鳴き、天に昇って消えて行く……。
残ったのは、僕とソラビーさんだ。
僕は思わず、せき込むように言っていた。
「ソラビーさん、僕と現代に残りましょう! 戦もないし、美味しいものもあるし、それに、東京だって案内したいし……!」
ソラビーさんは一瞬すごく眩しそうな顔をして、それから目を伏せて笑った。
「そうだな……。それはさぞ楽しいだろう」
ぱっ、と顔を輝かせる僕に、ソラビーさんは静かに首を振る。
「だが、私にはやらねばならぬことがある。私の生きた、宮古の地でな」
「ソラビーさん……」
「少年、いや大輝よ。そなたも、そなたの場所でなすべきことをなし、大きく輝くがよい」
「ソラビーさん……」
いつの間にか、そらびー号がソラビーさんに寄り添っている。
その鼻をやさしく叩くと、ソラビーさんはひらりと背に飛び乗った。
「そなたに会えて楽しかったぞ。我が宮古の未来の姿も見ることができたしな。ただ……」
ちょっと眉をひそめてから、ソラビーさんはいたずらっぽく笑った。
「あの『けーき』とやらがもう食べられないのは、少々惜しい」
僕は、泣き笑いだ。
遠くでパーントゥが手招きしている。
ソラビーさんは最後にしっかり僕と視線を合わせ、眩しく笑った。
「さらばだ!」
颯爽と宮古馬に乗って、ソラビーさんが白砂のビーチの彼方に消えてゆく。
僕はその凛々しい後姿を見つめ、そして声の限りに名前を叫んだ。
「ソラビーさん! ソラビーさん‼ ソラビーさん……‼」
そして……そのまま倒れて寝入ってしまったらしい。気が付くと、僕はビーチの真ん中で伸びていた。
体中についた白砂を払い、よろよろと立ち上がる。水平線には昇り始めの太陽。
夜が明ける──。
振り返ると、無人の砂浜。
でも、ビーチのコンクリートの階段には、皆が読んでいた図書館の本が重ねてあった。
一番上にあるのは「琉球の英雄伝説」。
僕はその本をぎゅっ、と抱きしめ……泣いた。オトーリの泡盛が残っていたからかもしれないけど、感極まって、なりふり構わず泣いた。
僕たちは戻ったんだ。
皆は皆の生きた時代に。
僕は僕の生きる時代に。
あんなに撮ったはずのスマホの写真は全部消えていた。
なぜか、宴の最中に撮った集合写真が一枚だけ残っていたけど、そこには満面の笑みの僕だけが写っている。
でも、それでかまわないと僕は思う。
写真はまた来て撮ればいい。姿は見えなくても、皆はちゃんとそこにいる。
東京に帰る日、僕は平良の町外れにいた。
車がひっきりなしに通る道路から入った所に佇むのは、ソラビーさん……いや、仲宗根豊見親玄雅の一族のお墓だ。
家の敷地ほどもある立派な石組みのお墓を見ながら、僕は呟く。
「『宮古を案内』って、まずここを案内しなきゃだめじゃん……」
クス、と笑いがこみ上げる。ソラビーさんは照れ屋だもんな。奥さんの宇津免嘉さんもここに眠っているのだろうか。
僕はお墓の正面にしゃがみ込む。
「ソラビーさん、僕帰りますね。僕が生まれて、生きていく場所へ」
でも、僕はきっと何度も来るだろう。
宮古の島々だけじゃない。八重山の島々にも、首里のある本島の島々にも。僕は何度でも来て、皆に出会い続けるだろう。
緑の島々の広い空が、僕は大好きだから。
〈了〉