最終話
彼が目を覚ますとどんよりと重い灰色の雲が空一面を覆っていた。彼は曇りの日は何のやる気もわかない人種だった。空を眺めてから掛け布団を顔まで手繰り寄せる。体が異様に重かった。何時か知りたくて、何も言わず満足気に窓の外を見ている悪魔に聞いた。
「今何時だ?」
「そんなの自分で確認しろよ。御主人様」と悪魔は素っ気なく答えた。
彼は面倒くさくなって二度寝してしまった。
彼は再び目を覚ました。相変わらず空はどんよりと曇っていたが、彼は流石に眠ることが出来ずに重い体を起こした。枕元に落ちているスマホに手を伸ばす。スマホの電源を入れると画面上のデジタル時計は正午を指していた。ついでにTwitterを覗いてみた。深夜まで彼等はクラスメイトの紗川の死体を味わっていたらしい。しかし、柊のツイートだけが深夜二時を境にぴたりと止んでいた。
彼は気まぐれで学校に行こうと思った。クラスメイト達がどのような状態なのかを見てみたくなった。
アパートを出て学校へと向かう道中、彼のすぐ後ろにはずっと悪魔が付いてきていた。
「また学校行くの? 馬鹿だなあ。どうせ嫌な気持ちになるだけじゃないか」
彼もそうは思ったが、自分の行動の結果を己の目で見ておきたかった。そもそも彼は誰かに言われてはいそうですかと従うことが出来るほどできた人間ではない。彼は少し後悔しながら自転車を漕いだ。
教室は騒然としていて、鶏が鳴き喚く養鶏場と似ていた。柊も殺されたことが既に教室中に知れ渡っていることは火を見るよりも明らかだった。
全員が自分のドラマを演じることをやめて、自分に危害が及ぶことをひたすらに恐れていた。誰も柊の死を悲しんではいない。彼はそれを見て少しの陶酔と、ざらりとした不快感を味わった。彼にはどうして自分が拭えない不快感を感じているのかは分からなかった。
席に着くと、彼の後ろの席の生徒の話がよく聞こえてきた。
「同じクラスの奴が二人も殺されるっておかしいだろ」
「なんか俺らに恨みでもあんのか」
「クラスメイトの仕業だったりしてな」
「まさか」
妙に乾いた笑いが彼の耳をくすぐった。
その話を聞いていた他の男子生徒が話の輪に入って、興奮した調子で捲し立てる。
「それありえるんじゃねえか? クラスに馴染めねえ陰キャが勝手に恨んで殺したとか。ぜってえそうだよ」
「いや、それマジで笑えねえって。やめろよ」
そう言った生徒の顔は引き攣っていた。
彼は背中にぬるりとした重い何かを感じた。再び彼の頭の中に波の打ち寄せる音が聴こえてきた。興奮して捲し立てていた生徒が彼の机の前に来た。口だけが笑って、目は怯えと好奇心が混在している。
「お前とか、じゃないよな?」
冗談めかした口調には探るような響きがあった。彼の頭の中で波の音が甲高い耳鳴りに変わる。彼は大きな音を立てて椅子から勢いよく立ち上がった。
「なんだお前は。クラスメイトが一人死んだ時はあんなに悲しそうな振りをしてただろうが。自分に危害が及ぶとなったら必死になりやがって。どいつもこいつもふざけてんのか? てめえら全員今日の夜に殺してやるよ。せいぜいTwitterで辞世の句でも呟いてろ!」
彼は真っ赤な顔で肺の全ての空気を使い切って叫んだ。教室が静まり返る。
彼は教室を飛び出した。急いで駐輪場から自転車を引っ張り出して、アパートに向かって必死に漕いだ。彼はかっこいいと思って叫んで実際全くかっこよくなかった最後の言葉がフラッシュバックして堪らなくなって更にペダルを回した。横では悪魔がずっとげらげらと笑っていた。
「だから言ったのに! まだ学校に着いてから三十分も経ってないよ。やっぱ御主人様は馬鹿だなあ!」
彼はけたたましい音を立てて自分の部屋のドアを開け放つと、そのまま床に倒れ込んだ。
「クラスの奴らを全員殺せ!」と叫んだ。
「あー、それは無理」
「分かってる。夜しか人を殺せないんだろ? ならそれまで待つ」
悪魔は腕を組んで難しい顔をした。
「そうじゃなくてね……。御主人様は本当に彼等全員を殺したい?」
「当然だ!」
彼はがばりと起き上がって、Tシャツを着た少年の姿をした悪魔を睨みつけた。
「分かった」
悪魔はそう言って唐突に右腕を振り上げた。その手には何処から取り出したのか果物ナイフくらいの大きさの柄の黒い小さなナイフが握られていた。
彼は驚いて尻餅をついたような状態で悪魔から遠ざかった。
「俺はあいつらを殺せと言ったんだ!」
口角から泡を飛ばしながら喚く。彼等への殺意と今の状況の混乱と恐怖で彼はぶるぶると震えた。
「数が多すぎるんだよね」
悪魔が冷淡に言う。
「お前は人の不幸が幸福だと言ったじゃないか!」
「御主人様だってさ、快楽がその先にあると知りながらそれまでの道中の苦難を考えて行動を起こさないことってあるだろ? それと同じだよ。今目の前にいる一人を殺した方が簡単に快感を感じることが出来るだろ? それに君みたいな変態は生きてちゃいけないと思うし」
悪魔が彼にゆっくりと近付いていく。彼の背中が壁に当たった。
「それにさ、周りの人間を皆殺してほしいだなんてそんな回りくどいことする必要無いじゃないか。君が死ねばいい。君が死ぬも周りの人間が居なくなるも君にとっては殆ど変わらないことだと僕は思うよ」
「いやだ……やめろ……」
彼は掠れる声をどうにか絞り出した。真昼間のぎらりとした太陽の光がナイフを光らせる。悪魔は満面の笑みのまま彼にナイフを無慈悲に振り下ろした。悪魔の狂気の笑みを最後に彼の意識は永遠に途切れた。
後日、その部屋からは一人の男子学生がテレビのコードで首を吊っているのが発見された。果たして悪魔は彼の妄想の産物でしかなかったのだろうか。それは分からない。何せ彼は死んでしまったのだから。
ただここに一つ記しておきたいことは、二人の被害者の腹部にあった深い傷口からは加害者の物と思われる体液が大量に付着していたということである。




