三話
いつの間にか放課後になっていた。教室には何人かの生徒が残り談笑している。彼はそれらを一瞥して席を立った。その中にいた紗川と目が合う。
「寝た振りとかしててさ、空しくなんないの?」
返答を期待していない無意味な質問。周りの人間の笑みを押し殺した顔。人を嘲笑う為だけに用意された質問だ。いつもの彼ならばもごもごと口を動かしながら曖昧な笑みでも浮かべただろう。しかし耳鳴りが続いている彼には何も聞こえなかった。
彼の目には紗川は既に死体として映っていた。無視して教室を出る。彼の背中越しから数人の笑い声が飛んできて、廊下を震わせた。それさえも無視して黙ったまま歩く彼の中には、数多の呪詛の声が嵐のように巻き起こり荒れ狂っていた。
全てが上の空で、気付けば強く西日が射し込む自分の部屋に座っていた。しばらくぼうっとした後、彼は紗川を殺してやろうと思ったあの時の激情を確かめようとしてみたがまるでそれは自分の物ではないように感じた。彼の殺してやろうという気持ちは段々と薄れてきていた。喉元過ぎればなんとやらと言うやつだろう。愚かな彼はあの瞬間の沸騰するような、これからも学校に向かえばまた感じるであろう痛みと殺意を忘れかけていた。
あんな女が死んでも悲しむ人間はいるだろう。彼女の家族や友人は悲しみに暮れるに違いない。そもそもよく考えれば俺個人が一人の人間を勝手に殺していい訳が無いではないか。ああ、やはりやめておこう。こんなことは望むべきではない。男を殺すならばまだいいが、異性である女を殺すのは何だかはばかられる。そうだ、プリントで指を切って血を流す程度にしてもらおう。
そう考え土壇場で怖気付いた彼はちらりと悪魔を見た。彼はもうすっかり紗川を殺す気は無くなってしまっていた。悪魔もそんな彼を見返した。その目には狂気の炎が燃え上がっていた。
悪魔は夕陽で橙色に染まる小さな部屋を彼を中心として、てくてくと円を描くように歩き始めた。
「君はあの時、確かにあの紗川という少女を殺そうと思った。ならば殺すべきだよ。どうして殺さない理由がある? 彼女はきっとまた君に悪意を向ける。それを見過ごすなんて気に食わないだろ? 殺そうよ。彼女の家族が何だ、友人が何だ。そんなこと僕らが関知してやる必要は無い。彼女は誰かに悪意を向けられる相応の理由がある。そうでしょ? 今この世界では男女平等が流行なんだろ? だったら男も女も関係無い。平等に殺意を向けろよ。思い出せよ。あの時の感覚を、あの時の感情を」
無邪気で冷徹な声音だった。小さな子供が虫を殺す時にあげる笑いと同じ声、自己の快楽の為だけの行動に伴う声だった。
悪魔の囁きだ。彼はそう直感した。それでも彼はその囁きを受け入れた。少しずつふつふつとあの時と同じ感情が沸き起こる。あの時の紗川の顔と声を鮮明に思い出した。
「ああ、そうだった」
太陽が沈んで、世界が闇に包まれた。
「あいつを殺せ」
彼がそう呟いた瞬間、彼の意識はブチッという音を耳に残して強引にとぎれた。
目を覚ますと窓の外には雲一つ無い煤けた青空が広がっていた。彼は意識を無くした時と同じ、学校の制服姿のまま自室の畳の上に仰向けに倒れていた。すると少年が上から覗き込んできた。
「おはよう! 御主人様の願いを叶えてきましたよ! やったね!」
悪魔が満面の笑みで言った。彼は床にのびたまま埋もれていた記憶を掘り出した。そうして一人の女子生徒の死を願ったことを思い出した。彼は寝汗で濡れて気色の悪いワイシャツを脱ぎながら、まだにやにやと笑って嬉しくて仕方が無いという様子の悪魔を見た。
「じゃあ、本当に紗川は死んだのか?」
彼はなんだか実感が無くて悪魔に問うた。
「死んだよ! そりゃもうばっちり、死にすぎだよってくらいにね!」
「そうか……」
彼は、布団も敷かずに寝たせいか節々が痛む体をどうにか起こした。
「何で俺は意識を失ったんだ?」
彼にはあの意識が引きちぎられる感覚はあまりいいものとは思えなかった。
「それはね、悪魔が現実の世界に何か影響を与える時は、その悪魔を召喚した主は意識を保っていてはいけない決まりなんだよ。なんて言うのかな、悪魔の行動を人間に見せてはいけないというか、そういうことだった気がするけど、覚えてないや」
悪魔の適当さに半ば呆れながらもそういうものかと納得して、床に落ちている、いつ洗っていつここに放置したのかも分からないワイシャツを着た。
彼は夕飯を食べる前に気絶していた為に、ひどい空腹を感じた。冷蔵庫を開けてみると中には麦茶とコーラしか入っていなかった。溜息をついて冷蔵庫を閉じる。結局登校の途中の道にあるコンビニでなにか買うことにして玄関に向かおうとした。その時、まだ少し嬉しそうな顔をしていた悪魔が
「え、そのまま行くの? くっさいよ。ほんとに。そんなんだからクラスに馴染めないんだと思うよ。なんかトイレみたいな臭いするし」
と驚いた顔で言った。
「黙れ。俺は腹が減ってるんだ。悪魔の意見なぞ聞くか」
彼はそう斬り捨ててドアノブに手を掛けた。しかし彼はしばしドアノブに手を掛けたまま固まった。
「……ほんとに臭い?」
「マジで臭いね。マジで」
彼は朝シャワーを浴びることの意外な爽快さに気分を良くしながら家を出た。程よく湿った髪をなびかせながら颯爽と三代目黒龍号に跨り、学校へと向かった。




