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悪魔の仕業  作者: N
2/5

二話

 彼に恐れるものは何も無い。今や彼にとって、人は皆等しく自分よりも下等の存在となっていた。

 油断すれば零れそうになる笑いを堪えながら愛車である三代目黒龍号に跨る。三代目黒龍号とは無論彼の自転車のことである。初代と二代目はどこに行ったのかと聞かれても分からないし、恐らく彼もそこまで設定を練っていない。

 麗らかな青空の下、自転車を漕ぐ。追い風に乗って彼はぐんぐん速度を上げていった。世界が彼の味方であった。

 彼は堪えきれずに、坂を下りながらワハハと高笑いをした。怪訝な顔でこちらを見る歩行者も、タイミングよく変わる信号も、高笑いをする自分を面白い物でも見るような顔で眺めながら付いてくる悪魔も、全てが愉快だった。

 そんな心持ちのまま彼は学校に着いた。悪魔は物珍しそうに辺りをきょろきょろと見ていた。時間は丁度昼休みが始まった頃だ。校舎からは生徒達の健全な談笑する声が、駐輪場にまで届いていた。彼はスキップでもしてしまいそうな軽い足取りで教室のドアの前まで来た。

「平伏すがいい、凡俗共よ」

 彼は心の中でそう唱えた。

 その勢いのまま威勢よくドアを開け放つ。余りに勢いが強すぎてドアが壁に激突し、凄まじい音を立てた。愚かである。

 教室中の生徒の視線が彼を襲った。

「うわ、何? びっくりしたあ」

「何で今頃来てんの? もう昼だよね? 意味分かんないんだけど」

「え、ちょっとあいつと目合った気がすんだけど、嫌だわあ」

「何突っ立ってんだあいつ。きもっ」

「あいつ今来たよ。あいつ……あれ? あいつの名前なんだっけ?」

「誰?」

「クラス間違えたのかな。あれ恥ずかしいよね、分かる分かる」

 皆隣にいる友人達と、無意識ではあろうが彼に聞こえる程の微妙な声の大きさで非難の言葉を交わした後、すぐに興味が失せたのか彼から視線を外した。読者諸君も彼の名前を忘れた頃であろう。私も忘れた。

 今まで世界の全てを手中に収めた様な気持ちでいた彼の心は一瞬にして灰燼に帰した。いや、木っ端微塵になったかのように見えて彼は耐えていた。そう、今の彼には悪魔がついているのだ。

「悪魔よ。この部屋にいる奴ら全員を極力残酷に殺せ」

 横にいる悪魔にだけ聞こえる大きさで呟く。

「無理。悪魔の力は夜にしか使えない。ていうかそもそもこの量は多すぎ」

 彼の心は灰燼に帰した。開けていた視界が一瞬で閉じていくように彼の将来への展望は暗闇に閉ざされてしまった。

 彼は今にも逃げ出さんとする足を理性でどうにか押さえ込んで、関節が錆び付いたロボットのような足取りで自分の席に向かった。そのまま彼は恐ろしく鮮やかに席に座り、流れるような動作でポケットから音楽プレーヤーを取り出し、間髪入れずにイヤホンを耳にはめ、息もつかせぬ俊敏さで腕を枕にして寝た振りをした。その余りに洗練された動きは、彼がその道のプロであることを周囲に知らしめ、また同時に異様なまでの哀愁を漂わせていた。

「え? もう寝てるよあいつ」

「違うよ。よく見ろって、あれ寝た振りだよ」

「聞こえちゃうじゃん。やめたげなよ」

 全くやめて欲しそうでない嘲笑を含んだ声が、寝た振りを続ける彼の鼓膜を震わせた。悪魔はにやにやと笑っていた。

「御主人様、どうして寝た振りなどしていらっしゃるのですか?」

「寝た振りなどという、周囲からの逃避と言っても過言ではないそんな愚かな行為を俺はしていない」

 傍にいる従僕にだけ聞こえるような小さな声で御主人様はぼそぼそと話した。

「俺はただ机の香りを嗅いでいるだけだ。机の木の自然を感じていたいだけなのだ。断じて寝た振りなどはしていない。ああ、いい匂いだ。大自然の息吹を感じる」

 従僕は御主人様の筆舌に尽くし難い高潔さを目の当たりにしたからか、哀れみの目で主人を見据え黙ってしまった。

 彼は先程、笑いながらやめてあげなよ、と言った女子生徒のことを考えていた。

 あの女の名前は確か紗川とか言った気がする。同じクラスになった時からよくからかわれた。嘲笑だけを目的としたあの言葉。癪に障るキンキンとした高い声。何もかもが不快だ。

 あいつを殺そう。

 彼はそう固く決心しながら寝た振りを続けた。

 昼休みの終了を告げる鐘が鳴り、スキンヘッドのいかめしい顔をした教師が教室に入ってきた。さっきまで騒がしかった教室が水を打ったようにしんと静まる。

「よし、じゃあ授業始めるぞ」

 教師がその外見にふさわしい地の底から響くような低い声で言った。

「きりーつ」

 気だるそうに学級委員長が言う。寝た振りをしていた彼も、教師を恐れて立ち上がった。

「やっぱ起きてるじゃん」

 彼の後ろから、紗川の丁度耳に入る程度に調整された声が彼の背中を刺した。彼はそれをシカトしたまま席に座った。

 その時彼の頭の中でざわざわと浜辺に静かに打ちよせる波のような音が聞こえてきた。それは段々と激しさを増していき、テレビの砂嵐のような音になったかと思うと、最後には鋭い耳鳴りになって彼の耳を貫いた。

 横で悪魔の少年が目を爛々と輝かせながらにんまりと笑う。

「彼女で決まりだね」

 彼はそれも無視して授業を受け続けた。耳鳴りがずっと鳴り続けて彼の頭の中を支配していた。

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