天翔けるは白銀の鷲
第八章 再挑戦する馬鹿もいる
プレハブ小屋の中に、熱気が立ちこめていた。
それは外で照りつける太陽のせいばかりではない。
小屋の中で仁王立ちになって高笑いしている男の発する熱が莫大なのだ。
拳を握りしめ、男―巫はどこやらを見つめて声を限りに叫ぶ。
「できたッ!できたぞおッ!」
その傍らにはサンドバッグが吊り下がっていた―が、その脇腹には大穴が開き、砂がざーっと流れ出している。
「待っておれサイキッ!今度こそお前の前に立ちッ!闘いを挑みッ!勝ってみせる…必ずなッ!」
絶叫が、金属の壁に反響してわんわんと響いた。
すぐ後。
「黒の組織」の「謁見の間」に、巫の姿があった。
「そうか。奴と直接闘えるようになったか、巫よ」
重々しく、しかし期待をこめた声がカーテンの向こうから響いた。
「はッ。これでサイキとも互角に!いやそれ以上にッ!闘えますッ。回復しだいただちにッ、闘いを挑んで参りますッ!」
「…念のため聞くが、どのように闘いを仕掛けるつもりだ?」
声が不安を帯びた。
「はッ、とりあえず…」
「とりあえず?」
「サイキの所に行って挑戦するつもりでありますッ」
「…何かもうちょっと搦め手はないのか」
ため息混じりの問いかけに、
「うーんッ…」
巫は真剣な顔で眉を寄せ、考えこんだ。
しばらく悩んだ後、口を開いた。
「やはり正攻法が一番かとッ」
「…人選に問題があったか」
「…そうかもな」
呟きに、同じ声が答える。
「―はッ!?」
「い、いや、何でもない」
カーテンの向こうから、焦った気配が伝わって来た。
「とにかく、行って参りますッ!」
「黒の首領」の混乱を、自分の作戦(?)に対する懸念ではないかと(勝手に)解釈し、巫は制されるのを恐れてそそくさと「謁見の間」を去った。
「…やはり、根本的に問題があったか」
「そうだろうな」
薄暗い広間に、二つの同じ響きの呟きがこぼれた。
次の日の晩。
あやめたち三人は、研究所に来ていた。体調をチェックし、鷲族の巫術師、スーミーに呼びかける。
「とりあえず、『黒の組織』の目的などはまだわかっていません。なぜサイキくんを狙うのかも不明。スーミーさん、そちらではどうなっていますか」
『だいぶ小競り合いが活発になってきている。『蜘蛛族』の奴らが周りの部族を攻めたりしはじめているんじゃ。そうそう、『鹿族』の者が集中的に狙われているみたいだが…おやっ!?」
そう老巫術師が沈痛な口調で言ったその時、銀の球体の横に、
「あ、あれ!?何?」
明るい茶色の光が灯り、やはり球体を成した。
そこに、
「あれー。カノコ?」
浮かんだ像は、若い女性のものに見えた。
「『カノコ』って…?」
「ああ、俺の一族と同盟している部族の一つ、『鹿族』の巫女だ。俺とはまあ、幼なじみってとこかな」
楓の呟きにあやめが答えた。
『お久しぶりですね、サイキ』
声も若い…まだ少女と言っていい口調だった。微笑んでいるようだが画像が揺れていて良くわからない。
『わたしの一族の守護精霊『茶の鹿』から、お告げがありました』
「お告げ?どんなのだ?」
『『遺産』の『鍵』を揃え、守れと』
「『遺産』!?何だそりゃ」
あやめが首を傾げた。
『わたしにもわからないんですが、とにかくそう告げられました』
「その『遺産』とやらが、俺が巫たちに狙われる原因なのかなあ」
『それはわたしにもわかりませんが…ただ、わたしがその託宣を受けた頃から、『熊族』や『烏族』の人たちにわたしの一族が襲われるようになり、わたしも何度か危なかったんです。守護精霊の手助けもあって何とか逃げおおせたんですけどね』
「うーん…これだけの情報じゃわかんないけど…あ、そうだスーミーさん、今の話聞いてましたよね。何かご存知ですか」
『やはり…やはりそうか』
返って来たのは、大きなため息だった。
『『果ての地』と交流することになれば、いずれは『遺産』が関わって来ることは予想できたが…』
「は!?」
銀の球体に浮かび上がったスーミーの視線は、まっすぐに楓を捕らえていた。
『伝承にはこうある。遠い遠い昔、『彼方の地』と『果ての地』は一つだったと』
「そうなのか!」
あやめが驚きの声を上げたが、楓も驚きは一緒だった。
『遠い昔、我々とあなた方は別れた。我々は精霊より力を借りる術を選び、あなた方は『科学』と言うもう一つの技術を使う道を選んだ。その際、二つの勢力が争うことを危惧した者たちが『世界を分ける』ことでそれを阻止したのだが。『遺産』とは、二つの道がまだ一つだった時の産物…二つの世界を再び一つにできる力を持った宝だ』
「その『遺産』へたどりつく『鍵』を、探し出して守れと『茶の鹿』は告げたのか…わからないなあ。『鍵』を手に入れてどうするっていうんだ?」
「…『黒の組織』に奪われないように守れってことかしらね」
「そのことと、サイキくんやカノコくんが狙われているのとが、どう関係するのかも不明だな」
「うーん…」
一同、再び考えこんだ。その時、
「うっ…」
全員すっかり忘れていたが、通信を維持していた若手研究員が一声うめいて座りこんだ。
「あ、やばい。スーミーさん、カノコ、そろそろ通信は切ってくれ」
『わかりました。お会いできる日を待っています』
カノコの声を最後に、銀と茶の球体は消え去った。
いつしか、季節は夏に近づいていた。舞鳥学園の生徒たちの中でも、「夏休みをどう過ごすか」が話題に上りはじめている。もちろんその前に、「期末試験&通知表」という大問題が立ちふさがっているのだが、あえて話題をそこに向けないようにしている者が多い…というか、ほとんどだった。特に、大学受験がまだ差し迫っていない一年生の間ではその傾向が強い。
「楓とあやめちゃんは、夏休みどうするのー?もちろん実家には帰るだろうけど」
朝礼前、大体育館で並んでいると、由布子はにこにこしながらこう聞いてきた。
「あと一ヶ月ぐらいだよな。その頃には俺の本体も…ぐはっ!」
楓に右ひじを叩きこまれてあやめは身体を二つに折った。
「…毎度毎度飽きないわね。一ヶ月するとどうなるの?」
「じっ、実家の人が怪我してて、それが治る頃だなって、さ」
起き上がりつつ(とっさの)答えを口にする彼(?)の頭を、さっと楓が撫でた。
「じゃあ安心して帰れるわね。―楓は?」
「わ、私!?」
いきなり話を振られて楓は動揺した。
その挙句ぽろっと本音を洩らしてしまう。
「私は…寮に残ろうかなあ」
「帰らないの!?どうして?」
「ちょっと…ね」
楓の表情が翳った。楽しげだった由布子の顔が引きつるほどに。
「き、聞かないから。そんな怖い顔しないでよ」
「あ、怒った訳じゃないのよ。ただちょっと…ちょっと、ね」
顔をそむけて言う楓を、由布子はそれ以上追及することはなかった。
その日の晩、あやめと楓の二人は若葉寮の自室でTVを見ていた。何回目だかの日本対ドイツのサッカー親善試合が放映されている。
「あーまた日本失点!二点目だよー!やっぱりキーパーの能力が違うのかなー」
「いや、ドイツって国が基本に忠実なだけだと思うな」
せんべいを食べながら、あやめがあっさり言った。
「基本だろ、『相手より強い戦力を、相手より多く揃える』ってのは。見てみろ、攻めるにも守るにも、ボールを取り合う時には必ず日本の選手よりドイツの選手の方が大勢参加してる。あれじゃ日本は競り勝てないよ」
「まあ、日本がそうしないのにも訳があるとは思うけど…にしても、一対一の決闘があなたの世界の基本なのに、戦術に詳しいわね」
「一応多対多の戦闘についても学ぶんだ。絶対ない訳じゃないからね」
あやめはせんべいをばりっと噛んだ。
「平和なんだかきな臭いんだか、良くわからない世界ね…まあ、こっちの世界も人のこと言えないか。…って、え?」
楓はふと頭をよぎった疑問を整理し、口に出した。
「…なんで巫たちは、『一人ずつ』挑戦して来るのかしら」
「へ!?」
「いや、だって。今までに出てきた敵が…ほら、ゲームでもあるじゃない、騎士やエリーや巫が前に立ってあなたの攻撃を受けて、その間にユーリやチョビが遠距離から攻撃を叩きこんでいたら…負けてたわよ、サイキ。言っちゃ悪いけど」
「そうか…まあ、巫は『一対一』にこだわってたしな、明らかに。それに…一度に全員は集められなかったんじゃないのか?」
あやめは軽く答える。
「うーん、それだけなのかなあ?何かありそうなんだけど…」
次の日の、二時限目が終わった休み時間、あやめの隣に楓がいないのを確認して、野本が彼(?)に近づいてきた。表情を窺うようにして話しかけてくる。
「あ、天野。昼飯が終わったら、小体育館の裏に来てくれないか?」
「ん?いいけど…何でだー?」
「い、いや、話したいことがあってさ」
「?…今ここで話せばいいだろ」
「だーかーらー!二人っきりで話したいことなんだって!」
野本が大声を出したもんで、教室中の注目が二人に集まった。
「だ、だからな天野!…来いよ!絶対来いよ!」
真っ赤になって野本は念を押し、そそくさと引き揚げていった。
「何だー、あいつ?」
その時、お手洗いから戻って来た楓が、ざわつく教室を首を傾げて見やって尋ねた。
「どうしたの?」
「うん、野本がお昼休みに話があるんだってさー」
「野本くんが…」
嫌な予感がした。
「も、もしかして『二人っきり』で?」
「良くわかるなー、楓」
「うっ…!」
「どうしたー?」
言葉に詰まる楓を、あやめは不思議そうに見た。
「ねえ、サ…あやめ。野本くんはもしかすると、あなたのこと、その…」
「んー?野本がどうしたってー?」
「い、いいえ、何でもないわ」
あまりにも、あまりにも開けっぴろげな笑顔を前に、楓は何も言えなくなった。
(いやいくら何でも…まさか、ね)
こんな言動の「女」にそんな感情…と、何とか思いこもうとした。
昼食は、一緒に(由布子たちも一かたまりになっていたが)摂った。
その後、
「じゃ、野本に会ってくるぜ」
「…うん」
どこで待ち合わせしているのかも、聞かずに別れた。
見送って、
「ふう…」
一人で廊下を歩く。特に、お昼休みの間に一人でやりたいことも思いつかない。
(ずっと一緒に行動してたもんね、この頃)
並んで歩かないのはどちらかがお手洗いに行く時ぐらいだったことを思い、一人苦笑する。…こうしていると、隣に頭一つ高いその姿がないことが、変に淋しい…と言うか物足りない。
(馬鹿だわ、私も)
「…図書室にでも行こうか」
誰も聞いていないのにそう呟いて、廊下の角を折れた。そこに、
「え!?」
一人立つ、場違いな人物に仰天した。
長身、暑苦しい印象を与える革製の服、後ろで束ねた髪。
見覚えは、あった。
「巫!?」
「お、お前は…ッ!?」
彼も楓を見つけ、叫んだ。
「サイキのおまけ一号!」
「だ、誰がおまけよっ!」
反射的に怒鳴り返していた。
「いつもくっついてるじゃないかうらやまし…い、いや、そうじゃなくてッ!いいところで会ったぜサイキはどこだッ!」
ずかずかと廊下を歩いて近づき、逃げようとする楓の腕を捕らえた。
「サイキの居場所を教えろッ!教えないとッ…」
「ひっ…!」
喉元に手をかけられ、楓は恐怖で硬直した。それでも、
「し…知らないわよ!」
言葉を何とか絞り出した。
「嘘をつけッ。言わないと、本当に喉を握りつぶすぞッ」
「知らないったら知らないのよ!この学園のどこかにいる、としか言えないわ」
「…本当のようだな」
呆れたように呟き、巫は楓の喉から手を離した。彼女はそのまま床にへたりこむ。腰はとうに抜けていた。
「さて、どうするか…捜すにしても…んッ!?」
何か思いついたらしく、巫はかがんで楓の顔をまじまじと見つめた。
「そうかッ!そうすればいいんだッ!」
何か一人で納得してうんうんとうなずく。
「お前を餌に使えば、サイキの奴を俺の所に来させられるッ!一対一で闘えるどころか、俺の望む通りの闘いをすることができるッ!これしかないッ!」
「い…嫌っ!」
這いずってでも逃げようとする楓を、巫はあっさりと引き戻した。左腕で抱え上げる。
「そうとなればこれだッ!…紙とは便利なものだな」
右手で何やらメモ用紙に書き、放り投げた。
話は少し前後するが、昼休み後半。
急いで弁当をかきこんだ野本は、小体育館の裏手にいた。
そわそわとあっちに歩いたりこっちに行ったりしながら、視線は校舎側の曲がり角に向いている。
「―よお」
その声に、野本の顔がぱっと輝いた。
「話したいことって何だ?」
あやめが、姿を現した。軽い足取りで歩み寄って来る。
「あ、天野―い、いや、あ…」
何か言いかけて野本は絶句した。
「あ?」
首を傾げる。
「あ、あ…あやめ!」
野本は絶叫に近い声でわめいた。
「…確かに俺は『あやめ』だが…それがどうかしたか?」
「だから、あの、その…察してくれよ!」
野本はずかずかとあやめに近づき、彼(?)の両肩をがしっと掴んだ。
「お、おい、野本…」
「俺は!お前をずっと見てきたっ!運動神経抜群なところも!ボーイッシュでさばけたところも!全部…全部俺は、俺はっ!」
「え…!?」
遅ればせながら…本当に遅ればせながら、あやめの顔に理解の色が広がりはじめた。
「なあ、あやめ…俺の気持ち、わかってるんだろう?」
右手を重ね、空いた左手で肩を抱こうとしてくる。
「わーっ!ちょっと、ちょっと待て!」
あやめは必死になって、その手を振りほどいた。
「…俺のこと、そんなに嫌いか?」
淋しそうな表情で野本が問いかけてきた。
「と、友だちとしては好きだけど…そういう関係にはなりたくない」
「何でだ?俺に気に入らないところがあるなら直してもいいが」
「いや、そうじゃなくて…俺、『男』だから!」
「は!?」
野本はあやめの身体を、上から下までじっくりと眺め、返した。
「女だが」
「いや、その…な、中身は男なんだ!男男男!」
「え?つまり、それは…」
彼の眼に、ゆっくりと理解の色が現れた。
「そうか…『そう』、だったのか。男女だとは思っていたが、そういうことだったのか」
「わかってくれたか?」
ほっとした表情であやめが呼びかけた。野本はちょっと哀れむような目で彼(?)を見て、
「お前、自分の状況がどう呼ばれているか、知ってるか?」
と聞いてきた。
「へ?何か決まった呼び方ってあるのか、今の俺に」
「…いや、知らなければそれでいいんだ。まあ、手術するかどうかは大人になってからのことだし…お前と付き合えないってのは納得できたよ。俺も、『そういう』奴と交際しようとは思わない」
「何だか良くわからないけど、わかってくれて嬉しいよ」
「ああ。…お前の言う通り、友だちになろう、俺たち。いい友だちにさ」
右手を差し出してくる。あやめはそれを、力をこめて握り返した。
「友だちに、なろうな」
「…あれ?」
野本と別れて校舎に戻ったあやめは、教室に楓がいないのを見て首を傾げた。捜して廊下を歩く。
「あ、由布子ー」
廊下の途中に人だかりがある。その中に由布子がいるのを見つけて、声をかけた。
「楓知らないかー?」
「知らない。見かけてないけど…それよりあやめちゃん、ちょっと見てくれる?変なメモが落ちてたんだけど」
「変なメモ?」
「何かへんてこりんな記号が書いてあってね。宇宙人でも来たんじゃないかって話していたところなんだ」
「…?見せてくれ」
由布子が渡したメモ用紙を覗きこんで、あやめの顔色が変わった。
「どうしたの?真っ青よ」
「―悪い。俺、午後の授業パスするわ」
ぼそっと呟いて、彼(?)は唇を引き締め、廊下を全速力で走って行った。すれ違った体育教師が「こら!走るな!」と怒鳴ったが、完全無視して昇降口を飛び出し、上履きのまま閉まった校門を軽々と飛び越える。
「楓!待ってろよー!」
一声叫んで、道路を通る手間さえ惜しんで林の中を突っ切って斜面を駆け降りた。
巫が楓を抱えてたどり着いたのは、舞鳥市街地の外れ、廃ビルが立ち並ぶ一画だった。ビルの一つに入り、階段を三階まで昇って一室に入る。部屋の片隅に座らされ、念のために縄をかけられた。
「さーて、お前には色々とまあ、恨みもある訳だがッ…」
巫はあらためて楓の顔を見つめた。その瞳の中にあるのは…。
(憎悪?…いや、でも何か違うような…)
「まあ、お前をさらえばサイキの奴は絶対来るだろうからなッ。ここでゆっくり待っていればいずれッ…」
嬉しそうに巫は笑う。
(怖い)
震えが止まらなかった。
確かに、巫の言う通りあやめは来るだろうと、思おうとした。が、
(サイキは、来ないかもしれない)
そんなことはない、来るはずだ…と考えようとする一方で、
(来ないことだってありうる)
そんな思いが、毒のように心を侵食していく。
胸を蝕む不安から気をそらそうと、平気な顔をして(ごまかせているかどうか、楓には全く自信がなかったが)巫に質問した。
「ここは、あなたたちの本拠地なの?」
声が震えたが、楓には止められなかった。
「いや、違う。ただの廃ビルだ。さすがに『黒の首領』のお膝元にサイキを誘いこむ訳にはいかないんでなッ」
「『黒の首領』…それが、あなたたちのボスなのね」
「ああ。俺をこちらの世界に呼び寄せ、この身体を与え、サイキと闘う機会をくれたお方だッ。…ちょっと仕えるのが大変なお方ではあるけどなッ…」
(…?)
巫の顔が―何かを思い出したらしく―引きつった。その原因までは楓にはわからなかったが。
「ま、まあとにかくッ!俺の使命はサイキを捕らえることッ!お前にはそのための餌になってもらうッ!」
「前から疑問だったんだけど…あなたたちはどうして、サイキに闘いを挑むの?それもわざわざこっちの世界に来てから。『捕らえる』って今、言ったわよね。サイキを捕らえることで何かメリットがあるの?」
「それはだな…うッ?…いや、お前に話せることではないッ!何を言わせるッ!我らが『黒の首領』の遠大なる計画のためッ、とだけ言っておこうッ!」
(やっぱり誘導尋問しようとしても無理か…。駄目だ。私は、無力だ)
そんな思いに打ちのめされまいと気を引き締めようとする。
唇を痛いほどに噛み締めていた。
「…悔しいか。餌にされているのがッ」
その表情を見てとり、巫が話しかけてきた。
「…だが、俺はッ!俺はお前が羨ましいッ!」
「…は!?」
目を白黒させる楓の前で、巫はとうとうと思いをぶちまける。
「お前はッ!少なくともッ!サイキの視界には入っているッ!…だが、だが俺は、えーと、こっちの言葉でアウ、アウタ…」
「アウトオブ眼中。…誰が教えたの、こんな死語」
楓だって、親が言っていなければ知らない単語だ。
「そうそれッ!…ううッ、畜生ッ、あらためて他人から言われると傷つくッ…」
巫は頭を抱えてそう叫んだ。
(これは…)
楓はここで巫の感情の正体に気づいた。
(憎悪…じゃない。これは…これはその、何と言うか…)
楓は赤面して黙りこんだ。
それに気づいているのかいないのか、巫の台詞は止まりそうにない。
「俺はッ!サイキのライバルたるべくッ!修行に修行を重ねてきたッ!奴が俺とだけ闘うようにッ!ただ俺だけを見るようにッ!」
(―いや、違う!その発言は、『たった一人のライバル』に対してのものとしては、何か間違ってないか?)
内心思う楓だったが、彼のあまりにも真剣な様子に口にはできなかった。
「なのにッ!なのになぜッ!お前よりはるかに長い付き合いの俺よりッ!お前の方がサイキの心の中で占める割合が高いのだッ!」
「…どのぐらいの付き合いなの?」
「聞きたいかッ!そうか聞きたいかッ!ならば聞かせてやろうッ!」
なぜか目を輝かせて巫は振り向いた。
「俺がサイキの奴にはじめて出会ったのは、二、三年前のことだッ。『鷲族』と我々『熊族』がちょっとした小競り合いを起こして、白黒つけようと決闘することになったのさッ。『熊族』の代表が俺で、あっちの代表がサイキだったんだッ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!二、三年前ってことは、その時のサイキの年齢は…」
「そう、奴は十三歳ぐらいで『加護を受けた戦士』どころか普通の『戦士』にもなりたてのほやほやだったッ。俺は『こんな奴、一ひねりだぜッ』と思っていたのにッ…さんざん叩きのめされたッ。生身でやっても全て攻撃を受けられ、挙句『憑依』してもこてんこてんにやられてッ…それ以来俺は『俺のライバルはこいつしかいないッ』と決めたんだッ。それ以来ッ、奴の前に立てるように己を鍛え、何度も何度もサイキに闘いを挑んでッ!…くうッ、思い出すのも悔しいがッ…」
「…全部負けたんだ」
「しかしッ!それでも俺はくじけなかったッ!あきらめずに何度も闘いを挑みッ!…ついにこちらの『果ての地』にまで来て闘いを挑んだがッ!それもッ…」
「…それは知ってる」
「ええいうるさいッ!思い出させるなッ!」
あなたが一人で喋って一人で墓穴掘ったんでしょうと楓は言い返したくなったが、黙っていた。
「俺はッ!とにかくッ、俺はッ!サイキを永遠のライバルと定め、奴を倒すために全力を尽くすのだッ!」
部屋を行ったり来たりしながら、巫は陶酔しきった表情で述べ立てる。
思わず、口を挟んでいた。
「そんなに執着しない方がいいよ」
「何ッ!?」
巫は本気で驚いた表情で振り向いた。
「それではッ!?お前は言うのかッ?この世でただ一人、自分のライバルと認めた男にッ?執着するなとッ!?」
「―しない方がいい」
自分の口調に、次第に確信がこもっていくのが、わかった。
「一人の人に執着しすぎれば、その人に何かあった時、本当に傷ついてしまう。回復不能な傷を負ってしまう。だから、自分を守るために、執着は、しない方がいい」
「お前は…」
巫はしばらく口をぱくぱくさせていたが、やっと言った。いつもの絶叫調も影を潜めている。
「単なるサイキの添え物と思っていたが、違うようだな。過去に何があったか知らないが、その若さでそこまで悟れるとは…だがな」
彼も確信をこめた口調で続けた。
「お前が何と言おうと、俺はサイキに執着するぞ。この思いには、迷いも曇りも、ない」
巫がそう言い切った時、彼の懐のスマホが鳴った。しばらく話していたが、やがて通話を切って楓ににやりと笑いかけた。
「奴が来たそうだぞ。お前がどう奴のことを思っていても、奴にとってお前は大切な存在らしいな」
「えーと、壊れかけの看板が『第一舞鳥ビル』になってる所で…ここか!」
あやめはようやく、巫がメモで示した廃ビルにたどり着いていた。…ここまで来るには、さんざん迷ったり人に道を聞いたりと色々あったのだが、ここでは省く。
ビルの玄関を正面に見て、通りの反対側に立ち、低く呟く。
「―いるんだろ」
二階に視線をやった。睨みつける。
「隠れたって殺気はわかるぞ。撃ってこいよ!そしてまた俺に倒されるんだ。…俺は今、すっげー腹立ってるんだからな!」
二階の窓が開き、十数個の銃口が彼(?)に向けられた。
一斉に火を噴く。
だが弾が穴を穿ったのは、ただのアスファルトだった。
「遅い!」
声と同時に、あやめの姿は―
二階の窓の前にあった。
両脚に、銀の光がまといついている。
ふわり。
足がとん、と銃口の上に置かれ―
次の瞬間、その銃の持ち主は凄まじい蹴りをくらっていた。
彼(?)の身体は当然反動で後ろに跳ぶ…が、窓枠に左手をかけ、銀光をまとわせて強引に耐える。力任せに前に身体を投げ出し、部屋に飛びこんだ。
部屋にいた、黒ずくめの服の男たちは慌てて銃を向けたが、
「甘いぜ!」
瞬時に間合いを詰め、一人の腹に拳を叩きこむ。間髪入れずに回し蹴りを放って数人を吹き飛ばした。
「銃じゃ、同志討ちが怖くてこの間合いじゃ撃てないだろ!銃つきつければ怯えて動けなくなる奴ばかりだと思うなよ!」
数瞬の攻防の後―
あやめがこう言い放った時には、男たちは全員床に転がっていた。
「楓は…巫と一緒だな。奴の気配は…」
眉を寄せて集中し…部屋のドアを開けて廊下に飛び出した。階段を駆け上がる。
ばたん!
屋上のドアを開けると、
「遅かったなッ!待ちくたびれたぞッ」
「うるせー!ビルの名前だけ書かれても、場所わかんねーんだよ!」
巫が、ドアの反対側にある屋上の手すりに寄りかかっていた。
「楓!楓はっ!?」
「サイキ!」
楓は、巫の傍らに縛られたまま投げ出されていた。
「無事だな、楓!」
「当り前だッ。この女にはお前をおびき寄せる餌としての意味しかないッ」
「巫…俺正直、お前のことは別に嫌いじゃなかったけど…今度ばかりは許さねーぞ!楓を巻きこみやがって!」
「それが狙いだッ。俺はお前と全力で闘いたいんだからなッ!」
巫の胸元で、「熊の紋章」が蒼く輝きを発した。
「とにかく、楓は返してもらう!」
あやめは巫のもとへひた走った。拳に銀の輝きを宿し、殴りかかる―巫は、右手でそれを受け止めた。
「何っ?」
巫の右掌に、蒼い光が渦を巻いてまといついていた。
「…やっぱりか!俺に直接闘いを挑んだってことは、『付与』ができるようになったんじゃないかとは思ったが…」
「その通りだッ!」
吼えた巫が、今度は左拳をあやめに放った。彼(?)は身体を沈めてそれをかわす。波打つ黒髪が残り、拳を受けて散った。
「まだだッ!」
さらに右拳が飛ぶ…が、銀の光が拳の向かう左肩にまとわりつき、僅かに軌道をそらした。だが、それで光は吹き散らされる。
「ははッ!いつまで保つかなッ?俺は『精霊の力』を今まで使っていなかったが、お前は下で使った訳だからなッ!」
「全力でぶつかってほしいって言ったじゃねーか!」
激しい応酬が続く。
「…とは言え、俺が予想していたほど消耗していないなッ」
「銃に頼ってる奴ぶっ飛ばすのに、『力』そんなに使わないぜ、俺はっ!」
にやっと笑ってあやめが答えた。
(…何か、楽しそう…)
転がされたまま二人の戦闘を見ているしかない楓は、ちょっとだけ胸に痛みを覚えた。
(私には入っていけない領域、だわ)
拳の一撃を、
「ていっ!」
掌で受け止め、勢いを殺す。
間髪入れずに相手に放つ回し蹴りを、
「ちいいッ!」
身体をのけぞらせ、ぎりぎりでやり過ごす。
二人がまとう銀と蒼の光が、ぶつかり合い、炸裂していた。
激しい攻防―しかし、
「はあ、はあ、はあ…」
「ぜーッ、ぜーッ、ぜーッ…」
二人の息遣いは、かなり荒くなっていた。
「ぜえッ、それでも俺の方がッ、保ってるぞッ」
「はあっ、はあっ、負けないぜっ」
巫が口元に笑みを刻み、
あやめが笑い返す。
互角に、見えた。
(でも)
楓は、考える。
(不利なんだ…あやめは)
「付与」を両方が使えるという条件下では、彼(?)が不利になる。
なぜなら、基礎体力に差があるから。
「天野あやめ」の身体を使っている以上、二十代成人男性の身体を持つ巫には、体力的にかなわない。
「付与」―つまり、「精霊の力」に大きく依存している闘い方をしているので今は互角に見えるが、消耗が続いて「付与」が弱まれば、
(押し切られる…!)
楓は唇を噛み締めた。
「サイキ…!」
そんな楓の思いを知ってか知らずか、
「ところでさー、巫」
ひょい、と―
本当に何気ない様子で。
あやめが巫に、問いかけた。
「な、何だッ!?」
「お前、こっちの世界に来て、好きな奴ってできたか?」
(!?)
「へッ!?」
楓も驚いたが、巫はもっと驚いた様子だった。
「好きな奴ッ!?いやッ、それはッ、あのッ、そのッ…」
動揺する巫の耳元でぽそりと囁く。
「俺は―いるぜ」
「何イッ!?本当かッ!誰だ、どいつだ、どんな奴だッ!答えろおッ!」
巫は今の状況をすっかりこんと忘れてあやめに詰め寄った。
彼(?)がにやりと笑う。
「隙ありっ!」
うろたえた巫の下あごを、銀光をまとった拳が突き上げていた。
巫は上に吹っ飛び、落ちてきてコンクリートの床に叩きつけられた。
「まだだ!」
あやめが追いすがり、間断なく拳と蹴りを食らわせる。
「ぐッ!ぐわッ!ぐががッ!おのれ卑怯なッ!」
「お前が楓をさらったり、戦闘員伏せさせたりするんだもーん、お返しだ」
「くそッ!」
ぼろぼろになった巫は歯噛みし―
「覚えておれッ、サイキッ!―うわああああん!」
くるっと振り向き、逃げ出した。
「あ、こら待てっ!今回は許さねーぞ!」
あやめが後を追う、その足元に、
ズギューン!
弾が撃ちこまれた。
「うわっ!」
たたらを踏んだ彼(?)が走り出した時には、巫はすでに屋上から姿を消していた。
「今日こそ捕まえて色々吐かせようと思ったのに!今銃撃ったの誰だ?」
楓が転がされたまま振り向くと、隣のビルで身をひるがえす紺地のセーラー服姿がちらりと見えた。
「あの、チョビって子かしら…」
「そうか。まあ、楓が無事で良かったよ」
楓に手を貸して立たせ、あやめは縄をほどく。
「勝てて良かったわね。何か無茶苦茶な勝ち方だったけど」
「あのまんまじゃ、じり貧で負けてたからなー。何とか巫の気を散らせて隙を作ろうと思ったんだ。あいつまじめな奴だからな。あっさり引っかかったよ」
「いや、まあ、巫があんなに動揺したのはね、その…」
「ん?何か知ってるのか、楓ー?」
「あ…いや、うん、何でもない」
楓は先程の巫との会話を思い出し、「彼が動揺した真の理由」のことを思い…一人赤面した。慌てて話題を変える。
「もう駄目かと思ったわ。ありがとう、サイキ」
「やだなー、俺が助けに来るに決まってるだろ?信用しろよ、俺のこと」
「…それができないのよ、私には」
「?」
沈んだ顔をしてそう言う楓に、あやめは驚いた様子だったが…しばらくして、まじめな顔で尋ねた。
「何か、訳でもあるのか?良かったら、俺に話してくれないか」
楓はしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと語りはじめた。
「昔…ね、好きだった人がいたんだ」
「…楓、の、好きな人…か」
「好き『だった』人、よ。その人は親戚の十も歳が違うお兄ちゃんで、もう就職もしてて、ずっと尊敬も憧れもしてて…大切な人、だったの。初恋だと思う」
「…そうか」
「でも…突然、その人はいなくなった。…裏切られたの」
「『裏切られた』?恋人が実はいたとか、そういうことか?」
「そうじゃない。そうじゃなくて…」
「じゃあ、どう『裏切られた』んだ?」
「……」
…あやめは楓の表情の変化に気づいたらしい。安心させようとするような笑顔を見せた。
「…いや、いい。聞かないよ」
「ありがとう、サイキ。…独りよがりだったのはわかってる。私が勝手に憧れて、勝手に『裏切られた』って傷ついているだけだってことは。告白ももちろんしてないから、気がつかれてもいないだろうし…でも、それでも、私にはお兄ちゃんへの思いが何より大切で、裏切られて本当に傷ついたの」
「楓…」
「舞鳥学園に入学したのも、そのことが原因なの。家を出たかったのよ。あそこにいると、どうしてもお兄ちゃんのことが頭から離れなくて…だから一生懸命勉強して、奨学金がもらえて寮にも住める舞鳥学園に合格して、故郷を離れたのよ。…でも、忘れられない。裏切られた記憶が離れてくれない。今でも、また誰かを心から信じて、裏切られるのが怖いのよ」
そう言って顔を伏せる楓…その肩をあやめが優しく、しかししっかりと掴んだ。
「楓が信じてくれなくてもいい。…でも、俺は信じてるぞ、楓のこと」
彼女はびくりと身体を震わせた。
「楓のことだけじゃないけどな。樹さん、由布子、野本…こっちの世界で出会ったたくさんの人たち。それにもちろん、『彼方の地』の、俺の仲間たち、スーミーさんや戦士の長、族長…カノコのこともだな。ある意味、巫のことも信じてるのかもしれない。絶対変にこっちに寝返ったりしない、いつも俺に挑んでくる敵としてな」
「どうして?」
楓は顔を上げ、あやめの顔を見上げた。胸に取りすがるようにして詰め寄る。
「どうして?どうしてそんなにサイキは他人を信じられるの?どうしてそんなに強く他人のことを思えるの!」
「俺は、俺にできることをしている、それだけだ。誰かが何かをしてくれるのを待つのは嫌なんだ。誰かが信じてくれたからその人を信じるんじゃなくて、まずその人を信じて、大切に思って…相手が俺のことを信じてくれなかったら、その時はその時さ」
「ずっとずっと裏切られ続けて、サイキが信じた人の全てから信じてもらえないかもしれないんだよ」
「それでもだ。…だって他にできること、ないよ。誰も信じてくれない、好きになってくれない…って言って一人で泣きわめいているのは、嫌いなんだ。どんなに傷ついても、俺は、前に進みたい。何かしたいんだ」
「…サイキは、強いね」
楓はぽつりと言った。
「強くなりたいからな。心も身体も、強くなろうとしてる。…目標があるんだ」
「目標?」
「『彼方の地』に、どこの部族にも属していない、本当の名前も誰も知らない、ただ『さすらいの戦士』って呼ばれてる男がいるんだ。呼び出す守護精霊も、俺たちの領域にはいない生き物で、誰も名前を知らない」
「その人とサイキが強くなりたい理由と、関係があるの」
「俺がまだ『戦士』になりたての頃、まだ『加護を受けた戦士』にもなっていない時に彼がその時敵対していた他の部族に雇われていたんだ。小競り合いが起こったんで、こりゃチャンスだと思って挑戦して…さんざん叩きのめされたよ。ほんとに強かった。俺はそれ以来、何とかして彼に勝ちたいと思って修行しているんだ」
「…何かサイキ、悔しい気持ちもあるみたいだけど、嬉しそうね」
「負ける前にも『強くなりたい』とは思ってたけど、目標ができたんだ。いつかあいつにまた挑戦する、前に立って闘う、そして勝つ―そう思えるのが嬉しいんだ。…俺にとって『果ての地』での闘いは、その時のための修行の一環って感じかな。今の俺は、この『天野あやめ』の身体に俺自身が『憑依』して、闘う時にはさらにその上に『銀の鷲』を呼び出している状態だからなー、本来の力は振るえないんだ。だから逆に、修行になる」
「あれで本来の力じゃないの!?一体どのぐらい強いっていうのよ、本来の『憑依』って」
「へっへっへー。見せてやりたいぜ。できれば『さすらいの戦士』との闘いで」
あやめの瞳は輝き、遠くの誰かを映していた。楓はその表情を見て…胸にちくりと痛みを感じた。気づき、戸惑いつつその感情を分析する。
(…巫が眼中にないのも仕方ないか。そんなに強い『目標』がいるんじゃ)
言葉にして考えると、そんな文章になった。そうか、今の気持ちは巫に対する同情か…と納得しようとするが、同時にその文章だけでは収まりきらない「何か」が、自分の胸にわだかまっているのにも、気づいていた。
そして、もう一つ大事なことにも、気づいた。
「ちょっとサイキ!授業は!?午後の授業は?」
「うん、『パスする』って由布子に言って飛び出して来たんだけど…」
「由布子だけ?樹さんには!?樹さんにごまかしてもらわないと罰食らうわよ」
あ。…しまった、全っ然思いつかなかったぜそれはー!」
「どーすんのよ馬鹿ぁっ!」
「あとさー、野本に俺はほんとは『男』だって話したら、手術がどうとか言ってたけど…どういう意味かわかるか、楓ー?」
「え?それは、その、つまり…」
(野本くんの馬鹿ーっ!)
心の中でののしる楓だった。
一方、「黒の組織」の本部では。
「―で?」
じりじりと後ずさりしながら、ぼろぼろの巫が尋ねる。
「―チョビ、巫のこと、たすけた」
同じくじりじりと―こっちは距離を詰めながら、セーラー服の少女が答えた。
「お礼、ほしい」
「れ、礼ったって、何をどうすればいいやらッ…」
冷や汗をかいて口ごもる巫に、チョビは平然と、返す。
「子どもを作る手伝いを、してほしいだけ。やり方知らなきゃ、チョビ、おしえる」
「わーッ、知らないとかそういうことじゃなくてッ!俺は今のところ子作りなんてする気はないって言ってんだッ!わあッ、服に手をかけるなあッ!一張羅がますます破れるうッ!」
巫の絶叫が、本部の壁に空しく響き渡った。
第九章 斬りかかってくる馬鹿もいる
「それでは、期末テストの日程を発表します」
南先生が教壇の上からそう告げると、教室にざわめきが走った。
「なお、赤点を取った人は、夏休みに補習授業を行いますのでそのつもりで」
「「「えーっ!」」」
ざわめきが抗議の声に変わった。
「当り前です!我が舞鳥学園高校は、スポーツも重視しますがそもそもは進学校として名声を勝ち得た学校です!ところが最近成績が落ちはじめ…」
えんえんと喋りまくる教師を、みんなげっそりした様子で見ていた。
「とにかく赤点を取らなければいいんです。みなさん頑張ってくださいね」
「…『赤点』って何だ、楓?」
あやめが後ろから聞いてきた。
「一定基準以下のテストの点ってこと」
「うーん、勉強は英語以外は面白いと思うけど、受けなくてもいい授業を受ける気にはならないな。頑張ろーっと。楓は?」
「私は奨学金受けてるもの。変な点取ったら資格を取り消されるわ」
「そうか…でも樹さんからバイト代もらってるんだろ?それがあれば学校に通えるんじゃないのか」
「あんなの授業料の足しになんてならないわよ。お小遣い程度ね」
まあおかげで、節約しなくてはいけない洋服代などにお金を使えているのも事実だが。
「まあ、テスト勉強は二人でしましょう」
その日から、あやめと楓の部屋では二人で顔をつき合わせて勉強する姿が見られた。と言っても、ほとんどあやめのわからない所を楓が教えるというかたちだったが。
「うー、やっぱり英語が大変なんだよなー。後は何とかなると思う」
「赤点一科目でもついたら補習だもんねえ…でもサイキ、補習なしで夏休み迎えられたら、休みの間ほんとにどうするの?『彼方の地』に戻る?本体の怪我はほとんど治ってるのよね」
「うん」
彼(?)はうなずいた。
「帰りたい気はあるけど…巫たち『黒の組織』のことが決着つくまでは帰れないよなあ。となると若葉寮に残ることになるかな」
「…そう」
声に嬉しさをにじませないように、気をつける。
「でも悪いな、楓。俺の勉強につき合わせちゃって。楓の勉強だってあるのに」
「いいのよ。こうやって教えてると、自分のわかってない所も見つけられて、かえって助かるわ」
そう楓が言った時、ドアがノックされた。
「…楓!ここ、わかんない。教えてー」
由布子が二人の部屋に入って来た。数学の問題を突きつける。
「ああこれね。ここに補助線を引いて…」
しばらく説明すると、由布子はやっと理解の表情を見せた。
「うん、わかった。でも楓はやっぱ教えるのうまいわね。成績はトップクラスだし…これで運動神経が良ければ完璧なのにね。…それはあやめちゃんがいるからいいのか」
「楓は運動音痴だからなー」
「うるさい!」
しまいには寮の食堂に生徒が集まって勉強会を開くことになった(もちろんお膳立てをしたのは由布子)。本当は上級生に教えてもらえれば一番なのだが、二年生以上となってくると自分たちの受験勉強で忙しく、一年生の勉強にかまってはいられない。そういう訳で、楓が教師役を引き受けることになった。
「…楓はいいよねー、頭良くて」
一人がため息をついた。
「あやめもどんどん成績が上がってるみたいだし…いい先生が隣にいるからだろうね」
「まーね。やっと色んなことがわかるようになったよ。最初は…ぐじっ!」
楓におでこをはたかれて、あやめは奇声を発しながらのけぞった。
「まだ何も言ってないだろ楓ぇー!」
「言おうとしたでしょ!」
「う、そりゃまあ、そうかもしれないけどさ…」
二人の漫才じみたやりとりは、もはや日常茶飯事なので誰も気にしない。みんな笑って見ていた。
教室でも、テスト前特有の緊張感が漂っていた。少しの間も惜しんで勉強する者あり、逃避に走る者あり…逃避組の中には、無駄話をして迫る脅威から目をそらす人々もいた。
「楓とあやめって、何か変だよねー」
今回話題に上ったのはこの二人だった。
「体育で着替えする時はお互いに視線そらすし…」
「そうだよねー」
(そ、それは…みんな、ごめん!)
自分の名前が出てきたので耳を傾けていた楓は、思わず心の中で謝った。
「…まあ、そう言うなよ」
話を聞いていた野本が、口をはさんだ。
「天野にも岡谷にも、色々と『事情』がある訳だし…」
そう言って楓と、その隣にいたあやめに目配せをし、にやっと笑ってみせた。
(…どうやら、野本くんはあやめの『秘密』は、中身が『男』であるって『だけ』だと思ってるみたいね)
無理もないが…と楓はため息をつく。
(それだけじゃないのに、『俺はわかってるんだぞー』ってことにされても、困るんだけどな)
しかしどうしようもないのも、事実だった。
そんな日々が続く中。
「転校生が来るってさー。しかも一年生の女の子!」
そんな噂が、舞鳥学園中(特に、一年生)にぱっと広まった。みんな嬉しい話題に飢えていたせいもある。
「お、いいなー。この間女の子の転校生が来るって聞いて期待してたら…とんだ男女だったからなあ」
「男女って言い方はないだろう!これでも俺、れっきとした…んがっ!」
楓の左ひじが決まってあやめがへたりこむが、誰も気にかけないで話を続けた。
「でも残念だよなー。うちのクラスには天野が入って来てるからな。そうそう同じクラスには入らないだろ。ちくしょー、覗きに行こうっと」
「そんなに転校生にこだわらなくたって、うちのクラスには美少女いっぱいいるでしょうに」
由布子が呆れた声で口をはさんだ。
「いや、そんなこと言われても…なあ?」
目配せを交わす、一年C組の男子生徒たちだった。
数日後の、一年F組のホームルームにて。
「今日は転校生を紹介します。氷室夕輝さんです」
担任に呼ばれ、教室に入って来た少女は―
確かに、高校一年生の少女に見えた。
髪は肩まで、はねっ毛が口元まで来ている。小柄だが、瞳には強い輝きがあった。プロポーションは平均か。
しかし、彼女には、
(おい!)
F組の全員、それに様子を見に来た他クラスの生徒(ほとんど男)に、つっこませる特徴があった。
それは、彼女の背中。
そこには、本人の身の丈の半分以上にもなる、やたら長い板状の物体が布に包まれ背負われていた。
自己紹介の後、
「それでは、何か質問がある人は?」
担任の問いに、クラスの大半が手を挙げていた。
「それじゃ榊さん」
適当に当てられた一人が、当然のことながら背負われている荷物について尋ねた。
「―これはお守りです」
そっけない返事が、夕輝の唇から放たれた。
「めちゃめちゃ大きいですね…」
「そうですね」
それ以上話すことはないと言いたげな視線を向けられ、みんな黙ってしまう。
彼女が席につき、授業を受け―休み時間になっても、彼女に話しかける人はいなかった。
お昼休み、夕輝は一人校舎の屋上にいた。
「―潜入、成功」
独り言のように呟く。
『そうかッ。…サイキは確認できたかッ』
答えの声は、彼女の耳に届いていた。超小型のイヤホンが耳に仕込まれていたのだ。夕輝の呟きも、はねっ毛に隠された高性能マイクで拾えるようになっていた。
「まだ。別のクラスに入れられたようだ」
『できる限り早く確認し、なるべく人のいない所で捕獲しろッ。多少の怪我は負わせても許すッ』
「わかった、巫」
夕輝はそうマイクに囁きかけ、通信を切った。
「あれが噂の転校生かー」
あやめと楓が夕輝をはじめて見たのは、若葉寮での夕食前だった。樹が彼女を連れて来て、集合した寮生たちに紹介する。
「―氷室夕輝です。よろしくお願いします」
彼女は軽く頭を下げた。
紹介が終わり、夕食を取りに行く列にあやめと楓は入ったが…その時、すっと夕輝が二人に近づいた。
「『天野あやめ』と言うのは、あなたか」
頭一つ背の高いあやめをまっすぐ見上げて、話しかけてきた。
「う、うん。そうだけど…」
「―よろしく」
短く言い置いて、彼女は離れていった。
「どうしてサ…あやめのことを知っていたのかしら…って、どうしたの?」
彼(?)は額に汗の粒を浮かべていた。
「何か、ものすごいプレッシャーを感じたんだ。今まで感じたことのない、でもとてつもない気配…あの子、何なんだ」
「どういうこと…?」
楓も夕輝の去っていく後ろ姿を見つめた。
夕食が終わり、そのままそこで勉強会をはじめる寮生たちをよそに、夕輝は一人与えられた部屋に戻っていた(誰も引き止めなかった)。
「―サイキとの接触、成功」
一人呟く。
『それでッ!?奴とは闘ったのかッ?』
急きこんで聞いて来る声に短く答える。
「人が大勢いたので、控えた」
『…それは仕方ないなッ。なるべく周りに人がいない所で攻撃しろッ』
「了解」
さらに短く答えて通信を切った。
「さて、どうするか…」
今度こそ独り言を呟き、あやめたちがいるはずの食堂の窓を見やった。
さらにそれから二、三日が経ち、期末テストがますます近づいた頃、
「…何かあの夕輝って子、変だよー」
そんな声がF組の生徒たちから聞かれるようになっていた。
「一人でぶつぶつ何か呟いてるし。授業中でも何でも突然『了解』とかぼそっと言ってうなずいてるしー」
「天野もとんでもなかったけど…うちの学校にはまともな転校生は来ないのかあー!」
生徒たち(特に男子)の不満の声が廊下に響いていた。
一方女子生徒も、
「何かとっつきにくいのよねー」
「話しかけても会話が続かないし」
「あやめちゃんとは別の意味で浮いちゃってるよね」
と、遠巻きにするばかりで誰も近づいていなかった。
そんな中、二時限目の休み時間―
「同じ転校生同士でしょ?仲良くしなきゃね」
「えーっ!だってあいつ、すごいプレッシャー感じるんだぜー」
「そう言わないで、ほらっ!」
F組の友人に頼まれたらしい由布子が、あやめをF組の教室内に押しこんだ。
「あやめちゃんには夕輝さんも興味示してたでしょ?適任よ。話しかけて来てねー」
「自分でやれよー!」
ぶーぶー言いながら、彼(?)は机に向かうはねっ毛の少女に近づいた。
「えーと、氷室夕輝さん…だよな。俺は…って、若葉寮の食堂で会ったよな…」
困惑の表情で、しどろもどろに話しかけるあやめに、夕輝は顔を向け―
F組の教室から廊下までざわめきが走った。
彼女が、今まで決して見せなかった表情をその顔に浮かべたのだ。
笑顔を。
「うおっ!?」
反対に、あやめは半歩ほど後ずさっていた。
「ありがとう、話しかけてくれて。誰も近づいてこなくてどうしようかと思っていた」
「…い、いや…その…」
口ごもる彼(?)に、夕輝はさらに深めた笑みで応える。
「仲良くなりたい。放課後、校舎裏で話をしたいんだが、いいか」
「お、俺、剣道部の稽古が…」
さらに一歩後ずさるあやめに、
「…お願い」
ぽつりと少女は言う。
「わ、わかった。でもそんなに長くは会っていられないぞ」
「充分」
短く答えて夕輝は教科書に目を落とし、会話の終わりを告げた。
あやめは教室を出る。
「あやめ!」
「あやめちゃん!」
廊下でその様子を見ていた楓と、張本人であるところの由布子が声をかけた。
「だ、大丈夫!?」
額に冷や汗がにじんでいるのを見つけ、楓は驚いた。
「お、俺ともあろう者が、何でここまでプレッシャーを感じにゃならんのだ…でも」
言葉を切り、彼(?)は廊下の窓からF組の教室を…その中で黙々と授業の準備をしている夕輝を見やった。
「最後だけ、あの子の本当の声を聞けたような気がするな」
「放課後、作戦決行」
夕輝の呟きに、前の席の女生徒がびくっと反応する。
『そうかッ。成功を祈るッ!』
「―了解」
低く答えて、黙りこむ。前の生徒は、さらにびくびくしながらこっそり振り向いたりしていたが、彼女は意に介さなかった。
吾時限目が終わる頃、由布子がまたあやめにくっついてきた。
「ねーねー、夕輝ちゃんと何話したって言ってたっけ?」
「『仲良くなりたい』とかだって言っただろ?」
「『放課後』何とかかんとかって言ってなかったあ?」
「うっ!何で由布子がそんなこと知ってるんだよー!」
「教室にいた子がそれだけ聞こえたって言ってた」
「た、確かに放課後会う約束はしたけど…」
「どこでー?」
「そ、それは…いや!言ったら覗きに来るから由布子には言わねー!」
「ちぇー」
ぶつくさ言いながら、由布子はあやめの側から離れていった。
「…やっぱり彼女が何か『変』だと思ってるのね。だから会う場所を由布子に教えなかったんだ」
楓が言うと、彼(?)は、
「いや、単につきまとわれたくなかったからなんだけど」
とあっさり言う。
「期待した私が馬鹿だったわ…」
がっくりと肩を落とす楓だった。
「でも、あの子から妙なプレッシャーを感じてるのはほんとだぞ。『精霊の力』とも何か違う、そうだな、野本の親父さんから受ける印象にちょっと似てる」
「…樹さんに調べてもらう必要が、ありそうね」
期末テストが近くなり、みんな焦りはじめていた。必死に教科書を読みこむ者もあり、教師にわからない箇所を聞きに行く者あり…で、職員室も生徒で混み合っていた。…その中で、
「どうして僕の所には誰も来ないんだろう」
密かに呟く男が一人。
その時、彼―樹の机の脇に二つの人影が立った。
「おお来たか!さあ、何でも質問してくれなさい…って君たちか」
「がっかりすることないでしょうに…」
人影の一方―楓が呆れる。
「他の先生方には生徒が質問に来るのに、僕の所には誰も来ないんだ。どうしてだろう」
樹の質問に、二人の顔が固まった。
「そりゃあ、樹さん…じゃない、海原先生が、教えるのが…その…」
「下手だからだろーなー」
楓が口ごもった台詞を、あやめがあっさり続けた。
「そうなのか!?」
「気づいてなかったんですか!?」
双方でびっくりする。
「海原先生は…何て言うか、自分ではわかっているのに、どうすればそのことがわかるかを生徒に説明できてないんですよ。エリートコースまっしぐらで勉強は何でも良くできたみたいですけど、だからこそわかっていない人にうまく教えられないってことじゃないですか」
ここでごまかしても仕方ないと、楓は感じていたことをそのままぶちまけた。樹は可哀想なほど落ちこんだ顔をする。
「そうか…この学校に来てから、いや大学で教育実習していた時から生徒たちが寄り付かないとは思っていたが、そういう訳か…」
肩を落とす樹に、あやめがのんきに声をかけた。
「まあそんなに落ちこまないでよ樹さん…ぐっ!」
「『海原先生』でしょっ!」
「わ、わかった。落ちこまないでよー海原先生ー」
「敬語っ!」
職員室でもどつき漫才を繰り広げる二人に、教師や来ていた生徒たちがひそひそと囁き交わすが、楓は無視することにした。話を本題に戻し、事情を説明する。
「…とにかく、あの氷室夕輝って転校生について、ちょっと調べてもらえますか。特に、あのいつも背負っている物が何なのか、どうして持ち込みが許可されたのか」
「わかった。少し調べる時間をくれ。放課後までには終わらせるから」
さっきまでの様子とはうって変わって、樹はきっぱりと答える。教師としては問題があるが、有能な人物であるのは間違いないと感じさせる時だった。
「じゃあ、放課後落ち合いましょう。彼女とサイキ…あやめが会うことになっているんで、その前に」
「よし」
三人でうなずき合った。
掃除が終わった放課後、三人は校舎裏に集合した。樹が手短に判明したことを説明する。
「履歴は、完璧に整っている。身元ははっきりしている…しすぎている、と言うべきだろうな」
「と言うと?」
「整い過ぎていて逆に胡散臭い印象を与えるんだ。特に、あの背負っている『お守り』と彼女が主張する物体―それについて、過去に怪しまれた記述がないのは奇妙だ」
「で、その『物体』については何かわかりましたか」
「彼女は『身につけていないといけない物』だと主張しているらしい。…もちろんあんな目立ってしかも訳がわからない物、お守りだろうが何だろうが持ちこみを許可される訳はないんだが、なぜか不問になっている。その理由は…その…」
「…鼻薬、とか」
あやめにはあまり「そういうこと」をわかって欲しくなくて、古風な単語を持ち出す楓だった。
「まあそうだな。さすがにこの短時間では、出所はわからなかったが」
「『黒の組織』かもしれないってことですね」
「…来たぞ」
あやめが夕輝の放つ気配に気づいたらしく、二人に言った。
「じゃ、私たちは隠れましょう」
楓と樹はさっと校舎の陰に隠れた。
(…何か私たち、怪しい野次馬みたいだけどね)
口には出さずに一人ごちた。
校舎裏、柵との間に立つあやめに、校舎の角を曲がって、
「―待たせたか」
声をかけつつ、夕輝が姿を現した。近づいて来る。
「天野あやめ、いや―『銀の虹』のサイキ」
「―やっぱ『黒の組織』の刺客か、お前っ!」
ある程度予測はしていたとは言え、かなりショックを受けた口調であやめが叫ぶ。
「こういう形で送りこんで来るとはな…!」
「―勝負」
夕輝は低く呟き、一度目を閉じ、開く―と、
「う…?」
少女の身体から、風が巻き起こって吹きつける―ような錯覚を楓は感じた。
彼女の放つ、氷のように冷たく同時に火傷するほど熱い―
それは、強烈な殺気だった。
武術をたしなまない楓にすらわかる、圧倒的な気配。
「…」
夕輝は背中に手をやり、「お守り」と主張していた物体の布覆いを取った。鋼鉄の輝きが放たれる。
「嘘…」
それは、巨大な剣だった。
幅広の刀身、鈍く輝く刃―どう見ても女性には持ち上がらない重さを持つはずの大剣を、夕輝は軽々と扱っていた。
「わが剣の前に敵なし」
短く呟いて、彼女は剣を正眼に構えた。
「降伏するなら今のうちだ、サイキ。殺すなと言われているが、腕の一、二本はかまわないと指示されている」
『多少の怪我は、とは言ったが腕とかは『多少』の範囲外だッ!』
耳元で巫がわめいたが無視。
「降伏したらどうなるんだ?」
「お前を『黒の首領』に引き渡す。その後どうなるかは知らん」
「どう考えても俺が喜んですることじゃないなー」
あやめも進み出、構えた。こちらは素手だが。
「サイキ!素手でどうやって剣に立ち向かうの?『憑依』した方が…」
「それもそうか。我に加護を―」
「―!」
瞬時に、夕輝が動いた。大剣をまっすぐあやめめがけて突き出す。
「うわっ!」
彼(?)はとっさに台詞を止め、ぎりぎりで一撃を避けた。だが楓がほっとしたのもつかの間、息つく暇もなく大剣の斬撃が繰り出される。
一見軽々と、しかし巨大な質量を秘めて振るわれる大剣が、あやめの胸に今にも突き刺さりそうになった。
「サイキっ!」
「くうっ!」
彼(?)が一声唸ると、左腕に銀の輝きが宿り、迫る刃を受け止めようと―したが、
「ぐっ!」
銀の光に鈍色の刃が突き刺さり、楓と樹は息を呑んだ―が、僅かに軌道をそらされた剣は胸元ぎりぎりを通り過ぎる。
「くっ!『付与』のバリアじゃ止まらない…か!」
一声うめいて、あやめはバックステップで夕輝から距離を取った。
「…」
夕輝は無言で大剣を構える。風のように間合いを詰めてあやめを逃がさなかった。
「ひょ、『憑依』して遠距離から羽手裏剣を飛ばせば…」
「それができればいいんだが…」
樹が喉の奥でうなった。
「『憑依』には、僅かな間だが精神集中のできる時間が必要だ。いかにサイキくんでもあれだけ連続で斬撃を叩きこまれたら、集中どころではないだろう」
確かに、そうだった。
「…!…!……!」
「わっ!うわっ!だああっ!」
夕輝は無言で僅かな間もなく大剣をあやめめがけて打ちこみ続け、あやめは―対照的に―声を洩らしながらひたすら剣をかわし続ける。時折刃が彼(?)の身体をかすめ、楓たちをはらはらさせたがその度に銀光が僅かに切っ先をそらし、今のところ傷は負っていない。しかし、「精霊の力」を呼び出す疲労に剣をかわす疲労が重なり、すでに肩で大きく息をしていた。
対して夕輝はどんな鍛え方をしているのか、身長の半分ほどの刃を振り回しているのに全く息を乱していない。
「我に…うわっ!」
あやめも守護精霊に呼びかけようと努力しているらしかったが、やはり夕輝の斬撃に集中を乱されていた。
防戦一方―
じりじりと押され、後ずさりしていく。
「まずい、このままだと小体育館裏に行き着くぞ!」
樹がはっとして叫んだ。
「あそこじゃ、野本くんたち剣道部が練習してるはず…!」
顔を見合わせて焦ったが、二人にはどうしようもない。
「サイキ!それ以上下がらないで!」
「無茶言うなよ!かわすだけで精一杯だぜ!」
言ってる間にもじりじりと追いつめられていく。
そして―
「あれー?天野?」
一番かけられたくない声が、一同にかけられた。
「『少し遅れる』って聞いたけど、ちょっとじゃなかったな…って何だあ!?」
巨大な剣を持った夕輝があやめを追い回しているのを見て、窓から首を出した野本が仰天した。
「どうなってんだ?何でF組の氷室さんが…?」
「あ、野本!」
声に気づいたあやめが大剣を避けつつ、叫んだ。
「何か武器!武器になりそうな物ないか?」
「ぶ、武器だな!…よし、これだ!」
道場の中をごそごそ探し、そう叫んで野本が彼(?)に投げたのは、
「ぼ、木刀っ!?」
楓が目を見張る。
その通り、彼(?)の手に渡ったのは、樫か何かでできた木刀だった。
「それで剣にどうやって立ち向かえって言うのよ…」
「い、いや、つい…」
「いや、充分だ!ありがとう」
あやめは三人に笑いかけると―もちろん夕輝の攻撃を避けながら、だが―木刀の柄を右手に握り、左手を刀身に添えてゆっくりとなぞっていく。
「え…!?」
銀の光が、なぞる手の動きにつれて木刀の刀身を包んでいき、見る見るうちに銀色の反った刀になった。
「よし!『付与』を自分の身体じゃない所にまとわせるこつ、やっと掴んだぜ!」
「―小手先の技じゃ、私は倒せない」
ぽつりと言って夕輝は大剣を振るう。あやめはそれを避けず、
「う、嘘っ!?」
光をまとわりつかせているとは言え木刀で、その一撃を受け止めきっていた。
「へっへっへ、これで互角だぜ。いや、それ以上かもな」
「武器を手に入れたか。―久しぶりに手加減抜きで闘えそうだ」
低く呟く夕輝の身体から、さらに強烈な殺気が吹きつけた。
「…死んだら事故死」
ぼそっと呟いて剣を構える。
『わーッ、生かして捕らえろと言っただろうがッ!俺のライバルを殺すなああッ!』
イヤホンから巫の絶叫が響いたがとりあえず無視。
「―行くぞ」
斬撃のスピードがさらに増した。息つく暇もなくあやめに大剣を打ちこむ。
それを銀の輝きを宿した木刀が受け止め続けた。いや受け止めるだけではなく、激しく切り返し夕輝の剣に立ち向かっていく。
しかし、あやめの刀は決して夕輝の身体そのものには向かわなかった。
「どうした?手加減は無用だぞ」
「うるせー!女の子に剣向けられるかよ!」
夕輝の冷笑に力いっぱい言い返し、あやめは大剣に打ちかかっていく。
「ど、どういうことだよ…」
この状況を呑みこめていない男が一人。
「二人とも何やってんだよっ!斬り合いなんて…やめろよっ!天野!氷室さん!」
野本が絶叫した。
「―斬る気はない」
あやめが、その叫びに応えるように力をこめて言い放つ。
「だが、斬られる気もない!俺は―負けない!」
気合のこもった叫びだった。
(でも、もう限界かも…)
案じる楓だったが、
(あれ?)
奇妙なことに気づいた。
木刀に宿る銀の光が、さっきより増しているような気がしたのだ。
(消耗すれば光は弱まるはずなのに…?)
「うおおっ!」
光度を増した刀で、大剣に一撃を食らわすと―
ぴしっ。
奇妙な音が響いた。
「え…?」
「何っ!?」
楓の困惑の呟きに、夕輝の驚愕の声が重なった。
「これで…どうだあっ!」
あやめが吼えると木刀から目も眩まんばかりの銀光が噴き上がり、大剣に挑みかかった。
ぴしっ!ぴしぴしぴし…。
音が大剣から響き、
ぱきん!
鋭い音と共に刀身が砕け散った。
「嘘っ!?」
「わ、私の剣が…」
呆然とした夕輝がくず折れた。
「見たか、俺の守護精霊の力!どーんなもんだい!」
誇らしげに言い放つあやめの手の中で、木刀がまとっていた銀の輝きが薄れ、消えていった。
「大丈夫!?怪我はない?」
「サイキくん!」
楓と樹があやめに駆け寄る。
「まさか剣を砕いちゃうなんて…驚いたわ」
「んー、気合入れたら何とかなったよ。『憑依』した時使える『精霊の力』の全てを、木刀にこめたんだ。すっごい力がこもってたと思うよ、あの時には」
さらりと答えるあやめだったが、隠しようもない自信がうかがえた。「果ての地」での能力を制限された闘いは、逆に彼(?)を急激に成長させているらしい。
「それより氷室は…?」
三人は夕輝に注意を向けた。と、
「う…うう…」
低いうめき声。
頬を伝う涙。
夕輝は、泣いていた。
砕け散った剣の欠片を手に取り、その上に涙を滴らせる。
その姿は、やっと年相応に―いや、それよりも幼く―彼女を見せていた。
「…闘う気はなさそうだな」
「―もう、闘えない」
両手に大剣の欠片を集めながら、少女はぽつりと答えた。
「私は、『精霊の力』を封じたこの剣と契約し、その力を振るう者。その剣が砕けた今、私には何もできない。…もう私には何もない。何もだ」
「―そんなこと言うなよ」
うずくまった夕輝の前に立ち、手を差し伸べる者がいる。
あやめだった。
「何にもないってこと、ないだろ。生きてればオールオッケーだよ。命があれば、前に進める。そのうちに何かいいことあるって」
「サイキ…」
夕輝はその口元に、微笑みとまではいかないがほんの僅か明るい表情を見せた。剣の欠片を右手に抱え、左手で差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。
「ありがとう、とは言えない。私の唯一の友だったこの剣を砕いたのは、お前だからな。…しかし、お前のその、今まで闘っていた相手にまで手を差し伸べられる心は、評価したい」
「へへっ」
あやめは照れくさそうに鼻をこすった。
「―で、どういうことなんだ、天野?それに岡谷、海原先生」
野本があらためて三人に尋ねた。
「どうします?説明しますか?」
「ここまで見られてはな…うう、始末書ものだ」
樹がうめいた。
第十章 全くこりない馬鹿もいる
あやめたち三人は、寮の夕食などを全部パスして研究所に行った。手錠をはめられた(闘う力はもうないと主張していたが、念のため)夕輝を連れている。
「では、協力―具体的に言うと情報提供だが―してくれるね?」
「―する」
だいぶ硬さはとれたが、やっぱり短い言葉で彼女は答えた。
「一番教えて欲しいのは、『黒の組織』のアジト、本部の場所だ。今までに拘束した騎士もユーリも、エリーも知らなかったのだが…夕輝くん、君は知っているんじゃないか」
「知っている」
彼女はうなずき、舞鳥市の地図を広げさせた。
「『黒の組織』の本部は、ここだ」
白い指が、舞鳥市街地の一角を示した。
「こんな、近く…」
それは、市街地の西、工業団地の一区画だった。巨大な化学プラントが立ち並び、トタン屋根の工場やコンクリートの建物、プレハブの小屋が点在する。
「舞鳥市は―」
樹が、低く呟くように言った。
「どうも『彼方の地』と、何らかの意味で『近い』らしい。政府の研究所がここに置かれているのも、ここで交流するのがもっとも効率がいいと判明したからだ。『黒の組織』も、事情は同じだった訳だな」
「で、どうするんですか?」
「―急いで踏みこんだ方がいいと思う」
楓の問いに答えたのは、あやめだった。
「夕輝のつけてたマイクとイヤホンは外したけど、当然そのことは奴らも気づいてる。彼女が負けて捕らえれたことも、感づかれてるだろう。とすると本部の場所がばれてると知っていてもおかしくないし…俺が巫か『黒の首領』なら、すぐに撤退を命じるな」
「しかし、今僕が動かせるエージェントは数に限りがある。時間をかけ、準備した方が確実かもしれない」
「それでも二十人ぐらいは出せるだろ?夕輝によると、今奴らのところにいる『戦士』は巫一人みたいだし、だったら俺一人いれば対抗できるよ。エージェントのみんなには銃持った戦闘員を押さえてもらえばいいし」
「相変わらず強気ね。前回巫と闘った時には互角で、動揺させてようやく勝てたって言うのに」
「ふふーん。俺、また強くなったような気がするぞ、今度の闘いで」
「…まあ、サイキくんの精神力が回復してからの話だな、どっちにしろ。一晩はかかるはずだ。その間に、僕もできる限りの支援は準備するよ」
樹がうなずいた。
「よーし今晩はゆっくり寝るぞー。勉強しないでいいよな。久しぶりに気楽に寝られるぜ」
「テストはテストであるんだからね!…ああ、二重生活って大変だわー」
と言う訳で、三人とも寮には戻らず(樹が手を回してごまかした)、研究所で眠って明日に備えた。
そう言う訳で、「黒の組織」の本拠地、工業団地の一角にあやめたちが向かったのは次の日の早朝だった。
「樹さんはともかく…何で楓までついて来るんだよー!」
「あら、樹さんが大丈夫なら私だって問題ないはずだわ」
少々強引すぎると自分でも思ったが、楓はついて行きたい気持ちを抑えられなかった。
「大丈夫、樹さんやエージェントの人たちと必ず一緒に行動して、危ないことはしないから」
「でもっ!」
「…見届けたいの。攻撃されたり誘拐されたりした彼らの、こらしめられる姿を」
上目づかいに楓に見つめられて、あやめはそれ以上何も言えなくなったらしい。
「…仕方ないなー。絶対安全な所にいてくれよ!」
「うん!」
「やれやれ、参ったな」
樹が頭をかいた。
「僕が止めなきゃいけないのに…楓くん、本当にいいのかい?」
「すみません。でも、私、やっぱり…」
「まあ、気持ちはわかるがね。僕も戦闘能力ないのに行く訳だし。…じゃ、出発しよう!」
「おう!」
「はい!」
数台の車に分乗し、工業団地に向かう。幸い、住宅地からもここはかなり離れているし、早朝のため他の工場に出勤している人もいなかった。
「…この一角だけだな、人の気配があるのは」
夕輝が地図で示した工場を見ながら、あやめが呟いた。
「まだ撤退はできていないが、備えはできてるってことだね」
エージェントが楓と樹を囲み、守っている。
「戦闘員は任せるよ。巫との闘いのために、俺は『精霊の力』をできるだけ温存したい。かばってる余裕はないと思ってくれ」
「わかった」
打ち合わせを終えて、あやめは車の陰から走り出した。
工場の上の階からばらばらと銃撃が飛ぶ…が、両脚に銀光をまとった彼(?)の速度は人間の反応速度を越えていた。飛んでいるかのような動きで建物の陰に走りこみ、死角に入る。また、こちらのエージェントも催涙弾などを撃ちこみ、戦闘員の無力化をはかっていた。
「巫の気配は…こっちだな!」
あやめは工場内を風のように走り、巫を捜す。
「もう一つ、強い守護精霊の『力』を感じる…これが『黒の首領』の力か…?」
銃撃が止んだ。楓たちはしばらく様子を見たが、撃ちかけてこない。
「無力化成功か…?」
数人の怪我人を出したが大半は無事なエージェントたちは、工場内に足を踏み入れた。楓と樹も続く。
「早く全員を拘束しないとな」
トタン造りの建物に入り、階段に足をかけた所で、
「うわっ!」
疾風のように誰かが駆け抜けた。当て身を食らったエージェントがばたばたと倒れる。
長い髪をなびかせたその姿は―
「チョビ!?」
「しまった、夕輝の知らない『戦士』がいたか!」
彼女の気配は、殺気を放たない限りはあやめでも感知できない。盲点だった。
「逃げろ、楓くん!」
樹は勇気を振るって楓をかばうが、
「むだ」
「ぐうっ!」
みぞおちに拳を叩きこまれて、崩れ落ちる。
「―お前、こい」
チョビは楓を捕まえ、抱え上げた。
「嫌っ!何するの、放して!」
足をばたつかせて暴れたが、チョビの腕は全く揺るがなかった。
「―ひとじち」
駆け去る姿を、樹は歯噛みして見ることしかできなかった。
巫の気配を追うあやめは、引き回されていた。
敷地内を二周したあたりで、遅ればせながら気づく。
「時間稼ぎ…?だとしたら、その目的は何だ?」
そう一人ごちたところで、巫の叫びが耳に入った。
「これを見ろッ、サイキッ!」
巨大な建物の三階、非常階段の踊り場に立つ巫と、隣の「もう一人」を見たあやめは―
「楓ぇーっ!」
声を限りに叫んでいた。
「この女がどうなってもいいのかッ!止まれ、サイキッ!」
「サイキ…!」
巫が楓の喉元にナイフを突きつけて怒鳴った。非常階段の一番上に立ち、抜け目なく階段側に立って退路を断っている。
「『憑依状態』になって飛んでも、間に合わないからなッ。いかにお前が素早く守護精霊を具現化させても、俺がこの女の喉を掻っ切るぐらいのタイムラグはあるッ」
自信たっぷりに巫は言い放った。
(やっぱり、足手まとい…)
立ちつくす楓は唇を噛んだ。―と、あやめと目が合った。
「え…」
彼(?)の目は闘志を失っていない。燃えるような輝きで、楓の目を見つめている。
―俺を信じろ。
そんな声が聞こえたような気がした。
(今、私にできるのは…)
足ががくがく震える。
視界も回りだしそうだった。
(一つだけ、できることは…)
踊り場の手すりにつかまり、足をかけた。
「―おいッ!何するんだッ、やめろ…ッ!」
意表を突かれたらしく、巫の反応は鈍かった。
(できるのは…信じることだけ!)
「サイキ…!」
空中に身を投げ出す。
「信じてるから…っ!」
重力が弱くなると、人間は体重が軽くなったと感じ、楽だと思う。
しかし、完全に重力が無くなると―人間は恐怖を感じる。遺伝子に刻まれた「無重力状態」とはつまり、自由落下状態だからだ。
楓も、落ちながら恐怖に息を詰めていた。
「―っ!」
がくん。
「え!?」
不意に身の回りの風を切る音が途絶え、さらに何かあたたかいものに抱きとめられているのを感じた。
「あ、あれ!?サイキ?」
二階分ほど落下したところで、楓はあやめに受け止められていた。彼(?)のはやや無理のある笑顔を浮かべ、その背には―
「嘘っ!?」
巨大な銀の翼が生え、羽ばたいていた。
「降りるよ、楓。この状態結構消耗するんだ」
そう言うと、二人の身体はゆっくりと下降をはじめる。
「すごい…信じてはいたけど、こんなことできるなんて…」
「うん、すごいだろー。『憑依』と『付与』の中間ぐらいかな。中途半端だからコントロールが難しいや」
そうあやめが言っているうちに足が地面についた。楓は身体を離し、後ろに下がる。
「降りて来いよ、巫。勝負しようぜ。人質取るなんてせこいことしないでさ」
「望む所だッ」
巫はにやりと笑って答えた。二人同時に天に腕を突き出し、叫ぶ。
「「我に加護を与えたもう守護精霊よ!今こそその力を、我を介して示せ!」」
銀と蒼、二条の光がそれぞれの身体から放出され、銀の光は天に、蒼の光は地に走った。
光がおさまると、上空にはゆったりと羽ばたく銀の鷲がいて、地面には咆哮する蒼い熊がいた。
「じゃ、手加減なしで行くぜ!」
「おお、来いッ!」
戦闘がはじまった。
「何を企んでいる、巫!」
嘴と両脚の爪で攻撃しつつ、大鷲が問う。
「何のことかなッ?」
牙と爪で応戦しつつ、大熊が不敵に答えた。
「お前らしくないぞ!あっちこっち引き回したり、楓を人質に取ったり…時間稼ぎにしか見えない!」
「へッ、どうだかなッ…!」
巫の声に笑みが混じる…その時だった。
「な、何だ!この強大な精霊の気配は!」
銀の鷲が叫び、身体を向こうの巨大なコンクリートの建物に向ける…が、
「よそ見をするなッ、サイキッ!俺だけを見ろと言っただろうがッ!」
危うく大熊の前足に叩き落とされかけ、慌てて体勢を立て直す。
「これは…『門』?このために時間稼ぎをっ?」
「そうだッ!『黒の首領』を、『彼方の地』にお逃がしするためのなッ!」
「囮ってことかお前はー!くそっ、『首領』!『黒の首領』!そいつを押さえないと意味がないのに…!」
大鷲は必死に彼(?)が感じる気配の元…コンクリートの建物に行こうとするが、大熊が逃がさない。
「うわ、気配が消えたっ!逃げやがったなちくしょー!」
「『首領』、ご無事で…ッ!」
「くそっ、こうなったらお前だけでもふん捕まえてやるぜ!」
あらためて大熊の方に向き直ると、大鷲は羽手裏剣を大熊に浴びせかけた。
「ぐわッ!」
大熊はかがんで胸部―つまり巫の本体がいる所―をかばう。そこに鷲が飛びこみ、頭部に嘴を突き入れた。だが、
「もらったッ!」
蒼い熊は二本足で立ち、銀の鷲を両前足で掴もうとする。
「熊の抱擁…!」
「へっ、つかまるもんか!」
言い放った鷲が、巨大な掌にはさまれる寸前―いきなり銀の光が消え失せた。
「何ッ!」
熊の腕をすり抜けて、「憑依」を解いたあやめが落ちる。地面に激突する直前に、その背に翼が生えて再び舞い上がった。
「何だとッ!」
巫が吼える。巨大な銀の翼を背に生やしたあやめは、新しいおもちゃを見つけたいたずらっ子のような表情を浮かべていた。
「へっへへーん♪、俺ってやっぱ天才かもー」
「あれがなければ天使みたいなのに…」
隠れて様子を見ながら、楓が思わず呟いた。
「でもこれ、やっぱコントロールが難しいなー。すぐ『力』が暴走したり引っこんだりする…うわっ!」
銀の翼でホバリングしていたあやめが、いきなりバランスを崩した。翼が消失し、大熊の目の前に落ちて来る。
「今度こそッ!」
熊が駆け寄り、一撃を食らわそうとするが紙一重で逃れ、銀の光に包まれて着地したあやめは―
「これで…どうだあっ!」
ジャンプし、今までになかったほど強い銀光を放つ拳を大熊の心臓部に叩きこんだ。拳は光で織られた身体をぶち抜き、巫本体に達して殴り倒す。
「ぐがあッ!ぐわ…」
低いうめきと共に「憑依」が解け、巫がへたりこんだ。
「サイキっ!」
「サイキくん!楓くんも無事か…」
楓が一人立って荒い息をつくあやめに駆け寄り、まだふらふらしていたが樹とエージェントたちも姿を現した。
「よーし『精霊の力』を打ち砕いたぞー。一ヶ月は『力』使えないだろ、お前」
「くッ…」
顔を歪めて座りこむ巫。
「さっきの、強い銀色の光を放った拳は、何だったの?」
「ああ、昨日木刀の刀身に全力をこめられたんで、拳でもできるか試してみたんだ。うまく行ったよ」
「…また実戦中にぶっつけ本番で技を試したのね、サイキ」
「うん」
特に反省した様子もなくうなずく。
「後は任せるよ、樹さんとエージェントのみんな」
言ってあやめはコンクリートの建物に向かって走り出した。
「待って、私も行くわ」
慌てて楓も後を追った。
「今の巫は、『精霊の力』を使えないんで、一般人でも何とかなるはず!捕まえといてください!」
「わかった!」
彼(?)が残した叫びを聞き、樹はエージェントに指示して巫を縛り上げさせた。
「ここか!」
そう叫んであやめが開いたドアの向こうは、大きなホールだった。照明はほとんどなく、薄闇が垂れこめている。
その奥にはカーテンが…
「開いてる!?」
「ユーリやエリーの話では、『謁見の間』のカーテンはいつも閉まってるってことだったけど…」
「ここに、『黒の蜘蛛』の気配を、ごく僅かだが感じるよ」
あやめが広間の床に手を触れながら言った。
「そしてカーテンの向こうには…これがあった訳ね」
楓がカーテンの奥を覗きこみながら、呟く。
そこには―
巨大な、サイキの本体を沈めているそれより、幅が広い―水槽が置かれていた。
「『黒の首領』が入っていた水槽ね、これ」
「だとすると『首領』は、『彼方人』なのか…?まあ『精霊の力』を使えるんだからそうだろうけど、今までさんざん両方の世界に悪い影響を与え続けてきたのは、やっぱり俺と同じ『彼方人』なのか。うう」
「…サイキが落ちこむことないよ。あなたたちの世界が悪い人ばかりじゃないことは、知ってるし。いい人がいれば悪い人もいるわよ」
「うう…」
しかし、あやめの落ちこみはしばらく続いた。
二人が樹の元に戻ると、縛り上げられ後ろ手に手錠をかけられ、とどめに目隠しまでされた巫が座りこんでいた。
「気分はどうだー、巫」
「ふんッ」
あやめが声をかけた方向とわざわざ正反対の方を向いて、巫が鼻を鳴らした。
「いい機会だから聞いとくけど、何でお前たちは一人ずつ俺に挑戦して来たんだ?一度に何人かで襲われてたら大変だったって楓に言われたんだが」
「…ああ、俺が無理を言って一人ずつお前にぶつけるように『黒の首領』と約束したんだッ。お前を倒すのは、俺だからなッ。俺が倒す前に負けてたら困るッ。だから『首領』には『大勢で向かわせると勢い余って死なせてしまうかも知れない』って言っておいて、一人ずつ対決させたんだッ」
そっぽを向きながら、なぜか巫はあっさり答える。
「…誰も闘わせなきゃ良かったんじゃないの。そうしたら、サイキもこんなに強くならなかったかもしれないのに」
「『首領』がさすがにうるさくてなッ。誰も闘わせずにのんびり待ってはくれなかったんだッ」
楓のつっこみにも、心底嫌そうではあったが素直に答える巫だった。
(…話す相手に飢えてたのかしら、ね)
自分を捕らえた時にもえんえんと心情吐露してたし…と楓は推測する。
「巫以下戦闘員を拘束。チョビは…逃がしたか」
戦果をチェックして、樹が唸った。
「そして何より、『黒の首領』を取り逃がした、と言う訳か…」
「「すみません」」
あやめと楓が謝った。
「いや、君たちを責めている訳ではない。だがこの作戦、失敗だったな」
「俺が巫に引き回されて、時間を、ロスしたから…」
「いえ、私が人質にされてさらに時間を使わせたから…」
「でも…」
「まあ、ここからは僕の仕事だ。この本部の情報をさらって、奴らの狙いをさぐってみるよ。『黒の首領』がどこにいるのかも割り出そう」
「できるんですか!?」
あやめの顔がぱっと輝いた。
「やってみせよう。『彼方の地』の人々の知恵も借りて」
「何だできるのかっ!それなら安心だー」
「いきなり舞い上がらない!全く、お調子者なんだから…」
呆れる楓だった。
「とにかく、そうと決まれば学園に戻らないとね。授業は…もうはじまってるっ!?」
時計を覗きこんで楓が声を上げた。
「今日はテストの範囲が大まかに出る日なのにっ!帰るわよ、サイキっ!」
「うおっ!?」
楓に引きずられて、あやめは帰っていった。樹は苦笑してエージェントを指揮し、情報集めに入った。
さてそれから一週間。舞鳥学園の期末テストも無事終わり、結果発表と通知表に生徒たちが戦々恐々としている終業式前日(ちなみに、樹が作ったテストを採点した英語教師は、あまりの難しさに引っくり返ったと言う)、二人は樹に呼ばれて研究所に来ていた。研究員が「彼方の地」に呼びかけ、銀と茶の球体も浮いている。
『まず、こちらの状況についてお知らせします』
カノコが沈痛な口調で言った。
『わたしたちの連合と『蜘蛛族』の連合は、全面衝突するのも時間の問題です。すでに、いくつもの村が攻撃を受けました。難民が『鹿族』や『鷲族』の地域にまで流れこんでいます。…その中で『遺産』についてわかったこともあるんですが』
「どんなことだ?」
あやめが質問した。
『『蛇族』の巫術師さんが、息絶え絶えの状態でわたしたちの村に逃げこんで来て、こう教えてくれたんです。『遺産』の『鍵』とは、二つの紋章―『鷲の戦士の紋章』とわたしの『鹿の巫女の紋章』だと。そしてこの情報はかつて『蜘蛛族』の者に、『蛇族』を攻めないと言う条件で洩らしたと。その際、洩らしたことを口外しないことも、約束したそうですが』
「で、向こうがその約束を破って攻めこんで来たから、カノコにそのことを告げたって訳か」
「…そうか。それで全てのつじつまが合う」
樹がうなずいた。ここ何日かろくに寝てもいない様子だが、目は輝いている。
「『黒の組織』は、『遺産』を手に入れるためにサイキくんやカノコくんを捕らえようとしていたんだ」
「でも、何で彼らは『遺産』が欲しいんでしょう。すごい財宝だったりするんですか、それって」
「いや、そうじゃないんだな、これが」
樹が、思いっきりもったいぶった口調で言った。
「えー?じゃ何なんだよー」
「かつて…三十年ほど前、こちらの世界に『彼方の地』の存在を古文書から知り、交信を試みた一人の科学者がいた。さまざまな試行錯誤の結果、彼は『彼方の地』の巫術師―それが『蜘蛛族』の者だった訳だが―との交信に成功し、力を合わせて『門』を開こうとしたのだが…詳細は資料からは読み取れなかったが、その際に事故が発生したらしい」
「事故…ですか」
「そうだ。その結果、二人は奇妙なかたちで融合してしまった。一つの身体に二つの魂を持つ、いびつな存在に。彼ら―と言っていいかはわからないが―にとってその状態は苦痛であり、何とかして分離しようとした。二つの魂を宿すせいか、二つの世界に力を及ぼせる異能を身につけた彼『ら』は、八方手を尽くして情報を集め…つきとめたのだ、『遺産』の存在を。…そしてその機能を『逆用』することを思いついた」
「逆用?それってどういう…」
「『遺産』は、二つの世界を再び一つにする力を秘めた宝。と同時に、一つだった世界を二つに分かった宝でもある。彼『ら』は、そちらの機能を自らに使うことで、融合した身体を分離させることが可能なのではないかと考えたんだ」
「…最初からそう言って頼んでいれば、力を貸しても良かったんだけどな」
あやめがぽつりと呟いた。
「まあ君ならそう考えるだろうとは思う。…しかし、『蜘蛛族』がこの情報を得るためにどういう手段を取ったか…それは君も知っているだろう。彼らは力ずくでほかの部族を支配し情報を入手しようとした。こちらの世界でも情報と、それを手に入れるための金儲けに相当あくどい手段を使っていたからな。『遺産』の鍵が当代君やカノコくんだとわかっても、今さら頭を下げて頼んでも受け入れられないと考えて当然だろう」
「じゃあ、彼らがサイキを狙った目的は『鷲の紋章』…」
「そうだ。だから奴らはサイキくんを生かして捕らえることにこだわっていたんだ。サイキくんが死ねば紋章は消え、新たな『加護を受けた者』が選ばれるまでは現れない。向こうにしてもまた一からやり直しをしなくてはならない。だから君が弱体化している『はず』の今、捕らえようと躍起になっていた訳だ」
「弱体化?」
「ああ、これも本部の資料からわかったんだが…『擬体』を女性化したのも奴らなんだ。成長の途中にここに潜入し、ある薬品を投与したと言う記録があった」
「それでかー!」
「全ては彼らの計画通り…サイキくんがこちらに来た時に『門』の開く場所をずらして負傷させたのも、『擬体』を女性化したのも、力を弱めて捕らえやすくするためだったんだ」
「…まさか弱くしたはずのサイキに、ここまで返り討ちに遭うとは思っていなかった訳ですね」
「そういうことだな」
「うーん、奴らの目的はわかったけど…これから俺たちどうすればいい?」
あやめがうなった。
「とにかく、『彼方の地』での全面対決は止めさせなきゃいけないのは確かだが、どうすりゃ止まるのか…」
「それに、このままだと『鍵』の一つを持つカノコくんが集中して狙われるだろう。下手をするとカノコくんを人質にしてこちらに要求を突きつけて来るかもしれない」
「そうか、カノコに危険が…まあそれだけじゃない、正直俺、『鷲族』の人が一人でも人質になったら、闘うの止めるぞ。仲間の命を犠牲にしてまで勝ちたくない」
「うーん…どうすべきか」
三人は考えこんだ。
「…よし」
しばらくして沈黙を破ったのは、あやめだった。決意の色を顔に浮かべて立ち上がる。
「―俺、『彼方の地』に戻るよ」
「サイキっ!」
「このままじゃ、『彼方の地』にいる俺の守りたい人たちが、危険すぎる。俺があっちに行ってカノコと『遺産』を手に入れて、その上で『黒の首領』と交渉するよ。それが一番危険が少ないと思う」
(…あれ?)
楓は、今の彼(?)の言葉に違和感を覚えた。
ごくかすかな、疑問とも言えないような違和感。
(何だろう、この感じ…)
「―そうか。行くのか」
樹が短く呟いた。
(サイキが『彼方の地』に帰る…)
そう考えて、楓はなぜか悲しくなった。止めたいと思ってしまったが、何とかその思いを口にしないですんだ。唇を噛んでうつむく。
「スーミーさん、すぐに俺を帰せますか」
『『門』を開く儀式には少なくとも一日はかかる。それまでは待ってくれ』
(そうか、それで『黒の首領』も突入したあの時まで逃げられなかったのか)
楓は納得した。口に出しては、
「じゃあ、終業式には出られるわね、サイキ」
とだけ言った。
「そうだな。スーミーさん、よろしくお願いします」
『わたしも手伝いますので…』
これはカノコ。
「じゃ、明日の夕方に『門』を開くと言うことで」
樹の言葉に、皆うなずいた。
三人は寮に戻り、次の日の終業式に出てから研究所に戻ることになった。
「いよいよ明日か…」
あやめと楓の二人は、若葉寮の屋上に来ていた。並んで座り、空を見上げる。幸い星空だった。
「―明日、帰るんだね。『彼方の地』に」
「うん、俺の故郷にな」
流れ星が一つ、また一つと流れた。
「こっちの世界に来て、どうだった?いい世界だと思った?」
「うーん…どう言ったらいいかなあ。確かに便利な所は色々あるけど…何か、大切なことを忘れてる気がするよ」
「『大切なこと』か…」
「もちろん俺の世界にも欠点はいっぱいある。薬草や巫術師の癒しだって言っても、こっちじゃ治るのに向こうじゃ治らない病気や怪我もあるしな。他の人の心臓や肝臓を移し替えるなんての、考えられないもんなあ…でも、うまく言えないけど、何か、何か『おかしい』んだよなー。何か『変』なんだよな、こっちの世界」
「…なるほどね」
楓としてはそう呟くしかない。
「でも、『果ての地』に来て良かったこともいっぱいあったよ。楓や樹さんにも会えたしね。特に、楓が『信じる心』を取り戻してくれたことが、嬉しい」
「え!?」
「この間巫とやり合った時、信じて飛び降りてくれただろ?やっと信じてくれたんだ、俺のこと」
「…ううん」
楓は、首を横に振った。
「え!?『信じてる』って言ってたけど、まだ駄目なのか?」
「…そうじゃなくて」
楓は、思い出す。
サイキ―長いこと「あやめ」の姿だが―と出会ってからのことを。
その言動に、どれだけ自分が振り回され、心を動かされてきたかを。
長い長い遠回りをしてやっと気づいた事実を彼(?)に告げる。
「信じてた、のよ。私がそう気づいてなかっただけで、もうずっと前から、あなたのことを信じてた。…ずっと信じるのが怖くて逃げ回っていたつもりだったけど、本当はもう、とっくの昔に『信じる心』を取り戻していたんだわ、私」
「…俺ずっとどつき回されていただけのような気がするけどなー」
「あなたがぼけ続ける限り、止めないけどね」
「俺ずっとどつかれ続けるのかよー!」
(―言わない。少なくとも、今は)
楓は思う。
あやめのぼけにつっこむ、一つ一つの行動に心を揺り動かされる、反応する―そのことが、自分の心を少しずつ癒していってくれたことは。怒ったり反発したり、不満をぶつけたり…そうすることがどれだけ自分を立ち直らせてくれたかは。
まだ、少なくとも今は、打ち明けないでおこうと…。
終業式と通知表の受け渡しも終わり、宿題を山ほど出されて(幸い補習はなかった)、三人は研究所に戻った。
「スーミーさん、大丈夫ですか」
『ああ、準備はできたぞ。そっちはどうじゃ』
「今こっちも準備できたところです」
「天野あやめ」の身体は、寝台の上に寝かされていた。
「―むっ」
低く呟いて彼(?)が目を閉じると、全身からほのかな銀色のもやが立ち昇り、隣の水槽に横たわる「サイキ」の身体に吸いこまれていく。以前と逆の光景が展開していた。
もやが、完全に巨大な身体に吸いこまれた時―
水槽の中のサイキの目が開いた。液体をかき分けて上体を起こす。
「やれやれ、久しぶりだなーこの身体!」
せいせいしたという感じで伸びをした。
『では、『門』を開くとするかの』
そう巫術師が言うと、空中の銀の球体が見る見るうちに膨れ上がった。大きくなるにつれて銀の輝きが薄れ、しまいには漆黒の球体になる。
「あの時と同じ球体…」
「よーし、くぐれる大きさになったな。すぐ行きます!」
言ってサイキは球体に向かって伸び上がり―振り向いて、楓に手を差し伸べた。
「来いよ、楓!」
「えええええっ!」
本気でびっくりして、楓は声を上げた。
「そ、そんな!『彼方の地』に行くなんて、私、考えてもみなかったし…」
「一緒に行こうぜ!俺、俺の世界を楓に見せてやりたいんだ」
困惑した楓は、傍らの樹を見た。
「樹さん…!」
しかし返って来たのは、意外な台詞だった。
「本当に行きたくないのかね?」
「え、そ、それは…興味はありますけど」
「だったら行ってもいいんじゃないのか?めったにないことだぞ。どうせ君は、『実家には帰らない、寮に残って夏休みを過ごす』ってお家には連絡してあるんだろう?大丈夫、若葉寮の方はごまかしておくから。僕もできれば行きたいところだが、立場上無理だな」
樹は淋しそうに笑った。
「ただし、あまり長い時間留まらない方がいい。『果て人』の調査隊が滞在したこともあるが、せいぜい一ヶ月いただけで、それ以上留まったデータはないんでね」
「は…はい」
「来てくれるか、楓?」
ためらいがちなサイキの呼びかけに―
「うん!」
笑顔で楓は答えた。
巨大な手が伸び、楓を抱えて胸に押しつける。深く響く心臓の鼓動が、伝わって来た。
「―行くぞ」
そうサイキが呟くのと同時に、まばゆい銀の輝きが楓の身体を包む。よく見えないが、光はサイキ自身の身体も包んでいるらしかった。
身体が動き、銀の光の外が暗くなった。そして、
落下感―
どこまでも、どこまでも落ちていく感覚が、あった。
「きゃあーあー!」
悲鳴を上げたが、誰も答えてくれない。身体を包む銀の輝きを見ながら、あたたかなサイキの身体に身をゆだねながら、
楓の意識は、いつしか遠ざかっていった。
第十一章 立ちふさがってる馬鹿もいる
意識が戻った時、楓は丈高い草むらに寝かされていた。
「ここ、どこ…」
「んー、俺の部族の『儀式の場』だけど」
「…そうじゃなくて!『彼方の地』に、着いたのっ!?」
楓はがばと跳ね起きて、あたりを見回した。
世界は、何もかもが巨大だった。草もよく見ると普通の芝生にあるような種類だが、楓の背丈の半分ほどの高さがある。周りには草原が広がり、その先には山脈が連なっていた。
「気分はどうだ、楓ー?」
呑気に声をかけて来るのは、当然サイキである。
「うん、大丈夫だけど…それにしても大きな世界ね…」
楓の目からは巨人に見えるサイキも、この世界では釣り合って見える。それだけ楓が小さいのだ。
「楓さん、よくいらっしゃいました」
にっこり笑ってそう言ったのは、やはり巨人の少女だった。革製の服を身につけ、長い黒髪を二本の三つ編みにして前に垂らしている。
「その声は…カノコさん?」
「はい」
日に焼けた赤みがかった肌で、細面、口もとからこぼれる白い歯が美しい。
「ほんとに、来ちゃったんだ…」
呆然とあちこちを見回す楓は、
「…あ」
自分の世界にいた時との違いを、見つけた。
サイキの左肩に、銀色に輝く「鷲の紋章」が、くっきりと浮き出している。
「ああ、これか」
サイキは肩に視線をやり、微笑んだ。
「言っただろ、こっちの世界じゃ集中しなくても刻まれてるって」
「そうだったわね」
やはり心臓の鼓動に合わせて光の増減はあるが、消えはしない。
「これがサイキの世界…『彼方の地』」
あらためて楓は、広大な草原とその向こうの山脈、その上の空を、見渡した。
スーミーにも紹介され、すぐ近くの「鷲族」の村に向かった。テントが並ぶ村の中に入っていくと、
「サイキ、久しぶり!」
「やっと帰って来たな!」
口々に言いつつ、住人たち…特に若者が、駆け寄って来た。
「楓、カノコに掴まってろ」
サイキは今まで肩に乗っていた楓を、カノコにひょいっと投げる。カノコは慌てて受け止めた。
「きゃあっ!何するのっ!」
「あ、悪い。それから…わかってるよな、言うなよ」
女の子二人に目配せをしてみせた。
「何よ、自分が口滑らさないように気をつけなさい。『果ての地』で自分がどんな『姿』してたか」
楓がそう言う間に、サイキは若者たちにわっと囲まれ、もみくちゃにされていた。
「人気あるんだ、サイキって…」
「ええ。単に『加護を受けた戦士』だからって訳じゃありませんよ」
カノコがちょっと自慢げに言った。
「…ふー、やっと解放されたぜ」
しばらくして、サイキが満足げに楓たちの元へ歩み寄って来た。
「すごい歓迎ぶりね…あ、でも、家族の方って来てなかったね。どうしてなの?」
「あー、言ってなかったっけ?俺、家族っていないんだ。物心つく前に両親とも死んじゃって。親戚―って言っても、『鷲族』みんな親戚みたいなもんだけど―に引き取られて育ったんだ」
サイキは屈託なげにそう答えた。…とは言え楓は、彼の心のうちに思いを馳せずにはいられなかった。
「…ごめん。悪いこと聞いたね」
「気にするなよ、俺気にしてないからさ」
そんな時。
「よくぞ戻った、『銀の虹』のサイキよ」
年老いてはいるが矍鑠とした男性が、近づいてきた。
「あ、族長!お久しぶりです」
さすがに礼を取る。
「そちらの小さいお嬢さんは、『果て人』の娘さんか」
「は、はい。はじめてお目にかかります」
「よく来られた。心から歓迎しよう…と言っても、平常時ではないので充分なおもてなしはできないと思うが」
「あ、いえ、おかまいなく…」
「…で、『蜘蛛族』…『黒の組織』は、どう動いているんですか」
恐縮する楓を遮って、サイキが尋ねた。
「まだ全面対決には達していないが、にらみ合いが続いておる。それからな、『野牛族』の難民から情報が入った。輿に乗った、全身を黒いマントですっぽりと覆った者が、護衛を引き連れて『山脈』に向かって行ったそうじゃ」
「それが『黒の首領』か!」
「あの『山脈』には、『聖地』と呼ばれる地域があると言い伝えにはある」
話を聞いていたスーミーが口をはさんだ。
「『山の懐奥深く、陽に拠らぬ光射す洞窟あり』と…具体的な場所は伝わっていないが」
「もしかして、その『聖地』に『遺産』が?」
「可能性はあるな」
「『黒の首領』は、すでに『遺産』を探しはじめているんでしょうか」
「正確な場所は掴めていないだろうが…しかし奴らのことだ、いざとなったら何をするかわからん」
カノコの問いに、族長が重い口調で答えた。
「まさか、『山脈』を全部壊してでもって気じゃないだろうな」
「急いで『遺産』を探しに行った方が良さそうですね、族長」
「でも、具体的な場所はわからないんでしょ。どうやって探すの?」
サイキの言葉に楓がつっこむ。
「…あの」
カノコがおずおずと声を上げた。
「わたしが『茶の鹿』に、お伺いを立てましょうか」
「聞く?守護精霊に?」
「ああ、巫術師や巫女にはできるんだ。それが俺たち『加護を受けた戦士』との違いだな。『戦士』は、守護精霊の力だけを借りるんだ。意志はあくまで自分のもの。巫術師とかは、精霊をその身に降ろしてお告げを受けたり、質問したりできるんだ」
「便利ね、結構…」
「我が守護精霊が場所を知っていたら、の話ですけどね。でも『茶の鹿』は戦闘能力はあまりない代わりに、知識には優れていますので聞いてみる価値はあると思います」
ちょっと恥ずかしげに、カノコが言葉を添えた。
結局、その日は「鷲族」の村に泊ることになった。住人全員で火を囲んでにぎやかに宴会をし、語り合う。特にサイキの周りは若者が囲み、「果ての地」についての話を聞きたがっていたが、彼は詳しく話すと向こうでの「姿」がばれると思ったのかあまり語らず、若者たちを欲求不満にしていた。
一方楓は、子どもたちに囲まれていた。小さな人間、特に女の子は珍しいらしく(以前に滞在した調査隊も、大半は男性だったらしい)、好奇心に満ちた目で見つめられて、恥ずかしいほどだった。
みんな楽しげに喋っていたが、それも静まった頃、ゆったりした衣装に着替えたカノコが火の前に進み出、ひれ伏した。やがてゆっくりと顔を上げ、立ち上がって―踊りはじめた。
はじめは衣をひるがえしながらゆるやかに踊り、しだいにテンポが上がっていく。その表情は、彼女が今忘我の境地にあることを示していた。
「きれい…」
楓が思わず呟く。
踊りが最高潮に達した時、カノコは大地にくず折れ―
その口から彼女本人のものとは全く違う、低い声がもれた。
『我はこの者を介して意思を伝える『茶の鹿』なり。我に尋ねたきこととは何ぞ』
「『遺産』が隠された場所についてお教え願います、『茶の鹿』さま」
サイキがはっきりした声で問うた。
『良かろう。この者の記憶に刻むゆえ、従うがよい』
「ありがとうございます。後、その場所を『黒の蜘蛛』は知っているのでしょうか」
『知らぬはずだ。このことは我しか知っておらぬのでな』
「わかりました。探し出します」
『―『遺産』には守護者がついている。機嫌を損ねぬよう忠告しておくぞ』
それだけ言うと、カノコの身体はくたりと力を失った。
「カノコ!?」
「…あ、はい」
サイキの呼びかけに、身体が動いた。はっとして彼女は顔を上げる。
「『遺産』の場所、わかるようになったのか?」
「はい、大丈夫です」
「よし、明日出発だ!」
それで宴はお開きになった。寝る所は相談の結果、サイキは若者たちが共同で使っているテント、楓とカノコは族長のテントに泊めてもらうことになった。
「―楓さん」
「何?カノコさん」
寝る直前にあらたまった口調で声をかけられ、楓は戸惑った。
「楓さんは、その、サイキのこと、どう思って…?」
そこまで言って、カノコは顔を赤らめる。
「ど、どうって…」
楓は、不覚にも言葉に詰まってしまった。
「好き…ですか?」
「冗談じゃない!わ、私が何であんな馬鹿を!」
「本当ですか?」
「!?」
真剣な目で問い詰められて、返す言葉を失った。
「まあ…いいです」
淋しげに笑って、カノコは言った。
「楓さんがどう思っていても…サイキは、まだ子どもですから」
(そう)
わかっている。
「サイキの心を占めているのは…」
(そう)
わかっているのだ。
「まだ会ってないけど…間違いないわ。『さすらいの戦士』ね」
先回りしてその名称を口にする。
「そうですね」
カノコもうなずいた。
「サイキが一番に願っているのは、何よりも、彼との決着。できれば乗り越えること」
(馬鹿…本当に、馬鹿)
心で呟く。
(馬鹿で、子どもで…本当に、どうしようもない奴)
その呟きが、サイキに対してなのか、それとも自分に対してのものなのかも、わからずに。
次の日の早朝、三人―サイキ、楓、カノコは旅立った。
村の若者たちの中には、護衛としてついて行きたいと言う者もいたのだが、サイキの「いや、みんなは村を守ってくれ」の一言で却下された。それでも、名残を惜しむ者はたくさんいた。
「―守んないとな、みんな」
サイキがぽつりと呟いた。
「そうだね」
「そうですね」
女性二人は同時に答え、顔を見合わせて照れくさげに笑い交わした。
「何だよー、たった一晩で仲良しになりやがって」
一人わかってないサイキであった。
「見ろよ、楓。これが『草原』だ」
振り向き、どこまでも広がる草原を示して彼は誇らしげに言った。
「『何とか草原』とかっていう固有名詞はないの?」
「草原はここ一つしかないから、そんな呼び方なくてもいいんだ。これから行くのが『山脈』で、『草原』の反対側には『海』があるって聞いたことはあるけど、俺の知り合いでそこまで行ったことのある人はいない。ただ、『海』を越えたずっとずっと先には、ユーリや騎士が住んでた場所があるって聞いてはいるけど」
「…そうなんだ」
「この世界も『果ての地』みたいに丸いのかなあ。山や海を越えてどんどん進めば、暮らし方が全然違う人たちの領域に入って、それも抜けてもっと先に進んだら…いつかは『草原』に戻れるのかな」
「ぐるっと回って戻るんだね。昔の航海者みたいに」
「やってみたいなあ。どのぐらいかかるのかな、時間…」
サイキは目を輝かせてそう言った。楓とカノコはくすりと笑い、彼の視線を追って遠くを見つめた。
三人が「山脈」に向かって歩き出して、一時間ほど経った時だろうか。
「あれは…」
カノコが呟き、前方を示す。
「たくさんの人が来ますよ。『精霊の力』も感じます」
「難民や友好的な人たちじゃ…ないみたいだな」
姿を現した彼らの装備を見て、サイキが言った。
確かに、彼らは槍や弓矢を手にして行進して来た。
「『鷲族』の村に、何か用か?」
「そこにおられるのは、『銀の虹』のサイキ殿とお見受けする」
一人の若者が進み出た。
「我らは『兎族』の戦士団。『蜘蛛族』に、貴殿と『鹿の巫女』を捕らえるよう命じられた。いざ尋常に勝負!」
わっと三人を押し包もうとする。
「二人は下がってろ!」
サイキは飛び出した。
「我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!今こそその力を、我を介して示せ!」
そう叫ぶなり銀の光が身体を包み、大鷲が舞い上がった。
「すご…」
楓が呻く。
「果ての地」で具現化された「銀の鷲」も大きかったが、その比ではない。彼の身体の大きさに対する比率も、大きく異なっているのだ。「果ての地」での大きさの、十倍はあるか。
「『天野あやめ』の身体じゃ本来の力は振るえないって言ってたけど…なるほどね」
大鷲は、楓とカノコを捕らえようと迫る者たちに羽手裏剣を放った。次々に戦士たちは武器を取り落とす。矢を放つ者もいたが、羽ばたきに力を打ち消されて矢は落下した。
「かくなる上はっ!我に加護を与えたもう『灰の兎』よ!」
先程声を上げた戦士が呼びかけ、自らの身体に守護精霊を降ろす。巨大な兎が現出した。そのまま大きくジャンプして銀色に輝く大鷲に挑みかかるが、羽ばたき一つであっさりかわされた。
「くうっ!」
「全力―行くぜ!」
着地した「灰の兎」に羽手裏剣を浴びせかけ、ひるんだところに嘴と爪を叩きこむ。
「ぐわっ!くくう…!」
やがて「憑依」も解け、「兎族」の「加護を受けた戦士」は、よろけながら仲間を引き連れて退却した。無理に命じられての襲撃だったらしく、微妙にやる気がない。
「へへっ、どーんなもんだい!」
「…でも、『銀の鷲」は反則よね。飛べるし、羽手裏剣飛ばせるし」
「でも、以前よりサイキはずっと強くなっています。前はここまで圧倒的な勝ち方はできていませんでした」
「やっぱり私の世界…『果ての地』で能力を制限されていたことが、逆に鍛えることになったのかしら」
「そうかもしれませんね」
楓を肩に乗せたカノコが、うなずいた。
草原を歩き、軽い食事を取ってまた進み、数時間後。
「日が暮れてきたな」
空を見上げたサイキが呟いた。
「野営するか。早く『聖地』にたどり着きたいところだが…正直俺、しっかり休まないと次に襲撃があっても闘えない」
「『精霊の力』を使いましたからね…」
「うう、敵の足止め作戦だとはわかっていても、一晩休むしかないな」
女性二人のために、簡単なテントを張った。彼は外で寝るのだと言う。
三人で、小さなたき火を囲み、色々なことを語り合った。カノコには「果ての地」での性別はばれているので、サイキの口も滑らかだ。
「『彼方の地』にも、ユーリたちのいた所みたいな別の場所があるんだよなー。『果ての地』の歴史みたいに、そこの勢力が攻めて来て征服される…なんてことになるんだろうか」
「…あなたみたいな『加護を受けた戦士』とかがいれば、そうそう征服はできないと思うけどね」
「まあそうだろうな」
ちょっと自慢げにサイキは笑った。
「もし攻めてきても、征服するされるの関係じゃなく、共存して交易とかできればいいな。お互いに利益を得るような、そんな関係になれればいいな。…って、今『果ての地』との交流を、俺たちはやろうとしているんだけどさ」
「そうだね。平和な関係に、なれるといいね」
「楓さん、こっちの世界に来てみて、どう思いましたか?」
カノコが楓に尋ねた。
「今は大変だけど、いい所だと思うわ。乗り物とかがなくて不便だとも思うけど…それに、前にサイキから聞いた『貯めていた物で人々をもてなす』って考え方がわかるようになった。その話を聞いた時は、『そんなことしてたら、いつまで経ってもみんな貧乏なままじゃない』って正直思ったけど、そうじゃないんだわ。私たちみたいにみんなが物やお金を貯めこみたがっていたら、いずれ地球は食いつぶされてしまう。貯めこまない生き方っていうのは、限られた世界でずっと生きていく一つの方法だと思うようになったの」
「ま、便利なのも悪くないけどなー。歩くのは好きだけど、あの車ってのや、馬っていう大きな鹿みたいなのは欲しいな」
満天の星の下、笑いが起こった。
次の日も日の出と共に起きて、急いで「山脈」に向かった。カノコが指し示す細いけもの道を、踏んで行く。
「『黒の首領』より先に、『聖地』に着きたいな」
「彼らの知らない最短の道をとっているので、先回りできるとは思うんですけど…。でも見張りを立てて警戒されたりしたら、どうしようもありません」
「どうしても妨害はあるか…」
しかし、どうしようもない。
「―強い『精霊の力』を感じます」
カノコがそう言って足を止めたのは、「草原」がゆるやかな上り坂になり、もうすぐ「山脈」につながろうとする、そんな場所だった。
「あそこです」
そう言って彼女は、斜面の上を指差す。
湾曲した鉄製らしい刀を手にし、ゆったりした布製の(アラビアっぽいな、と楓は思った)衣服に身を包んで、三人を見下ろしているのは―
「『さすらいの戦士』だ!」
サイキの声には、隠しきれない喜びの色があった。
「―我は今、『黒の首領』に雇われている」
三人に向かい、「さすらいの戦士」は低く告げた。
「請け負った仕事は少年、お主を捕らえること。悪いことは言わん、怪我をしたくなかったら早々に立ち去れ」
「やだって言ったら?」
「お主を叩きのめし、そこの『鹿の巫女』と共に捕らえることになる」
「つまり闘うんだな?俺の望みはそれだ、『さすらいの戦士』!」
「ほう…」
言いながら近づいて行くサイキを見て、男は少々驚いた表情を浮かべた。
「お主は…確か三年ほど前、我に挑戦して来た子どもか」
「覚えてるのかっ!?」
こんな状況なのに、サイキの顔がぱっと輝いた。
「あの頃は、無茶をするものだと思って適当にあしらったが…強くなったようだな、あれから」
「ああ、強くなったさ。お前が思ってるよりずっとな!」
サイキは背負っていた荷物を放り出すと、黒曜石の穂先をつけた長槍を構えた。
「今度は闘って、勝つぞ!覚悟しろよ」
言うなり、間合いを詰めた。槍で「さすらいの戦士」に突きかかっていく。
「さすらいの戦士」は、その攻撃を湾曲した刀で受け、あるいは素手で叩き落とし、自分の身体には届かせなかった。
(―あれ?)
楓は奇妙なことに気づき、カノコに尋ねた。
「どうしてサイキは『付与』を使わないのかしら」
「向こうが使わないから…でしょうね」
カノコが心配げに答えた。
「相手が術を使わなかったら、自分も使わない…わたしたちの『一対一の決闘』とは、そういうものです」
「巫のことは結構叩きのめしてたけどなあ、『付与』も使って」
「それは、サイキが巫との闘いを『決闘』と思ってなかったってことでしょう」
その間にも、激しい攻防は続いていた。サイキが槍を振るい、それをかわしつつ「さすらいの戦士」が斬撃を叩きこむ。しかし、刀と槍の間合いの差があり、しだいに「戦士」は追いつめられていった。
そして―
「もらったあ!」
サイキの槍が、男の肩めがけて迫る―が、その時まばゆい黄色の光が彼の身体から噴き出した。光は盾を形作り、黒曜石の穂先を砕いた。
「うわあっ!」
サイキは飛び退き、距離を取る。
「やっぱり『付与』はできるんだ…」
「その通りだ、少年」
刀を陽光にかざしつつ、「さすらいの戦士」は答えた。その刀にも、淡い黄色の輝きがまとわりついている。
「この状態で闘うか?それとも…」
「ああ、それが望みだ」
サイキの身体からも、ほのかな銀色のもやが立ち昇っていた。
「お互い、最強形態でやろうぜ。全力でな」
「いいだろう」
男はうなずき、眉を寄せた。
「我が守護者よ…」
その唇から呟きがもれる。
「我にその力を」
黄の光が彼の頭上に集まり、巨大な球となった。
「与えよ!」
「戦士」がそう叫ぶと、光がなだれ落ち、身体の周りでぱっとはじけた。
そこに立っていたのは。
「と、虎っ!?」
楓が息を呑んだ。
その通り、巨大な虎だった。息づくように光を放つ毛皮が揺れ、光の欠如でかたちづくられた黒い縞が波打つ。
「これが望みか、少年―いや、サイキとやら」
響くその声も、先程より一層重々しい。
「おお、こいやあっ!俺も全力行くぜ!」
サイキも天に腕を突き出し、叫んだ。
「我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!今こそその力を、我を介して示せ!」
白銀の光が鷲をかたちづくる。
これも巨大だが…大きさでは黄色の虎にはかなわない。翼を含めても半分ぐらいか。
「そりゃそうよね、鷲より虎の方が小さいって変だし」
「いいえ、『精霊の力』を具現化するための精神力に大きさは関係するんです」
楓を肩に座らせたカノコが沈痛な口調で呟いた。
「そう言えば、巫の熊ってサイキの鷲と同サイズだったわね」
四つ足で立って低く唸る大虎と、上空で羽ばたく大鷲…二者は対峙したまま、動かない。しかし、その間のはりつめた空気は楓にも感じ取れた。
先に動いたのは、サイキの鷲だった。大きく羽ばたいて羽手裏剣を何条も放つ。しかし、虎が咆哮するとその光は蒸発するかのように消えていった。
「やっぱ羽手裏剣じゃ駄目か!ならば…これでっ!」
大鷲は急降下し、虎の顔面を足でかきむしった。さらの嘴でその傷口を突っつく。虎の苦痛の叫びが響き渡り、楓とカノコは思わず耳を押さえた。
その次の瞬間。
サイキは何かに気づいたように、虎の眼前から飛びすさった。
一瞬遅れて、今の今まで彼がいた所に巨大な前足がぶんっ!と振り抜かれていた。ちょっとでも反応が遅れていたら吹っ飛ばされていただろう。
「無駄だ。わかっただろう。お主に我は倒せん、サイキよ」
「さすらいの戦士」が重く告げた。
「まだそんなこと、わかんねーよ!」
サイキはかなり消耗しているはずだが、それでも激しく怒鳴り返す。
「巫の時も大変だったけど、もっと強い…どうやって勝つの!あんなのに!」
「わかりません…けど、サイキは勝てない闘いはしません、絶対に」
強い口調でカノコは答える…が、その強気の中に、密かに好きな人を失うかもしれないという不安が見え隠れしているのを、楓は感じた。
「降伏しろ、サイキ。お主を殺す気はない。『捕らえろ』と依頼されてもいるしな」
大虎が突っかかってくる鷲をあしらいながら言うが、
「冗談じゃねーよ!『黒の首領』の思い通りになんて誰がなるかっての!」
大鷲はばさりっと大きく羽ばたいた。
「俺が『果ての地』で得たもの!見せてやるぜ!」
サイキはそう叫ぶと―いきなり「憑依」を解いた。
「何っ!?」
「さすらいの戦士」が、動揺した呟きをもらす。
空中で「憑依」を解けば当然墜落…するはずなのだが、サイキは落ちてこない。よく見ると、その背には銀の翼が生えていた。
「これが『一部召喚』!」
そのまま翼をはためかせ、上昇していく。
「そしてこれが―『付与』!」
空中にあるサイキの身体から、上に向かって光がほとばしり―
銀の光が、サイキを穂先にした一本の槍になった。
さらにその柄に翼が生え、激しく羽ばたく。
下へ。
「行っけえーっ!」
重力加速はさほどでもないが、翼によって大きく加速した槍は下に向かって一直線に突き進み、黄の虎の背中に、
突き立った。
「ぐおおお…っ!」
「―っ!」
虎の苦痛の叫びと、サイキの気合が入り混じって響き―
半透明の虎の身体の中で、銀の槍が爆裂した。
銀と黄の光が混じり合ってはじけ飛ぶ。
「「サイキーっ!」」
楓とカノコ、二人の悲鳴も混じり合った。
光の奔流は、しばらくして消えていった。
サイキの銀も、「さすらいの戦士」の黄も、欠片も残っていない。
「サイキっ!」
楓が叫び、カノコが今にも走り出そうとした時―。
「楓さん、あれ…」
カノコが何かに気づき、土煙の中心を指差した。草原の中に、草が根こそぎ吹き飛ばされ、土が露出している場所があった。
その中心、地面が大きく抉れた中に、
「はあっ、はあっ、はあっ…」
一人立つ影が見える。
全身ぼろぼろで、
服もあちこちちぎれ飛び、
肩の紋章だけが銀色に輝いている。
「あ…ああ…!」
楓たちの声が歓喜のそれに変わった。
そう。
一人立ち、荒い息をつきながらもにやりと笑って(『果ての地』風に)左の親指を立てているのは、
サイキだった…。
「サイキっ!」
「サイキーっ!」
二人が―楓を肩に乗せたカノコが―サイキに駆け寄った。
「良かった…無事で…」
「怪我はない!?ほんとにもう、心配かけて…!」
その次の反応はそれぞれ違っていたが。
「大丈夫だって…って言いたい所だけど、さすがに言ってられないな。もう全力出し切ったぜ。あと一撃出せって言われても無理。ぼろぼろだよ」
力のない笑みだったが、喜びは隠しようもなく現れていた。
「そう言えば『さすらいの戦士』は…?」
楓がはっとしてあたりを見回す。
「ああ、そこだ」
サイキが指差す先には、大の字にひっくり返り、空を見上げる男がいた。
「死んでるの!?」
「いや、『精霊の力』を打ち砕いただけだ。本体に傷はない」
確かに、男は苦しげにだが息をついていた。視線をサイキに向け、
「見事だ…サイキ」
声を絞り出した。
「よくここまで強くなったものだ…『精霊の力』の応用も見事だった。闘えて光栄に思うぞ、戦士よ」
「へへっ」
照れくさそうに鼻をこする。
「我が『黄の虎』の力は打ち砕かれた。しばらくは呼び出すこともできぬ。もはやお前たちをどうすることも我にはできない…行くがいい、求める場所へ」
「おお、言われなくてもそのつもりだぜ」
そう答え、サイキは「戦士」に背を向けた。
「行くぞ、楓、カノコ。『遺産』の所へ」
第十二章 敵に手を貸す馬鹿もいる
前に立ってさっさと歩きだしたサイキだったが、時折足元がふらついた。
「大丈夫?少し休まないと―」
「いや、大丈夫だ。ここに『さすらいの戦士』を置いていたってことは、『黒の首領』が『聖地』の場所をかなり特定できてるってことだろう。急がないと。カノコ、道案内頼む」
「―わかりました」
心配そうに、しかし抗弁しても無駄だと思ったのか、カノコは先に立って道を示した。しだいに山道になる。
「楓、しっかり掴まってろよ。落ちたら大変だ」
道は時々ひどく険しくなり、崖近くをやっとの思いで通り抜けることもあった。干し肉などの簡単な昼食を取り、さらに上る。うっそうと茂る森林を抜けた時には、陽が傾いていた。
「―あそこです」
カノコが指し示したのは、崖の中腹にぽっかりと開いた洞窟だった。夕陽を浴びて輝く山々の陰になり、暗く沈んでいる。
「あそこまで行く道なんて、なさそうだけど…」
「いや、線みたいなのが見えるだろ。あれが道だ」
言われて目を凝らすと、確かに洞窟まで続く緑がかった「線」がかすかに見えた。
「あれなのっ!?」
「まあ、ここ何百年かは人は通ってないはずだからなー」
楓は内心すくんだが、あえて虚勢を張った。
「じゃ、さっさと行こうよ、さっさと」
三人は(楓はカノコの肩に乗っていたが)、崖にほんの僅か突き出した出っ張りに足を踏み出した。人工か自然のものかもわからないその「道」には、人が通らなくなって久しいために草や苔がしがみつくように生い茂っている。
(私じゃ絶対落っこちるわねー)
楓は冷や汗をかいたが、サイキの運動神経はもちろん良く、カノコも彼ほどではなかったが身のこなしは軽やかだった。さすがに日頃の生活で鍛えられている。
何とか陽が落ち切る前に、洞窟の前までたどり着いた。
「―さすがに一晩経たないと戻れませんね。夜にここを移動するのは危険すぎます」
「なーに、『遺産』を手に入れちまえばこっちのもんさ」
軽~く言ってサイキが洞窟に足を踏み入れた。二人も後に続く。
洞窟の中は真っ暗―に見えたが、曲がり角を抜けると、
「あれ…?」
ほのかな光が奥から射してきた。
光に導かれて歩を進めると、一番奥の少し広くなった場所に着いた。
「何、これ…?」
広間の中心に、奇妙なものがあった。
光の柱。
岩の天井から床までを太い円柱状の光が貫いている。月の光に似た白々とした光が、広間を照らしていた。
「これが『陽に拠らぬ光』…?確かに上に穴もないのに、光ってますね。炎の輝きとも違いますし」
「『果ての地』で電気の光も見たけど、何か光の源になるもんがあったよなー。でもこれにはなさそうだ」
サイキは好奇心もあらわに、柱に近づいて覗きこんでいる。
「さわれるのかな」
左手でひょいと撫でてみるが、
「手ごたえないや。実体はないみたいだ」
何の反応もないらしい。
「うーん、どう考えてもここが『遺産』のある場所よねー」
楽しそうなサイキは放っておいて、楓はカノコの肩に乗ったまま周りを見回した。
「壁にスイッチとか、文字とかはないのかな」
「『すいっち』って何かわかりませんが、文字は見当たりませんね」
二人で壁を巡って調べてみたが、特に何もない。
「だとすると…やっぱりあの柱よね」
楓は振り向いて光の柱を見つめた。
「俺もそう思うけど、さわろうとしてもさわれないし、どうすりゃいいんだ?」
「そうねえ…」
楓は首をひねった。思いついた答えを、口に出してみる。
「中に入ってみる、とか」
「あー、なるほどな」
柱は太く、人間(『彼方人』の話だが)三、四人は入れそうだった。
「よし、他にできることもないし…やってみよう!」
光の円柱の中に、まずサイキが恐る恐る足を踏み込んだ。
全身が入った途端、単調な声が響いた。
「『鷲の戦士の紋章』を確認いたしました」
「うわっ!」
三人はびくっとしたが、その声以外に変わったことは起こらない。
「自動販売機の声みたいなもんか…?」
「身も蓋もない表現だけど、合ってるかもね」
「じゃあわたしも、入りますね」
言ってカノコも光の中に入った。
「『鹿の巫女の紋章』を確認いたしました」
また声がどこからともなく聞こえた。
「これで条件は揃った…んだよな?」
しかし。
三人が息を詰めて待ったが、何も起こらない。
「あれ!?あれ?どーなってんだ?」
「伝承では、この二つでいいはずなんですけど…」
「まだ、何か足りないのかなあ?」
「おい!変な声!足りないのか?足りないのは何だ!」
「――」
呼びかけても返事はない。
「どうする?足りない『鍵』を探さないといけないのか」
「何だか皆目見当もつかないものを、どうやって探すのよ」
楓のつっこみにも力がない。
「うーん…」
三人が考えこむ中。
ひゅん!
風を切る音がして、矢がサイキの頭をかすめて飛び、壁にぶつかって転げ落ちた。
「何っ!?」
二の矢をつがえた男が、角から姿を現した。
「お前、確か『蝙蝠族』の…!」
サイキが声を上げる。
「今のは威嚇だ。次は外さない。おとなしくしろ」
「へっ、誰がするもんか!」
サイキは円柱から飛び出した。「蝙蝠の戦士」に殴りかかる…が、銀の輝きはその拳に宿らず、勢いもいつもほどではなかった。あっさりかわされる。
「おとなしくしないと…!」
二の矢が放たれた。―円柱内のカノコに向かって。
「ああっ!」
カノコは反射的に避けようとした…が、それがいけなかった。
矢は、偶然にだが楓に向かったのだ。
「きゃああっ!」
楓の肩を、矢がかすめた。服と皮膚が裂け、血がこぼれ出る。
「楓ぇ!この野郎…っ!」
サイキが怒りをあらわにして、男に掴みかかった。
「楓さん!すぐ癒しますから…」
「だ、大丈夫、かすり傷だから…くっ」
血が流れ、淡い光を放つ円柱の床にこぼれ落ちた。―と、落ちたその場所から、暖かく強い光がじんわりと広がりはじめた。
「何、これ…」
単調な声が告げる。
「『鷲の戦士の紋章』、『鹿の巫女の紋章』、及び『果て人の血』、そして三者の協調を確認いたしました。『遺産』への門を開きます」
円柱から放たれる光が強く、さらに強くなり、広間を満たした。
「うわあっ!」
その光に、「蝙蝠の戦士」がはじかれるのをかすかに見た…と楓は思ったが、あまりの光量にもう何も見えない。
光が収まると―
「え!?ここ、どこ…?」
そこは、洞窟の中ではなかった。
一面、白く広がる何もない空間だった。一応床はあるようだったが、見回してもただ広いだけで果てがあるのかどうかすらもわからない。そこに、三人は立っていた。
「『蝙蝠の戦士』は…?俺、掴んでたと思うんだけど」
サイキが自分の手を見て首をひねった。
「ここには、協調した者たち以外は誰も入れぬ」
よく響く男性の声が上から聞こえた。
「えっ!?」
三人は驚いて見上げた。
さっきまで何もなくただ広いだけだった空(?)に、沈みかけた夕陽のような色の球体が浮いている。声はそこから発せられているようだった。
「驚いたか?」
どこかいたずらっぽい口調で、声が問いかけた。
「うん、びっくりしたぞ」
実に素直にサイキがうなずく。
「あんた、誰だ?」
「…『茶の鹿』さまに言われたでしょうがっ!『遺産』の守護者よ、きっと!」
「ほう、『果て人』のお嬢さんは鋭いな」
感心されてしまった。
「その通り、我は『遺産』の守護者である。『遺産』を求める者にその資格があるか否かを見定めるのが役目。…だがしかし」
球体は言葉を切り、表面にきらりと光を走らせた。まるでこちらをじろりと見やったかのようだと楓は思う。
「まさかここに入れる者たちが現れるとは、思ってもみなかったぞ。ずっと眠り続けていられるものと思うておった。第三の『鍵』を秘しておいたというのになあ」
「ひどいなー、それ」
「何、どうせ無理だろうと思うてな。いや全く、酔狂な『果て人』もいたものよ」
迷惑そうな、でもどこか楽しげな口調で球体は喋っていたが、ここで言葉づかいをあらためた。
「さて、我は役目を果たさねばならぬ。我の問いに答えよ。返答によってはここから追い返すぞ」
三人は顔を見合わせた。サイキが小さくうなずき、女性二人が無言で応える。
「―よし、問うてくれ」
サイキが球体を見上げて言った。
「『遺産』を求める者に問う。『力』とは何ぞや?」
サイキははっきりした声で、答えた。
「借り受けるもの。自分本来のものではない故に、みずからを高めなくては使うことすらできないもの。使えても、使い方を誤りかねないもの」
「うむ、『加護を受けた者』の心得は伝承されているようだな。では問う。誤らない『力』の使い方とはいかなるものか」
「守るべき者を守ること。障害を乗り越えること。できることをして支え合うこと」
「重ねて問う。『遺産』を欲する者よ、それが持つ『力』を汝は決して誤らずに使えると、確信を持って言えるか?」
「それは…!」
今までよどみなく答えを口にしていたサイキが、はじめて動揺の色を見せた。
「俺が『絶対正しい』なんて、言える訳ないし、」
ためらいがちに、言葉が紡がれる。
「そんなことを言った途端に、自分が最低な奴になりそうな気がするけど、でも」
しだいに、声に力が戻ってくる。
「俺には守りたい人たちがいる。支え合う者たちがいる。俺は一人じゃないって、それだけは信じられる…だから、俺がそのことを忘れない間だけでいい、『遺産』の力を貸してくれ…!」
夕陽の光を放つ球体に向かい、サイキは手を差しのべた。
「はっ、はっ、はっはっはっは…!」
楽しげな笑い声が空間いっぱいに響いた。
「面白いことを言うものよ。その意気やよし!…良かろう、その条件下でならば、『遺産』を貸そうぞ!…だが忘れるな、汝が今口にしたことを忘れ去り、約束を違えることになるならば、『遺産』の力は汝に返り、汝の全てを食らい尽くそうぞ!」
球体の放つ光がさらにまばゆく輝き、空間を呑み尽した。
はっ、と気づくと―
三人はさっきの洞窟、光の円柱の中にいた。
「何だったの、今の…?」
みんな光の柱から外に出た。広間の端に、「蝙蝠の戦士」が転がっている。
「気絶してるぞ。今のうちに縛っちゃえ…あれ?」
ロープを出そうとして―サイキは、自分の手が何か握っているのに気づいた。持ち上げてしげしげと眺める。
「どうやら、夢とかじゃなかったみたいだな」
「これが…『遺産』?」
彼の手元を覗きこんで、楓が驚いた呟きをもらした。
「そうだろう。『力』を感じる」
サイキが答えた。彼の手の中で輝いているそれは、一見すると黄金の板に見えた。長方形で、よく見ると黄金と言うより橙色の光を放っている。
「…何か字が書いてあるみたいだね」
確かに、板の表面には文字らしきものがぎっしりと彫られていた。
「カノコ、読めるか?」
「昔の文字ですから…『分かつ』とか、『一つにする』とか書いてありますね。それ以外は何とも」
「遺産」を調べるのは後にして、三人はそのまま洞窟で一晩過ごした。
まず、カノコが楓の傷口に手を当てて「茶の鹿」に祈った。と、明るい茶色の光が放たれて、傷が見る見るうちにふさがっていく。
「あ、ありがとう。すごいのね」
「闘う力はありませんが、これぐらいならできます」
三人で床に横たわる。カノコは円柱が放つ光が眠るには眩しかったらしく、背を向けて寝ていたが。
朝が来て、三人は洞窟を出た。目を覚ましてもがいている「蝙蝠の戦士」にサイキが当て身を食らわせ、気絶したところで縄を解いた。
「これで逃げられるだろ。『憑依』すれば飛べるし、こいつ。夜だけだけど」
男を放り出しておいて、一行は再び崖のけもの道に足を踏み出した。慎重に進み、森にたどり着く。山道を降り切ったところで―
「待ちかねたぞ、『銀の虹』のサイキよ!」
重々しい―しかしどこか奇妙な響きのある声がかけられた。
槍や弓矢を手にした男たちが三十人ばかり、平地に出てきた三人を囲んでいる。
その一番奥に、輿で担がれ、黒いマントで全身をすっぽりと包んだ人物がいた。
「貴様が『黒の首領』か?」
「いかにも」
やはり奇妙な、まるで二人が同時に喋っているような声でその人物が答える。
「『遺産』は手に入れたのか?―いや、答えずともわかる。感じる、感じるぞ、『遺産』の気配を…!」
陶酔した口調で語る「黒の首領」…その姿は、どこかおかしかった。
奇妙に横幅があるのだ。
(…太ってるのかしら)
楓はそう考えたが、それにしては―もちろん向かい合っている訳だから前面しか見えないのだが―前後の厚みがないように見えるなあと一人思う。
「これが最後通告だ。『遺産』を引き渡せ。さすれば命だけは助けてやる」
「へっ、貴様の言うことなんて、誰が聞くもんか!」
サイキは前に進み出た。武器を持つ男たちがざっと身構える。
「いきなりだが全開行くぜ!我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!」
矢が一斉に放たれる―が、サイキが守護精霊を具現化する方が速かった。
ばさり!
激しい羽ばたきに、矢がはじき飛ばされる。
「―楓さん、掴まっててくださいね」
突然、カノコが小さく囁いた。しがみつくのを確認するなり身を翻し、岩だらけの斜面を機敏に駆け上がる。
一瞬後、近くの茂みから飛び出してきた男の手が空を切った。捕らえる対象を失ってたたらを踏む。
「―わたしが、どうやって今まで追っ手から逃げおおせてきたと思っているんですか。『茶の鹿』のお告げで、あなた方の動きはお見通しです」
鹿の角から削り出したナイフを構えて、カノコが言い放った。
「サイキ、わたしたちのことは心配しないで存分に!」
「よおしっ!」
大鷲の羽ばたきに、男たちが吹き飛ばされた。めげずに立ち向かう者もいたが、すかさず羽手裏剣が飛ぶ。
「ぐぬぬ…やはり『加護を受けた戦士』に通常の戦力は無意味か…ならば、行け!我が『蜘蛛の戦士』よ!」
「……」
今まで、輿の側に控えて動かず、何も言わなかった男が、やはり無言で進み出た。
「お前が『蜘蛛の戦士』か…!」
「…」
鷲の姿を取ったサイキが問いかけるが、「戦士」はやはり喋らない。
「強い、って噂だけでどんな技を使うのかわかんない奴だって聞いたけど…相手に取って不足なしだぜ!勝負!」
「……!」
「蜘蛛の戦士」が眉を寄せる…と、その全身から漆黒の霧が湧き出してきた。
「…!」
唇を噛み締める!と、その霧がぶわっと広がった。黒い霧はしばらくもやもやとうごめいていたが、やがて定まった形をとる。
「へぐっ…!」
楓の口から、押し殺した呻きが洩れた。
漆黒の、巨大な蜘蛛。
楓は元来、小さいものでも蜘蛛は苦手だった。それが、「彼方の地」サイズ、しかも具現化された守護精霊の大きさで、脚の毛一本すらはっきり見えるとなると…。
「あれは…ちょっと、気持ち悪いですね…」
カノコもなるべく見ないようにしているらしかった。
「へー、口に出して呼び出さずに守護精霊を具現化できるんだ。さすがだな」
サイキの感想は、やっぱりちょっとずれていた。
すでに、一般の戦士たちは戦意を失い、遠巻きにして様子を見ている。
白銀の大鷲と、漆黒の大蜘蛛とは一対一で対峙した。
「どうだ!『黒の蜘蛛』の恐ろしさは!今からでも遅くない、『遺産』を置いて立ち去れ!」
「黒の首領」の声が響く…が、誰も注意を払っていない。
先に動いたのは、蜘蛛だった。八本の脚で素早く草原を走ると、前足の間に、
「……!」
漆黒の糸で編まれた蜘蛛の巣が現出した。それを、目にもとまらぬ速さで大鷲に向かい投げつける。
「うわっ!」
とっさに舞い上がり、空中でさらに広がった網をかわすサイキだったが、続けざまに放たれる投網状の巣に翻弄される。ついに、一枚が鷲の脚にからみついた。
「うわ粘る!気持ち悪いー!」
思わず逃れようとしてじたばたする大鷲だったが…それが、隙を作った。
投げ上げられた特大の巣が、銀色の大鷲の全身にからみつく。
「うわあっ!」
地面に引きずり落とされた。もがくが、網は切れない。
「ふはは、見たかっ!もはや情けはかけぬ、牙にかけてくれるわ!」
高笑いしたのは―「黒の首領」だった。黒い蜘蛛は一言も口にせず、動けない大鷲に音もなく近づいて牙を振り上げる。
「サイキっ!落ちついて、くぐれるわ!」
楓の絶叫が戦場を切り裂いた。
「あ、そうか!」
いきなり―銀の輝きが消え失せた。
「何っ!?」
からみつく対象を失った網がくたくたと崩れ落ちる。その網の目をくぐって、「憑依」を解いたサイキが転げ出た。地面を蹴り、背に銀色の翼を生やして舞い上がる。
「これで…けりをつける!」
サイキが吼えた。全身を銀光が包み、流星のように落下して蜘蛛の身体を突き破る。
「馬鹿なあ…っ!」
「黒の首領」が呻いた。「蜘蛛の戦士」は、ここに至っても一言も発さずに地面に転がっている。
「勝ったぞ!」
サイキが勝ち名乗りを上げた。―今まで踏ん張っていた輿を担ぐ者たちも、恐怖の叫びを上げて乗り手を放り出し、逃げて行った。
「黒の首領」が地面に転げ落ちる。それでも必死にマントを掴んで身体を隠し、じたばたもがいて逃げようとした。
サイキは、ずかずかと「黒の首領」に近づく。
「な、何をする無礼者!我こそは二つの世界に名を轟かす『黒の首領』なるぞ!」
「その『黒の首領」さまとやらの!今まで隠し通してきた真の姿!みんなに見せてやるぜ!」
黒いマントを掴み、引き千切るようにはぎ取る。
「黒の首領」の姿が、白日のもとにさらされた。
「「「ああ…っ!」」」
楓、カノコ、それにその場から逃げ出さなかった者たちの口から、一様に驚きの叫びがほとばしった。
奇怪きわまりないその姿―
「これが…『融合』…!」
一人の「彼方人」の脇腹から。
「果て人」の上半身が、生えている。
斜めに突き出したその「果て人」の顔が、大きさこそ違えその上の「彼方人」の顔とそっくりなのが、より異様さを強調していた。
しかし、二人の身体がつながっている部分は赤くただれ、はれ上がっている。
「遺伝子的によく似た存在だった…?そうでなきゃ、融合してしまうと血液や組織が混ざって生き延びられないわよね」
楓が呟く。
「でも、完全に同じって訳じゃなかった。だから拒絶反応があり、苦痛をもたらした…!」
「貴様らにわかるか!」
二つの口から、全く同時に叫びがもれた。
「自分の身体の内に、違う身体が入りこんでいる業苦!内臓が押しのけられ、圧迫され続けている苦痛!別の身体とつなぎ合わされ、組織が、細胞が無理に溶け合っている苦しみ…味わったこともない貴様らに、我『ら』のこの三十年がどのようなものであったか、わかるものか!」
「わかんねーよ!」
マントを放り出して、サイキが怒鳴る。
「わかんねーけど…でもな、どんなに苦しかったからって、他の人を傷つけたり苦しめたりしていいって理由には、ならないんだよっ!」
「黒の首領」の二つの身体が、すくみ上がった。
「終わらせてやるぜ…全てをな…!」
サイキは「遺産」を懐から取り出し、両手にはさんだ。
「―むっ」
低く唸り、両手を離していく―と、「遺産」は橙の光を放つ反った刀になった。左手でその柄を掴み、右手で虚空をなぞると刀身が伸びていく。
「野本くんの家で見た日本刀…」
カノコの肩に掴まる楓が、思わず呟いた。
橙に輝く刀を、サイキは「黒の首領」に向けて振り上げた。
「な、何をする!やめてくれ、命だけは…!」
「今まで、どれだけの人を苦しめた!だました!無理矢理従わせた…っ!」
「我は!ただ我は!この業苦から解放されたかっただけだ!」
「終わりなんだよ!全部!」
むしろゆっくりとした動きで―
サイキは、刀を振り下ろした。
その時―橙の輝きが膨れ上がり、サイキと「黒の首領」を飲み込んでいった。
光はゆっくりとすぼまり、消えていった。
その後には。
「これって…」
二つに分かれた「黒の首領」の身体が、転がっていた。
無傷で。
「これは…」
「斬られたのではなかったのか…?」
「彼方人」と「果て人」、二人が声を上げる。
「終わらせてやるって言っただろ?」
サイキがにやりと笑って、答えた。
「苦痛が消えた!助かった…!」
二人は手を取り合い、歓声を上げる。そのまま、転がるように逃げていった。
「サイキ!逃がしちゃっていいの!?」
楓とカノコが駆け寄った。
「部下ももういないし、あいつらももう今までのような『力』を持ってない。いずれ誰かに捕まるさ。捕まえて、『果て人』の方は『果ての地』に送り返して…その後はそれぞれ裁かれるだろ」
「それにしても…」
楓が眉を逆立ててサイキを睨んだ。同サイズだったらひっぱたいていただろう。
「あなた、最初から…樹さんから『黒の首領』の話を聞いた時から、こうするつもりだったのね!」
「ばれたかー」
へへっと笑う。
「おかしいと思ったのよ。私たちには別に、『遺産』を手に入れる必要なんて全然ないんだもの。単に『彼方の地』に行って、カノコさんや他の人たちを守り通して『黒の首領』を倒せばそれで済む話だったのに、妙に『遺産』を手にすることにこだわっていたから…どうして正直に言ってくれなかったのよ!」
「いや、放したら反対されるかと思ってさー」
「するに決まってるじゃないの!今まで…確かに命は狙われなかったけど!銃向けられたり槍突きつけられたり鞭でひっぱたかれたり剣持って追いかけ回されたり!サイキ、ずっとひどい目にあわされ続けてたじゃない!なのに!なのにっ!」
「自分がひどい目にあったことは言わないんだよなー、楓って」
「!?」
にっこり笑いかけるサイキを前に、楓は言葉を失った。
「ばっ、馬鹿っ!いやもう、本当に、馬鹿あっ…」
最後は言葉になっていなかった。
「さて、『遺産』はもう、必要ないな」
サイキが刀をゆっくりさっきと逆になぞると、「遺産」は縮み、元の板に戻った。
「『遺産』の守護者よ!俺は誤らない『力』の使い方をしたと思うか?どっちにしろ、俺にはもう『遺産』は必要ない!返すぜ!」
言って橙の板を差し上げる―と、「遺産」はひとりでに浮かび上がり、「山脈」に向かって、光の尾を引きながら矢のように飛び去っていった。
「鷲族」の村に三人が戻ると、「蜘蛛族」の連合が力を失って散り散りになり、難民たちが元の土地に戻りつつあると連絡が入ったところだった。
勝利を祝う祭り―に続いて盛大な宴が催され、その中で「黒の首領」であった二人が捕らえられたとの知らせもあった。
「いずれ二人ともここに連れてこられるだろう。『果て人』の科学者だった方は『果ての地』に送還してそちらの法にもとづく裁きを受け、『蜘蛛の巫術師』であった者は各部族の代表が集って処分を決することになるな」
三人と族長は村を離れ、「儀式の場」に来ていた。まだ宴は続いていたが、脱け出したのだ。「儀式の場」では昨日からスーミーが「門」を開くための儀式を行っており、四人を迎えてうなずいた。
老巫術師が頭を垂れて祈り、カノコがそれに手を添える―と、銀の球体が出現した。
「楓くん!サイキくん!無事か!」
ずいぶん久しぶりに聞くような気がする、樹の声が聞こえた。
「では、『門』を開くぞ」
「―『果て人』のお嬢さん。我々の感謝は常にあなたと共にある」
族長が楓に礼を述べる中、銀の球体が大きくなっていく。
「ああ、それぐらいでいいです。―俺、戻んないから」
サイキがさらっと言った。
「えっ!?」
はじかれたように楓が振り向く。その身体を巨大な手が優しく掴み、球体に押しやった。銀の輝きが身体を包む。
「サイキっ!でも、でも…」
「帰りなよ、楓。自分の世界にさ」
否応なく、押しこまれた。
再び、落下感。
最後に、声がかすかに聞こえた。
「―夏休みの間ぐらい、家族の所に帰ってやれよ。辛いのは知ってるけどさ。生きてるんだから、会えるんだから、大事にしないとな」
「サイキ…!」
その声が届いたかどうか、楓にはわからなかった。
気がつくと、研究所の以前サイキの―「天野あやめ」の身体が寝かされていた台の上だった。樹の心配そうな顔が側にある。
身体を見ると、包みこんでいた銀色の光が、薄れて消えていく所だった。
「サイキ…!」
「楓くん…」
樹がためらいがちに声をかけるのを、無視して。
「サイキ…!」
薄れていく銀の輝きを捕まえようとするかのように、自分の身体を抱きしめて。
楓はしばらく、子どものように泣きじゃくっていた。
最終章 喜んでしまう馬鹿もいる
八月の終わり、夏休みが終わる二日前。
楓は大きなリュックを背中から降ろし、舞鳥学園の校門前で一息ついた。
「くたびれた…」
市街地の外れまではバスが通っているのだが、山道は徒歩で登って来なければならないのだ。宿題やその他の勉強道具が入ったリュックを持ち上げ、顔を上げて校門を見る。
と―
「え…?」
腕から力が抜け、リュックが落ちた。
目を見開いて、信じられないという呟きをもらす。
「サイキ…?」
「よ」
いつの間にか、校門の柱にもたれていた背の高い姿が、軽く手を上げた。
「今は『天野あやめ』だぜ。人いないからいいけど気をつけようなー、楓」
にやにや、笑っている。
「な…何よ!『戻んない』って言ったから!私、あなたはもうこっちには来ないってばっかり…!」
楓はやっと言葉を絞り出した。
「あれ、樹さんに何も聞いてなかったのか?話しておいたんだけどな」
「それは…!」
戻って以来、樹とはほとんど話もせず、逃げるように研究所を出てしまったのだ。大泣きしたのが恥ずかしかったせいもあるし、何より打ちのめされていたのだ。
「大体さ、俺のほんとの使命は『果ての地』について学ぶことだぜ。『黒の組織』ぶっつぶすのなんてまるっきり余計な事さ。それが終われば、本業に戻るのは当り前じゃないか」
「じゃあどうして一緒に戻って来なかったのよ!」
「いいじゃんかー夏休みなんだからさー。久しぶりに村のみんなに会ったら懐かしくなっちゃって。ついつい夏休み中向こうで遊んじゃった。狩りに魚捕り…楽しかったなー」
「…宿題は?」
「しゅ、宿題!?あったよなーそう言えば!しまった、そこまで考えてなかった…」
「…馬鹿。前にも言ったけど、本当に、馬鹿…」
彼(?)は笑いを引っ込め、楓の顔を覗きこんだ。
「楓…もしかして、泣いてるのか?」
「ち、違うわよっ!」
「やだなー、もしかして俺がもう絶対こっちの世界に戻って来ないとでも思ったのかー?」
「う…!」
絶句する。
「でも…でも、いいの?」
何とか心を落ち着かせて、ずっと気になっていたことをぶつけてみた。
「こっちの世界にいる限り、ずっと女の子の身体なんだよ?嫌じゃないの?」
「まあ、嬉しいって言ったら嘘になるけど…我慢するさ。こっちも楽しいし、みんなも…楓もいるしな。しょうがないよ。身体は女、心は男のまんまでもさ」
「性別は男性って言うのよ」
目尻をごしごしとこすり、笑ってみせる。
「ふーん…それでもいいさ。行こうぜ、楓」
あやめは、手を差しのべてきた。
(今は、一緒にいよう)
そう、楓は思う。
この、背に白銀の翼を隠した少年と、今この時は一緒にいたい、二人で歩んで行きたい…そう、願っているのだ。
「…もう一度聞くけど、宿題は全然やってないのね」
「まるっきりー」
「まあいいわ。あと一日半あるし…やれるだけやりましょう。教えてあげるから…丸写しはさせないけどね」
「ちぇー」
「『ちぇー』じゃないっ!急ぐわよ、ほら!」
差しのべられた手を取って。
二人は、笑いながら校門を駆け抜けていった。
END
異世界との交流をテーマにしたファンタジーです。