異世界から来た少年が何故か少女に!?精霊の力を借りてのバトルファンタジー!
異文化コミニュケーションの難しさ、面白さが出ているといいんですが。
第一章 落っこちてくる馬鹿もいる
空に、穴が開いている。
そう、楓には見えた。
上空二十メートルほどに、青空をバックにして直径二メートルぐらいの真っ黒い円盤が浮かんでいる―そんな光景を、他に表す言葉が見つからなかったのだ。こいでいた自転車から降り、呆然と見上げる。
「…裏はどうなっているのかしら」
そう呟いて自転車を押しながら円盤の向こう側に回りこんでみる…が、どこまで回っても円盤は円盤のままに見え、そのうちにそれは円盤ではなく、球体をなしているのだとわかった。
「真っ黒い球体が、空中に浮いている…」
口に出してみて、あらためて事態の異常さに気づいた。思わずあたりを見回してみる。
青空には白い雲が浮き、山々の緑は豊かで鳥もさえずっている。眼下には舞鳥市街地が広がっていた。つまり、中空に浮かぶ黒い球体以外には、変ったものは何一つない。
「だ、誰かいませんかー…」
他に誰か人が…この事態に対する驚きを共有してくれる人がいないかと恐る恐る呼びかけるが、見渡す限り人間は誰もいないし、話し声なども聞こえない。まあ仕方ない、この山道がつながっているのは舞鳥学園ただ一つで、今日は日曜。学園の寮生でも―楓は寮生だが―通らない限り、ここに用のある者はいないのだ。
「スマホで写真撮ろうか。…こんなの、証拠がなければ誰も信じないよ」
珍現象に驚きながらも、そんな考えが頭をよぎってしまう。―その点は楓も、良くも悪くも現代の少女だった。
そんな時、黒い球体の中にぽつんと銀色の光が灯った。みるみるその光は大きくなり、球体を満たしてまるで第二の太陽―それも真夏の―の如く輝いた。
「きゃあっ!」
思わず手で目をかばった。
「うわああああっ!」
声が響く。自分の声かとも思ったが、違う。若い男―というより少年の声だ。どこかトランペットの響きを思わせる、やや高めの声。
そして。
楓は、見た。
声とともに、人の身体が球体から現れ、二十メートル下の地面に落ちるのを。
自分と同い年ぐらいの少年に、見えた。しかし、
(違う)
あきらかに、楓の知る「人間」とは異なっていた。何故なら、その身長は十メートルは優にあったから。また、楓がどこかの国のものとして記憶している民族衣装にも似た革製らしき服を身につけているのも、違和感を増幅していた。
「ぐわあっ!痛てててっ!」
その少年は、頭から地面に叩きつけられる寸前にあざやかな身のこなしで身体をひねり、足から着地した。しかしさすがに骨折か何かしたらしく、痛みに身をよじっていた。
「何…何なの、これ」
楓は呆然としていたが、はっと我に返った。返った途端に逃げ出したくなった。さっきから異常なことばかり起きている。巨人が目の前に出現している。逃げたい、全てをなかったことにしたい、切実にそう思った。
でも、できなかった。
目の前に―たとえ巨人でも―人がいる。怪我をして痛がっている。
それを、見過ごせなかった。
「だ、大丈夫?…な訳ないよね」
恐る恐る近づき、声をかけた。
「う…」
巨人の少年はそれに気づき。楓の方を向いた。トランペットの響きを持つ声が発せられる。
「…連絡してくれ」
そう、確かに言った。
「スマホ…とか言ったっけ。番号は…」
正確な日本語で告げられる数字を、楓は自分のスマホに打ちこんだ。呼び出し音が鳴ってすぐに回線につながる。
「もしもし、どちら様ですか」
硬い声でそう尋ねられ、楓は正直ためらった。今の状況を、たとえ知らない人であっても伝えて笑われたり頭がおかしいと言われたりするのは当然嫌だ。
だが、勇気を―巨人に声をかけた時以上の勇気を―振り絞った。
「巨人が空から落ちてきて…」
「何ですって!?本当ですか!場所はどこですか?」
意外にもすんなり話が通じた。楓は驚いたが、手早く状況と場所を伝える。
「わかりました!情報提供ありがとうございます!」
電話が切れ、十分と経たぬうちに白で塗装された乗用車とトラックが到着した。乗用車からは数人の男性が降り立ち、巨人の少年に駆け寄った。
「連絡されたのは、あなたですね」
そのうちの一人、グレーのスーツを着た男性が楓の方に振り向き、声をかけてきた。まだ若い…二十代後半だろう。
「はい、そうですが…」
「いずれ詳しい話をさせていただきましょう。今日はこれにて。…他言無用に願いますよ。まあ話しても、信じてもらえないと思いますが」
一礼する。その背後では、トラックのコンテナから巨大なマジックハンドが伸び、巨人の身体を担ぎこんでいた。
「それでは。あ、僕は、海原樹と申します」
「岡谷楓です」
つられて名乗った。
「―ありがとう」
再びトランペットの響きの声がした。コンテナの扉が閉まり、男たちは乗用車に乗り込み、二台は去って行った。
「何なの、一体…」
あまりにも唐突で幕切れもあっけなかったので、本当の事とは思われないほどだった。例の球体もいつの間にか消えている。しかし楓は、事件が起こる前とは違っているものに気づいた。
道路の脇のチェーン脱着所、その砂利が敷かれた地面の一部がへこんでいる。
巨人の少年が足を打ちつけた跡だ。
楓はそこに近づき、手を伸ばして触れ、さらに今度こそスマホのカメラにその画像を収めたのだった。
その週の金曜日のことである。場所は舞鳥学園高校。
世界史の授業が終わり、次の古文の授業用の教科書なども出し終わった楓は、何となくスマホを出して待ち受け画面をぼーっと眺めていた。
「…ねえったら。楓、聞いてる?」
そんな言葉とともに、ひょいと手が伸びてスマホをひったくられた。
「わっ!何するの!」
「さっきから声かけても返事しないんだもん、実力行使ー」
前の席から友人、川上 由布子が笑いかけていた。手にしたスマホを覗きこんで、
「何これ?砂利の地面?少しへこんでるけど。何でこんな画待ち受けにしてるのよ。良くわかんない感性ね、楓」
と問いかけてきた。
「うん…」
生返事を返してスマホを取り返し、画面を見つめる。
(…連絡、来ないな)
そう、考えていた。
(あんなおかしなこと、もう起きて欲しくない。こりごりだ)
そう思っている自分もいるが、
(一体あれは何だったのか、知りたい。これからどうなるのかも)
強くそう願っている自分も確かにいる―そんな状況が、今の楓の精神状態なのだった。
あの日から五日が経っていた。楓は放課後、あの場所に時々行っていたが、何度行ってもあれ以来おかしなことは起きていなかった。
(夢とかだったのかなあ)
そう考えて自分を納得させようとするが、あんな所で白昼夢を見るというのもおかしな話…と思考が堂々巡りをはじめてしまう。今日も楓は、半分上の空の状態で古文の授業を受けていた。
「紫式部は…」そう担任の南先生が言いかけた時だった。
チャイムが鳴り、呼び出しの音声が流れた。
「岡谷楓さん、岡谷楓さん、ただちに校長室に来てください」
教室がざわついた。生徒たちがささやき交わしている。
「…岡谷さん。すぐに行ってください」
南先生も驚いているようだ。
「―はい」
楓は答え、席を立つ…と、由布子に袖を引かれた。
「何かしたの、楓?こっそり煙草を吸ったとかー」
「してないわよ!」
「お金目当てに怪しいアルバイトしたとかー」
「だから何もしてないって!」
語気荒く答え、教室を出る…が、楓も首をひねるばかりだった。
(何で呼ばれるんだろう…?)
校長室に行ってみると、校長のみならず教頭までもが直立不動で楓を迎えた。
「あ、あの…」
何の用でしょうか、そう聞きたかったが気後れして言葉が続かない。
「―久しぶり、と言うべきかもしれませんね」
ソファに座っていた男性が立ち上がった。
「あ、あなたは…」
見覚えは、あった。あの一件の時、声をかけてきたその青年だった。
「海原…樹さん、ですよね」
「ああ、覚えていてもらえましたか。岡谷楓さん」
忘れる訳もない。あの時のことはくっきりと記憶に焼きついていて夢に出そうだった。
「それじゃ、私が呼ばれたのは…」
「はい、あの一件のことで、です。―すみません先生、岡谷さんはこのまま早退してもらうことになりますが、よろしいですね」
「は、はい!大丈夫です!」
うわずった声で校長が答えるので、楓は目を見張った。偉ぶっている人な訳ではないが、うろたえた姿なんて見たことがない。
「じゃ、行きましょうか、岡谷さん」
「あ…はい」
二人が部屋を出ると、校長と教頭は最敬礼して見送った。
学園の駐車場に、やはり白塗りだが先日のそれより一回り小さい車が停められていた。二人は乗り込み、校門を開けてもらって外に出た。
「…あの、海原さんは…何の仕事をしてらっしゃるんですか?」
おずおずと尋ねると、青年は笑ってこう言った。
「樹、でいいよ。僕も楓くんって呼んでいいかな」
くだけた言葉遣いになっていた。
「あ、はい、いいですけど…樹、さん」
「さっきの質問だけど…僕は公務員だよ。文科省から出向して、内閣直属の特別企画室って所に所属してる」
高校一年生の楓には良くわからなかったが、「内閣直属」という言葉の響きやらさっきの校長たちの反応からして、相当上の立場の人間なのだろうと見当をつけた。
「それで…私を早退させた理由は…」
「―君は目撃者だ。あの事件を無闇に口外されないためにも、きちんと事実を伝えておく必要があると思ってね」
樹の口調が真剣なものになった。
「あの、空から落ちてきた巨人についてですか」
「そうだ。…彼は、この世界の住人では、ない」
「そうですよね。地球の重力では、あんなに背の高い人間はつぶれてしまうんですよね」
「良く知っているな。彼は―まあ君ぐらいの年ごろなら、ゲームや小説でなじんでいるかもしれないが―異世界の人間だ」
「異世界…」
そんなことをちらっと考えたこともあった。
しかし、あらためて他人の口からその単語が出てくると、自分が置かれている状況のとんでもなさに気が遠くなりそうだった。
「それで、彼…は、今どこに?もう自分の世界に帰ってしまったとか?」
「いや、こちらの世界にいる。しかし両脚を折っているし、そもそもあの身長のままではこの地球上で歩くことはできない。だから彼は、我々の研究所にずっと留まっている。…今僕らが向かっているのは、そこだ」
車は市街地を走り抜け、舞鳥盆地の南側にある山間部に入っていった。緑の山々を縫うように車は進む。車二台がすれ違うのもやっとのような細い道で、もちろんさっきから人も車もまるっきり見かけなかった。
「ここだよ」
そう言って樹がハンドルを切り、「国有地、無断立ち入りを禁ず」と大書された看板のあるさらに細い道に入った。途中に金網が張られていたが、道の前には扉があり、樹がIDカードをかざすと音もなく開いた。
さらにくねくねと曲がる道を進むと、狭い谷に抱かれるようにして何棟もの建物が並んでいる場所に出た。振り向いても山に遮られて道は見通せない。…ということは、本道からもここに建物があるとはわからないということだ。
車は小さな駐車スペースに停まった。樹が降り、うながされて楓も降りた。
建物の中に入ると、白い光に照らされた廊下が続いていた。左側に並ぶドアの向こうはどうやら事務室などらしい。時折制服姿の男女が二人とすれ違うが、みんな樹に会釈して通り過ぎて行った。樹もその度に一礼するが、地位的には彼の方が高そうだ、と楓は感じた。
廊下の右側には大きな金属製の扉があった。その扉が開くと、大きなホールのようになっていて、様々な機械が並んでいる。それぞれはケーブルでつながれ、光を明滅させていた。
「すご…」
機械類のことには詳しくない楓だが、これらが技術の粋を集めたものらしいということは推察できた。
ホールの中央に、巨大なガラス張りの水槽があった。―と言っても、中に入っているのは水とは少し違う液体のようだったが。
その長方形の水槽の中に、見覚えのある巨大な身体が横たわっていた。
「おーい、お客さんだよ」
樹が水槽の脇の、マイクとスピーカーがついた機器に声をかけた。
「え、誰?…ああ、この間俺を助けてくれた人か」
スピーカーから、ややくぐもってはいるがあの、巨人の少年の声がした。
「あの時も言ったと思うけど、本当に助かったよ。ありがとう。…俺の名はサイキ。『銀の虹』のサイキとも呼ばれてる。『鷲族』の戦士で…」
「その格好で見栄切られても、説得力ないんだけどな」
「…そうだな」
サイキと名乗る少年はがっくりした声を出した。
「私の名前は岡谷楓。楓、でいいわ」
「かえで…うん、覚えた。よろしくなー」
「それで…」
楓は、傍らの樹を見上げて問うた。
「彼はずっとこのままなんですか?」
「いや、それではこの世界のことを学ぶという、彼がこの世界に来た目的が果たせないので、彼には別の身体を用意している。―これだ」
樹の示した先には、サイキの入っているものより小さい…ちょうど人間がすっぽり入るほどの大きさの、水槽があった。やはり中は液体で満たされている…が、その他には何も見えない。
「これが…何ですか?」
「まだ肉眼では見えないが…この中には、一個の受精卵が入っているんだ」
樹が自慢げに言った。
「サイキくんの遺伝情報をもとに、この世界の人間サイズになるよう手を加えた受精卵…いずれ分裂を繰り返し、胎児となり、やがて彼自身の年齢相応に成長する…」
「そんなことできるんですか!?」
「ふっふーん、学会で発表されるだけが科学の最先端ではないってことさ」
「でも…それって思いっきり『違法』なんじゃ…」
「いや!そ、それは…まあ、メリットがあればその…」
途端に樹はうろたえて、ごにょごにょと口ごもった。
「と、とにかく!彼は自分の年齢相応に成長した身体『擬体』に!あちらの世界に伝えられた憑依技術でもって精神を移しこの世界で活動するんだ!」
「そ、そうなんですか」
樹の勢いに気圧されて、楓は思わずうなずいた。
「で―ものは相談なんだが」
ころりと口調を変え、樹は楓ににっこりと笑いかけた。
「サイキくんは『憑依』後、舞鳥学園の一年生に編入することになっている。この世界のことを勉強するには、学生になるのが一番手っ取り早いとのことでね。楓くんにはその際、彼の世話係になってもらいたいんだ」
「え!?」
いきなり話を振られ、楓はまごついた。
「サイキくんの…いや、あちらの世界のことは最重要機密になっていてね。舞鳥学園に入ってから、この世界について何も知らない彼をどうフォローするか悩んでいたところだったんだが…君が協力してくれるなら、それに越したことはない。頼めるかね」
「え、え!?でも…」
「アルバイトと見なして給料は出す。もちろん学園には内緒でね。悪い話ではないと思うが」
「口止め料…ってことですか」
「ま、そういうことだね」
樹はあっさり認めた。
「…」
楓は内心、「足元見透かされてるなー」とも思ったが、しばらく考え…決めた。
「わかりました。その話、受けます」
「じゃあ、かえでと『がくえん』ってところで一緒なのかー」
喜んだのは樹よりサイキだった。
「よろしくなー。仲良くしようぜ」
開けっぴろげに言われて、楓は少しどぎまぎする。
「よ、よろしくね」
「じゃ、交渉成立だ。詳しい話は事務室の方でしよう」
「は、はい」
「じゃー、また今度ー」
サイキがのんきに声をかけ、楓と樹はホールを出て事務室に入った。
「それじゃ、この契約書をよく読んでサインしてねー」
軽く言われ、楓はちょっと悩んだが結局サインした。
「『擬体』の成長は一週間ほどで完了する。そうしたら、また君を呼ぶよ。その時はよろしく」
「一週間…早いんですね」
楓はあらためて驚いた。
「ふっ、最近の研究の成果だ」
また樹は自慢げに胸を張った。
「もちろんここに来るのはいいんですけど、今度は平日でない日でお願いしますね。あんまり授業抜けたくないんで」
「ああ、気をつけるよ。我々は土日も関係なく働いてるから、今日が平日だってことを忘れていたんだ。…じゃあ来週の日曜日、迎えに行くんで来てくれたまえ」
「わかりました」
そんな風に話がまとまり、楓はまた樹の車で舞鳥学園に戻った。…残念ながらすでに放課後だったが。
しかし、三人は知らなかった。
その日の晩、黒ずくめの服を着た人間が警備をくぐり抜けてこの建物に侵入したことを。
ほのかに照らされた小さい方の水槽、その天井の継ぎ目をこじ開け、何かの薬品を注入したことを。
そしてにやりと笑みを浮かべたことを―。
一週間が過ぎ、楓は再び樹の車で谷の奥の建物―「国立遺伝子科学研究所」とか言うらしい―に向かった。
「その、サイキがそこから来たっていう『異世界』ってどんな所なんですか」
車の中で、楓は樹に聞いてみた。
「そうだな、例えるなら―白人に征服される前の北アメリカを考えてくれればいい。広大な草原があり、巨大な山脈があり…その中にいくつもの部族に分かれて人々が暮らしている。それぞれの部族には動物の姿をした守護精霊がいて、遠い先祖だと信じられているんだ。文明レベルこそ我々のものより低いが、守護精霊を呼び出してその力を借りたりできる点などはこちらの世界より優れているかもな。その他、薬効の高い薬草などもあり、そういうものの交易も検討されている」
部族、という言葉には思い当たることがあった。
「サイキは『鷲族』とか言ってましたね」
「…そうだ。その『鷲族』が、『門』を介してあちらの世界―『彼方の地』と呼んでいるが―と、こっちの世界―あっちでは『果ての地』と呼んでいる―をつなぐ計画の、あちら側での中心だ。彼ら『鷲族』を中心とした部族の連合もまた、こちらとの交流及び交易を望んでいる。ただし、それにはこちらの世界のことを直接学び、理解を深めてからにしたいと考えているんだ。で、親善大使兼学生として選ばれたのが彼、サイキくんって訳だ」
今までサイキと話した内容からして、「親善大使」にも「学生」にも彼は向いていないような気がしたが、それは黙っておく。
「で、彼―サイキくんをこちらの世界に送り込むべく『門』を開いた訳だが、本来研究所に開くはずだったのがその場所が突然、ずれてしまった。…それでどうなったかは…君も知っている通りだ」
たしかに、知っている。嫌になるほど。
「万が一のことを考え、連絡先を教えておいて良かったよ」
「そうですね。あと…」
もう一つ、疑問をぶつけてみた。
「どうしてサイキたちあちらの世界―『彼方の地』でしたっけ―の人間は、あんなに大きいんでしょう。サイキだけが大きい訳ではないんですよね」
「いや、彼はあちらの『普通』より少し大きいぐらいの身長のはずだ。…あちらでは重力の法則が違うのかとも考えたが…まだこれは仮説だが、『門』を介して移送が行われる際に何らかの『ずれ』が生じるらしいんだ。事実、あちらから送られてきたものは全て『大きく』なり、こちらから物を送っても『小さく』なってしまうことが判明している」
「あと一つだけ質問。二つの世界には行き来や何かはあったんですか」
「遠い昔には、行き来があったらしい。古文書などにそんな記載があるんだ。何やら謎めいた言い回しが多くて解読の途中だがね。もともと今二つの世界の交流が行われるようになったのも、古文書から『彼方の地』の存在を知った一人の学者―僕の恩師だけどね―が、書かれていた方法をもとにその地に呼びかけ、その声が『鷲族』の巫術師に届いたことからなんだ」
そんなことを話しているうちに研究所に着いていた。また広いホールに入り、中央に進むと二つの水槽が見えてきた。大きな方の水槽には変化はなかったが、小さいそれには大きな変化があった。
「これが『擬体』…?」
楓は水槽に駆け寄り、覗きこんで…目を見張った。
胎児のように身体を丸める、姿。
「え…っ」
見覚えは、あった。
顔立ちは、たしかに隣で寝ている巨人―サイキのそれと、とても良く似ていた。
背は高そうだ。楓より頭一つ分は高いだろう。肌は本人のような赤銅色ではないが、これは日光を浴びていないせいと見当がつく。
しかし、
(違う!…って言うか、違うだろーが!)
つっこみたい、とんでもない差異が―大きさ以外に―サイキ本体とこの「擬体」との間には、あった。
「でも…この身体って…」
呟きが漏れる。
「どう見ても、『女』なんですけど…?」
沈黙が降りた。
「…そうなんだ」
それを破って、樹が認めた。
「たしかにサイキくん本人の遺伝情報をベースにしたのに、何故か女の子の身体になってしまったんだ。いやもう困ったもんだ、はっはっはー」
「…って!笑ってごまかすことじゃないでしょうっ!」
「そうだよ樹さん!作り直せよ!っていうかしてくれよ!俺こんな身体に宿るのやだよぉ!」
楓とサイキの波状攻撃に、樹はひるんだ。がっくりと肩を落とし、呟く。
「…がないんだ」
「「は?」」
「『予算』がつかないんだ」
完全に開き直った態度で、樹は顔を上げて胸を張る。
「サイキくんはともかく、楓くんは知ってるだろう!今の我が国の財政状態を!そこを縫って何とかこの計画の予算をひねり出しているのに、『擬体』をもう一体―ただでも最新技術の粋でかかり過ぎるほど金がかかってるのに―作るほどの予算が出る訳ないだろうが!少なくとも今年度中は絶対無理!」
そうなのだ。
エリートだろうがキャリアだろうが、公務員は公務員。公務員である以上は予算に縛られ、多少の融通は効くにしても高額すぎればどうしようもない。これが災害とかなら緊急支出もありうるだろうが、そんな訳でもなく、ましてや極秘の計画であっては…。
ため息をつき、楓は将来の就職希望から「公務員」を削除する。
一方おさまらないのはサイキだ。
「俺は嫌だっ!何度も言ってるけど、女の身体で暮らすなんて…っ!」
「じゃあ大怪我状態で『彼方の地』に戻るか、このままの状態で三カ月過ごすか、どちらかだな」
「こ、こんな何もできてない状態で戻れるかよ!…このまんまってのも、退屈でやだなあ…」
あくまで「正直」な男であった。
「あきらめろ。…どうせこの世界を学ぶためには、『学校』に通ってもらうのが一番で、舞鳥学園に編入も決まっているんだ。何、男子を入れずに女子を編入させるだけの違いだ。…どうせ楓くんも監視対象になってるんだ、まとめて扱えてこっちも助かる」
「ちょ…ちょっと待ってください!私も監視されるんですかあ!?」
サイキの世話係になるのは了承したが、自分が見張られるとは思っていなかった楓であった。
「そうだ。言っただろう、極秘プロジェクトだと。それに関わってしまったんだ、秘密を漏らさないよう監視させてもらう」
「漏らしません!…って言うか多分誰も信じないと思います…」
「僕の決定できる事項ではないんでね」
樹は言い切った。…楓は正直疲れ、めげずに言い争っているサイキから「擬体」に視線を移した。
よく見ると、顔立ちも本体よりやや小作りで柔らかい印象を与える。視線を下にやると、膝を抱えた腕の間から胸のふくらみが目に入った。思わず自分の胸と見比べ…ちょっとほっとして、さらに下に目をやってしまうが、身体を丸めて浮いているのでさすがに良く見えない。
「…見てどうするのよ」
思わず自分につっこみを入れた。
「ま、まあとにかく、この身体しかないんだから、『憑依』してくれないか」
「やっぱやんないと駄目なのか?うう、樹さーん」
「でなければ、三ヶ月間…」
「わ、わかった!やるよ、やりますよ!」
大きな水槽の中のサイキが、眉を寄せて集中した表情になった。
と。
ほのかに銀色の輝きを放つ霧かもやのようなものが、サイキの全身から立ち昇り…小さい水槽の中の「擬体」に吸い込まれていく。
もやが完全に消えた時、「擬体」の―「サイキ」のまぶたが動いた。目を開き、膝を抱えていた腕をほどき…。
「わ!ちょっと、見ちゃ駄目!」
楓は樹に飛びつき、目をふさいだ。
「い、いやこの計画の責任者として、見届けたい…」
「駄目ったら駄目っ!」
楓は樹をホールの出口に引きずって行った。
しばらくして二人が戻ると、すでに小さい水槽の液体は抜かれ、「サイキ」も外に出て大きい水槽に寄りかかっていた。波打つ黒髪が背を覆っている。
「あ、服着てる。良かったー」
「うん、研究員のお姉さんたちが着せてくれたんだ。着方は大体わかったよ。次からは一人で着られると思う」
少女の姿をした少年は、笑った。
「でもこれが俺の使う身体か。うわ胸っ!ふくれてるっ!」
サイキは自分の胸を見て叫んだ。さらにわしゃわしゃと触り、服に手をつっ込もうと―
「やめなさいよ!」
そこで楓が止めた。
「えー仕方ないじゃんよー。俺の身体を俺が確かめて何が悪いのさ」
「駄目っ!とにかく駄目っ!」
顔を真っ赤にして楓は言いつのった。
「わかったよ…」
渋々サイキは服から手を放す。
「…まあ、こういう訳で」
樹が二人の顔を見渡して告げた。
「サイキくんは明日から、舞鳥学園の高校一年生に編入されることになる。―女子としてだけどね。サイキくんには『天野あやめ』と名乗ってもらうことになっている」
「あまのあやめ…うーん、それが俺の呼び名になるのか。まあいいけど。あやめ、ねえ」
「楓くんも、呼び違えないようにしてくれよ」
「気をつけます」
「あ、それから、楓くん。君はたしか若葉寮の一人部屋だったね」
「はい、そうです。あぶれたんで、二人部屋に一人で住んでいるんですが」
「今日からサイキくんをその部屋に入れて、二人で住んでもらう」
「「ええええっ!」」
楓とサイキ、二人の声がきれいにハモった。
「サイキと二人部屋ですかあ!?なりは女の子ですけど男ですよ!」
「俺だってそんなの嫌だよ!」
「仕方ないだろう。サイキくんはこっちの世界の生活に全くなじみがないんだ。一人で寮生活させる訳にはいかない。かと言って男子と二人部屋にする訳にもいかないし…我慢してくれ」
「そんなあ…」
文句は言いたいが、樹の口調から決定事項なのだろうと感じ、楓は黙った。サイキも不承不承口をつぐむ。
かくて楓とサイキ(あやめ)の二人は、樹に送られて舞鳥学園に向かった。サイキは当然はじめて研究所の―と言うより、あのホールの―外に出るので(最初研究所に運ばれた時は窓のないコンテナだったので)、見るもの聞くもの珍しいらしくきょろきょろしては感嘆の声を上げている。
「すごいなー、角張ったものが走ってるよー!下に丸いもんがくっついて回ってるのか。なるほどなるほど」
「今私たちが乗ってるものもそうでしょうが」
「うわ、今飛んでったの鳥かと思ったけど違う!」
「ああもう、黙ってなさい!あなたの故郷にはないものばっかりかもしれないけどねー、ここじゃ誰でも知っていて驚かないの!少しは目立たないようにしなさいよね」
「だってはじめて見るものばっかりでさー。面白いなー、こっちの世界」
サイキは目をきらきらさせている。
学園に着くと、校長に教頭、担任の南先生まで校門に並んで二人を迎えた。若葉寮の、今まで楓が一人で使っていた部屋に車のトランクに入れてあったサイキ用の日用品を運びこむ。と言ってもそんなに多くなかったが。
作業が一段落し、二人は二段ベッドの下段に座りこんで一息ついた。
「この世界のこと全然知らないんだよね、サイキは。日常生活のやり方も一から教えないと駄目なの?」
「うん…樹さんや研究員の人たちが、ビデオ…とかで色々教えてくれたけど、まだ何にもやったことない。…あ、そうだ、『シャワー』浴びていいか?」
「いいけど…こらちょっと!脱ぐなあっ!」
ベッドの上でぽんぽん服を脱ぎだしたサイキを、あわてて楓は止めた。
「いいじゃんかー。俺、今は女の身体なんだぜ」
「嫌っ!私は嫌なのっ!それから私がシャワーを浴びるときには、部屋の外に出ていること。いいわね?」
「えー」
「『えー』じゃない!…あと、男の子の所に行っても、服を脱いでみせたり触らせたりしたら駄目だからね。絶対!」
「ちぇー」
「『ちぇー』じゃない!」
かくして楓はシャワールームの反対側を向き、サイキ(あやめ)がシャワーを浴びる音を聞いていた。
「頭を洗うのは『石鹸』ってのでいいのかー?」
「シャンプーを使って。瓶に入ってるやつ」
などと彼(?)の疑問に答えてやっている。
「わーい、すっきりした。お湯で身体を洗ったのははじめてだよ」
サイキが身体を拭きながら出てきた。
「じゃ、私も入るから…」
「から?」
「部屋から出て行って。三十分で上がるから、それまで外で時間をつぶしててね」
「ちぇー、つまんないのー」
「つまんなくないのっ!とにかく出ていくっ!」
「わかったよ…」
渋々サイキはドアを開け、楓はほっと息をついて服を脱ぎはじめた。
第二章 機関銃撃つ馬鹿もいる
月曜の朝、楓は六時に目を覚ました。朝食は六時半からで八時半に授業がはじまるから、少し早めかもしれない。
下段のベッドで寝ているはずのサイキに声をかけた。
「朝だよー、サイキ。…って、起きてる?」
「ああ」
その声に元気があまりないように感じて、楓は下のベッドを覗きこんだ。
「けっこう朝早いんだね」
「村じゃ朝日が昇るのと同時に起きることになってるからな。でも、あっちじゃテント暮らしだからお日様が顔を出すのがよくわかったけど、こんな壁の中じゃわかりづらいな」
そう答える口調にもいつもの―まあ、そう言えるほど長いつき合いではないが―覇気がない。梯子を下りて見てみれば、サイキはベッドに座りこみ、下を向いて泣きそうな顔をしていた。
「ど、どうしたの」
楓は思わずうろたえた。
「うう…」
サイキは震える声で呟いた。
「俺の、朝方はいつも元気一杯だったモノが、モノが、ない…」
「朝っぱらから何不穏当な発言をしているかぁっ!」
楓の後ろ回し蹴りが、丸まったサイキの身体を吹っ飛ばした。
それから大騒ぎの末何とかサイキも制服の灰緑色のブレザーに着替え―楓は早めに起きて正解だったとつくづく思った―、朝食を摂り(昨日わかったがサイキは箸が使えず、パン中心になったが)、彼(?)を職員室に送り届けて楓は朝礼に行った。
月曜の朝一番には、各クラスのホームルームがある。
「今日はみんなにお知らせがあります。転校生がこのクラスに来ることになりました」
教室にざわめきが走った。
「天野さん、いらっしゃい」
南先生が呼びかけると、教室のドアを開けてサイキ(あやめ)が入ってきた。ざわめきがさらに大きくなる。
「あ、天野あやめです。よろしくっ」
言葉少なに挨拶をして、サイキは―あやめの姿だが―黒板に左手で大きく「天野あやめ」と名前を書いた。だが…。
「下手だなー」
一人が呟き、どっと笑いが起こった。
「天野さんは帰国子女です。日本語の会話は大丈夫ですが、字の方はちょっと苦手なんですね」
先生がフォローする中、サイキ(あやめ)は真っ赤になって振り向いた。
(サイキであやめ…うーん、呼びにくいなあ)
楓はそう思って、何か適当な呼び名がないか考えてみた。
(あやめ…でいいか。よし、頭の中ではそう呼ぼう)
楓がそう決めたので、これからは「あやめの姿をしたサイキ」のことを「あやめ」と呼ぶことにする。
「それでは天野さん、あなたの席は窓際の一番奥…岡谷さんの後ろなので行ってください」
「はーい」
あやめはうなずき、机の間を歩いて楓の後ろに来た。楓は振り向いて、
「…言葉は通じるのに、字とかは違うんだ」
と言うと、あやめはまだむっとした口調で、
「うん、違う。それにこの字、左手じゃ書きにくいよ。この字は『熊族』とかが使ってる古い文字に似てるけど、めったに書くことなかったし」
と答えた。
「あなたたちが日常で使う文字ってのはどんなのなの?」
「こんな感じ。南の方から伝わってきた字だって言うんだけど…」
彼(?)はさらさらと、絵文字のような記号を左手でノートに書いた。
「岡谷さん、天野さん、ホームルーム続けますよー」
南先生にそう言われ、二人はあわてて前を向いた。
「それから、順番が逆になってしまいましたが、今日から副担任の先生が変わります。…海原先生どうぞ」
((海原?))
二人がぴくっと反応する中、入ってきたのは…
「海原樹です。よろしくお願いします」
やはり樹だった。
「大学で研究をなさっておられましたが、この度英語教師としてこの学園にこられました。寮の舎監も務めることになります」
「大学ぅ?嘘ばっかり…」
「やっぱ俺たちの監視のためなんだろうな…」
二人は他の生徒に聞こえないようにささやき交わした。
世界史、英語I、古文…と授業は続いた。楓は時々あやめを見やって、さぼっていないかチェックしたが、一応おとなしく先生方の話を聞いてはいた。…ノートは全滅状態だったが。楓は、後でみっちり字などを教えこまないとな、と心に決めた。
体育の授業の前、ロッカー室への道すがら楓はあやめにささやいた。
「着替える時も、私や他の子のこと見ちゃ駄目だからね」
「じゃあどうやって着替えるのさー」
「目つぶってて!」
「無理だよー。俺、こんな服着たことないのにさー、目つぶって他の服に着替えるなんてできないって」
「うっ…じゃ、じゃあ、私だけは絶対見ないで!」
「他の子は見てもいいのかー?でもまあ、それならできそうだな」
(うう…みんな、ごめんね)
楓は心の中で女子全員に手を合わせた。
そんな密かな楓の悩みをよそに、着替えを終えて授業が始まったが…あやめは体育は良くできた。女の身体になって筋力は落ちていたが、反射神経と瞬発力は変わっていない、とは本人の弁。バスケットボールだったのだが、ルールもすぐ飲み込み背が高いせいもあってシュートもかなり決めていた。
午後は数学、ラストは英語Ⅱで、入ってきたのは樹だった。授業をはじめ…五分ほどで全員机に突っ伏した。
難しい。
ぺらぺらと正確な発音で英語を喋り、ものすごい速度で黒板に文を書いていくのだが…あまりに早すぎて誰も質問どころかノートも取れない状態だった。時折生徒に質問して答えさせるが、まともな返答ができた者は(楓を含めて)一人もいなかった。…さすがにあやめには当てなかったが。
六時限目が終わり、みんなげっそりした顔で教室を出て行き…楓とあやめと樹が残された。
「どうだいサイ…いや、あやめくん。初授業の感想は」
「良くわからなかったー」
(そう、特にあなたの授業が)
楓はそうつっこみそうになったが、危うくこらえた。
「休み時間の後は掃除で、それから部活だな。楓くんはどこかの部に入っているのかい?」
「今のところ何もやっていませんけど…」
それに正直言って、放課後はあやめをしごいてやりたい。
「そうか。じゃあ掃除の後、この教室に集まろう。一日生活して必要なものもわかってきただろうしな。僕は寮の舎監だけど、入るのは男子の青葉寮だから、そっちでは顔を合わせられないんだ。話し合いはこっちで済ませておきたい」
そう樹が言った直後、校内放送で掃除の時間を告げる音楽がかかりはじめた。
「サイキ、行くよー」
「あ、ああ。でも何すればいいんだ?」
机の列ごとに班を組んでいるので、楓とあやめは同じ所を掃除するのである。
「ちゃんと教えてあげるから。急いで!」
二人が教室を出て行き、樹はくすっと笑うと教卓に身をもたせた。…すぐにここを掃除する生徒たちが入ってきて追い出されたが。
掃除も終わり、三人は教室に集合した。一日を過ごしてあやめの生活に必要だとわかったものを楓が挙げていき、樹が意見を言いながらメモを取っていく。ああでもないこうでもないと話し合い、終わったころには西の空が黄金色に変っていた。まだ四月半ば、新入部員を加えたばかりの部活は長い時間活動せず、この時間にはほとんどの生徒が帰宅するか寮に戻っていた。
「もうすぐ夕食かなあ」
「腹減ったよお…」
あやめが胃のあたりを押さえてうめいた。
「じゃ、解散するか」
樹が言い、三人は鞄を手に階段を降り、校舎の外に出た。
そこで―信じられないものを見た。
どう見ても学生にも教師にも見えない、黒ずくめの服装の男たちが影の濃い校舎脇を音もなく走り、こちらに迫ってくる。
その手には―
「機関銃?」
「しっ、静かに」
思わず声を上げた楓を、樹が制した。
そう、男たちが手にしているのは機関銃だった。楓の知識ではどんな型でどれだけの威力があるか、などはわからなかったが。
「な、何で機関銃持った人たちが、学校なんかに…」
「―狙いは、多分君だ。サイキくん」
「そうなんだ」
静かに言う樹に、やはり静かにあやめが答えた。
「それってどういう…」
「撃退できるか?」
楓の言葉を遮って、樹があやめに問うた。
「矢より速くて力のある小さい石を発射する道具なんだよな。なら、大丈夫だ。―楓、樹さん、下がってて」
「待ってよ、あんなのとどうやって闘うの―」
「大丈夫だから!俺を信じろよ」
「でも!」
「下がろう、楓くん」
言い放つあやめに楓は詰め寄ろう…としたが、樹に制された。
「大丈夫、まーかせとけって!」
自信たっぷりに笑うあやめは、校舎を離れて花壇の小道に立った。左手を天に突き上げ、叫ぶ。
「我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!今こそその力を、我を介して示せ!」
その瞬間―
彼(?)の身体から、爆発的に銀の光が放出された。
「ああっ!」
その眩しさに楓は思わず目をかばった。…と同時に、その輝きに見覚えがあるのにも気づいた。
(知ってる光だ。そう、はじまりの時…)
「門」と呼ばれると後に知らされた黒い球体、その中に出現し満たした光だった。
今やその光は、あやめを包んで湧き上がり、円柱となって天に駆け登っていった。空高く吹きあがった銀光は、一瞬広がってぱっとはじける。
その後には、
「え!?そんな、まさか…」
巨大な銀色の鷲が、大きく羽ばたきながら浮かんでいた。
と言っても、実体ではない。
銀の光が織物のように重なり合って、鷲の姿を作り出しているのだった。編み上げられた光の揺らめきの中、ちょうど鷲の心臓があるあたりに、ちらちらとあやめの姿がかいま見える。
「見てろ、あいつらなんかこの状態の俺には屁でもないぜ!」
響き渡るその声は、いつもの「天野あやめ」の声ではなく、あのトランペットの響きにも似た「サイキ」の声だった。
「あれは…何…?」
「あれこそ、サイキくんたち『加護を受けた者』の最強形態、『憑依状態』だ。…この目で見るのははじめてだがな」
呆然と呟く楓に、樹が解説口調で答えた。
「自らの身体を核として守護精霊をこの世界に具現化し、その力を借りる…通常の攻撃では、今のサイキくんには傷一つつけられまい」
その通りだった。
自らの頭上を舞う巨鳥の姿に気づいた男たちは、かなりあわてた様子ではあったが一様に銃口を上に向け、鷲を狙って射撃をした―が、ゆったりとすらした動きで彼(?)が羽ばたく度にその弾は力を失い、ばらばらと落下していった。
「別に羽ばたいて風を起こしていたりする訳じゃない。『精霊の力』で銃弾の推進力を打ち消しているんだ」
樹の口調には抑えきれない喜びの色があった。
「流れ弾に当たったりしてはまずい。移動しよう、楓くん」
「あ…はい」
樹にうながされ、楓は無人の校舎に入った。
「今のサイキに銃が効かないのはわかりましたけど…」
窓から戦闘をちらちら見ながら、楓は問いかけた。
「『撃退する』には何かあいつらを無力化する手段が必要ですよね。どうするつもりなんですか、サイキは。降りて行って嘴で突っつくとか?」
「まあ見ていなさい。僕も話に聞くだけだが、彼は遠距離攻撃の技も持っているはずだよ、確か」
樹がそう言って微笑んだ時、大鷲が一際大きく羽ばたいた。
と。
その翼から銀色の光が幾条も放たれ、狙い過たず男たちの機関銃を持つ手に突き刺さった。次々と打ち放たれる光条に、彼らは手をハリネズミの如く突き刺されて思わず銃を取り落とす。
「あれが『銀の鷲の羽手裏剣』と呼ばれる攻撃か」
樹が満足げに呟いた。大鷲はゆっくりと移動し、男たち全員の銃を落とさせるべく羽手裏剣を飛ばしていた。が…。
一瞬。
(―え?)
楓の眼には、銀の鷲を形作る光の網目がほどけ、鷲自身も空中で体勢を崩したように見えた。
「サイキっ!」
思わずそう叫んだその時には、光は元の通り編まれ、体勢も元に戻っていた。
楓は見間違いかと思ったが、まだ胸がどきどきしている。
楓がはらはらして見守る中、わずか数分で男たちは全員無力化された。傷ついた手はもう銃を握ることもできない。相当動揺しているらしかったが、その動きに乱れはなかった。
「―」
リーダーらしき男が腕を一振りした。すると、男たちは一糸乱れぬ動きで、風のようにこの場から退散した。最後まで一言も言葉を発しない。
「へへっ、どーんなもんだい!」
声とともに、銀の鷲がゆっくりと降りてくる。輝きがゆっくりと薄れていき、地上二メートルほどで完全に消えてあやめの姿が現れて落っこちた。足を踏ん張って衝撃を受け止める。
「サイキっ!」
そこに、校舎を出た楓が飛びついた。
「大丈夫!?怪我はない?」
真剣な眼差しで問う楓に、あやめは満面の笑みで答えた。
「だーいじょうぶだって!言ったろ、あのぐらいの攻撃じゃ、『憑依状態』の俺には傷一つつけられないって」
「すごいのね、サイキって結構…」
「そうだろー。でも…」
不意にあやめの身体がぐらりと揺れた。楓があわてて支える。
「ど、どうしたの?やっぱり…」
「腹減ったよお…」
思いっきり動揺した楓の問いに返ってきたのは、情けないあやめの呟きだった。
「『憑依』は、すっごく体力と精神力を消耗させるんだよ。もうへろへろだあ…」
「お、驚かせないでよ」
文句を言う楓だったが、その両腕は彼(?)の肩をしっかりと掴んでいた。
「さて、この銃を何とか片づけないといけないな」
樹が散らばった機関銃を見やって一人ごちた。
「校舎に流れ弾が食い込んだりしていないかもチェックしないといけないし、目撃した生徒がいないかも確かめないとな。奴らが本当のところ何者なのか、何の目的でサイキくんを狙うかも正直わかっていないし…」
「まあ、そんなことは樹さんにやってもらうよ。それより今は飯だ、めしー」
「危機感ないわねー、何がどうなってるのか心配にならないの?銃で狙われたのよ!」
「腹がいっぱいになったら考えるよー」
そんな会話をしながら、楓はあやめに肩を貸して寮へ(正確には、寮の食堂へ)と歩きだしていた。樹は苦笑して、とりあえず銃器の後始末をするためスマホを取り出してかけはじめた。
「でも、すごいのね、サイキに加護を与えているっていう守護精霊の力って」
夕飯の後部屋に戻って宿題でもするかと思いつつ、楓はあやめに話しかけた。
「その、『守護精霊』ってのはどこにいるの?どういう風に力を貸しているの?」
「うーん、どう説明すればいいのかなあ…まあとりあえず見てくれ、これを」
あやめは左袖を盛大にまくりあげて肩を見せた。何か胸まで半分ほど見えているが、本人は気にしていない。
「―見ろよ」
彼(?)が眉を寄せ、ちょっと力むと、
「…え?」
左肩にはじめはうっすらと、次第にはっきりと銀色の光で文様が浮かび上がってきた。複雑な図形で、様式化された翼を広げる鷲が描かれている。
「俺の部族の守護精霊が、俺に加護を与えていることの証『鷲の紋章』だ。俺の世界にいた時にはいつも刻まれていたけど、こっちの世界の方がやっぱり精霊のいる所から『遠い』みたいで、集中しないと出てこない」
銀の光が織り成す文様は、おそらくは心臓の鼓動に呼応しているのだろう、わずかに光を増減させながら輝いていた。
「巫術師にも、巫女―俺の部族は巫術師だけど―にも、またデザインが違う紋章が浮かぶんだ。そういう人はお告げを受けたりするんだけどね」
「ふうん…」
楓はうなずくことしかできずに、ちょっと悔しく思った。ふと、あやめが一人で喋り過ぎてのどが渇いているのに気づき、コップにジュースを注いで渡した。彼(?)は受け取って礼を言う。
「俺たちは、守護精霊を崇めて供え物をしたりして加護を願い、精霊は信仰を受け入れた証としてこういう紋章を刻み、力を貸し与えてくれるんだ」
そう言ってあやめは袖を戻し、「紋章」をしまいこんだ。
「あと、精霊たちがいる場所は…俺もよく知らないや。聖なる山のてっぺんだって言う人もいるし、天高くに精霊の国があるんだって言う人もいる。ただ、少なくとも精霊のいる所は、こっちの世界より俺の世界に『近い』ことは今回わかったけどね。まあ俺は、力さえ借りられればそれでいいって思ってるけどさ」
あやめらしい考え方ではあった。楓はそう思って苦笑し、自分の分のジュースをコップに注いだ。
第三章 挑戦してくる馬鹿もいる
あやめが転入(?)してから、嵐のような一週間が過ぎ去った。その間に発覚した問題点はとうてい書ききれるものではない。
まず、授業が大変だった。国語の成績は悪かった…ひらがなも漢字も今まで知らなかったのだから仕方がないのだが。うっかり「彼方の地」の絵文字を黒板に書きそうになって、楓の席から消しゴムが飛んできたこともあった。
英語も同じ理由で全然駄目。小学生からか、下手をすると幼稚園から英語を学んでいる高校生にかなうわけがないのである。
意外に、理数系は結構成績が良かった。この世界に着いて無知なだけで知識や公式などの飲み込みはかなり良く、基本をマスターすれば後は「簡単」だと本人は主張している。ただし、
「ちょっとサイキ!あなた、この学園の編入試験に『受かった』ことになってるんだから、『この世界ってまんまるな球なんだー、すごいなー』とか言わないでくれる?そりゃあなたには驚きかもしれないけど、こっちでは小学生だって知ってるんですからね!」
「だって本当にびっくりしたんだもんなー」
こんな会話が交わされたこともあったが。
社会科系の科目も苦手だった。「この世界」のことをまるっきり知らないので、他の学生たちが当たり前のこととしている「常識」というものがなく、授業中はしょっちゅう教師を質問攻めにしていた。それも、この世界の人々なら何でもない事柄で。…まあ、それで授業の進行が遅れると言って怒る生徒というのはごく少数派だったが。
美術系はそこそこで、彼(?)が一番高い評価を与えられたのは体育だった。女性の身体になっても運動神経はあまり変わらず、スポーツ選手(女子の、だが)のレベルだったのだ。
そのほかの生活でもぼろは出しまくりだった。箸の使い方はいまだ練習中、まだ着替えでもたもたし…「帰国子女だから」と苦しいフォローをしてはいたが、かなり無理があった。幸い、無闇に好奇心を持って詮索してくる者はいなかったが。人間、少しおかしいとは思っても、よほどのことがない限る他人のプライバシーを侵さないものである。
そんなこんなで楓がはらはらしたり怒ったりあやめをしごいたりし、彼(?)が能天気に授業を受けたり楓のつっこみを受けたりしている…そんな時のことである。
―広いが、暗い部屋だった。
特に奥の方は闇がわだかまり、さらにその奥には分厚いカーテンが引かれていて見通せない。
カーテンの手前、部屋の中央あたりに一人の男がひざまずいていた。
年齢は二十代前半あたりか。革製の、サイキが「門」をくぐってきた時の服に良く似た衣服に身を包み、伸ばした黒髪を後ろで束ねている。
「―お主をこちらに呼び寄せ、新たな身体を与えた理由はわかっておろうな」
カーテンの向こうから声がした。低い、重々しい声―しかし、まるで二人の人間が同時に喋っているような、奇妙な響きがある。
「―は。わが宿敵との対決のため、と存じます」
男は頭を垂れたまま、答えた。
「対決には準備もあろう。この世界に慣れる時間も必要だ、十分に備えるがよい」
「は。『黒の首領』様」
男は深々と一礼した。
「ほら、ひらがな五十音あと十回!」
「えー、まだやるのかよー。鬼ー」
ここは若葉寮の二人の部屋。ぶつぶつ文句を言いつつあやめは机に向かった。
その時、こんこんとドアがノックされた。
「誰ですかー?」
「あたしよ、由布子」
そう声が返ってきたので楓が立って行ってドアを開けると、由布子の笑顔があった。さっと部屋に入ってくる。
「相談があるんだけどさ。あ、お茶はいらないわ」
自分の部屋にいるかのようにくつろいでベッドに腰を据える由布子を、楓はちょっと呆れ顔で眺めた。
「劇やらない?この若葉寮の一年生合同で」
「「劇ぃ!?」」
楓とあやめの声が、きれいにハモった。それぞれのこめたニュアンスは違っていたが。
「そ。歓迎会やってくれたり、色々気を使ってもらったでしょ?―あ、あやめちゃんは知らないか。とにかく上級生の方々には随分お世話になってるから、お返しに何かイベントをしたいのよ」
「劇って―何をやるの?」
「今、文芸部と演劇部の子たちが合同で脚本を書いてるの。だからあたしも詳しい内容は聞いていないんだけど…とにかく三日後には若葉寮一年生全員を集めて、配役とかを発表するから来てね。じゃ」
それだけを告げて、由布子はさっさと出て行った。
「劇かぁ…」
あやめ(サイキ)が呟く。
「サイキ、劇ってあなたの世界…って言うか、村にもあったの?」
「お芝居のことだろ?あることはあるよ。ただ、民話や伝説の一場面とかを儀式の途中で演じて見せたりするもんで、村のみんなも見るけどほんとは守護精霊にお見せするもんだな。先輩とかに見せるってのは、やってことないよ」
「そうか。…まあ、サイキは参加するにしても裏方に回されると思うけどね。脚本渡されても漢字はまださっぱりだし」
楓は、状況を甘く見ていた。
三日後。
若葉寮の一年生三十人ほどが、寮の食堂に集められた。
と言っても若葉寮の入居者だけがそこにいるのではない。由布子が声をかけた演劇部と文芸部の部員には寮生でない者もいたし、噂を聞きつけて見物に来たただの野次馬もいた。
「それじゃ演目を発表しまーす」
特に選挙で決めたとかではないのだが、何となく若葉寮一年生たちの代表は由布子になっていた。彼女が声を張り上げる。
「上演するのは…『ロミオとジュリエット』!」
わっと声が上がる。「女同士でー?」という声ももちろん混じっていたが、由布子は無視して話を続けた。
「配役を発表しまーす。まず主役のロミオ役は、岡谷楓さん!」
歓声と拍手が沸き起こる中、楓は一瞬きょとんとして、それからはっとして叫んだ。
「そ…そんな大役、できないよ!他の人…演劇部の人とかにやってもらってよ!」
「いやいや、適任だって」
笑いながら由布子は文句をあっさり却下した。
「次、ヒロインのジュリエット役は…天野あやめさん!」
「えーっ!」
大声を出したのは、あやめではなく楓だった。当のあやめはわけがわからないという顔をしている。
「無理よ、サイ…あやめにジュリエット役なんて!だって…そう!帰国子女だし…背も高すぎるし言葉づかいも男みたいだし…」
「いーえ、あたしの目に狂いはないわ。入寮者中一番の適任はあやめちゃんよ、間違いないわ」
「楓、その役何かまずいのか?」
楓の反応に驚いたあやめが、動揺した声を出した。
「他の配役を発表する前に、二人の衣装を見せちゃいましょう!手芸部の苦心の結晶です!」
ハンガーにかかった二組の衣装が運ばれてきた。
「ふっふっふ、二人の制服のサイズをハッキングまでして入手し仕立てた服!サイズはぴったり、言うことなし!」
…「ロミオ」の衣服は、あちこちにスパンコールがついているのが気になったけど、まあ楓としては許せる範囲内だった。
しかし、「ジュリエット」の方は…。
「ど…どっちを着ろって言われてるんだ?」
あやめが楓に質問した。
「あの…ピンクの方…」
「あっちかよっ!」
一言でいえば、ふりふり。
「こっ、こっ、これを俺に着ろと言うのかっ?」
あやめがうわずった声を出した。
楓もあらためて、その衣装を見つめた。
全体はピンクで、ところどころに赤が散らしてある。布地は見事に波打ち、要所要所にあしらった白いレースがそのかわいらしさを強調していた。…「ごてごて」と言えなくもなかったが。
「か、可愛いわよあやめ、すごく」
頬が引きつっているのはわかっていたが、あえて楓は言ってみた。
「俺は可愛くなんてなりたくない!誰が可愛いなんて言われて喜ぶか!」
叩きつけるような返事が来た。
「まあそう言わずに、似合うわよー」
由布子がお気楽な口調で口をはさんだ。
「俺やだよー!こんなの着るのー!」
「拒否権はないわ」
じたばたするあやめに、由布子は重ねて言い放った。
「もしどうしても嫌だと言うなら、この劇を楽しみにしている食堂のおばちゃんたちに頼んで、あなたの分の食事を出させないことにする」
「そ、それは困る…」
あくまで正直な男(?)であった。
「じゃ、決まりね。次の配役は…」
再び声を張った由布子を尻目に、楓とあやめは顔を見合わせて深々とため息をついた。
二冊の、本物の「ロミオとジュリエット」には遠く及ばないものの、充分分厚い台本が渡され、二人はとぼとぼと部屋に向かった。
「うわー、漢字がいっぱい書いてあるよー」
ページをめくったあやめがぼやいた。
「わかったわかった、全部ふりがな振るから」
「あれを着た姿を、みんなの前にさらすのか…俺、水槽の中で寝てた方がよかったかも…」
「えーと、その…」
かける言葉が見つからない。
次の日の放課後から、練習がはじまった。
幸い衣装はリハーサルまで着けないということなのであやめは一安心していたが、慣れないせりふ回し―特に「女言葉」の―には四苦八苦していた。発せられるせりふも棒読みきわまりない。
「…ねえ、やめない?」
練習の途中で、楓は由布子をつかまえてささやいた。
「あやめはすっごく嫌がってるし。何もあんなに嫌がるのを無理にやらせなくても、ジュリエット役ならいくらだってなり手がいるんじゃないの」
「やあねえ、楓は」
軽~く笑って由布子は答えた。
「嫌がってる人を無理やり仕立てるから面白いんじゃないの。断言できるわ、あやめちゃんをジュリエットにすればこの劇大ウケよ」
そんなこんなで、上演日は目の前に迫っていた。
「明日はリハーサルか…」
あやめが日程表を見ながらため息をついた。
「サイキ、台詞覚えた?」
「覚えたことは覚えたけど…言ってて口がひん曲がりそうだよ。特に、何てったっけあの…『ばるこにー』とかの場面」
「そうだろうねえ」
楓は同情したが、今さらどうしようもない。
「とりあえず、今晩は寝る前にもう一度読み合わせしようよ。二人のシーンだけでもいいから」
「寝る前…ならいいよ」
ちょっと考えてからあやめが答える。楓はあれ?と首をかしげた。
「そう言えばサイキ、劇の練習の後によく屋上に行って何かしてたよね。何してたの?」
「なーいしょ。うまくできるようになったら見せるよ」
あやめはにやっと笑って答えた。久しぶりの笑顔だった。
次の日は土曜日だった。明日の日曜、若葉寮の先輩たちに劇を披露することになっている。
リハーサル直前。
「うわー、やっぱり嫌だー!」
逃げ回るあやめを何とか押さえつけ(力が強いので大変だった)、ジュリエットの衣装に着替えさせて由布子は満足げににやついた。
「うーん、苦労した甲斐があった!一ヶ所を除けばサイズぴったり!」
「に、似合ってるわよ、あやめ…」
ロミオの衣装に着替えた楓が、何とかフォローしようと言った。
「うー嫌だー」
「にしても…」
由布子がその、「サイズが合わない」一ヶ所に視線を向けた。
「あやめちゃんは胸ないなー」
「んー、何かほる…ほるもんばらんすってのがやっぱちょっと変で、そんなにふくれないとかって言われたけど…うぐっ!」
むくれていたのをすっかり忘れて、のんきに答えるあやめの後頭部を、楓がどついた。
「そういうこと言わない!」
「…怒らないんだ」
由布子の感想は楓のつっこみではなく、あやめの答えに向いていた。
「んー、胸のことなんてそんなに気になってないよ。…って言うか、これぐらいでも邪魔くさいぐらいだ…ぐわっ!」
また楓が、彼(?)の後頭部をひっぱたいた。
「だから、そういう発言は控える!」
「…本番はパッドでも入れるか」
二人のどつき漫才を無視して、由布子はうんうんとうなずいた。
で、リハーサルがはじまった。
「舞踏会のシーン行きまーす!ほら、あやめちゃん登場!」
げっそりした顔のあやめが出て…来ようとした途端、ドレスの裾を踏んで前のめりにすっ転んだ。見ていた生徒たちからどっと笑いが起こる。
「ちくしょー!」
怒りだか恥ずかしさだかで真っ赤になったあやめが、何とか立ち上がろうとして…またコケた。みんな笑いを必死にこらえた。
それからも地獄のような(あやめにとっては、だが)リハーサルは続き、NG続きで(主に誰のNGだったかは…言う必要もないか)時間が伸びに伸びたが、やっと終わった。
「明日本番…もう嫌だー」
死にそうな声で、部屋に戻った彼(?)が愚痴った。
「気楽に考えようよ、サイキ。明日が終われば解放されるんだから」
そうは言ってみるものの、楓も頭が痛い。
「ロミオよりジュリエットの方が頭一つ大きいってのはどうよ…」
「ん?何か言ったか、楓ー?」
「ううん、何でもない」
ここであやめの気持ちを自分がくじくわけにはいかない。
「とにかく今晩はゆっくり寝よう。明日が終わればこっちのもんよ」
「うう…一日寝過して目が覚めたら明後日ならいいのに」
しかしそこは朝日とともに目を覚ます村の出身、しっかり起きてしまう彼(?)だった。
日曜日の午後。
舞鳥学園の大体育館に、大勢の人が集まっていた。
主賓である若葉寮二、三年生はもちろんステージ前に座っていたが、青葉寮の男子たちもかなり来ていたし、日曜だというのに寮生でない生徒たちも詰めかけていた。職員の姿も見え、樹もその中に混ざっている。食堂のおばちゃんたちも一かたまりになって座っていた。
「ううう…」
体育館の前面にあるステージ、その袖から顔だけ出したあやめが、うなった。
「寮の先輩だけじゃないじゃないか」
「ふふふ、一番人が集められる所を貸してもらって正解だったわね」
由布子が満足げに呟いた。
「ポスターもチラシもあっちこっちにあったしなあ…」
楓も、衣装が見られないように気をつけながら体育館を見渡した。
「そろそろね…開始五分前をお知らせしまーす」
由布子がマイクを手にアナウンスをはじめた。
「じゃ、がんばろう、あやめ。終われば解放されるんだから」
「うん…」
あやめはドレスの裾を持ち上げながら奥に引っ込み、一シーンだけ早く登場のある楓は舞台袖で待機した。
(あやめにとっては)無情にも劇は進み、問題のバルコニーの場面がはじまった。
「おお、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの?」
ステージにバルコニー…はさすがにないので、体育館の二階回廊から顔を出して、あやめが呼びかけた。…死ぬほど棒読みだったが、客席からは笑いが―それも大爆笑―湧き上がっていた。
(なるほど…もとから感動とかは狙ってなかったから、これでいいのね)
楓は由布子が言った「あやめがジュリエット役なら大ウケ」との台詞を思い出し、納得した。…と、納得してばかりではいられない。
ステージ上の楓が答える台詞を口にしようとした、その時。
体育館の扉が乱暴に押し開けられた。
「サイキッ!」
大音声が響き渡る。
扉をくぐって、一人の男が入ってきた。見覚えのない人物だ。―楓は知らないが、カーテンに向かって頭を下げていたのが、この男だった。
あやめも驚いてそっちを見た。
「巫?」
男を見て、叫んだ。
「巫…もしかして、巫なのか?」
「『蒼き竜巻』巫、参上ッ!」
男は吼えた。
「『銀の虹』サイキよ、いざ勝負…ッてッ!?」
巫と名乗る男の視線は、確かにあやめに向けられていた。
「気配は確かに一緒だ。『銀の鷲』の力も感じる…だがッ…」
信じがたいといった呟きが、男の唇から洩れた。
「何て姿してるんだ、お前ッ!」
「うるせー!俺だってこんな格好、したかねーよ!」
真っ赤になってあやめがわめいた。
「と、とにかくッ!俺はお前と決着をつけるためにッ!ここに来たッ!姿はどうあれッ!勝負しろサイキッ!」
その絶叫を聞いていたあやめの口から、意外な言葉がこぼれ出た。
「決着…って、俺とお前に決着つけなきゃいけないことって、あったっけ?」
「な、何を言うッ!?俺はッ!お、俺はッ!お前のライバルとしてッ!決着をつけるために、こんな『果ての地』までわざわざ来てやったというのに…ッ!」
「へえ…」
あやめの顔に、驚きの表情が浮かんだ(楓にはそう見えたのだが)。それを見た巫の顔に歓喜の色が表れる…が、彼(?)の次の言葉でそれが凍りついた。
「お前、俺のライバルだったんだ」
「何だとッ!?」
驚愕の声で、巫は天を仰いで絶叫した。
「そ、それではお前は俺のことを、一体何だと思っていたのだッ?」
「うーん…友だち」
「ともだちッ!」
「いや、前にケンカしたから…元友だち、かな」
「それではッ!?俺が今までお前と決着をつけるためにッ!修行に修行を重ね、ただお前の前に立つためだけに努力していたことをッ!気づかなかったのかッ?」
「うん、全っ然気づいてなかった。悪いな」
「うおおお…ッ!」
巫は泣き伏さんばかりの勢いで吼えた。
「畜生おおおッ!サイキッ!お前がどう思っていても、お前は俺のライバルだッ!勝負しろッ!」
「あー、いいけどさ…体育館じゃ狭すぎるし、人いるし、校庭でやらないか?」
「おお、望むところだッ!」
巫は外に飛び出し、あやめもドレスのスカートをたくし上げて二階回廊から飛び降りた。
「サイ…あやめ!」
「こらあやめ!劇はどーすんの!」
由布子が袖から飛び出してきて怒鳴った。
「悪い!俺、ここで抜けさせてもらうわ!」
そう言い捨てて、彼(?)は巫を追って扉をくぐった。
「ちょっと待てー!」
「…悪い」
ちょっと悩んで、楓は由布子に告げた。
「私も抜けるわ」
そう言ってステージから降りるべく階段に向かう。
「そんなー!ロミオ役とジュリエット役なしで、『ロミオとジュリエット』をどうやって続けるっていうのよー!」
由布子の声が追っかけてきたが、無視した。
楓が校庭に―ロミオの衣装のままで―飛び出した時には、あやめと巫の二人は校庭の真ん中でにらみ合っていた。
「…なぜッ!『憑依』しないのだッ!守護精霊を呼び出さないのかッ!」
「『憑依』しないで勝負したいなー、俺」
「俺はッ!お前が全力の時にッ!闘いたいのだッ!早く守護精霊を呼び出せッ!『憑依』して闘えッ!」
「嫌だって言ったら?」
にやりと笑ってあやめが答えた。
「この状態で闘うと…言うのかッ?しかしお前のその身体、俺のこの身体より筋力もタフさもなさそうだがッ!?」
「いーからいーから。どつき合おうぜっ!」
そう言い放ったあやめの姿が、一瞬でかき消えた。楓の眼には、一瞬彼(?)の両足が銀色の光を帯びたように見えたが…。
「せいっ!」
次の瞬間、間合いを詰めて巫の前に現れたあやめが、左拳を巫の下腹部に叩きこんだ。拳に、銀の光がまとわりついている。
「ぐうッ!」
吹き飛ばされた巫が地面に転がり、うめいた。
「へっへーん、この状態でも充分闘えるんだよーん♪」
「お、お前ッ…何をした…ッ?」
「守護精霊の力を、一部だけ呼び出して身体に『付与』したんだ。拳に『付与』すれば打撃力が上がるし、脚に込めればスピードが上がる。すごいだろー」
「そ、そんな闘い方ッ!?何でお前にできるのだ…ッ?」
「この身体があまりに頼りないんで、鍛えて少しは闘えるようになろうと色々試してみたら、たまたまできちゃったんだ。わかっただろ、この状態でも俺が闘えるってことが」
「く、くそおッ!?」
「まあ、お前も努力すればこの闘い方、できるようになるかもしれないけどさ」
「くうッ!…こうなったら卑怯でも何でも、お前を倒してやる…ッ!」
巫は右手を天に突き出し、叫んだ。
「我に加護を与えたもう『蒼き熊」よッ!今こそその力を、我を介して示せッ!」
巫の身体から蒼い光が吹き上がり、渦を巻いてふくれ上がっていく。竜巻のような光の奔流が消えた時、巨大な―サイキの鷲と同サイズの―蒼い熊が、後ろ足で立って咆哮していた。
「サイキ、覚悟ッ!」
巨体に似合わぬ俊敏な動きで、距離を詰める。
「うわっ!」
あやめは両足に銀光をまとわせ、大きく跳躍して熊の前足での一撃をよけた。バック転してさらに下がる。ドレスがぶわっとめくれ上がったが、二人とも気にしていなかった。
「楓くーん!」
樹が楓に駆け寄ってきた。
「樹さん!やっと来てくれた…」
楓は樹の顔を見て、自分が今どれだけ心細い思いだったかはじめてわかった。
「すまない。体育館の全ての扉に鍵をかけていたんだ。カーテンも閉めた」
「…そうか。見られたら色々と大変ですもんね」
実際、体育館の方からはどんどんと壁を叩く音、「出せー!」と叫ぶ声などが聞こえてきた。楓は心の中で生徒たちに謝る。
その間も、巫の攻撃は休むことなく続いていた。
「サイキッ!俺はこんな闘いをしたいんじゃないッ!早く守護精霊を呼び出せッ!」
巫はそう叫んで、攻撃の手をわずかにゆるめた。
「…我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!」
渋々ながらあやめは左手を天にかざした。
「今こそその力を、我を介して示せ!」
銀の光が噴き上がり、鷲の姿になった。
吼える大熊に、空中で羽ばたく大鷲。
両者はにらみ合って、次の一手を打つべく力を溜める。
先に動いたのは大鷲だった。
翼をたたんで急降下し、熊の顔面に嘴を突き立てる。
「ぐわあッ!」
熊が巫の声で吼え、両前足をめちゃくちゃに振り回した。鷲はその前足をかわして舞い上がり、再び顔面に飛びかかって今度は爪でかきむしる。大熊の叫びはさらに激しくなった。
「―やばいな」
樹が呟いた。
「え!?」
楓は驚いて振り向き、問うた。
「サイキが優勢みたいに見えますけど…」
「今は、だ」
沈痛な面持ちで樹が答えた。
「しかし…サイキくんの今の身体、『天野あやめ』の身体は、本来の彼のものとは大きく異なる。性別すら違うのだからな。『あやめ』としての身体を核として守護精霊を呼び出し、闘うことは彼にとって大きな負担になるはずだ。だから…長くはもたない。対してあの巫という男はサイキくんより『合って』いる身体のはずだから、少なくともサイキくんよりは戦闘できる時間は長いだろう。この闘い、長引けばサイキくんの方が不利になる」
「そんなっ!」
「それに、確かにサイキくんの攻撃は今巫に苦痛を与えてはいるが、無力化する決定打には明らかになっていない。このままでは、いずれサイキくんの方が先に力尽き、巫に捕まるだろう。何とか勝ってほしいが…難しいな」
「それじゃ、サイキは…サイキー!」
楓が思わず叫んだ時、再び熊の腕をよけて舞い上がった大鷲が、
「ああっ!」
空中でよろけた。
銀の光がほどけ、あやめの身体が半ばあらわになる。
(―あの時と同じだ)
はじめてあやめが登校した日、
はじめて「銀の鷲」を見た日、
一瞬光の網目がほどけた、それと同じことが起きている。
「もう…もう限界っ!?」
「―サイキ、覚悟ッ!」
巫が歓喜の叫びを上げ、落ちてくるあやめの身体を両前足で捕らえようとした時―
「―っ!」
彼(?)が気合のこもったうなり声を上げた。銀の鷲がもう一度現出する。
「な、何いッ!?」
熊の胸元、本物なら心臓のあるあたりに―
「ぐわああああッ!」
銀色の大鷲が嘴を突き立てていた。渾身の力をこめてその先端をねじこむ。
蒼い光が爆裂した。
「く…くそおッ!」
蒼い光も銀の光も消え、その後には二人の姿があった。巫は胸を押さえてへたりこみ、あやめはぜいぜい言いながらも立っていた。
「俺の勝ち、だな、巫」
ようやく息を整えた彼(?)が、にやりと笑って言った。
「こ…今回は引き下がってやるッ!だがいずれ…また挑戦するからなッ!首を洗って待っていろッ!うわあああ…んッ!」
ようやく立ち上がった巫がふらつきながらわめき、泣きながら去っていった。
「ふう…」
それを見届け、あやめはがっくりと膝をついた。
「サイキっ!」
「サイキくん!」
楓と樹が駆け寄る。
「さ、さすがに『憑依』やると疲れる…。五分…はもたないか。三分?うう、『僕、地球に三分しかいられないんです』」
「何見たの、サイキ…」
こんな状況だというのに、楓はついつっこんでしまった。
「でもまあ、勝てて良かったよ。一時はどうなるかと思った。『付与』もうまく行ったし」
「あ…」
気づき、尋ねてみる。
「もしかして、毎晩寮の屋上に行ってやってたのって、『付与』の練習だったの?」
「うん」
あやめはうなずいた。
「ほんとはあれ、なかなかうまく力が引き出せなくて…巫をどつき倒せるかは半々ぐらいだったんだ。いやー切羽詰まると何でもできるもんだなー」
「そんな危ないことしてたの!?全くもう、無鉄砲なんだから。…あ、それと、『憑依』をわざと解いたのは巫を油断させて、攻撃をするため?」
「いや、偶然偶然。もう限界でさー。つい『憑依』が解けて落っこちたんだけど、巫を目の前にしたらまだやれそうな気がして、気合入れたら『銀の鷲』をもう一度呼び出せたんだ」
「さて、みんなを体育館から出さないとな。どう説明するか…」
樹が頭をかいた。
「その衣装も…うう、どう説明したらいいやら」
「手芸部の子に泣かれそうだな」
その通り、あやめのドレスはぼろぼろだった。着たままバック転したりしたのだから仕方がないのだが、見事にあちこち破れている。
「どうしよう…」
三人は顔を見合わせた。
その日の夜。
「失敗したようだな、巫よ」
重々しい声がカーテンの奥から響いた。
「―申し訳ございません」
膝をつき、うなだれる巫の姿がカーテンの前にあった。
「それで、お前はすぐに闘えるのか?」
「『精霊の力』を打ち砕かれました故、あと一カ月は呼び出せないかと」
悔しげに巫は言葉を続けた。
「また、サイキのやってみせた『付与』という、完全に憑依状態になって精霊を現世に呼び出さずに、一部だけ『精霊の力』を借りるなどと言う技、聞いたこともありません。あれを私めが身につけるには、また時間が必要かと…」
「待てぬ!」
大音声が部屋いっぱいに響き渡り、巫は雷に打たれたかのように身を震わせた。
「我は…待てぬ。今すぐ!すぐにあの若者を捕らえてこい」
「それは…」
言葉に詰まった巫だったが、はっと気づいて続けた。
「私めには今できなくとも、この『黒の組織』の戦士を使わせていただければ可能かと」
「よし、戦士の使用を認めよう。とにかく『鷲の加護を受けた者』…サイキの捕獲を急げ、巫」
「はッ!」
一礼し、巫は立ち上がる。
その時ぽそりと呟いた一言は、カーテンの向こうには届かなかった。
「―冗談じゃないッ。奴を倒すのは、俺だッ」
第四章 馬に乗ってる馬鹿もいる
「…よし、大分漢字を使えるようになってきたわね」
楓がそう言ったのは、国語の授業が終わった休み時間のことだった。あやめのノートを覗きこみ、満足げに呟く。
「もう放課後の特訓、しなくていいかな」
「やったー!」
彼(?)は両手を上げて万歳した。
「じゃあ放課後空くなっ!俺、部活やりたい。運動部ー」
「いいかもね。サイ…あやめ運動神経いいから、入りたいって言えばあっちこっちから誘いが来るんじゃない?」
「うん。…俺、部活やって男の友だちが欲しいんだ。樹さんじゃ年齢違いすぎて話が合わないよ。スポーツの話とかができる友だちがいいなー」
あやめの視線が、休み時間を集まって過ごしているクラスの男子に向けられた。
しかし…彼(?)が彼らの話している内容を知ったら、驚いただろう。
男子たちががやがやと話していたのは、こんなことだったからだ。
「川上は…絶対尻に敷かれるなー」
「岡谷はどうだ、岡谷は」
「おとなしそうな顔して意外にきついからな。天野が入ってきてからのつっこみはマジで激しいぞ」
「俺は…」
それまで黙っていた一人が、口を開いた。
「天野がいいな。天野あやめ…いいじゃないか」
「「「えーっ!」」」
聞いていた全員がひっくり返った。
「あんな男女のどこがいいんだよー」
「女の子らしい所なんて欠片もないじゃないか!」
「…いやいや、ボーイッシュでいいじゃないか。あの運動神経もいい」
「賢悟ー、お前の趣味絶対おかしいって」
「ぜひ、剣道部に入れて鍛えてみたいな。いい選手になるぞー」
「そっちかいっ!」
「それだけでもないがな」
賢悟と呼ばれた少年は、楽しげに笑ってあやめを見た。
その日の夜。
「やれやれ、しばらく振りだな」
あやめを乗せ、樹の車は研究所に向かっていた。三人は舞鳥学園で生活しながら、時折研究所に戻って彼(?)の体調をチェックしたりしていたが、その他にもここに戻る理由があった。
それは…。
「じゃ、合図を送ってくれ」
体調の確認を終えてから、サイキの本体のあるホールに来た樹は、そう声をかけた。もちろんあやめも楓もそこにいる。
「はい」
若い研究員が進み出て、床に描かれた円の上に立ち、集中した表情で目を閉じて、はっきりした声でこう述べた。
「我、『銀の鷲』の巫術師を呼ばん。我の声に答えよ」
すると彼の上にぽつんと銀の光が灯り、見る見るうちにふくれ上がって直径五センチほどの球体になった。すると、銀色の鏡の中に映りこむように、初老の男性の姿が球体の表面に揺れながら現れてきた。
「スーミーさん、お久しぶりです」
あやめが呼びかける。
『おお、サイキか。久しいの』
男性―「鷲族」の巫術師スーミーは、しわ深い顔に笑みを浮かべた。
こちらの世界「果ての地」と、あちらの「彼方の地」とを結んで通信を行うには、条件がある。
ひとつは、守護精霊の力を借りられる巫術師―巫女でも―がいること。
もう一つは、明確な意志を持って「彼方の地」に呼びかける人間が「果ての地」にいること、である。
今回は、こちらの世界の人間が「鷲族」の巫術師に呼びかけ、通信が成立したわけだ。
ただこの通信手段には欠点もあるのだが…それは後で述べる。
『息災なようだの、サイキ。何よりじゃ』
「はい、元気です。…あの、俺の身体のことは…」
『わかっておるよ。…秘密にしておいてほしいんじゃろ』
ゆらゆら揺れながら、老巫術師の顔が笑み崩れた。
『こちらも変わりはないぞ。少なくとも、一族の者はみな元気じゃ。『熊族』などの連合とはにらみ合いが続いているが、大事には至っていない』
「…こちらは、巫が仕掛けてきました。追い払いましたが」
『そうか。どうもお前を中心に物事が動きはじめたようだの…』
「俺、そっちに戻りましょうか?」
(…!)
ためらいがちなあやめの問いかけに、楓は自分でも驚くほどに動揺した。
『…今のところはその必要はあるまい。それに、おのれの立場を忘れるでないぞ。『果ての地』の『学校』とやらに入れてもらったのじゃろ。勝手に抜けては、そこに入れる労を取ってくれた人々に申し訳なかろう』
「そうですねっ!忘れてました!」
楓は内心安堵の息をつく。
その時、
「ううっ…」
研究員がふらっとよろけたかと思うと、がっくりと膝をついた。
「ああ、もう限界だな。それじゃこの辺で」
『それでは、また連絡してくれ、サイキよ』
「はい」
銀の球体がすうっと消えていった。
―これが、この通信方法の欠点である。世界を超えての通信を可能にする「力」の大部分は守護精霊のそれなのだが、一部分は呼びかけるこちらの世界の者が担わないと通信できないのだ。かつ、通信していられる時間は、呼びかける者の精神力に比例する。…「彼方の地」に呼びかけ、通信を維持する役割は、若い研究員が持ち回りで担当していた。
「俺があの役やってもいいんだが…」
あやめが、連れ出される研究員を心配そうに見やった。
「そうするとしばらく、『銀の鷲』の力が呼び出せなくなるだろう。敵が、どういう理由にしろ君を狙っているのはわかっているんだから、やめた方がいい」
彼(?)の呟きを聞きつけた樹が答えた。
「じゃ、学園に戻ろうか、二人とも」
「おう」
「はい」
二人は樹の言葉にうなずき、車へと戻りはじめた。
「天野あやめが部活動をしたがっている」という噂はぱっと広がった。クラスメイトたちだけではなく、彼(?)が運動する姿を見ていたらしい他のクラス、他の学年の運動部員たちまで勧誘に押しかけてきた。しかし…。
「みーんな女の子ばっかー」
机に突っ伏してあやめがうめいた。
「…当たり前でしょ。あなた今、女の子なんだから」
楓もさっきまでの「勧誘→断る」の繰り返しにぐったりしながらつっこむ。
「それにしたって女子バレーとか女子バスケとか女子サッカーとかばっかでー!男の友だちをつくるのが目的なのに意味ないよー!」
あやめが起き上がって文句をつけた時…机の前に誰かが立った。
「あー、受付はまた後で…って、男!?」
彼(?)のすっとんきょうな声で、楓もそっちを見た。
「た、確か一緒のクラスだよな?えーと…野本。そう、野本だよな」
「まだそんな覚え方なのか。…まあいい」
苦笑して野本―野本賢悟は、言った。
「剣道部に入らないか?いい部員を捜してるんだ、天野なら」
「でも、あやめは女の子だよ?」
そう聞いたのは楓だった。
「女子の部に男は入っちゃいけないが、逆はいいんだ。それに天野なら、練習すれば女子の部の県大会優勝も夢じゃないと思うな」
「本当か?よーし俺、剣道部に入るー」
「ノリで答えない!大体あなた、『県大会』の意味わかってるの?」
「…ま、二、三日見学してもらって、それから決めても遅くないから」
「じゃ、見学したいな。楓も来るか?」
「いいわよ。入る気はないけどね」
楓はぐったりしながら答えた。
…というわけで、あやめと楓は連れ立って放課後、剣道部の見学をすることになった。
「へーえ、あの長さの棒持って防具つけて殴り合うんだ」
練習風景を見た彼(?)の感想は、それだった。
「あの棒―竹刀って言うんだけど―は刀の代用品なんだけど…あなたの故郷には、剣とか刀とかはないの?」
「俺たちが使うのは、主に弓矢と槍だな。槍使うんだったら俺、かなり強いぜ」
「うーん…槍術部とかはないからなあ、うちの学園。一番近いのは薙刀だろうけど、その部もないや」
薙刀部ならあやめが入っても何の問題もないのだが、仕方ない。
「…どうだい、天野。興味出てきたかい」
気がつくと、練習が一段落して面を脱いだ野本が、二人に近づいてくるところだった。
「うん、面白そうだな。俺もやってみたくなったよ」
「じゃあ一番、やってみるか?」
「ああ、やるっ!」
目をきらきらさせて彼(?)は躍り上がった。
楓に手伝ってもらって防具を身につけ、竹刀を手に取った。見よう見真似で礼をし、他の剣道部員も見守る中野本と打ち合う。
「面ーっ!胴ーっ!…やるな!」
野本が思わずうなった。
あやめは繰り出される攻撃を、これまで全て竹刀で受け止め、あるいは飛びすさって避けていた。…ただし、剣道ではポイントにならない浅い打ちも全て受け止めているので、効率は非常に悪かったが、それにしても尋常の反射神経ではない。
「だがこれはどうだ?面っ!」
「ぐわっ!」
あやめの疲労が蓄積し動きが鈍くなったところに野本渾身の面が決まり、受けられずに彼(?)は吹っ飛ばされた。尻餅をつく。
「すごいな、天野。全然経験がないのにこれだけできれば大したもんだ」
野本が面の奥から笑いかけ、篭手に包まれた手を差し伸べた。
「でも負けは負けだよ。今の攻撃、防具なしなら頭を割られていたかもしれないんだから」
あやめはぜいぜい言いながら、野本の手につかまって立ち上がった。
(…そうか。『彼方の地』でのサイキの村には、防具をつけて練習するって習慣がないんだ)
少しでも攻撃がヒットすれば怪我をするので、練習とは言え全ての攻撃をガードしてしまうのだ、と楓は納得した。
それから二日間、あやめと楓は剣道部の練習場所(小体育館)に通った。毎回のように彼(?)と野本、もしくは他の部員との手合わせがあり、その上達ぶりに一同が驚くこともしばしばだった。
「どうだい天野、入る気になったか?」
部活が終わり、いつもの二人に野本を混ぜた三人は校門に向かっていた。すでに夕闇が迫り、ほとんどの部活動は終わって生徒たちはそれぞれ帰っていた。野本は通学生なので、二人は校門まで送っていくことになったのだ。
「うん、やりたい。…でも俺、こんな風に上達していったら、そのうちやることなくなるかもなー」
「こら、天狗になるにもほどがあるぞ。…え?」
野本が校門の外を見て、驚きの呟きをもらした。
その視線を追ったあやめと楓も、
「あれは…」
「ありゃ、何だ?」
ニュアンスはそれぞれ違うものの、驚いた。
校門の外に、男がいる。鎧兜―それも日本のそれではなく西洋風の甲冑を身につけた壮年の男性だ。手には西洋風の槍、いわゆるランスを持っている。それだけでも違和感ありまくりなのに、男はさらに美々しく飾り立てた栗毛の馬に乗っていた。
「な、何か中世の騎士みたいだけど…」
「あんなのがどうして、うちの学園に来ているんだよ」
野本の疑問はもっともだったが…あやめと楓には心当たりがある。二人はそっと目配せを交わした。
「野本、樹さん…じゃない、海原先生を呼んできてくれないか」
「え!?でもあいつ、武器持ってるぞ!女の子二人残して、行けないよ…」
「いいから!早く!」
「わ、わかったよ」
あやめに気圧されて、野本が走って戻っていく。あやめは校門に向かい、楓は門柱の陰に隠れた。
「お主ら、ここの者か」
騎士は朗々と言った。
「こちらに、サイキと言う強き戦士がおられると聞き、手合わせを願いに参った。お取次ぎ願いたい」
「俺だ!」
あやめが一歩進み出て、名乗った。
「お主…女子ではないか。婦女子に向ける槍は持たぬ」
「いいんだよ!俺、ほんとは男だから」
「しかし、どう見ても…」
「いーから闘おうぜ。この身体でも充分闘えるからさー」
「ああもう、闘わないで済むならその方がいいのに…」
楓は思わず呟いたが、相対する二人はそんなこと聞いちゃいない。
「そこまで言うなら手合わせを願いたい。みどもはお主と闘って勝たねば故郷に帰れぬ故。女子とて容赦はせぬが、よろしいか」
「おう、望むところだっ!」
騎士は槍を構えた。あやめの周りに銀のもやが立ち昇りはじめる。
二人はにらみ合いながら、じりじりと動き出した。あやめは距離を詰めようとし、騎士は一定の距離を保とうとする。はりつめた空気に、隠れる楓までもが身を震わせた。
均衡を破ったのは、騎士だった。
手綱を持った左手で、ぴしりと馬に鞭をくれる。
「ゆけ、我が愛馬ジョージ・マッケンジー号よ!はあっ!」
人馬は一瞬で距離を詰めた。槍をあやめ目がけて突き出す。
「くうううっ!」
あやめはぎりぎりで飛びのいて、槍の穂先をかわした。が、槍の胴体部は胸をかすめる。それを、銀光をまとってしのいだ…が、一撃で光はかなり吹き散らされ、傷こそ負わないものの彼(?)は苦しげに息をついた。
「ちくしょー!でかい鹿なんて使って卑怯だぞ!でもあの角のない鹿俺も欲しい!」
「め、面妖な技を使いおって!」
「なーにが面妖だ!この卑怯者!」
「ひ、卑怯だとっ!この高潔なる騎士に向かって何事か!」
怒鳴り合いながら、二人はまた少しずつ移動している。
「たあっ!」
あやめが両脚に銀光を「付与」し、瞬時に距離を縮めよう…としたが、騎士が手綱を操ると馬は華麗な動きでこれをかわした。
「くっそー!あの鹿何とかしないと駄目か…?待てよ…」
あやめは動きを止め、考えこむような素振りを見せた。
「愚か者め!みどもの前で闘いを忘れるとは…笑止!」
人馬が突進をかける。
だが、
それがあやめの狙いだった。
騎士と馬が無防備な制服姿の少女(外見上は)に迫った時、
「ていいっ!」
あやめが、跳んだ。両脚に銀の光をまとわせて。
二メートルほどを跳ね上がり、狙い過たず馬上、騎士の鞍の後ろに飛び乗った。
「な、何をするっ!」
騎士はあわてて槍を彼(?)に向けようとするが、距離が近すぎてうまく捕らえられない。あやめは騎士を押しこくって馬から落とそうとしている。―騎士はついに槍を捨て、腰の短剣を引き抜こうとした…が、その手をあやめにがっちりと掴まれてしまった。
「こ、こいつ!放せ!」
「いい加減に、観念しろっ!」
銀光をまとわせた膝蹴りが決まった(スカートが見事にまくれ上がったが)。騎士は吹っ飛び、ぐわらんぐわらんと凄い音を立てながら地面に転げ落ちた。
「くっ、何のこれしき…ぐは!」
立ち上がろうとした彼だったが、脚かどこかを痛めたらしく声を上げてうずくまった。
「よし勝ったっ!」
あやめが馬上で躍り上がる。―と、その動きに驚いたのか馬が棒立ちになり、走り出した。
「うわーこの大きい鹿凄いなー欲しいなーでも止め方がわからないい…」
馬は校門を離れ、眼下の舞鳥市街地に向かって走り去った。あやめの声がドップラー効果を伴いながら遠ざかっていく。
「手綱を引いてー!」
楓が両手でメガホンを作って叫んだ。
「『たづな』ってどれだよおお…っ」
声はますます遠くなって消えていった。
野本と樹が駆けつけたのは、あやめが馬に乗ったまま消えた直後だった。傍らには落馬した騎士が転がっている。
「天野!天野はっ!?」
野本が驚き、楓に詰め寄った。
「この騎士倒して…馬に乗ったままどっかに行っちゃった」
楓としてもそうとしか答えようがない。
「とりあえず、こいつは拘束しないとな」
樹がスマホを取り出した。
「あ、あとサ…あやめも捜してください」
「わかった」
樹が部下に連絡を取りはじめた。
「にしても…どうやってこの男を、天野が『倒した』んだか…」
うーんとうなる野本を、楓と樹の二人は見やって困惑した。
「どう説明すればいいやら…」
「とりあえず適当にごまかしといてくれ」
あやめがやっと(樹配下のエージェントに連れられて)戻ってきたのは、寮の食事も終わった八時過ぎだった。
「いやー参った参った。…でも、あの鹿さえなければあいつ、ただのおっさんだったな。飛び乗れば五分になると思ってやってみたら、うまく行ったぜ」
そう言う笑顔がやたら能天気で、楓は顔を見るまでちょっと―いやひどく―心配し、さらに野本の追及を必死でごまかしたのが何だか馬鹿らしくなり、少々腹が立ってもきた。
「で、どこまで馬は走っていったの?」
せいぜいできる限り冷やかに尋ねる。
「あああれ、『うま』って言うのかー」
あまり伝わっていなかった。
「んー、街の真ん中の川まで。水に落ちそうになって、やっと止まってくれたよ」
市街地を、馬に乗った女子高生が走っていく姿…さぞ目立ったことだろうと、楓は密かにため息をついた。
「それより腹減ったよ、俺。夕飯食いたいー」
「もう寮の食堂、閉まっちゃったけどね」
「えー、やだよー」
「…大丈夫。食堂のおばちゃんたちに頼んで、おにぎり作ってもらったから」
「わーい!」
あやめの顔がぱっと輝いた。楓はその笑顔にちょっとどぎまぎし、(意地悪すぎたかな)などと思いつつ、おにぎりを取り出した。
その頃。
「失敗したようだな、巫よ」
あの薄暗い大広間で、重々しい声が響いていた。
「―は」
分厚いカーテンの前で、巫が頭を垂れている。
「しかし、今回ぶつけたあの『戦士』は我らが手駒の中でも最弱クラスの者です。次こそは必ずやサイキを捕らえ、『首領』の御前に引きずって参りましょう」
「その言葉、信じているぞ。―ご苦労だった。下がるがよい」
「は」
一礼して巫は踵を返し、闇に溶けこむように消え…はせず、右脇のドアを開けて広間の外に出た。
「ふう…」
息をついて、ドアを閉める。そこは打ちっぱなしのコンクリートでできた廊下で、ドアもごく普通の金属製だった。足音を響かせながらそこを抜け、突き当たりの部屋に入る。部屋はどう見てもプレハブで、金属の壁がわびしかった。
「テントの方が何ぼかましだぜッ。昼間は暑いし…」
呟きがもれた。
「『首領』も見栄張って『謁見の間』だけ金かけるの、やめてくれないかなー。こっちの世界で『不況』ってのがどんどんひどくなって、組織の経営やりくりが厳しいってのにッ」
視線をやった部屋の隅には、空き缶やら発泡スチロールの丼やらがうず高く積まれていた。
「カップラーメンばっかの食生活から、早く解放されたいぜ、全くッ…」
ぶつぶつ言いつつ、コンロで湯を沸かしはじめる巫だった。
一方「謁見の間」では、闇に閉ざされた中で声が響いていた。
「まあ少々心配だが…このまま様子を見よう」
「そうだな。見込みがなければ切り捨てればいい。代わりはいくらでもいる」
「今は奴の執念を利用しよう」
その言葉を最後に沈黙が場を満たした…かに思えたが、その中から、泡が水中から湧き上がるかのように言葉がにじみ出てくる。
”苦しい”
”痛い”
”辛い…”
”解放を”
”この業苦からの解放を…”
「あと少し…あと少しだ。『遺産』を手に入れれば、その時こそ…」
そんな呟きがもれた。
第五章 術を使える馬鹿もいる
「なぜだあッ!」
がしゃん!
コップがプレハブの壁にぶち当たり、砕けた。
投げた姿勢のままぜいぜい言ってる巫。
とーぜん、投げたのはコップである。
「『熊の紋章』は現れているッ!サイキがやって見せた『付与』は俺にもできるはずッ!サイキとッ!条件は同じはずッ!なのにッ!なのになぜッ!『付与』ができないのかッ!」
ひとしきり喚いてから、右手を突き出し、顔を歪めた。Tシャツの胸元から蒼い光を放つ「熊の紋章」がわずかに覗き、右手にぼんやりと蒼いもやがまといついて…いるように見える。
「ていッ!」
気合い一発、拳を放つ。蒼いもやがぱっとはじけ、消えた。
「ぜーッ。ぜーッ」
肩で息をしながら、もう一度ものすごく集中した顔をし、今度は蒼をまとった拳を部屋の片隅にあったサンドバッグに打ちこんだ。サンドバッグは当然大きく反対側に揺れるが、どうやら巫の望んだ結果は出なかったらしい。
「これではッ!これではサイキと闘えぬではないかッ!奴の前に立てぬではないかッ!くそッ!くそッ!」
もはや蒼い光は拳どころか、胸元の「熊の紋章」からも消えかけていた。それでも巫はかまわずにサンドバッグを殴り続けた。
「ふーッ。ふーッ。…ぐッ!?」
ついに力尽きたらしく、拳を下ろして息をつく…そこを、戻ってきたサンドバッグが直撃した。吹っ飛ばされて床に転がる。
「くそおッ!非生物まで俺を馬鹿にするかあッ!うわああああんッ!」
床に転がったまま巫は泣き喚いた。
「畜生サイキッ!今に見ておれーッ!次の刺客は…結構厄介だぞッ!気をつけろッ!」
もはや何言ってんだかわからない。
あやめが学園に来てから、一か月ほど過ぎていた。
今日は日曜日。あやめ、楓、樹の三人は久しぶりに舞鳥市街に遊びに来ていた。
「ちょっとサイキ…じゃない、あやめ!そんなに急いで歩かないでよ。どこか行きたい所でもあるの?」
「いーからいーから。ついて来いって」
そう言ってどんどん歩いて行くあやめが足を止めたのは、大通りに面した喫茶店の前だった。
「こ…ここに来たかったの?」
楓が少し息を切らしながら(運動不足)、聞いた。短くした髪が汗で額や首筋に貼りつき、青のスカートが脚に絡んで気持ち悪い。
「うん。入ろうぜー。樹さんからもらうお小遣いが、やっとこの店に入れるだけに貯まったんだ。一緒に入ろうぜ。何かおごるからさ。樹さんもどうですかー」
「…その『お小遣い』は、元々は僕のポケットマネーなんだけどね。まあ、いいか」
政府予算からは、あやめのお小遣いまでは支出されない。そこを―かつての自分の経験から欲しいだろうと考えたのだろう―樹が出してやっているのだ。
「いいの?自分の食べたいものぐらい、自分で払うよ」
「いーからいーから。おごらせろよ。俺、おごるの大好きなんだ」
楓が言っても、あやめは笑ってそう答えるのみだった。
「そんな使い方してると、お金なくなるよ?私はお金を使わないでいられて嬉しいけど」
「…どうして?物をいっぱい貯めたら使うのは当り前じゃないか」
きょとんとしてあやめは言った。
「…貯めたまんまにしときたい人もいると思うんだけど。物としてじゃなく、お金とかのかたちで、とかで」
「お金ってこっちに来てはじめて知ったから良くわからないけどさ、俺の故郷では、働いて物をたくさん蓄えた人は、祭りの係になって部族のみんなやお客さんを何日もその物を振る舞ってもてなすことになってるんだ。全部振る舞って、次の日からまた貯めはじめるのさ」
「使っちゃうの!?全部?」
「うん」
「後に何にも残らなかったら、貯める意味ないんじゃないの」
「祭りの係になってみんなをもてなした人は、一生『もてなした者』としてとっても尊敬されるんだ。お返しに畑の仕事や狩りを代わってもらったりもできるし。とにかく、一生に一度は祭りの係になってみんなをもてなすことが、俺の部族…だけじゃなくて周りの部族の人たちみんなの夢なんだ」
「消費して栄誉を得る…『ポトラッチ』か」
樹が呟いた。
「メキシコの先住民文化でもそんなシステムがあったな…いや、ペルーとかでもそんなような仕組みが…」
「『ポトラッチ』って何ですかー海原先生ー」
「インターネットか図書館で調べなさい」
「…でも」
楓は、ひょいと頭に浮かんだ疑問をあやめにぶつけてみた。
「サイキの故郷のそれって、ある程度は物を貯めないといけないんじゃない?部族の人たちやお客さまを何日もおもてなしするぐらいには。でも、今のあなたみたいにちょこちょこ人におごっていたら、何時までたってもそこまで貯まらないんじゃないの?」
「う…そうなんだ」
図星だったらしく、あやめはがっくりと肩を落とした。
「俺、ついつい我慢できずに村のみんなに色々振る舞っちゃって…まだあんまり物が貯まってないんだ」
「やっぱり」
「…でも!今回のはほんとに貯めなきゃいけないものとは関係ないから!おごらせてくれよー、村に帰ったら我慢するからさー」
「はいはい」
そっちの世界に戻れば自分は関係ないんだけどなー、と思いつつも楓はそう返事をした。
かくして喫茶店に入った三人は、あやめのおごりでそれぞれ注文をした。と言っても樹は一番安いホットコーヒーだったが。楓はケーキセットレモンティー添えを頼んで、砂糖抜きで飲みながら正面の彼(?)を観察した。
彼(?)は時々「うまい」と目を細めながら、巨大なチョコレートパフェをぱくぱく食べている。彼(?)の故郷にはそんなに「甘いもの」がなかったらしくこちらの世界のお菓子類がひどく気に入り、特にチョコレート系に目がないのは彼女も知っていた。
…「男の食べるものではない」と誰も教えていないのも事実だが。まあ、外見上まるっきり問題はないので誰もおかしくは思わない。
三人は喫茶店を出(何と、楓が食べ終わるのが一番遅かった。あやめのチョコパフェを食べるスピードが尋常ではなかったのである。樹はコーヒーをお代わりしてはいたが)、本屋などにも立ち寄ったが(舞鳥学園はゲームセンターの立ち入り禁止)長居はせず、ぶらぶらとしながらいつしか舞鳥学園への道をたどっていた。
「うーからっけつだー」
財布を覗いたあやめが呟いた。
「そんなこと言うぐらいなら、おごらなきゃいいのに」
「おごりたかったんだよお、あの時は。…でもいーや、今度は楓か樹さんが俺におごってくれる番だからなー」
「えーっ!?そんなの聞いてないわよー!」
「…楓くん、ここは仕方ない。サイキくんの故郷では、人にものを振る舞った者は必ずお返しをしてもらうことになっているんだ」
そんな会話をしながら、三人は学園に続く長い坂道を登りはじめた。やがてチェーン脱着所があるややゆるやかな所に着いた。
「ここ、覚えてる?」
「えー、何だっけ」
「あなたが『門』から落っこちてきた場所よ、ここは」
「そうか…あの時は脚を怪我して、痛くて周りを見ている余裕なんてなかったよ」
三人がゆっくり道がカーブする地点まで歩いて行った、
その時だった。
車の走る音、耳障りな急ブレーキの音…三人がびっくりして振り向くと、黒塗りの車が背後二十メートルほどに停まっていた。
車から、一人の男が降り立った。ローブ…とでも言うのだろうか、濃緑色のゆったりとした服を着、素直な栗色の髪が背に流れている。
「え…!?」
楓が困惑の呟きをもらした。
まだ若い。口元はあどけなくさえあった。―しかし、その両眼は黒い目隠しを厳重にかけられている。
「よし、目隠しを取れ。ズボンのおと…いや、ズボンの女を攻撃するんだ。勝たなければ…わかってるなッ」
車の中からそう告げたのは―
「巫!?」
後部座席から顔を出してそう言ったのは、確かに巫だった。車はそのまま走り去る。
若者は目隠しををむしり取るように外した。淡い水色の目があやめを見据える。
「僕の名はユーリ。恨みはありませんが…勝負してもらいます」
静かにそう言うと、彼は右手を前に出して手の平を上に向けた。
「闘うって…言うのか?」
あやめは進み出、構えた。楓と樹はあわてて少し下がる。
「どうした?近づいてこいよ。…でもそんなひょろひょろの身体じゃ、一発殴れば倒れちまいそうだな」
確かにユーリと名乗る若者の体格ははっきり言って細っこく、体力はありそうになかった。
「僕の技は、直接戦闘系ではないんですよ」
そう答え、若者は眉を寄せて集中した表情を見せた。一言呟く。
「炎よ」
ぼっ。
ユーリの手の平の上から、そんな音がした。そこに…。
「えっ」
楓は目を見張った。彼の手の上、五センチほど離れた所に、炎が浮いていた。何かを燃やしているわけでもない、何の支えもなく、火はゆらゆらとうごめいている。
「―行け」
ぽそりと呟くと同時、炎は意志あるものかのように湧き上がり、あやめを目がけてまっすぐに突っこんできた。
「ちいっ!」
彼(?)は瞬時に左手に銀の光をまとわせ、炎の太矢を叩き落とした。
「まだだ」
無表情にユーリが呟き、また手の上に次々と炎を呼び出して放った。
「ていっ!たあっ!ええいうっとおしい!」
そのことごとくを打ち落としたあやめ―だがその肩は大きく揺れ、苦しげだ。
(やっぱり、『精霊の力』を呼び出すと消耗するんだ…)
「サイキ!」
思わず楓は叫んでしまう。―と、ユーリの表情がわずかに動いた。
「ふむ…」
どうやら、はじめて楓の存在に気づいたらしい。しばらく考えている様子だったが、やがて一つうなずいた。
「―仕方ありませんね」
そう呟き…、
楓に向かって炎を放った。
「―っ!」
楓は身体がすくんで動けない。…「逃げなくては!」そう思っている自分は確かにいるのだが、足を動かす「はず」の自分にその声が伝わらない。ただ硬直して迫る炎を見つめる。
「楓!」
動いたのはあやめだった。斜め前から楓の身体に飛びついて倒し、勢いに任せてごろごろと転がる。たった今まで楓がいた地点に炎が突き立ち、はじけた。
「サイキ!サイキ…!」
今になって怖くなってきて、楓はあやめの胸にしがみついて泣きそうになった。
「あれ、一体何、あれ…」
「この世界の言葉で言うなら、『魔法』だな」
あやめは楓を後ろにかばいつつ立ち上がった。その目は油断なくユーリに注がれている。
「俺たちが力を借りる守護精霊とは違う、地水火風の精霊…そこから力を引き出して使っているんだ。奴が今使っているのは『火の精霊』から借りた力なんだろう」
「魔法!?ゲームとかではあるけど、そんな、本当にそんなの使えるの?この世界で!?」
「俺だってこっちの世界では非常識な力使ったりしてるんだけどな。…聞いたことがある。俺たちが住む草原と山と海…そのずっとずっと向こうに、ここみたいないっぱい建物がある所があって、そこには剣とかで闘う人や、地水火風の精霊から力を借りて闘う人たちがいるって。奴は多分、その地域の出身なんだろう」
…戦闘中に呑気に喋っているようだが、ユーリは攻撃の手を休めていた。もちろん二人の間の緊張は微塵もゆるんでいないが。二人はにらみ合い、それぞれ「精霊の力」をいつでも振るえるように精神を集中させている。
「向こうだって精霊から力を借りれば俺と同じように消耗するはずだ。限界はある。…だがあっちは遠距離攻撃ができるのが強みだな。俺も『憑依状態』になれば羽手裏剣を飛ばせるんだが、そうすると時間制限がなあ…」
あやめは忙しく頭を働かせているようだ。楓は―こんな状況で、と自分でも思ったが―彼(?)が、いくら能天気に見えてもやはり戦士、それも一流の戦士であることを実感した。
「楓、とにかく奴に攻撃されないように遠くまで下がっていてくれ。そう長い距離は飛ばせないはずだ。樹さんも一緒に」
「うんっ」
楓はうなずき、道路のカーブした所からさらに外れた茂みの後ろまで後退した。樹もそれにならう。
「よくも!よくも楓まで…!」
あやめの全身から、銀色のもやが立ち昇った。その光が両足に収束する。
瞬時にユーリのいる地点へとひた走った。
「直接打撃を叩きこめば…どうだあっ!」
あやめ必殺の拳がユーリの胸目がけて繰り出される。ユーリは右手をその前にかざした。
「炎よ、盾になれ!」
彼が叫ぶ。―と、炎が虚空から出現し円盤状に広がった。あやめの拳を受け止める。
「ぐわっ!熱ちぃ!?」
あやめは飛び下がった。拳を振って冷ましている。
「サイキっ!」
「ちくしょー、直接攻撃も効かないってわけか…」
彼(?)は再び距離を取った。そこへユーリが次々と炎を放ってきた。
「ていっ!」
あやめは拳に銀光をまとって何とかしのぐ…と、最後に飛んできた炎が拳に当たってぱんっとはじけた。
「…ん?」
彼(?)は一瞬首を傾げ、次の瞬間には稲妻のようにユーリとの距離を縮めていた。
「く、来るなあっ!」
叫んでユーリは炎の太矢を放つが…楓の目にもその炎がさっきまでの勢いを失っているのがわかった。
「楓まで攻撃しやがって!この野郎!」
そう叫んであやめは左拳をアッパー気味に放った。
「炎よ、盾と―」
ユーリが悲鳴じみた声を上げる…が、炎の盾は一瞬出現してあやめの拳にかき消された。
銀の光をまとった握り拳がユーリの下腹部を深々とえぐる。
「ぐ…っ!」
声にならない叫びをもらし、ユーリは吹っ飛んだ。
「『精霊の力』を自分から離れた所に飛ばせるってことは、それだけ大量に自分の精神力と体力を使うってことだ。つまり俺よりも早く消耗して、早く限界が来る」
あやめが言い放つ。ユーリは地面に転がり、腹を押さえてうめいていた。
「それに、『魔法』に力を注ぎ過ぎるせいか、筋力もないしスピードも俺よりずっと遅い。炎で盾が作れても、一発打撃が当たれば消し飛ぶんじゃあな。…とにかく俺の勝ちっ!」
あやめは楓たちの方に振り向き、満面の笑みを見せた。
「勝ったぜ楓っ!今回は正直しんどかったなー、駄目かと思ったよ」
「サイキってばもう…」
楓は駆け寄ったが、途中で足が震えだして立ち止まった。
「怖かった…ほんとに怖かった」
先程炎を放たれたことを思い出して、また泣きそうになった。
「何だよ、楓らしくないなー。大丈夫だって、俺がいつだって守ってやるからさー」
「…うん」
うなずいた楓の目には、あやめの―確かに今は少女の―顔が、何故か「男」のそれに見えていた。
樹が呼んだバンによって三人+ユーリは研究所に運ばれ、そこでユーリは簡単な治療を受けた(もちろんあやめの火傷した手も治療された)。幸い(?)内臓などには異常はないという。しばらく待つと話ができるようになったと告げられ、三人は病室のユーリに会いに行った。
「それじゃ『黒の組織』に、こっちの世界に連れて来られたってことか?」
「…はい」
樹の質問に答えるユーリは手錠をはめられ、さらに先程つけられていた目隠しを再びされていた。
無理もない。
「魔法」という、非常識な術を使う者なのだから。
ちなみに目隠しは、あやめの、
「『精霊の力』を使う、それも相手を攻撃するなんてこと、対象を視認しない限り無理だよ。巫もだからこいつに目隠ししてたんじゃないかな」
という、自らの経験にもとづいた助言によるものだった。
「あの、『黒の組織』って…?はじめて聞きますけど」
「ああ、巫たちが属している組織の名称だ。数年前から、こちらの世界とあちらの『彼方の地』、双方で活動が確認されている」
樹が楓の質問に答えた。
「『門』を開かれ、強制的にこちらの世界に移送され…組織のために働かないと帰さない、と」
「そりゃ大変だなー」
さっきまで真剣勝負を繰り広げていた相手に、今は思いっきり同情するあやめであった。
(…緊張感のない奴)
とは思いながらも、楓はどこか、その姿勢を微笑ましく感じてしまう。
(基本的に善人…というか、お人好しなんだよね)
そんな姿に危なっかしさを抱きつつも、どこか…どこかに、心惹かれるまばゆさを覚えていた。
(馬鹿だわ、私も)
そう思い、せめて自分だけでも疑惑を持たないと、と考えようとする。
「じゃあ、『黒の組織』本部には君の元々の身体が…?」
樹が尋ねる。
「はい、あるはずです。ただ、目隠しされて連れ回されたので、ここからどう行けば着けるのかは全然わからないんですが…」
「やはり裏切られた時のことも考えていたか。前回の騎士も本部の場所は知らなかったしな。…まあ、それは仕方ない。ユーリくん」
「は、はい」
ユーリは樹の声に、びくっと反応した。
「君が脅迫されて僕たちを襲ったことは認めよう。情状酌量の余地はあるということで…君を『彼方の地』に帰せるように計らおう」
「本当ですか!?」
怯えていたユーリの顔に、喜びの揺らぎがほの見えた。
「『黒の組織』本部に手を入れられるようになったら、君の身体を無事に確保できるように尽力しよう。もちろん、理由はあるにせよ『黒の組織』に協力し、騒ぎを起こした以上その償いはしてもらうことになるが、その後は『彼方の地』に帰そう」
「ありがとうございます!」
目隠しされた状態でも、ユーリの表情がぱっと明るくなったのがわかった。
「もちろん償いはしますが、その他にこっちの世界のことについてもっと教えてもらっていいですか。珍しいものばかりで実に興味深いです」
「ああ、かまわないとも。君の使う『魔法』についてもできれば教えて欲しいもんだね」
「―はい」
樹の言葉に、今度こそはっきりと笑顔を見せるユーリだった。
「良かったなー」
あやめが彼の背中をばんっと叩いた。
「うっ、げほっ、ごほっ」
ユーリがむせ返った。見えていないので反応できなかったらしい。まあ、力は強い方だとは言え女の身体のあやめが叩いたぐらいでむせるのは、彼がひ弱だということであるが。
「あ、すまん」
「おーい、水!」
あやめが謝り、樹があわてて人を呼ぶ。
(…お人好したち、だわ)
楓は内心、ため息をついた。
第六章 狙撃してくる馬鹿もいる
ユーリと一戦交えて後、若葉寮に二人が帰ってからのことである。
シャワーを浴びた楓が、部屋の外に出されていたあやめを呼びに行くと、彼(?)は娯楽室で野球中継を見て盛り上がっているところだった。自室に戻っても興奮冷めやらず、部屋のTVで中継の最後まで声援を送っていた。
「なーなー、TVって面白いなー。他の所のこととか映って」
楓は思わず呟いた。
「…異世界人のわりには、驚き薄いわね」
「まあ、俺の世界の巫術師なら、守護精霊の力を借りて遠くのものを見たり、未来のことを感じ取ったりできるからな。それを簡単に、誰でもできるようにしたもんと思えば、そんなに驚くことでもないよ」
「へえ、そんなことができる人がいるんだ。『精霊の力』の使い方にも色々あるのね」
「うん。俺の故郷では、一つの部族に『加護を受けた戦士』と巫術師―巫女の場合もあるけど―が一人ずついて、二人で族長を支えているんだ。俺をこっちの世界に送ったのも俺の部族の巫術師、スーミーさんなんだよ」
「ああ、通信すると出てくるあの人ね」
「昔は『戦士』と巫術師、両方兼ねてる凄い人もいたって伝説もあるけど、俺の知ってる限りでは今はいない」
楓は好奇心が湧いてきた。
「サイキはその『加護を受けた戦士』なわけね。…でもその『戦士』って、いつもは何してるの?他の部族と戦争とかするわけ?」
「うーん…俺が生まれる前には戦いがあったみたいだけど、今は全面的な戦争ってのは、少なくとも俺の部族の周りではないなー。ただ、巫の『熊族』とか、『烏族』とかが、遠くにいるけど力のある部族の『蜘蛛族』っていうのを中心に連合を作ってて、俺の『鷲族』や『鹿族』が作ってる連合とはあんまり仲が良くないんだ。しばらく前から『蜘蛛族』が、いろんな所で悪さをしている『黒の組織』と深く関わってるみたいだって噂にはなってたし」
「…あ。巫が、『黒の組織』に入っているってことは…」
「ああ、その疑惑が裏付けられたってことだな」
あやめはうなずいた。
「でも今のところ、にらみ合ってるだけで戦いにはなっていない。正直、巫の一件より前には、関わってるかどうか確証がなかったんで抗議もできなかったしな。あの後で、スーミーさんには巫と闘ったことは伝えてあるから、もう族長たちにも話が伝わってると思うけど。…それで戦いになるかどうかは、俺にはわからないな」
「じゃあ『戦士』って名前だけど、いつも闘ってるわけじゃないんだ。平和な世界なのね」
楓は自分の世界のことを考え、少し暗い気持ちになった。
「いや、もめごとは結構あるんだけどな。部族間で争いがあって、話し合いで決着がつかない時には、部族ごとに『戦士』を出して一対一で決闘して白黒つけるんだ」
「つまり戦争…というか、全面対決はしないってことなのね」
「うん。こっちの世界では凄い武器とか使って、『戦士』じゃない人たちまで殺してるみたいだけど、そういう戦い方は少なくとも俺の部族の周りではないな。大体そんなことしたら他の部族の総スカン食らうし、恨みや憎しみを向けられるのは誰だって嫌じゃないか。まあ、遠くの―それこそ『蜘蛛族』のいる所とか―ではそういう戦い方をしているって噂があるけど」
「…ちょっと、うらやましいかもね」
楓がそう呟くと、あやめは表情を引き締めた。
「自分の世界が気に入らないなら、変えればいいじゃないか。学校って、大人になった時自分の世界を良くしていくための力をつける所なんだろ。そりゃ、『果ての地』の方がずっとたくさんの人が住んでていろんな意見があるだろうし、変えるのは難しいと思うけど。でも、世界が気に入らないのに、何もせずに文句ばっかり言ってるのなんて、俺は嫌いだな」
「…サイキに説教されるとは思わなかったわ」
楓は驚きつつも、彼(?)の新たな一面を発見した気になった。
「そうよね。…そう、なんだよね」
そんな会話があった頃…。
「―うまく行かなかったようだな」
重々しい声が響いた。
カーテンの前に巫がひざまずき、頭を垂れている。
「申し訳ございません、『首領』。次こそは必ずや…」
「今回は我が『戦士』を引き合わせよう」
巫の台詞を遮って、カーテンの向こうから声がした。
「は!?」
巫が顔を上げ目を丸くする。
「待っておれ。今、呼び寄せる故」
低いうなりのような音が背後から聞こえ、驚いて巫が振り向くと―
「これはッ?」
コンクリートの床に、漆黒の魔法陣らしきものが浮かび上がっていた。
「我の配下が、離島の研究所で開発した『戦士』だ」
魔法陣の中央に、ゆっくりと人影らしきものが表れはじめた。
「これが…「首領』ご推薦の『戦士』ですか」
「うむ、超長距離射撃戦に特化した生体兵器でな。我が言うのも何だが高性能だぞ」
巫の―つっこみめいた―呟きに、声が満足げに答えた。
「で?」
「で、何だ」
「…何で女の子なんでしょうか」
「それは移動時などに怪しまれる可能性を低くするため…」
「本当のところは?」
「研究員の趣味でな。『むさい男を素材にするより可愛い女の子をいじくりたい』と考えたらしい」
「何でいつもこんなんばっかり…」
巫は思わず愚痴った。
「大体『首領』の趣味だか何だか、女の子にしたがりすぎだぜ。サイキの奴をあんな姿にしたのも…ううッ…」
さらに遠い目をして小声でぼやく。
「ん?何か言ったか、巫よ」
「い、いえ、何も」
「そうか。ああ、それからな、その離島の研究所は十数年前謎の事故で爆発してな、数年前に発見されるまで彼女は動物たちに育てられ、野山を駆け回っていたんだ。そのため少々野生化しているが、性能には関係していない」
「…野生化した生体兵器って何ですか」
巫がこらえきれずにつっこむ中、「生体兵器」と称された少女は魔法陣から進み出た。魔法陣は再び低いうなりを立てて消失する。
年齢は十五、六、あやめや楓と同じぐらいか。誰の趣味だか紺地のセーラー服を身につけていた。
「久しぶりだな、チョビ」
「ちょ…ちょび!?」
目を白黒させる巫を尻目に、少女は軽く一礼した。
「うん、しゅりょー。久しぶりー」
「闘ってもらうことになった。仔細はそこの者に聞くがよい」
声はそれだけ言って黙りこんだ。
「チョ…チョビって言うのか」
巫は恐る恐る少女に声をかけた。
「うんっ」
ぱたぱた、ぱたぱた。
「…一つ聞きたいんだが」
「なにー?」
ぱたぱたぱたぱた。
「何でスカートの裾を手で持って振ってるんだ」
「しっぽ、ないから…」
ぱたぱたとプリーツスカートを振りながら、チョビは答えた。お前は一体どんな動物に育てられたんだーッとつっこみたい衝動を、巫は何とかこらえる。
「それじゃあ、チョビ。闘ってくれるんだなッ」
「うん。チョビ、たたかう。でも…」
「でも、何だ」
「たたかう相手、強い男か?」
「へッ!?」
チョビの言うことの意味がわからず、間抜けな声を出してしまう巫であった。
「強いか?強い男なのか?」
「うん、いや、まあ…そ、そうとも、強い男だ。すごく強いぞ。俺の、たった一人のライバルだからなッ」
今の「自分のライバル」が、「男」かどうかと問われればどこか…どこかにイエスと答えていいかどうか疑問を感じてしまうが、とりあえず巫は自分の思ったままを口にした。
「そうかー。なら、たたかう。チョビ、強い男と、たたかいたい」
「そ、そうか。頼む」
何か、苦手意識をチョビに抱く彼である。
「そいつ、どこにいる?」
「いつもは舞鳥学園と言うところだが…」
「地図で場所、おしえて。そこに、遠くから狙撃、する」
「それはいいが…狙撃する銃は用意しなくていいのか?」
「うん。銃、ある」
そう言ってチョビはどこかから、とんでもなく長い銃身のライフルらしき銃を引っ張り出した。
「どこにあったんだ、こんな大きい銃ッ…」
巫は思わず呟くが、「果ての地」の科学、それも「黒の組織」の(怪しい)科学力をもってすればこのぐらいできるか、と納得しようとした(…まだ、こっちの世界についての知識がそんなにないのである)。
さて、次の日。
巫とチョビの姿は、舞鳥市街地にある、とあるビルの屋上にあった。ここからは舞鳥学園の全景が見渡せる。遠すぎて学生たちの細かい区別はつきにくかったが。
「あれが『まいどりがくえん』か?」
風にあおられて、チョビの長い髪がなびき、セーラー服のスカートがはためいていた。
「ああ、そうだッ」
巫も、後ろで束ねた髪を風になぶられながら、答えた。
「たたかう相手、どこにいる?」
「そ、そう言えばッ…」
巫は絶句した。あやめが舞鳥学園にいることは見当がついても、その中で「どこ」にいるかはわからない。さらに(巫は知らないが)学生というものは普通多くの時間を校舎内で過ごすものだ。射撃可能な開けた場所にはあまりいない…通学生でないなら特に。
「どこだ?どこにいる?」
「うーん…」
チョビに重ねて問われ、巫が頭を抱えた時、学園の小体育館から、
「うおッ!?『銀の鷲』の気配ッ?」
ちょうどあやめと楓が出てきて寮に向かうところだった。巫のあずかり知らぬことだったが、部活の終わる時間だったのである。
「チョビ、サイキは…闘う相手は、今建物から出てきた二人連れの、髪の長い方だ。良く狙えよ」
「うん!チョビ、強い男とたたかう!」
嬉しそうにチョビは答えて、彼女の身体には不釣り合いに長大なライフルを取り出し、構えた。
巫はそれを見届け、屋上を後にし…ようとしたが振り向き、一度は納得しようとしたがやっぱりできなかったことを聞いてみた。
「ところで、どこからそのでっかい銃は出てくるんだッ?」
「ひみつ」
チョビは振り向きもせずに答えた。
「秘密ってお前…」
「ひみつはひみつ」
そう言ったきりチョビは黙った。巫は首を傾げながら降りて行った。
一方、あやめと楓はと言うと。
「なっ、なっ、すごいだろ!俺、やっと野本から一本取ったぜ」
「はいはい、何度も聞きました」
「だってやっと互角に闘えるようになったんだからさー…え!?」
突然あやめは緊張した表情になり、あたりを見回した。
「どうしたの、サイ…あやめ?」
「―殺気を感じる」
市街地の方を見つめ、表情をこわばらせるあやめは―
いきなり、楓を突き飛ばした。
「痛いっ!何するの…って?」
かつ、彼(?)自身もその場から飛びのいていた。
チュン!
今まで二人が立っていた場所に銃弾が突き刺さり、地面を抉り取って爆発する。
「今度は何だよ!どうせ巫たちなんだろうけど…」
「ライフル…?」
突き飛ばされて地面に転がっていた楓が、起き上がりながら呟いた。
チュン!チュンチュン!
その間にも銃弾は飛んでくる。それも、正確にあやめに狙いをつけて。二人は大あわてで小体育館の陰に隠れた。
「どこ!?どこから撃ってるの?」
楓は見回すが、どこにもそれらしい姿は見えない。
「超長距離狙撃ってこと…?」
「それって何だ?」
「すっごく遠い所から弾を撃ってきてるってこと!」
「よーし、それならその撃ってる場所を見つければいいんだな!」
あやめは左手を天に突き上げた。
「我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!今こそその力を、我を介して示せ!」
叫びとともに銀の光が全身から放出され、大きく広がった。
銀光で織られた鷲が舞い上がる。
チュン!
それでも銃弾は飛んでくるが、あやめの鷲は羽手裏剣で応戦し、弾を撃ち落とした。かつ銃弾が飛んでくる方向を見定める。
「よーし、撃ってくる場所はわかった!覚悟しろよ!」
言うなり銀の鷲は市街地目がけて飛んで行った。
「待ってよサイキー!あ、それと…」
楓は後を追って走りながらスマホを取り出し、樹に連絡を取った。
「すごい!すっごく強そう!あの鷲!」
銃を撃ちながら、チョビは感嘆の声を上げた。
「こいつならいいかも。この男なら…」
そう言って、満面の笑みを浮かべ銃を撃ちまくる。
楓は樹に事情を説明した後、駐輪所で自転車に飛び乗り、銀色の鷲を追いかけた。
はじめは矢のように飛んで行き、見失いそうだったが…途中で鷲はぴたっと止まり、少しの間ホバリングしていたかと思うと…ゆっくりと降りてきた。「憑依」を解き、舞鳥学園から市街地に向かう山道、楓が懸命に自転車で下っている場所に降り立つ。
「ちょ、ちょっと、見られたらまずいって」
駆け寄りながら、あわてて楓はあたりを見回すが幸い、目撃した人はいないようだ。…まあ、それを言うならさっき飛び立った時も問題ありまくりだったのだが。ちなみに山道なので林で射線が途切れ、今は射撃は止んでいた。
「どうしたの、サイキ。…まさか、もうパワー切れ?」
「―女の子だ」
ぽそりとあやめは呟いた。
「は!?」
「銃持って撃ってたの、俺たちと同じぐらいの年齢の、女の子だった」
「もしかしてサイキ…」
「女の子となんて闘えないよー、俺」
あっさりとあやめは答えた。
「やっぱり…」
いかにも彼(?)らしい台詞だと楓は思ったが、そうも言っていられない。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょっ!撃たれてるのよ、今!」
「し、しかし相手っ、女の子っ」
「…あなたもでしょ」
「そりゃそうだが、しかし俺は、ちょっと事情が違うし」
「だからといって、このままじゃやられるだけでしょうが!流れ弾で他の人に被害が出たらどうするの」
叱咤しながら―楓は胸にちくりと痛みを感じた。
あやめには闘える能力があるが、怪我をしたりしないわけではないのだ。
傷つけば痛いし、最悪の場合―そんなことは考えたくもなかったが、充分ありうる話だ。特に今回はライフルらしき銃という武器が使われているし。それでも自分は、彼(?)を闘わせようとしている(もちろん今あやめが『闘いたくない理由』は怪我をするとかのことではないのだが)。
「…わかったよ。女の子と闘うのは気が引けるけど、そんなことを言っていられる場合じゃないもんな。闘う」
楓が悩んでいる間に、あやめは決心したらしい。
「と言ってももうそんなに長いこと『憑依』維持できないから、短期決戦になるけどなっ!」
言って精神を統一した表情になり、守護精霊に呼びかける。銀の光が身体を包み、足が地面から離れた。
銀色の鷲は飛行し、チョビがいるビルの屋上、その上空にぴたりと止まった。そこでぐるぐる回りながら、チョビに向かって―「サイキ」の声で―呼びかけた。
「なあ、闘わないで済まさないか?どうせ巫にでもそそのかされたんだろうけどさ。…俺、女の子となんて闘いたくないよ」
「やだ」
返事は明快だった。
「お前、とっても強そう。チョビ、強い男と、たたかいたい」
ズキューン!
そう答えて一発ぶっぱなす。
「うおっ!?」
鷲はのけぞり、ぎりぎりでその弾をかわした。
「くそお、仕方ない…のかっ!?」
悔しそうに呟き、ホバリングして様子をうかがう。そこに銃弾が次々と撃ち放たれた。
「どうだ!これでもか!まだ撃ち落とされないか!」
チョビは実に嬉しそうに銃を撃ちまくる。鷲はその弾をあるいはよけ、あるいは羽手裏剣で撃ち落とし耐えていた。しかし、チョビ本人には攻撃をしていない。
「撃ってる女の子に直接攻撃は…サイキの性格上、できないか」
あやめのいる所に自転車を走らせながら、楓は唇を噛んだ。
「でもこのままじゃ、サイキの『憑依』はもうすぐ解けてしまう…サイキー!」
声が届くことはないと思うが、それでも楓は叫ばずにはいられなかった。
その間にもチョビの攻撃は続いていた。
「すごい!すっごく強い、お前…あ、あれ!?」
カチッ、カチカチ。
引き金を引いても銃から弾が出ず、チョビが困惑の声を上げた。
どうやら弾が尽きたらしい。調子に乗って撃ち過ぎたのか。チョビは手早く新しいカートリッジを装填しようとするが、そこにはわずかながら隙があった。
「今だ!」
鷲は翼をたたんで急降下し、その両足で銃身をひっつかんだ。
「は、はなせ!」
チョビはあわてて銃を取り返そうとするが、鷲の、実体ではないはずの銀光で形作られた足は銃身をがっちり掴んで放さない。
「これさえなければ…!」
大鷲がさらに力をこめて大きく羽ばたくと、ついにチョビの手から銃を奪い取った。舞い上がり、両足と嘴とを器用に使って銃を捻じ曲げ…やがて銃はひん曲がっただの鉄くずと化して空中から投げ出された。ビルの屋上に落ちてすさまじい音を立てる。
「そ、そんな…」
チョビは動揺した表情で、ぺたんと座りこんだ。
「よーし、これで俺の勝ちだなっ!」
「やったー!」
やっとビルの下までたどり着いた楓が、歓声を上げた。
鷲が「憑依」を解きながら空から降りてくる。銀の光が薄れ、地上一メートルほどで「あやめ」の身体が表れ、とんと地面に足をつけた。
「サイキ、スカート、スカートっ」
「あ、やばい」
盛大にまくれ上がった制服の裾をあわてて直す。
「お、おお、お前っ…!」
それをビルの屋上から見下ろしていたチョビの口から、声がもれた。
「うそつき!男違う、お前!」
「は!?」
「強い男、思ったけど違う!お前、女!」
「いや、中身は男なんだけどなー」
「強い男、さがすの目的!なのに女!うそついた!うわあああん!」
何に文句をつけられたのかわからないあやめに、チョビは一方的に抗議を申し立て…逃げて行った。
「何なんだ、あいつ…」
「うそつきっ!」
舞鳥市のどこかにある「黒の組織」本部、その「謁見の間」に駆け込んできたチョビの第一声は、これだった。
「はッ!?」
間抜けな声を上げる巫に、チョビは一方的に不満を叩きつける。
「お前、たたかう相手のこと、男って言った!なのに女!女駄目!」
「い、いや、奴は確かに男でッ…というか、どうしてそんなに男か女かにこだわるんだ、お前はッ?」
チョビは簡潔に答えた。
「強い男、さがす。子ども、作る。強い子、生まれる」
「な…何イイイッ!?…ということは、お前の『強い男と闘いたい』っていうのは…」
「強いかどうか、たしかめるため」
「そういうことか…ッて、何だ!?何だその怪しい目の輝きはッ?」
「こうなったら…」
じりじりと巫に近づきながら、チョビが宣言した。
「お前と、子ども作る!」
「うわあッ!?やめろ、ちょっと、ちょっとよせッ!俺は今のところそういう気はッ、うわッ、やめろッ、やめてくれッ!ズボンを下ろすなああッ!」
「まだたしかめてないけど、お前も強そう!いい子、生まれる…」
どたばたと壮絶な追いかけっこを続ける二人を前に、「黒の首領」は、
「今回の作戦も、失敗か…」
深々とため息をついた。
第七章 女王様する馬鹿もいる
「サイ…あやめ!あなた成績上がったじゃない!」
中間テストの結果が貼り出された廊下で、楓が声を上げた。
各学年中、総合順位が百位までの名前が発表されているのだが、その九十八位に「天野あやめ」の名があったのである。
「うん、がんばったよ俺。漢字も読めるようになったから、本とかインターネットからも情報仕入れられるし…」
彼(?)本来の目的である「『果ての地』について知ること」は―まあ学校の成績がこの世界についての知識の目安かどうかは意見が分かれる所だが―着実に達成されているようであった。
「でも、楓の方がすごいじゃないか。五位だもんなー」
「…奨学金もらってるんで、そんなに成績下げる訳にいかないのよ」
楓はふと暗い顔をして呟いた。
あやめはその表情を覗きこみ、
「悪いこと聞いたみたいだな。ごめん」
謝った。
「ううん、いいんだけど…」
「よ、天野、岡谷」
声をかけられ、二人が振り向くと野本が立っていた。
「二人とも名前が出てるじゃないか。さすがだな」
「うん、やっと、こっちの世界…ぐっ!」
楓があやめの足を蹴飛ばした。
「…こ、こっちの国のことがわかるようになってきたよ」
彼(?)はあわてて言い直した。
「そうだよな。転校してきた時にはとんちんかんな質問ばっかりしてたよなー、天野。…いつも思うんだが、前はどんな国に住んでたんだ?」
「うん、それは、『彼方の…』…痛ててててっ!」
楓が今度は、あやめの足をぐりぐりぐりと踏みつけていた。
「カ、カナダよ、カナダ。でもすっごく僻地で地名言ってもわかんないと思うわ」
「何で岡谷が答えるんだ?…まあ、いいけど」
野本が言いたかったのはこれではなかったらしい。すぐ話題を変えた。
「今度の土曜日、俺ん家に遊びに来ないか?あ、もちろん岡谷も一緒に」
「…何かついでみたいね、私が」
文句をつけよう…とした楓だったが、野本の顔をあらためて見て絶句した。
その落ちつかなげな表情、あさっての方向に向きながらときどきあやめの方をうかがう視線…。
(これは…もしかして…)
「へー、野本の家か。剣道道場だって言ってたっけ」
嫌な想像に頬がひきつる楓をよそに、あやめは目をきらきらさせて話に食いついてきた。
「ああ。ほんとの道場ってのを見せてやりたいしな。昼飯も食ってけよ。お袋の手料理食わせてやりたい」
「あ、いいなー。寮の食事もいいんだけど、たまには他の人の作った料理も…」
「サ…あやめ!ほいほい人の話に乗らない!」
「へー、野本くん家におよばれ?あたしも行きたーい」
後ろからあやめと楓の肩をわしっと掴んで割りこんできたのは…いつものことながら、由布子だった。二人の耳元で野本に聞こえないようにささやく。
「野本くんのお父様、舞鳥市の名士よ。土地もかなり持ってるし…あやめちゃん、玉の輿ね」
「えー何だー、『たまのこし』って…ぐえっ!」
「大声で言わない、そんなことっ!」
どつき漫才を繰り広げる二人をよそに、由布子は、
「じゃ三人でお邪魔するってことで…よろしくねー」
野本に向かってにっこり微笑んだ。
金曜日の晩のことである。
「呼んだのは他でもない、サイキのことだ、巫よ」
「はッ」
片膝をついてかしこまる巫の姿は、一言で言えばよれよれだった。
髪は乱れ、服はあちこちしわが寄っている。特にズボンはベルトがたるみ、ずり落ちそうになっているのを片手で押えていた。
「…」
彼がそうなった「理由」はカーテンの向こう側の存在にもわかっていたが、あえて無視することにして言葉を発した。
「前回はああだったが、こんど我が引き合わせる『戦士』ならば必ずやサイキを打ち倒し、捕らえて来よう。…エリー、この者が巫だ」
それまで暗がりの中で黙ってたたずんでいた人影が、進み出て巫の前に姿を現した。巫は思わず呟く。
「…また女ですか」
「うむ、『彼方の地』は西の大海の果て―いや、こちらの言い方では『東方』になるのか―の王族の血を引く『戦士』だ。身体的な強度は外見からは信じがたいほど高いぞ」
年齢は二十歳前後か。露出魔か?と疑いたくなるような服装を身につけ、腰に手を当てて傲然と立っている。
「お、おい。エリーとやら…」
巫は恐る恐る仁王立ちの女性に声をかけた。
「何ですの?」
きつい口調で返答が来る。巫はサイキの―「天野あやめ」の写真を示し、言った。
「…このサイキと言う奴と闘い、生かしたまま捕らえて連れてこい」
「まあっ!」
エリーの眉がぴきっ!と跳ね上がった。いきなり腰に下げていた鞭を掴んで、巫に向かって振るう。
「わあッ!」
飛び退いて初撃はかわしたが、続いて第二撃、第三撃と飛んできた。
「わたくしにっ!この女王たるわたくしにっ!命令するとは何事ですか!わたくしにものを頼む時には頭を下げなさい!」
逃げ回りながら、思わず巫は「首領」に対して文句を言った。
「こんな奴にやらせるんですかッ!」
「…現時点では最強の戦力だ。仕方あるまい」
憮然として「黒の首領」が答えた。
「『こんな奴』とは何事ですか!『エリー様』か『女王様』と呼びなさい!」
「…サイキを捕らえてください、エリー様…ううッ、族長と『首領』以外にはこんな屈辱受けなかったぞッ…」
そう言いながら、巫の口元がぴくぴくと痙攣した。
あやめ、楓、それに由布子の三人は土曜の朝、徒歩で野本の家に向かった。…本当は自転車に乗って行きたかったのだが、あやめは自転車を持っていなかったため三人とも歩くことになったのだ。さすがに自転車一台を買う費用までは樹のポケットマネーからは出しにくかったらしい。
「だから、お小遣いは貯めといた方がいいって言ったでしょう!」
「だって必要なかったし。本当に急ぐ時には飛…げぶっ!」
「そのノリは変わんないわねー、いつも」
二人のやりとりにもう慣れた由布子が、笑った。
山道を下って行き、市街地に入る。
本当は野本が前日「迎えに行く」とも「スマホで道を教える」とも言ったのだが、由布子が「あ、場所わかるから」とあっさり断ったのだった。
「野本くんの家まで知ってるって…何でそんなことまで」
「情報収集は基本よ、基本。…ましてやお金持ちのこととなればね」
言って先頭に立ち、商店街を抜けていく。
(もしかして…『あやめ』のライバル?)
強引にくっついて来たのも、牽制の意味があるのか…などと変に勘ぐってしまう楓だった。
「ここよ、ここ!」
そう言って由布子が示した門は、
「うわ…」
和式で木製の、「厳しい」という表現がぴったりくる重厚なものだった。高い塀の向こうには木々がこんもりと茂っている。
「あ、ほんとだー。剣道道場の看板もあるぜ」
確かに、「野本」と筆書きされた表札の脇にはそう書かれた木の額がかかっていた。
「ごめんくださーい」
由布子が呼びかけると(さすがにインターホンはない)、しばらくして引き戸ががらりと開き、野本が顔を出した。黄のTシャツにスラックス姿だ。
ちなみに三人は、あやめは青いポロシャツにスラックス(私服ではスカートは絶対はかない)、楓が白のブラウスにキュロットスカートで、由布子が緑のワンピースだった。
「おお、来たか。入れよ」
ちょっと照れくさそうに言い、飛び石伝いに玄関に三人を導いた。これも広い。道場を構えるせいもあるだろうが、十数人は一度に上がれそうだ。スリッパに履き替え、廊下を歩く。
立派な居間に入る直前に、あやめが何かを見つけて声を上げた。
「うわあ…っ」
「天野、こっちが俺の父で…おい」
居間で座っている男性を紹介する野本の言葉を無視して彼(?)は居間の奥の床の間に走っていき、そこに置かれた日本刀に飛びついた。鞘を払って白刃を露にする。
「これが、ほんとの剣道で使う『刀』ってやつか!」
「こ、こら待てっ!怪我するぞ!」
野本の制止も無視して手に取り、塚を握って振ってみた。一振りごとに空気を切り裂くすごい音がした。
「重みも長さもちょうどいいよ。本当にすごい武器だ、これ。鉄ってすごいなー」
「鉄って『彼方の』…あ、いや、あなたの故郷にはなかったの?」
他人がいるので、「彼方の地」という名称は使えない。
「うん、使ってない。青銅はあるけどね。南の方から伝わってきた…でもこんな細長い武器、青銅じゃ折れちゃって使い物にならないんだ。槍の穂先とかにはできるけど。…でもこの武器ほんとにすごいや、欲しいぐらいだ」
「こら、いくらすると思ってるのよ。早く戻しなさい、野本さん困ってるでしょ」
「いや、大丈夫。怪我もしそうにないしな。そんなに気に入ってもらえてこの刀も本望だろう」
野本の父が笑って言った。
野本の父親は、初老と言っていい年齢だった。―楓は、野本が次男で末っ子だという話を聞いたのを思い出した。背の高い、道場主だと言われなくてもそれとわかるたくましい体つきだ。
一方母親の方は小柄で、ころころとよく笑う可愛らしい女性だった。と言っても居間に顔を出したのはほんの少しで、今は台所に立って腕を存分に振るっているらしかったが。
「いつも、うちの息子が世話になっているようで」
「いえいえ、こちらこそお世話になりっぱなしで…ほら、あやめ、あなたが一番お世話になってるでしょ」
あやめは勢いよく頭を下げた。
「あー、あの、その…お世話かけてますっ」
「天野さん…だったね。賢悟がいい素質を持っていると言っていた。どうかね、一手お願いできないかな」
「望むところだっ…です」
「あらあら、お昼はじゃあその後ってことで…」
野本の母が台所から出てきて、にこやかに声をかけた。
そんな時、
「ごめんください」
玄関から、声が聞こえた。若い男のものだ。
「親父」
「…いつもの奴だ。放っとけ」
野本のためらいがちな呼びかけに、彼の父はあやめたちに向けるのとは全く違う素っ気ない口調で答えた。
「…?」
首を傾げる三人に、野本が小声で説明する。
「この辺の土地の再開発計画があるって言って、親父に土地を売れって来る人なんだよ。でも親父は、いくら金を積まれてもここから離れる気はないってずっと断り続けているんだ。―まずい時に呼んじゃって悪いな。土曜には来ないだろうと思ってたんだけど」
「なあ楓、土地の再開発計画って何だー?この地面を欲しがるってどうしてだ?」
「再開発って言うのは、このあたりの家や店を壊してもっとお金が儲かるようなビルとかを建てるってことよ。そうすると土地を持ってる人がお金持ちになれるから、ここの土地を手に入れようとしてるの」
楓はできる限り要約して答えた。あやめは首を傾げる。
「そこがよくわかんないだけどな。大地ってみんなのものだろ?どうして区切って自分だけのものにしたがるんだ?」
「え!?それは、だって…」
あまりにも質問内容が意外で、楓は絶句した。
「一つながりの大地を、線引いて少しずつ欲しがるなんておかしいよ。そりゃー俺たちだって、だいたい川の向こう岸は何族の狩場とかって決めてるけど、それは誰がそこを優先的に使うかってことで、一人占めして誰にも渡さないってことじゃないぞ」
「うーん…どう説明していいやら…」
土地の私有権すら知らないのでは。
「まあ、これだけ狭い所に人がたくさん住んでいたら、少しずつ一人占めしたくなるかもしれないけどさ」
あやめが一応納得して、この話題は終わりになった。
道場は、学校の小体育館ほど広くはないが(当り前)、それでも二十人ほどが打ち合えるだけの広さはあった。ちゃんと武神を祀った額もかかっている。
野本の父とあやめが、着替えて竹刀を手に正対した。
「はじめ!」
野本の掛け声と共に、二人が交錯して激しく打ち合う。楓の目には捕らえきれないほど速い動きだ。数合の後、野本父が床を蹴り―
「突き!」
次の瞬間、あやめの身体が宙を舞っていた。
「そこまで!」
「サ…あやめ!」
野本と楓が同時に、床に転がる彼(?)に駆け寄った。
「こ、これは失礼した…」
野本父が荒い息をつきつつ頭を下げる。
「君が女性だということを、つい失念してしまったよ。力いっぱい突いてしまって…申し訳ない」
「いえいえいーんですよー。だって俺、ほんとは―わっ!」
竹刀を床に突いて立とう…としたあやめに、楓が足払いを食わせた。彼(?)は前のめりにすっ転んだ。
「ひでーよ楓!」
「だったらもう少し言っていいことと悪いことを区別しなさい!」
「いつも思うんだが…」
二人の言い争いを眺めながら、近づいてきた由布子に野本は呟いた。
「天野の奴、運動神経も反射も人並み外れているのに、どうして運動音痴な岡谷のつっこみはまともに食らうんだろう」
「…まあ、あの二人はあれでバランスが取れてるってことなのかもね」
六人での楽しい食事も終わり、午後。
「じゃあ、みんなでショッピングでもしない?」
あやめと野本は腹ごなしをした後、午後中道場で過ごしても良かったらしいが、楓と由布子のやることがないとして却下され、由布子の「カードゲームでもしない?」との提案はあやめにルールを説明する困難に楓が気づいてこれも却下され…結局無難な買い物という結論に達した。
野本の両親に見送られて四人が門をくぐった時―
「何…あれ?」
異様な光景が、目の前にあった。
「おーほほほほほっ!」
笑い声が響く。
「だからその、私の方が先客で、だから、先に入る権利が…」
「こーのわたくしにその言い草は何ですか!わたくしより先に立とうだとはおこがましいと思わないのですか!」
汗をかき、門の前で固まる若いスーツ姿の男がいる。声からしてさっき玄関から声をかけてきたのと同一人物だろう。
「そこをおどきなさい!下衆が!」
その男に、権高な口調とそれに反比例した丁寧言葉で迫っているのは―声からして、女性であることは間違いない。
背は高い。百八十はあるかもしれない。
しかし―
その身体は、フードつきのマントにすっぽり覆われていた。
「おーほほほほ!」
フードの下から、ややくぐもった高笑い(?)がもれた。
「入る前に標的がお出ましですわね!わたくしの名はエリー!その名も高き女王様ですわ!サイキとやら!わたくしと勝負しなさい!」
「また勝負かよ!まあ、いいけど」
あやめが進み出た。
「では勝負いたしましょう!」
「…ちょっと待て!ここじゃ困るぜ。人いるし…他でやらないか?」
「ええ、よろしいですわよ」
「ここでやる」と主張するかとも思っていたが、意外にもエリーはあっさりうなずいた。
「…おい、天野!」
驚いた野本が声をかける。
『悪い!俺と楓、ちょっと抜けるわ。すぐ戻るから」
「あはは、そういうことで…じゃ失礼しまーす」
「行くぞ、楓」
「うん!」
あやめは楓をひょいっと抱え上げた。
「じゃ、走るぞ、エリー」
「ええ、行きますわよ!」
二人は一気に走り出した。あやめは銀光を両脚にまとわせ、猛スピードで走る。エリーも―驚いたことに―ぴったりくっついて走ってきていた。
「あ、あのー、私の用事は…あの、その、いいです。帰ります」
毒気を抜かれた様子で、スーツの男も引き上げていった。
「二人とも行っちまって…どうする?」
「二人でショッピング…しようか、野本くん」
野本と由布子は顔を見合わせた。…彼女が内心二人っきりになれたことを喜んだかどうか、それは誰にもわからない。
「―ここでいいか」
あやめがそう言って足を止めたのは、舞鳥市街地の外れにある市営グラウンドに近づいた時だった。
「つかまってろよ、楓」
助走をつけてジャンプし、ひらりと鉄網の柵を飛び越えた。今日は使われなかったらしく門には鍵がかかり、人の気配はなかった。
「あら、いい場所がありますわね」
続いてエリーも軽々と柵を飛び越えた。―一瞬空中でよろめいたが、地面にはきれいに着地する。
「じゃ、やるか。…ところで、そのマントいつ脱ぐんだ?それとも見せられないような姿だとか」
「し、失礼ですわね!わたくしの美しさは、下々の者に見せるのはもったいないだけですわ!御覧なさい、目が眩みますわよ!」
エリーはばさりとマントを脱ぎ捨て、天高く放り投げた。
「す、すげー…」
「すごいって言うか…すごいけど…」
あやめと楓が、それぞれちょっとニュアンスの違った呟きをもらす。
エリーの服装は―
一言で言えば、水着も同然。
頭には宝石で飾ったティアラをつけ、首飾りも豪華だがその下は丸見えで、胸甲をつけている…と言っても胸のわずかな部分を覆っているだけで、その「胸」が尋常な大きさではないためにかなり大きいだけである。腰にもほんの申し訳程度の覆いをつけ、とどめに脇には革製らしき鞭を吊っている。長い脚はむき出し、足元は…。
(あれ?)
そこまで視線をやった楓は、少し驚いた。
裸足だ。
ハイヒールかブーツでもはいているかと思っていたが、エリーの足は全くの素足で、大地を踏みしめていた。
(水着同然だから、あれでいいのかしら)
しかしちぐはぐな印象を与えるなと楓は思った。
だが…何と言うか今までのマント姿も充分怪しかったが、これは確かに隠さなければ街中は歩けないだろう。通報ものだ。
「おーほほほほっ!わたくしこそ、完・璧・なる、女王様っ!そしていずれは女帝様となるべき選ばれた存・在っ!全ての人々はわたくしを崇め、ひれ伏すべきなのです!」
そう言って鞭をびしいっ!と鳴らす。
「何か言ってるけど、サイキ…」
「できればあれとは闘いたくないなー」
あやめの頬に汗が一筋流れた。
エリーは鞭を構え、戦闘態勢を取った。
「さあ、勝負しましょう、サイキとやら」
「あ、ああ」
あやめは生返事をし、
「それにしても…」
その視線がエリーの顔からそれ、その下に向いているのに楓は気づいた。
「こらサイキ!生唾飲み込んでるんじゃないっ!」
「いや…だって…」
中身は「男」なのだから仕方ないと言えばないのだが、楓はむかっとした。
「楓、楓。そんなことより、下がれよ。これじゃ闘えない」
「あ、そうか」
つい忘れていた。楓は下がり、照明機の柱の陰に隠れた。ついでにスマホを取り出して樹に連絡を取る。
『―わかった。すぐにそっちに向かう。通話は切らないでおいてくれ』
樹は事情をすぐに飲み込み、回線の向こうで大きくうなずく気配が伝わってきた。
「ではあらためて、いきますわよ!」
一言言うなりエリーは鞭を振るった。うなりを上げて先端があやめに向かって飛ぶ。
「うわっ!」
彼(?)は地面を蹴り、危うい所でそれをかわした。伸びきった鞭はエリーの手首の動き一つで手元に戻る。
「やりますわね、なかなか…」
嬉しそうに呟くエリーだったが、すぐに腕を振り下ろした。
鞭があやめの顔に迫る。彼(?)はとっさに左腕を前にかざし、何とかその一撃を受け止めた。鞭の先が腕に巻きつく。
「なぜっ!?」
鞭の柄をぎりぎりと引っ張りながら、エリーが驚きの声を上げた。
「この鞭に触れれば、皮膚など弾け飛び、痛みにのたうち回るはずなのに!なぜお前は平気なのですかっ!」
「へ、平気じゃない…けどな…」
よく見ると巻きついた鞭と腕の間に、銀の光がかすかに見えた。楓はほっとした…が、あやめの顔には余裕のかけらもない。
「ちくしょー、このまんまじゃやられっぱなしだぜ…よし!」
そう叫んであやめは鞭を左腕に巻いたまま前に走った。エリーに肉迫する。
「女の子を殴るのは趣味じゃないんだ…けどなっ!」
言いつつ彼(?)は銀光をまとった拳をエリーの(むき出しの)下腹部に叩きつける…が、
「うおっ!?何だお前?」
驚愕の声を上げて、あやめはエリーから距離を取った。
「硬いぞ!何だこの手ごたえ!?それに後ろに吹っ飛びもしない?」
確かに、エリーはまともにパンチを食らったはずなのに、その衝撃を受け止めきったかのように小揺るぎもしていない。
「おーほほほほっ!これこそ、わたくしに『母なる大地の精霊』が加護を与えている証なのですわっ!この力がある限り、わたくしの身体は岩と同じ強度を持ちますのよっ!」
「殴っても効かないのかよっ!とんでもないなー」
距離を取り直すあやめの腕から、鞭が離れてエリーの手に戻った。
「もう一つ、見せて差し上げますわ!」
彼女は裸足の右足で地面をとんと蹴った。
その瞬間―
あやめは両足に銀の光をまとって跳躍していた。
ドン!
次の瞬間、今の今まで彼(?)が立っていた場所に、巨大な土の槍がそそり立っていた。
「よくかわしましたわね!」
エリーが感嘆の声を発した。
「『大地の精霊』の乱れを感じたんでな…!」
宙返りして着地したあやめがにやりと笑う。そこに鞭が飛び、かわした先に土の槍が生え、ジャンプした所にまた鞭が―激しい連続攻撃が繰り出される。エリーが高笑いを上げた。
「おーほほほほっ!わたくしを倒すことなどできませんわっ!この『母なる大地の精霊』の力がある限り、わたくしの力は無・限!いくらでも力が注ぎこまれ、尽きることはないのですわっ!」
「何ーっ!」
あやめが声を上げ、
(え…っ?)
楓も驚いて、あらためて二人を見比べる。
確かに、彼(?)がすでに息を切らせ、疲労した様子なのに対し、エリーは全く疲れたようには見えない。
『どうした!』
通話の向こう側での樹の問いに、楓は状況を手短に説明した。疑問を付け加える。
「どういうことですか?あの人は、『大地の精霊』の力をいくら使っても、全然消耗しないっていうんでしょうか?」
『推論だが、その『裸足』ってのが重要なのかもしれない。大地に直接触れて力を受けている状態ならば、ほとんど消耗しないのかもな。サイキくんの守護精霊にしろユーリの『火の精霊』にしろ、呼び出して維持するのに精神力を必要とするが、彼女の場合本来のものでないとは言え力の源に直接触れているわけだから…』
「それじゃ、このまま削り合いになればサイキは絶対勝てないじゃないですか!」
楓は思わずスマホに向かって怒鳴っていた。
その間にも、あやめは鞭が飛ぶ度に銀光をまとって受け止め、土の槍をかわし…その度に消耗するらしく肩で大きく息をしていたが、エリーは高笑いしながら、全く疲労した素振りもなく鞭を振るい、槍を呼び出している。
「このままじゃじり貧だわ。何とかしてエリーを力の源から…大地から引き離さないと…あっ!?」
はっと気づき、楓はあやめに向かって叫んでいた。
「サイキ!『銀の鷲』を呼んで!」
「え?でも時間制限が…」
「三分あれば充分!」
「―あ、そうか!よしっ!」
あやめはとんぼを切ってエリーから距離を取り、左手をかざした。
「我に加護を与えたもう『銀の鷲』よ!」
光が爆裂し、大鷲が現出する。
「何が出てこようと、わたくしの敵ではありませんわ!この鞭を受けなさい!」
うなりを上げて鞭が飛ぶ…が、それを避けもせずに銀の鷲は舞い降り―
「きゃあっ!何をするんですの!?」
エリーの左腕をひっつかんで天高く舞い上がった。
「は、放しなさい!放さないとこうですわよ!」
右腕で鞭を振るい、打ち据える―が、鷲はひるまずに高度を上げた。
「やめ、やめなさい!…だ、『大地の精霊』から離れると、力が…」
次第に声か細くなり、腕から力が抜けて鞭が垂れ下がった。
「やっぱり足が地面についていないと、力が出ないみたいだな」
ひょい、と空中でエリーの腕を放す。
「きゃああああっ!で、でも大地が近くなれば…」
墜落しながら安堵した声を発するエリーだったが、
「まだだ!」
翼をすぼめて急降下した大鷲が、地面すれすれで再び彼女の肩を捕らえて大空へ駆けのぼった。
「いいやああああっ!これ以上大地から離れますと、わたくしの美貌が、お肌の張りがああっ!や、やめてくださいませ…」
声が力を失うのと時を同じくして、その目元にはしわが寄り、四肢がやせ衰えていく。
「お、降ろして…降ろしてください、お願いですから。このままでは降りてももう回復できなくなりますわ。わたくしの女王たる誇りにかけて、抵抗しませんから…」
「ほんとだな?ほんとに誇りにかけて誓うな?」
「ち、誓いますわ!だから、お願いですから…」
「よーし、それじゃ降りようぜ」
銀色の鷲は舞い降り、ぽてちんとエリーを落とした。見るかげもなく衰弱した彼女はへたりこんだ。
「まあ、もう一度その鞭を使われても、同じことをまたやるだけだけどな」
「憑依」を解いて地上に降りたあやめだったが、左腕は天にかざしていつでも「銀の鷲」を呼び出せるように構えている。
「わたくしは誇り高き女王です!抵抗しないと言ったらしませんわ!」
言い返す声に力がこもる。―すでにその肌には張りが戻り、目元のしわも消えていた。
「態度のでかいのは変わんないなー、お前」
駆けつけた樹とその配下のエージェントにより、エリーは拘束された。鞭を取り上げられ、手錠をかけられながらも傲然とした様子で車に連れ込まれていく。
「…さて、今回は銀色に輝く大鷲が二度ほど空高く舞い上がったわけだな」
詳しく話を聞いた樹が重々しくそう言った。
「前回は市街地上空を飛んで行くのが…目撃されただろうな、仕方なかったとは言え」
「この間は馬に乗った女子高生が街中を走って行きましたからねえ…」
「ど、どうごまかせばいいやら…」
楓と樹は頭を抱えてうめいた。
「仕方ないじゃんよー。攻撃されたんだからさー」
「あなたは危機感なさすぎ!」
のんきに口をはさむあやめを、つい怒鳴ってしまう楓だった。
「どうしたんだ天野?どこで何をしてたんだ。よれよれだぞ、顔色も服も」
ようやく野本宅に戻ってきた二人を迎えた野本が驚いて言った。
「ああ、何でもないんだ。ちょっと戦闘を…って痛てっ!」
楓があやめの腕をつねり上げていた。
「つねることないだろ楓ぇー!」
「だったら言う前に少し考えなさいよ!」
「あー、いいけど…」
ちょっと呆れた様子で野本は追及をやめた。
「ところで『さいき』ってのは何のことだ!あのマント女が天野のことをそう呼んだと思うんだが」
「ああ、俺の本名…ぐわっ!」
楓の、あやめのふくらはぎへの蹴りが決まった。
「だから痛てーって楓!」
「あなたがザルみたいに何でも頭から口へ自己検閲なしに直行させるからでしょうがっ!」
「…わかったわかった。天野が秘密持ちなのも、岡谷がそれを隠してやろうと四苦八苦してるのも、わかったから」
野本が苦笑した。
「まあ、ゆっくりしていけよ。寮の門限に間に合えばいいんだろ?」
「まあそうなんだけど…あれ?」
楓はさっきまでいた人がいないのに気づいた。
「お母様はいらっしゃるけど…お父様は?」
「ああ、再開発計画に関わる地域住民の会合に行ったんだ。反対派のリーダーやってるんだけどね」
「そうなんだ」
うなずく楓だったが、
「おやつでもどう?」
台所に入り、お盆を手に出てきた野本母に気を取られて、それ以上このことについて考えることはなかった。
「またサイキの捕獲に失敗したか」
カーテンの向こうから、ため息混じりに声がもれた。
「はッ。申し訳ございません…しかし私めもッ!必ずや次ッ!次こそはッ…」
「もうよい。下がれ」
「ははッ」
一礼して巫は「謁見の間」を後にした。と、入れ替わるかのように中年の貧相な男が表れ、深々と頭を下げた。
「おお、再開発計画の担当か。そちらの方はどうなっておる」
少し期待のこもった口調で、声が発せられる。
「えー、報告が参っております」
背広姿の中年男は、背筋を伸ばした。
「再開発のための土地入手、失敗しました。地域住民の会合で、土地売り渡しを全面拒否する決議がなされたそうです」
「何っ!?」
「何でも、反対派のリーダーを説得すべく向かった者が、何やらわけのわからない妨害にあったそうで…」
「ぐぬぬぬぬ…うまくいかなかったか」
口惜しげにうなる「黒の首領」であった。