ベテルギウスと流星群とぼくのハッピーエンド 最終稿(仮)
たぶんこれで最後です。
星の命の終わりを見た。
今日、8月9日。
その日、ぼくは幼馴染である彼女との天文部部活動に従事していた。
我らが天文部の活動は、教室ばかりが収められた校舎(通称・東棟)に侵入し、本来は閉め切りの屋上で夜空を見上げて他愛ない話をするだけの、日常生活の延長線上にあるようなものだ。参加メンバーが部長・彼女、副部長・ぼくのみである点が部の私物化を加速させている主な原因だろう(天文部は幽霊部員の巣窟であり、部として成立する最低限度のメンバーは揃っていることを補足しておく)。
今日の夜空はひときわ綺麗だった。光の砂が撒かれたような夜空は、地上の蒸すような空気と絶対的な隔絶があり、見ているだけで涼しくなってくる。月面で餅をつく兎がこの時期は羨ましい。
掃除の手が入らないため無慈悲に砂埃が吹きつけられている石の床に、家から拝借したヨガマット二枚を敷いて、ぼくらはそこに座っていた。枕はちょっとした事故(居眠り)が起こりそうなので却下、というのが二人のお約束だ。
一応部活動という建前があるので、ぼくも彼女も制服姿だ。
「どうかされましたか?」
ぼくが見ていることに彼女も気づいたようだ。
薄い生地で出来た紺色の夏用スカートからは、真っ直ぐ足が伸ばされ、半そでのカッターシャツには僅かにキャミソールの肩紐が透けている。……また周りが暑くなった気がして、ぼくはズボンをふくらはぎくらいまでめくり上げた。
「あ、そうだ。今週には、流星群もあるんですよ」
落下防止用のフェンスに囲まれながら、彼女が得意げに言った。ぼくより頭一つ低い所から、濡れ羽色の瞳が覗きこんでくる。
「そっか」
ぼくはそれに見惚れかけて、しかしそれが察せられないように無理矢理視線を逸らした。高鳴る心臓の音を無視しながら、視線で星の間をなぞっていく。
ぼくだって、それくらいは知っている。8月14日の深夜。確か、ペルセウス座流星群の極大時刻だったはずだ。
しばらく声が途切れ、代わりとばかりに蝉が騒ぎ始める。五月蠅い沈黙がぼくらの間を埋めたが、その空気は不快なものではなく、むしろ安心するものだった。無駄に言葉を連ねる意味はない。
ずっとついていた腕が痺れてきて、ぼくはマットに寝転がる。
その時、ぼくらは眩い波濤に飲み込まれた。
光も息切れするような、零下の果てで起きた星の終わり。
先まで放たれていた青白い輝きは明るい赤色に変わり、ぼく達を照らし出す。それはまがうことなき、命の灯火だった。その輝きは熱を持つようで、見ているぼくの体の真ん中から手足へ、じんわりとその感触を広げていった。
そしてそれが四肢の先まで届いた瞬間、ぼくは唐突に自分の死期を確信した。
何故か、と問われれば返答に窮する。ただ、ぼくは数日後に何か絶対的な力によって死ぬだろう、ということがあの星の終わりに感応して伝わってきた。そういう類の直感だった。
「や、やった! ベテルギウスの超新星爆発、そろそろ起こるって言ってたけど、本当にこの目で見られるなんて!」
彼女はいち早く混乱から立ち直って、小さくガッツポーズをした。読書好きな、おとなしい彼女がここまで感情を顕にするのも珍しい。掛けた黒ぶちの眼鏡のレンズが光を返し白く染まる。
ぼくは隣で歓喜の声をあげる彼女に問うた。
「ねえ、星は光って死んでいくけど、ぼくらは何のために死ぬんだろう?」
突然冷や水を掛けられたような顔で、彼女は首を傾げていた。
変な事を聞いてしまった。ぼくは彼女に忘れてくれと頼み、立ち上がり、尻についた砂埃を払う事も忘れて歩き出す。でも何故だか地面をしっかり踏みしめられなくて、ぼくはバランスを崩し、咄嗟にフェンスを掴んだ。ギィ、と鳴った軋みは悲鳴に似ている気がした。金属線から逆立つような錆が掌に擦れて、少し痛い。
「急にどうしたんですか。部活の終わりまで時間はありますよ」
彼女の声が追いかけてきて、ぼくは慌てて、逃げるように駆けだした。
校舎に戻り、僅かに青が差した暗闇に伸びる廊下を上履きでけっ飛ばし、玄関で靴に履き替え外に出る。校門越しに、暗がりの中へ呑まれつつある見慣れた街並みが見えた。
ぼくは視線を持ち上げる。
無限にあると見間違そうになる暗闇は、ぼくという存在の小ささを嫌でも認識させる。背後に底冷えのする気配が迫っている気がして、それから逃げ出すように、ぼくは足を急がせた。
空の上のベテルギウスが、そんなぼくをじっと見つめていた。
◆
1人ぽっちが悩んでいるところで、月は沈み、日はまた昇る。しかしその太陽は、低く爬行するような夏らしくない雲によって隠されてしまっていた。少し、寒いような気がする。
ベッドの上に座り込み、死んだように静かな目覚まし時計を見つめているうちに、日本には朝が来ていた。ぼくは立ち上がろうとして、失敗する。ぼくにも分からない何かが腹の底で蠢いているようで、その重さに耐えきれなかったのだ。
ぼくは壁伝いに部屋を這い出て、階段を下り、リビングに入る。
両親共に朝は早く、食卓には冷めた卵焼き、ウィンナーが載せられた皿と空の茶碗が載せられていた。ご飯は自分でよそえ、ということだ。何も考えないまま、ぼくは朝食の用意を完成させる。
手を合わせて、ご飯を口に運び……
「ッ……ぅ、うぉぉえ」
ぼくはすぐにそれを戻した。死の予感が喉元までせりあがり、暴れまわるような感覚だった。目の前が霞み、むせかえる。
落ち着いたあと、目の前の朝食が胃液まみれになっているのを見て、ぼくはそれをゴミ箱に捨てた。
なんと、ご飯となった命たちの果ては、ゴミ箱にあったのか。
……また吐きそうになるのを堪えて、ぼくは部屋に戻って登校する用意を整える。顔を洗い、歯を磨き、持ち物の確認をして、制服を着こみ、準備は完了。
再び来た階段を下り、誰もいない家に挨拶をして、外に出た。
「……お早うございます」
既に家の前で待っていた彼女が、口をアヒル口にしながら言った。つむじでゆるくまとめた髪の毛をいじっている。不機嫌なときの合図だ。きっと昨日勝手に帰ったことを怒っているのだろう。
「ごめ、ん……?」
ぼくが謝ろうとした時、赤い輝きが目に入った。灰色の雲の向こう側、ベテルギウスがそこにいた。
その時、また死の予感が形をもって暴れだす。吐き気、目眩、自分の真ん中を通る芯が根底から揺るがされる感覚に、ぼくは全身が総毛立つのを感じて、頭を抱えた。膝から勝手に力が抜けるのを、近くの壁を掴み何とかこらえる。
「ちょっと、だいじょ――――!?」
彼女の体が歪み、何重にもぶれて重なる。不規則に色が変化して、その不気味な色彩はぼくの脳内を刺激し、攻撃した。
ぼく、休む。
そう言ったつもりで、ぼくは扉を閉じ、――そこが限界だった。そのまま玄関に倒れ込むと、背中から扉を叩く音がする。
ぼくはそれに応える余裕もなく、さっき両足で降りてきた階段を這いずるように上った。
◆
それからぼくは、部屋を出ることもなくずっと考えていた。
星は光って死んでいく。自分が滅ぶことも知らずに、一人ぼっちで、不用心に、無邪気に、ちらちら光って、弾けて消える。
ならば彼らは、何の為に光を放ち、何の為に死ぬのだろう。
そしてぼくは、何の為に命を使い、何の為に死ぬのだろう。
寿命を知ってから、ぼくの生活は加速した。
「年を重ねる程時間が速くなるのは、過ごした時間と相対的に、その一秒の価値が小さくなるからだ」
頭のいい誰かがそんなことを言っていた。
確かに概ね同意だけど、でも厳密には違うとぼくは思う。
終わりが近いほど、ヒトの世界は加速する。
部屋に引きこもってから、三日が経過した。
眠るだけで時計の針が回っていることが怖くて、彼女の前から逃げた時から、ずっと不眠のままでいる。
それから夜が来るたびに、ぼくはその暗がりに死神を幻視するようになった。今はそれを追い出す為に、絶対に沈まない太陽を部屋に浮かべている。病んで細った、白い輪を描く太陽だ。
天文部も休んでしまっていた。何日も閉じこもっているうちに彼女からメールが、そして電話が毎日掛かってくるようになったが、ぼくはそれらを全て無視していた。
今、夜の下に出て行ったら、ぼくはきっと狂ってしまうだろう。そんな姿を見られたくなかった。
そのまま五日が過ぎ、ぼくは時間を無為に過ごす恐怖を知った。
ただ見ているだけで、デジタル時計の数字は入れ替わる。砂時計は血を流すみたいに砂を零す。ぼくと砂時計の違いは、いくら逆立ちしたって中身が戻ってくれないことだ。
過ごした時間はぼくの記憶となり、知らない外の世界で起きたことはそのまま、知らない本の1ページに記されることだろう。
何処かの砂浜に何時か刻まれた足跡みたいに。
サイダーの泡がそれぞれ勝手に弾けるみたいに。
でも、海に棲む魚は自由に元気に泳いでいるし、サイダーは変わらずおいしいままだ。
答えは出ないまま、終わりの時が近づいてくる。
一寸先で、バッドエンドが嗤っている。
◆
(……夢か)
ぼくはそう直感した。
夜の中にいた。
空は真っ黒で、色はなく、光もない。安物のインクでベタ塗りされたみたいに、単調な闇が宙をわだかまっている。耳にはさあっ、と流れる風と、絶えず、周期的に砕ける波の音があった。
この場所にあるのは見える限りではそれだけだった。強いて挙げるなら、今ぼくが寝転んでいる砂浜、そしてその周りを囲う海くらいか。
体を起こし、果てが見えない海原を眺めるぼくの目の前を、光の粒子が下から上へ通過していく。手に取ると、それは水滴だった。波が寄せて砕ける度に、その雫を媒体に光が生まれ、浮かび上がっているのだ。そしてそれがこの場にある唯一の光源だった。
闇夜に揺れる光の粒々。幻想的な光景だったが、ぼくにそれを見ている余裕はなかった。
(夜……闇、暗い、あ、あいつがいる。ぼくの後ろにいる……)
背後にひたりと触れる冷たい気配――死神だ――に、ぼくは胸をぎゅっと握られるような錯覚を覚えた。焦燥に似たそれに押し出されて体内から逆流してきたものを、海面に向かって吐瀉する。喉が胃酸に焼かれ、爛れて痛む感覚はやたらとリアルだった。
その時、寄せる波間に軽やかな音が転がった気がした。それは砂を踏む音だった。サク、サクとそれは連続し、音の主は楽しげに近づいてくる。
「こんにちは。顔を真っ青にして、大丈夫?」
ぼくは口から垂れる胃液を拭い、その声の方へと振り向いた。
ひまわり色のワンピースが似合う、髪の短い女の子だ。その肌は幽霊か何かみたいに真っ白で、夜でもはっきりそこに存在していると分かる。体の線は細く、触れるだけで折れてしまいそうだ。放つ心配そうな声色と裏腹に、顔には満面の笑みがあった。
「いきなり吐き始めたからびっくりしたよ。何かあったの?」
「……夜が嫌いなんだ。夜は、ぼくを焦らせるから」
「その心は?」
ぼくは女の子に、これまでの顛末を語った。ベテルギウスが爆発したのを見て、同時に自分の死期を直感した。それから時間が経つことが怖くて、ずっと眠らないままでいたら、いつの間にかここにいた。そんな内容だ。
すると女の子は納得したように、「そういうパターンもあるのか」とつぶやき、そのまま言葉を続けた。
「ここは生死の境にあたる場所。あたしは『夜の島』って呼んでる。ここには立てるだけの陸と、周りを囲う海と、月もない夜しかないから、とりあえずそう名付けたの。……まあ、ここが現世じゃないってことが分かってくれればいいかな。
それで、君はここに流れ着いた異邦人」
それなら君は現地人? と聞きたくなったが、一先ずスルー。
「ここには本来、死に行く人しか来られないはずなの。それなのにおにーさんは、生きたままここに来た。その原因は、自分の死期をはっきりと知覚しているせいだと思うけど」
「……それじゃあ、君は死んでいるの?」
女の子は柔らかく微笑んで、頷いた。その所作はやけに大人びていて、ぼくは胸にちくりとした感触を覚える。
「あたしはね、生まれつき頭がおかしかったの」
女の子はそう言った。
「見るもの聞くもの全部が写真みたいに見えたんだ。数字も言葉も直線も、カラフルな景色に変わったの。あたしは楽しくて、それらを夢中で形にした。最初は漢数字の『二』、だったかな。綿毛が絡んだような、ふわふわした二重螺旋」
女の子はぼくの隣にしゃがみ込んで、指で砂を抉っていく。さらさらと、留まることなく描き上げた螺旋の先には、ちょこんとひまわりの花が添えられていた。それが妙に女の子らしくて、ぼくは思わず唇の端で笑った。
そんなぼくにつられたか、女の子も笑っていた。しかしすぐにそれは曇っていった。不服そうに唇を尖らせている。その顔に、先のような大人っぽさはない。年頃ちょうどの表情に見えた。
「お母さんたちもね、初めは楽しそうに見てくれたんだ。でも年を重ねるうちに、あたしはどんどんおかしくなった。喋ろうとするだけでね、頭の中に一つの絵が浮かぶの。そこに相手の言葉が重なると、その中にノイズが混じる。波一つない、鏡みたいな湖面に、ガソリンが勢いよく流し込まれるみたいにね。あたしはそれが許せなかった。
馬鹿みたいだよね。あたしと話していると、急に怒り出すんだから、きっとお母さんたちも困っていたと思う。あたしの一喜一憂を見るたびに、みんなの顔は疲れていった。
それでね、折れちゃったんだ」
何がとは聞かなかった。彼女は微笑む。
「あたし、切り絵もやっていたからさ、ちょうど近くにカッターナイフがあったんだ。その綺麗な切っ先を見ていると、妙に幸せな気分になったの。目が離せなくて、いつの間にかそれは、あるべきところに収まったように、あたしの手の中にあった」
まさか、と思ったぼくは息を呑み、女の子の顔を見た。しかし、ちょうど持ち上がった光の粒子で影が出来て、どんな表情をしているかまでは見えない。
「あたしの手首で赤色が弾けた瞬間、体中をあったかい快感が走ったの。この世界には、こんなに温かくて、綺麗なものがあったんだって、驚いた。
それでそのまま眠っちゃって……」
「気づいたら、ここにいた?」
女の子は元気に頷いた。
ぼくはいつの間にか、女の子の辿った人生に同情していた。生まれ持った感性の違いが、そして女の子自身の優しさが、きっとこの子を殺したのだ。
ふと、ぼくは追いかけていた疑問を思い出した。この子なら、ぼくにその答えをくれるかもしれない。
「ねえ、君は、もっと生きていたかった?」
女の子は目をぱちくりとさせた後、苦笑いした。
「ううん、どうだろう。遅かれ早かれ、って気もするから、あたし自身にも分からないや」
「なら君は、自分が何のために死んだか分かる?」
女の子は、今度はぽかんとした顔で首を捻った。
この会話と反応はどこかで見たぞ、と思いながら、ぼくは慌てて言葉を付け足す。
「さっき言ったけど、ぼくは夜が嫌いなんだ。でもそれは最初からじゃない。実はぼく、元々は天文部でさ。むしろ夜空は好きなくらいだった。
でも、爆発するべテルギウスを見てぼくは思った。
星は光って死んだ。なら星は何の為に光っていたのか。何の為に死んだのか。そしてぼくは何の為に死ぬのだろうか、って」
「それで、もう死んでいるあたしなら何か分かるかも、って思ったんだ?」
ぼくが頷くと、女の子は大笑いした。波の音が掻き消えるくらいの大音声。彼女の口元に流れ着いていた光の粒子が吹っ飛ぶ。
あんまりすがすがしく笑うものだから、ぼくも少しイラッと来て、口早に言葉を継ぐ。
「何がおかしいの? ぼくだって真剣に悩んでいた。それをまるで、馬鹿にするみたいに」
「アハハ、そりゃ、私じゃなくたって、誰だって笑うよ。だって本当に馬鹿なんだから」
思っていたより、ぼくはひどい顔をしていたらしい。女の子はぼくの目の前に指を突きつけ、また大笑いした。
しばらくして女の子は笑顔を引っ込め、あの優しい顔をして言った。
「君が何の為に死ぬのか。そんな答え、ある訳がないよ。だって、その人が今まで何をしていたって、心臓は勝手に止まっちゃうんだから。そこから先は、全てを見通す神様の領分だよ。
前提が違うんだ。何の為に死ぬのか。そんな難しい問題の答え合わせは、哲学をするライオンとかに任せちゃえばいいの。
あたしたちが考えなきゃいけないのは、今、何の為に生きていたいか。だよ?」
その瞬間、ぼくはふと、星が光る理由を諒解した。
そして同時に、夜ばかりだった世界に、爆発的に光が満ちた。暗闇に目が慣れていたぼくは思わず目をかばう。白い靄のような残像が視界にこびりつく。瞬きを繰り返し、それを追い払った。見ると、彼女も同じような動きをしていた。
少しして、落ち着いたぼくらは揃って、周りを見回す。
「う、わぁ……」
声をあげたのはどちらだったか、それとも両方か。
満天の星空があった。星たちがおしくらまんじゅうするみたいに、ちらちら、きらきら、笑い合って、ぼくらに向かって輝いていた。そこには確かにぼくと、彼女が大好きな夜空があった。
体が熱くなる。いつの間にか、背後の冷たい気配は消えていた。
「ね、ねえ、君、それ!」
ぼう、としていたぼくを女の子が指さす。それにつられて視線を動かしていくと、そこには光があった。ぼくは反射的に目を細める。
「って、何で光って……え?」
ぼくの体が星もびっくりするくらいギラギラ光っていた。それだけではない。海で弾ける光のように、ぼくの体が粒子になって、空中に解けていっている。
ぼくが叫び出しそうになるのを、いつの間にか近くにいた女の子が制した。唇に当てられた人差し指の感触と近づく瞳の距離に、ぼくは顔が熱くなるのを感じる。
「多分だけど、君がここに迷いこんだ理由がなくなったんだと思う。だから、君は今から現世に帰るんだ」
女の子がそのまま、ぼくの頬をなぞっていく。病的に細く、白い指の上に、一つ雫が乗っかっていた。
「――君の人生に幸運を。ここに戻ってこない事を祈っているよ」
ぼくの視界と意識が光に染まる。
最後に見えた女の子の笑顔は、今までのどの笑顔とも違って、あの日のベテルギウスに似ていた。
◆
目を覚まし、ぼくはベッド上の体を起こす。
時計を見た。8月14日、午後10時15分。最後に見た時は午後7時くらいだったから、結構眠ってしまっていたようだ。夜が怖いとか言いつつぐっすり寝ていたのか、なんだか情けない。
窓が開きっぱなしだった。外からは夏特有の温く、青臭い空気が、どこかにいる蝉の鳴き声と一緒に流れ込んできている。
ぼくは立ち上がって、まずつけっぱなしだった照明の電源を落とした。そして窓の傍へと歩み寄り、網戸を開く。
目の前に夜が飛び込んできた。地球に蓋をするような暗闇が、何かを示すわけでもなく、ただそこにあった。それだけだった。
ぴぴぴ、と軽い電子音が静かな部屋に響く。
ぼくは近くに転がっていた携帯を手に取った。時代遅れなガラケーを開くと、形があれば山盛りになりそうなくらいの着信履歴、未読メールがあった。多分、さっきの音でメールが一通増えている。それら全ての送り主は、我ら天文部部長である彼女だった。
ぼくは一番新しいメールに対して、中身も見ずに、一通のメールを返した。
『今から一緒に、流星群を見に行こう』
送信を完了しました、というお決まりのメッセージが表示されたのを確認して、ぼくはすぐ携帯を閉じ、ポケットに突っ込む。そしてそれ以外は持たず、ぼくは部屋を飛び出した。
塞いでいた闇をけっ飛ばすように廊下を走り抜け、階段を一段飛ばしに駆け降りる。お気に入りのスニーカーを、踵を潰しながら無理矢理履いて、半ば転がりながら外に出た。
夜中に浮かぶ街並みがぼくの前に現れる。ぼくはすぐに駆け出そうとする――が、体が重たい。睡眠不足の体は、まるで四肢に錘が巻き付けられているみたいだった。バランスが崩れる。でも、今度こそ地面をしっかり踏みしめて、体を前へ、前へ。心臓が嬉しそうに脈を打ち、昂る体を運んでいく。
皹の入った寺の外周の壁、星明かりよりよっぽど明るい光を放つ古びた電灯を過ぎ、昔通った小学校の前の交差点を左に……ぼくは我らが天文部活動場所への最短ルートを辿っていく。
ふと周りを見回すと、見慣れた街並がまるであの夜の島のように光の粒子を放っていた――と思ったが、違った。それはぼくの体から放たれていた。
また夜の島に戻るのかもしれないし、このまま死んでしまうのかもしれない。詳しくは分からないけど、たった一つ間違いないのは、もうすぐぼくがこの世界から消えてしまうことだ。
でも、怖くなかった。
だって、ぼくはまだ、生きているから。
「はぁ、はぁッ――」
ぼくの体が酸素を求め、喘ぐ。まるで体の中で溶岩がうねっているみたいに、かぁっとぼくの真ん中が熱くなる。
自然と浮かんでくる涙を押し流すように、ぼくは足を止めず、ひたすら走り続けた。
走れや走れ! ぼくはここだ! ぼくはここで生きている!
飛び散る光も気にならない。ぼくの胸は逸り、急いでいく!
一寸先のバッドエンドがぼくの放つ輝きに怯んでいて、それがとても滑稽に見えた。
◆
まるで導かれるように、信号や踏切に一度も止められることなく、事故もなく、ぼくは通う高校にたどり着いた。酸欠でガンガンと痛む頭を振って、ぼくは彼女が来る前にと急ぐ。
3つある校舎の間を巡るロータリーから外れ、闇がそのまま立っているような木々の間を抜けて、ぽつんと佇む小さな石の小屋に入る。そこはもう使われていない倉庫で、顧問の先生が校舎の鍵を隠してくれている場所でもあった。
舞い上がる埃を思いっきり吸い込んでむせ返りながら、ぼくは右奥に置かれた、脛に届くくらいの高さがある木箱を開く。やけに目立つ真新しい本体の中に、簡単なホルダーでまとめられた二つの鍵が入っていた。校舎の扉を開けるものと、屋上の扉を開けるものだ。拾い上げ、箱も扉も閉めないまま小屋を飛び出す。
走ってきた道を戻り、いつもくぐる東棟の扉の前に立つ。うまく刺さってくれない鍵に苛立ちながら、開錠。ぼくは中へ入った。
「はぁ……ッ……はぁ」
そこで、動いていた足が止まる。
限界が近づいていた。足は勝手に震え、頭は白く霞むようで何も考えられない。何よりぼくの体の消失が深刻だった。既に左の二の腕が消えかかっている。まるで魔法のようだ。空っぽになった袖だけがひらひらと動いていた。
ぼくは玄関で靴を脱ぎ捨て、靴下のまま歩き出す。
自分本来の姿を思い出したように、世界には静けさが戻っていた。昼間ここを埋める喧騒を聞いている分、この静寂は空虚で、それだけに純粋なものに感じた。そしてその純粋さ故に、生物の気配は微塵もない。
外は熱帯夜のはずで、証拠とばかりに顎から汗が滴っては、光になって消えている。しかしここは隔離されているかのように、すっきりとした涼しさに満たされていた。汗も、少しずつだが引き始めている。
そうして階を一つ、二つ、上がっていく。
最後にぼくは短い階段と向かい合った。
その時、小さな鈴が鳴るような、軽やかな音が転がった。音源は左。首だけで見る。左腕がぽっかりと喪われていた。その残滓である光がふわり、舞い上がってぼくの体を包んでいく。
体が軽くなったような気がして、ぼくは笑った。
ゴールはもうすぐだ。
ぼくはポケットに入れた鍵を取り出しながら、階段を一気に駆け上がった。そして鍵穴に鍵を差し込み――今度はうまく入った――、勢いよく扉を開ける。
見れば見るほど、どこまでも遠くなるような空があった。瞬く無数の星と、赤く輝き続けるベテルギウスがぼくを見下ろしている。その下には既に寝静まった街並みが佇んでいた。やっぱり、いつも通りだなと一人で勝手に納得する。
ぼくはそのまま一番奥のフェンスに向かって、足の裏を滑らせるように歩み寄り、ほうと息をついた。同時に体が重たくなって、それを背もたれにして座り込む。心臓が破れそうなくらい脈を打っていて、少しうるさいな、と汗を拭いながら思っていた。
その後、ぼくを襲ってきた五日分の眠気にしばらく身を任せていると、何時の夜も休まず響く蝉の声の中に、階段を上る足音が混ざった。それが石を叩く軽い音に変わった時、ぼくは彼女が息を呑む気配を感じる。
彼女が何かを言う前に、ぼくは目を閉じたまま声を掛けた。
「ねえ、ぼくが聞いたこと、覚えてる?」
「……あなたが、何の為に死ぬのか、という話ですか?」
「そうそう、それ。ようやくその答えが分かったんだ」
「な、何を、不吉なことを言わないでください。まるで、あなたが、そのまま死んでしまうような言い方……」
いつも冷静な彼女の慌てぶりがおかしくて、ぼくは笑った。
ぼくは腫れぼったい瞼を持ち上げ、右手を宙へと伸ばす。
透けはじめた掌の向こう側。今も元気なベテルギウスの輝きを、無数の光線が彩っていく。
ペルセウス座流星群が始まっていた。
空に満ちる夜は、迫る滅びを見せつけるようだった。
でも、今は怖くない。
一分でも、一秒でも、――たとえ一瞬でも。
ぼくは彼女の前で、この場所で、長く光っていたいと思う。
「いつ死ぬとか、死なないとか、そういうのは関係なかった。
星がただそこで輝くように、人もそうやって、ただ生きていて。
だからさ、その生き方を後悔しなければ、それはそれでいいって、ぼくは思うんだ。
えっとその、だから…………。
君に。聞いて欲しいことがあるんだ――――」
そしてぼくは大きく息を吸い込んで、
長編をこの一週間の間である程度書きたいところ