絶対的な考察
今回、「嘘」と「悪」について考察をしていきたいと思う。
なぜ、この二つを考察するのか?
理由は簡単。これらは似ているからである。
まずはじめに。
嘘というものは初めから存在しない。
それは真実も初めから存在しない、という意味合いにもなるだろう。
なぜなら、この関係性は、正義と悪の関係のようなものだからである。
正義があるからこそ悪が輝き、悪があるからこそ正義が輝く。
それは片方の輝きが大きい程、効力が大きい。
真実や嘘についても同様のことが言えるだろう。
それでは、何をもってある事象を「正義」や「悪」、「真実」や「嘘」と判断するのか?
この世の森羅万象に絶対的な理論があるのなら一番楽なのかもしれない。
しかし、そんな絶対的なものなど存在しない。
その際に使用するのが「数」だ。
ある事象に対して、それが「正義」だと断定する人が「悪」だと断定する人より多ければ、それは「正義」として認定される。
これは「真実」と「嘘」についても同様のことが言える。
こうして認定された「悪」や「嘘」は人から忌み嫌われることになる。
だが、「嘘」はそのままで受け取られない場合がある。
それを意味するもの。
「ついていい嘘」という言葉だ。
時に真実は凶器となって人に襲いかかる時がある。その際に良く使用されるのがこの言葉だ。
そしてこの言葉は、これまで人々の日常にも色をつけてきた。
例を挙げるなら、小説や漫画、映像における世界だろうか。
そんな「ついていい嘘」がここまで認められたこと、それが「嘘」と「悪」の違いを生んでいるのだろう。
これまで、稚拙な考察を綴ってきた。
このことから、人は「嘘」に慣れ親しんでおり、「悪」よりも寛容に対応できることが考えられる。
だから、「嘘をついても良い日」が存在するのだろう。
そしてもう一つ。
「絶対的」なんてものはこの世に存在しないことは確かだということ。
故に、この題名からこの作品は嘘に包まれている、ということ。
それを最後に述べて、この考察を締めくくろう。
読んでいただき、ありがとうございました。