プロローグ レビトル・ウォーカーは笑わない
新作というよりほとんど初めて。
大丈夫やろかい(´・ω・`)
パラリと本のページをめくる音がする。
あまりに微かなその音は、つむじ風一つでかき消されてしまうほどのかすれた音である。 しかし、パラリパラリとめくる速度が普通の読書より早く、どちらかといえば流し見しているような雰囲気だ。
(また、あの子か)
レオナルドはそらんじていた聖書を閉じ、来ているカソックに見苦しいところがないことを確認する。 神父は常にきちんとしておかねばならないのだ。 教会に続く扉を開けると、静謐な空気に飲まれる。 今は夕暮れ。 差してくる日差しが教会内部を赤く照らしだし、いつもとは違う空間を生んでいた。
そんな中、いつもの場所に彼はいた。
誰も近づかないような、教会の隅に寄付された書物がいくつか置いてある場所だ。 子供向けの童話から古書店の店主が処理に困って置いていった専門書まで、様々な種類の本が置いてある。
いつもきれいに整頓されている本棚からいくつか取り出されて、地面に積まれている。 そこにうつ伏せで本をめくる少年の姿があった。 まだ幼い。 せいぜい7歳程の子供だ。 アールグレイのボサボサの髪に黒い瞳をした、どこにでもいそうな少年だった。
「ウォーカー。 今日は何を読んでいるんだい?」
「クリスティン・ドロリス著、魔導の偏界と有効隔度」
ウォーカーと呼ばれた少年はレオナルドの方を見なかった。 ただじっと本を見つめ、文字を追っている。 視線が左から右に数回往復したと思うと、すぐに次のページをめくる。
レオナルドは積み上げられた本の背表紙を覗く。
『魔道書自衛システム』
『不死の死滅』
『死者蘇生の理論的壁』
レオナルドは内心悲鳴を上げる。 どれもレオナルドが途中で投げ出したものばかりだったからだ。 彼自身神父ではあるものの、神学学校ではなく高等学院の出である。 一般人より教養は身につけている自信があった。
もしこれがウォーカー以外の子供であるのなら、理解できないけどなんとなく眺めている子供、と認識していただろう。 もちろんウォーカーも最初はそう思っていた。 しかし、飽きもせずにずっと見ているため、一度聞いたことがある。
『意味がわかるのかい?』と。
するとウォーカーは少し興奮をにじませた声音で丁寧に説明してくれた。 それも、元の本よりずっと分かりやすくだ。
当時5歳のウォーカーが説明してくれた本は『魔術式の成り立ちとマナの作用』と呼ばれる、割とポピュラーな書物だった。 というのもこの本、この国の魔術学院中等部の正式な教科書なのだ。 それも、生徒泣かせの教科書として名を馳せていた。
なぜそう言われているのか。 それはこの本が理論魔導の分野だからだ。 魔術においてイメージか重要だったのは、まだ魔術が未発達だった古代のことだ。 今の魔術は複雑な工程を挟むため、イメージだけではどうしても構築の際、エラーが発生してしまう。
しかし小等部まででは、このイメージに頼る簡単な魔術――いわゆる思念魔導――しか練習しないため、どんなに優秀な生徒でも必ず一度つまづく。 それほど難しい書物だ。
それをわずか5歳のウォーカーが理解しただけで、それは異常なことだった。
驚くレオナルドをよそに、ウォーカーは話を続けた。 するとウォーカーはまだまだ話し足りないとばかりに、内容に加えて、自分なりの意見と疑問を挙げ、更なる問題提起までやってのけた。
抜群の理解力と隔絶した思考力だった。
「相変わらず、難しい本ばかり読んでいるね。 君は」
「いいえ、ドロリス氏の理論はどこまでも論理的で穴がありません。 抽象的な指南書が多い中、わかりやすくまとめてあります」
「本当かい? クリスティーナ氏の著書は専門用語が多すぎるって不人気だよ?」
「それがこの人の悪いところです。 おそらくこの人、造語を使っています」
レオナルドは首を傾げる。
「どういうことだい?」
「例えば、この文にある゜術式偏界゜という言葉です。 だいぶ後の方まで読めば、術式の作用する空間と、空間内の式の密度を示す言葉だとわかります。 これに対する注釈もない上に、他の本で一回も目にしたことがないのですよ」
「それはまた……」
レオナルドは舌を巻く。
ウォーカーと話していると老獪な魔術師を相手にしているような錯覚を覚える。 もし仮に、今の会話を聞いている者が居たとする。 誰に想像できようか、片方はまだ年端もいかぬ子供であるなどと。
ウォーカーと初めて出会った時から、何度目かわからない寒気がレオナルドを襲う。
一体この子は将来なにをしでかすのだろうか? ここ最近はそのことをよく考えていた。
パタン。 思索に耽っていたレオナルドは本を閉じる音でわれに帰る。
「今回の本もとても興味深いものでした。 やはりドロリス氏の本は、造語さえどうにかしてしまえば素晴らしい」
そう言って読んでいた本と、読み終えたであろう本を棚に戻して、ウォーカーは立ち上がる。 日は沈んで、すっかり薄暗くなっていた。
うつ伏せで付いた埃を払うとレオナルドに一礼する。
「少し長居してしまいました。 今日もありがとうございました」
「いやいや、お礼なんていらないよ。 ここは教会だ。 来るものを拒みはしないさ」
レオナルドは教会の正面の扉の鍵を開ける。 軋んだ音を立てて開くと、外の新鮮な空気が体をめぐる。 ウォーカーはもう一度ペコリと頭を下げると、小走りで家路に着いた。
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ウォーカーが見えなくなるまで見守ってから扉を閉める。 戸締りは忘れない。 裏口をあけて、併設する自分の部屋に戻ると、また聖書を見る気にはなれなかった。 マグカップとティーポット、茶葉を取り出す。 三篇ほどの式を組む、簡単な魔術を使ってお湯を沸かした。
この時レオナルドが考えていたのはウォーカーのことだった。
彼、レビトル・ウォーカーは笑わない。 それどころか表情がない。 幼少から本と寄り添って生きてきて、他人との付き合いが全くなかった彼は、人付き合いというものをしない。 できないのではない。必要のないものとして切り捨てている節がある。 本人は何も不便は感じていないだろうが、歪みは確実に存在する。 異常なまでに大人びた態度と無表情は最たる例だろう。
大人を凌ぐ知識に、子供の心。
それはひどく不安定で恐ろしいものだ。 レオナルドはそれをウォーカーに自覚してもらいたかった。
「友達ができるのが一番いいんのですが……」
はあ、とため息をついて茶をすする。 心配事は尽きない。
血をたらしたような夕焼けは終わり、夜の帳が王都を包んだ。
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「ところで、ウォーカーはどうやって鍵のかかった教会に入っているのでしょうか?」
レオナルドの独り言は冬の空気に溶けて消えた。
プロローグはこれぐらい。
きっついわー