Ⅶ-Ⅸ 名前
「君は猫が生きているかもしれないのに猫ごと箱を壊す事ができるかい?」
箱の中にいるはずの猫の存在は感じられない。鳴くこともせず、生きているか死んでいるかも分からない猫は、いなくても変わらないという意味に於いては、死んでいるのと変わらないのではないだろうか。
そう断言できるほど、僕は薄情な人間だったか? だが、思考を続ける間に猫は死ぬ。猫は飢え、孤独なまま誰にも弔われず箱に閉じ込められたまま。箱に入れられた時点で猫は死んでいるのだ。
「そう、猫は死んでいる。開けようとも、開けずとも、猫の運命は箱に入れられた瞬間か決まっていた。君がここに来た時点で猫は箱の中にいた。君がすべきことはここに来た時点で最初から決まっていたんだ」
釣り人は消えゆく世界を寂しそうに眺めながら言う。
「消える前のほんのわずかな時間、そこに君が求めるものがある。たったそれだけのために君はここに来た」
釣り人は恨んでいないと言ったが、その言葉にはどこか怒りが、苛立ちが感じたれた。それも僕の気のせいなのかもしれないけど。
「君の願いは此処から出れば叶う。君はその為に来たのだろう? そして全てを忘れる。始まりすらない世界にエンドロールは存在しない。そんな名もない物語のこと、忘れてしまっていいんだ」
そんなもの、最初からないのと同じなのだから。
突き放すかのような言い方、しかしそこにあるのは諦観。釣り人はもう僕を見ることはなく、ただ消えゆく世界を少しでも焼け付けるかのように無をにらみつけていた。
中途半端な方が一番残酷だ。僕の半端な善意は何の役にも立たない。今の僕の最善は躊躇なくこの世界を飛び出すこと。そして忘れること。それが僕にとってもこの世界にとっても最善であることを理解しながらも、僕の心がそれをためらう。
今更、戸惑うのか。僕の覚悟は、願いは、その程度だったのかと、栞の笑い声が聞こえる。
無は僕たちの一歩手前まで迫っている。残りわずかな時間に僕は何かをしたくて、しかし何もできず、情けなく惨めな姿をさらしている。
「もう行ったらどうだい? もう君がここですべきことは何もないのだから」
いつまでもそこに立ち続ける僕にあきれるように釣り人は言う。やはり僕の方を見てくれはしない。
彼は僕を恨んでいないと言った。しかし、それは本心なのだろうか。いや、本心である方がずっと酷な話だ。いっそのこと恨めた方が幸せだろう。あの少女のようにすべてを僕の責として憎めたら、心はまだ救われたのかもしれない。
初めて出会ったとき、彼には僕の面倒を見る義務があった。始まりを作った者は最期を見届けなければならないからだ。
だが、始まりとはいつからだったのだろうか。僕は彼の物語すら知らない。この世界に住む人々、彼らの物語も。彼らにも決まった名があり、決まった終わりがあったのだろうか。それともそれすら与えられないまま消えていったのだろうか。
ここはゴミ箱。いや、研究者はゴミ箱ですらないと言った。灰としてすら残らない、形亡き亡骸たち。その結末、終着点。
覚悟はあると言いながら、ここに立つ僕は何と意気地無しなのか。背負うことは辛い、だが忘れてしまう方が怖い。自身の罪に怯えながら、それを忘れてしまうことを恐れる。矛盾した恐怖が僕の中に渦巻いていた。
老女は忘れるな、背負って行けと言った。しかし僕は忘れてしまう。僕が僕であるために、僕は夢を忘れる。最低だ。僕はあの時そう言えば良かったのだ。「僕は貴方達のことを忘れてしまう。ごめんなさい」と、みっともなく謝罪すれば良かったのだ。
「最後に、もう一度だけいいかい?」
しつこいと思われるだろう、それでも僕はその答えだけはどうしても欲しかった。ここで得たものをすべて失ってしまうというのなら、せめてこの答えだけ聞いておきたい。たとえそれすらも消えてしまうのだとしても。
釣り人の背中に問う。
「君は…誰?」
君の物語は、どこにある?
「……」
釣り人はゆっくりと、僕の方を振り返る。
そして、
「 」
その言葉の意味を理解する前に僕は泉へと突き落とされた、
別れの言葉すら言う暇もなく、彼は僕にただ一方的に「さよなら」と別れを告げた。
平凡で、しかし美しいその言葉が彼の名であることに気付いたのは、最後のページが破られた瞬間だった。
「さよなら、 」
無機質な電子音が、いつも通りの朝が来たことを告げる。朝日を透かすカーテン、薄暗い六畳の洋室。暑くも寒くもない、代わり映えのない一日の始まりが僕の意思とは無関係にやってきた。
叩きつけるように目覚ましを止め、ベッドの下にあるはずのスリッパを足探りで探す。ふと、自分の手の中に何かがあることに気付く。
砂時計だ。しかしその中身は何処にもない。中身は何処へ行ってしまったのだろう。
見覚えのないはずのそれはなぜか懐かしく、手放したくないとさえ思った。珍しく感傷に浸っている。昨夜見た夢のせいだろうか。もうほとんど覚えていない。ただ、誰かが僕にさよならと告げたこと、そして消えない名前だけが僕の脳裏に残った。
階下から母が呼ぶ声がする。僕は慌てて部屋を出る。机の上に飾られた家族写真。いるはずのない彼女がそこに映っていることに、なぜか満足しながら。




