幕間
紙の臭いがする。籠もった空気が扉を開けると同時に飛び込んでくる。
ここへ来る度に普段はほとんど動かない顔を顰める。
僕は誰か。釣り人、そう呼ばれる登場人物。だけど本当は違う。僕は登場人物ですらない。ならば、紙の上に立つインクの僕は誰なのか。盤上から飛び出した駒はどうなるのか。
大地の加護を失った者、神の祝福を失った者、その行く先はもはや神にすらわからない。自由と引き替えに得た不確かな未来。
一歩足を踏み出すたびに水の上を歩くようなふわふわとした感触。不安、誰ともつながらない孤独。先の見えない道は自ら選んだはずなのに、手すりのない階段は想像しなかった恐怖を与える。
それを暗示するかのような暗い部屋。机の上を照らす照明以外、光はない。
彼は、その机に向かってひたすらペンを描き続けている。何を書いているかなどわからない。他人が見ればそれは壮大な物語かもしれない。他人の目に触れる価値もない駄文かもしれない。たとえ僕たちにとって神に等しい存在であっても、現実からすれば、物語を描く数多くの人間の一人に過ぎないのかもしれない。
「珍しいな、お前から訪ねてくるなんて」
「会いたくもなかったよ。用事がなければ来なかった」
彼はぐるりと椅子を回転させその憎たらしい顔をさらした。不機嫌を表すように眉間にしわを寄せる僕をおもしろそうに眺める。
その顔に特徴を挙げても無駄だ。顔だけではない、その服装も、この部屋自体にも、説明する意味はない。全体的に洋風の書斎と言える。彼自身が着ている服も、ヨーロッパの貴族を思わせるかのようなシックな洋服。椅子に優雅に座る姿は貴族の若様を思わせる。人をあざ笑うかのような笑み、東洋人を思わせるような黒髪、嵐を思わせる灰色の瞳。特徴はいくらでもあるのに、それはまったく意味をなさない。
この姿もこの部屋も彼がイメージした仮の姿に過ぎず、さらに言えば年齢も性別すらわからない。こんなのただのポーズに過ぎない。それっぽく、でしかない。
「まあ、来るとしたらそろそろと思ってたよ」
彼にはすべてお見通しというわけだ。知らないことはないかのように。
「それで? ここへ来て何の用だ?」
「訊く必要もないのにそれを言うのかい?」
「お前は俺を全能の神と勘違いしてないか? 俺が何でも知っているのは自分のことだけだ」
ただそれだけだ。
彼は言う。俺の世界の一部に過ぎない世界などたいした価値を持たないと。だから簡単に切り捨てることができるのだと。彼にはその世界で生きる者たちの命の尊さを記すことはあっても理解はしない。
「お前は俺という存在を知り、俺の呪縛から解放されることを望んだ。だが結局お前は箱庭の世界を選んだ。ゴミ捨て場ですらない。存在すら忘れていた者たちに最後の場所を、お前は望んだ。何の意味もない。消える直前に拾い上げ、消えれば捨てる。その繰り返し。そのために作った世界だったが、もう時間切れのようだ」
「彼をあの世界に連れ込んだのは君なのか」
「あそこは望まなければ入れない。俺は何もしていない。あの世界に関してはお前に一任しているだろ? だが、結局忘れられた存在はいずれ消えゆく。それを少し長らえさせているだけじゃないか」
「わかっている。これがただの自己満足、いや満足にすらならないことも」
失ったのは呪縛と加護。始まりがあり終わりがあるという保証。それすらもない自分は何処へ行き、何処までいけば終われるのかすらわからない。
僕の大地は何処にもない。そして天は、ここにある。
「記す必要もない物語。価値もない登場人物たち。そいつらに原稿の裏でもいいから居場所を作って欲しいと言ったのはお前だ。何処にも所属できないお前は、ただ他人に居場所を与えることに満足してるのか?」
違う、僕は―――…、
「意味が、欲しかったんだと思う」
僕がここにいる理由、ここにいる意味。自由を得たくせに、縛り付けるものが欲しかった。怖くなった。解放されることが。
「本当につまらないな、お前の物語は」
彼は鼻で笑った。
「書く価値すらない。だから今まで放っておいてやったんだ。最初からいずれ壊れていくものだと忠告したものだ。一度忘れられた存在が再び日の目を見ることはない」
それと、
「言ったはずだ。俺は神ではない。ただの人間かもしれないし、お前たちと同じように誰かの手のひらの上で遊ばれている存在かもしれない。だが俺は自分が自分である限り、それに不満はない。お前みたいに無駄な自己主張はしない」
だから、
「お前が自由になりたいと望んだからそれを与えてやった。なのに今は捨てた呪縛が惜しくなっている。だがそれは二度と手に入らない。なぜなら、呪縛は無知なる者にしか与えられず、知ってしまえば無知には戻れないからだ」
だからお前は原稿の上でふらふら揺れ歩くことしかできないんだ。
「心配しなくてもあの世界が消えてもお前が消えることはない。そもそもあの世界の一部ですらないのだから。それとも、お前にとってそれは不幸なのか?」
「わからない」
知ってはいけないことを知ってしまった人間の末路。そのうちの一つが今の僕。
「元々不安定な世界だったんだ。そこに一本釘が打たれればそれだけで崩れる」
ただ、それだけのことだ。
僕が得たかった自由。失ってしまった呪縛。目的もなく、ただ存在するだけ。水中で揺れる釣り針のように、ただ当てもなく揺れるだけの僕。
誰も僕の釣り針をつかんではくれないのだ。




