IV-V 姉
僕は普通に生まれ、普通に生きることを普通に定められていた子供だった。僕はどこにでもいそうな両親の間に生まれた、特に特別なものもないどこにでもいる子供だった。どこまでも普通でしかない家、家族、学校、街。そんな中、ただ一つ、普通でないものがあった。僕の姉だ。
どこが普通でないかと言われれば、彼女の存在そのものとしか言えない。ただ彼女は生まれる場所を間違えてしまったのだろう。誰にも彼女を理解することはできないし、同じ価値観を持つこともできずにいた。
同じ世界にいるのに、同じ空気を吸っていない。それは僕自身も同じで、僕も姉のことを理解することができずにいた。
しかしそんな中、僕が普通でなかったただ一つのことは、彼女に惹かれたこと。
普通でないことは共同体の中で生きることを強いる社会に於いて生きにくいだけでしかない。普通でないことは特別ではなく汚いもの、嫌われ者でしかない。だから誰も彼女に近寄らない。姉は常に一人であった。
だけど僕はただ一人、彼女に惹かれた人間だった。惹かれたと言うが、それが好意なのか、それとも好奇心の類だったのか、僕自身にすらわかっていない。でも彼女のそばにいることは決して苦痛ではなかった。
自分にないものを持って生まれ、人とは違うものを見続ける彼女に、憧れか興味か、僕はただ一人彼女のそばにいる人間となっていた。
他人と違うことが良いこととは限らない。それを体現するかのように彼女は独りだった。僕はただそばにいるだけ。彼女の言葉は外国語を話すかのように理解不能なものばかり。
こことは違う世界に、すべての終わりに繋がる場所がある。そのことを教えてくれたのは彼女だった。
そこは終焉の一歩手前。世界のどこにもいなくなった者達が行き着く場所。消えたくないと願えばそこに辿り着く。
子供が言えばただの夢話で済む話も、それを過ぎればただの狂人のイカレ話にしかならない。
彼女は受け入れられることなど望んではいない。信じてもらえなくてもかまわない。誰も彼女の世界を汚すことはできない。人とは違う世界を見る彼女には、僕たちの姿も映っていないのかもしれない。
それでも僕はそばに居続けた。好きだったわけではない。でも、他の誰よりも彼女に惹かれた。彼女が言う話を信じたわけではない。でも、記憶に留めておいた。役に立つとは思えなかったが。
だが、それが役に立つ日は確かに来た。
ある日、彼女は前触れもなく姿を消した。いつの間にか、誰も気付かない内に。同時に彼女の痕跡は次々と消えていった。まるで雪にかき消される足跡のように。
誰も、両親さえも、彼女の消失を気にする者はいなかった。まるで最初からそうなることが決まっていたかのように。そしてそんな彼らから彼女の記憶が消えるのはそう長くはかからなかった。
彼女の生きた形跡が消えていく。いや、最初から残そうとなどしてはいなかった。それぐらい彼女の痕跡は少なかった。
でも、僕は彼女を覚えている。顔も声もほとんど記憶から消えてしまっているのに、その存在だけは消えていない。今も僕の中に残されている。
なら僕は何をするべきなのか。何がしたいのか。その答えが出るのにたいした時間は必要としなかった。
"ここ"に来たのは願いを叶えるため。彼女の言葉が僕をここまで導いた。
だから僕は"ここ"にいる。
眼を覚ませばそこは見慣れた倉庫の中だった。
森に行った後、そのまま家に帰った釣り人同様、僕も倉庫に戻った。倉庫には相変わらずガラクタとしか言えない物が所狭しと積み上げられている。
この世界にあるものはすべて忘れられたものたち。人も、動物も、無機質な物たちも。最後の一線を越える一歩手前で踏みとどまろうとあがいているものたち。
そう、ここは忘却の彼方。忘れられた世界。この世界さえも、消えまいともがくもの。
時間は決して長くない。だから悠長にはできない。チャンスはおそらく一度きり。しかしタイミングを、順序を間違えてはならない。一つでも間違えれば僕の願いを叶える奇跡は永遠に失われる。
そしてその時は近い。
ベッドの脇に置かれた砂時計。これが動くときも近い。
最後を迎えるのは僕とこれ、どちらが先だろうか。




