IV-III 消失
先人の意見は聞いておくものだ。
あの年老いた研究者が言ったとおり、僕が何もせずとも運命は僕を迎え入れた。
彼の元を訪ねて二日ほど経った日、珍しく釣り人が慌ただしく家を出て行った。
そのとき僕は彼の家でお茶をいただいていた。特に話をするわけでもなく、ただ近況報告のようなものを気づいたらする程度のものだった。
だがその瞬間が来たことに気づいたのは彼だけだった。
僕と向かい合っていた彼は突然ビクリと体を震わせ、すぐに天井を見上げた。僕もそれにつられて視線を上に向けたが、そこには古びた木の板しかなかった。
釣り人はしばらく何も言わずに天井ににらみつけていた。いや、天井ではなく別の何かをにらんでいた。
そして持っていたカップを机に置くと、飲みかけのお茶もそのままに帽子だけをつかみ家を出て行った。
もちろん僕は驚いた。しかし彼は残された僕のことなど気にもとめておらず、村の奥へと走り去っていった。
しばらく僕はどうするべきかと考えたが、すぐに彼の後を追いかけた。
理由は特にない。ただそうするべきだと思った。論理も何もない、勘だけの行動だ。それが愚行となるか賢明となるか今の僕にはわからないが、それでも追いかけるべきだと僕の中の無責任な第六感が叫んだ。
僕が追いついたとき、釣り人はある家の前にいた。それは以前僕も紹介された家だ。
その家の住人のことはほとんど知らない。あれ以来会ったこともない。いや、会ったという表現すら怪しい。一言も言葉を交わさなかった。視線すら合わさなかった。ただ彼の家に入っただけだ。僕は彼の顔すら見ていない。見たのは背中だけ。
釣り人は手に持っていた帽子をかぶり、家の戸を開いた。むわっと、あのいやな空気が漂ってきた。
釣り人はそれにもひるまず家の中に入っていく。僕も口や鼻を手で覆いながらその後に続く。
部屋は相変わらず暗かった。気味の悪い視線が僕たちを迎える。何度も来たいとは決して思わない場所だ。もちろん、僕だって用がなければ来たくなかった。しかし、釣り人にはその用事があるようだ。
部屋は以前来たときと変わらず散らかっているようで、僕や釣り人が歩くたびに何かを蹴飛ばす。あの研究者の部屋とどちらがひどいだろうか。そんなどうでも良いことを考えるのはこの部屋のにおいと視線から少しでも逃れたいためだ。
生き物の気配がないのに視線だけ感じる。それが不気味すぎる。
そして、あのとき三つしかなかった生き物の気配。それが一つ少ない気がする。
釣り人は部屋の奥には行かず、側面にある壁へと向かう。そしてシャッという音と共に、まぶしすぎるくらいの光が部屋に流れ込んだ。
どうやら釣り人がカーテンを開けたらしい。僕は初めて自分がいた部屋の全貌を知る。
部屋のあちらこちらに無造作に転がるのは絵の具やペンキの缶、筆、金槌。のこぎりや彫刻刀までむき出しで転がっている。小さなはしごは大きな物を作るときに使うのだろう。
そして道具と同じくらいたくさんあるのが芸術品。
絵はもちろん、石像木像、掛け軸、陶器、芸術品と呼ばれる人の作る形の数々。それが部屋いっぱいにあふれていた。
どうやら視線の正体はこの絵や石像だったらしい。絵の中の悪魔が、粘土で作られた女が僕たちをにらんでいた。
そして僕の正面、部屋の一番奥には壁いっぱいの巨大な絵があった。
描かれているのは顔だ。そうとしか言いようがない。
十以上の顔がそこにはあった。一本の木に生える顔。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、喜怒哀楽はもちろん、憎しみ、絶望、歓喜、苦痛、存在するすべての顔がそこにあった。まるで悲鳴が、笑い声が、怒声が聞こえてくるようだ。
釣り人はその絵をじっと見つめる。
「なるほど、あなたが最後に行き着いたのはこれか。まあ、悪くない形だ」
この部屋に僕たち二人以外の人間はいない。この部屋の住人はどこにもいない。
「なんとか完成はしているようだ。悔いもないだろう」
「ねえ、ここにいた人はどこへ行ったの?」
かつて、彼が『この世界の住人の末路』だと言った人物は。ただ客人に何も言わず、絵を描き続けていた『芸術家』と呼ばれた彼は。
「もうどこにもいない」
その答えは簡潔だった。それ以外にないのだと言わんばかりに。
ただあのとき釣り人が言っていた言葉。執着しすぎて自我を失った人間の末路。いつ、誰がなるかもわからないとも言った。
それが彼だった。
「ただそれだけだよ」
住人が一人消えた。彼が作った絵や像、すべてを置いて。
ただそれだけ。