IV-I 役割
その家に近づいたのは気まぐれだったとしか言いようがない。最初からその家に行くつもりはなかったし、近づいていることにすら気付いていなかったのだから。
そして今僕がこの家の庭にいるのは偶然としか言いようがない。たまたま家の住人が僕に気付き、お茶に誘ったからだ。
そして気まぐれと偶然の結果、僕はここにいる。
数日前と同じように、庭に面したイスに座っている。あの時と違い、僕の隣に釣り人はいないけど。
目の前の机の上には優しい香りを放つハーブティー、色形様々なクッキーやマフィンが並べられている。
そして笑顔を絶やさず庭に咲く草花を説明して入れる女性。僕は彼女に招かれてこの場にいる。どうやら彼女は客をもてなすことが好きなようだ。そして人の世話をすることに生き甲斐を感じているのだと言う。
「お母さんは足が弱いから私が家事をすべてこなしてるの。このお菓子も私が毎日作ってるのよ」
それはすごいですねと素直に言うと、彼女は満足そうな顔をした。
「お母さんは一人じゃ何もできないから私がいないと」
それは美しい親子愛? 最初はそう思えていたものが少しずつ変わり始めていた。
「庭の手入れも私がやってるの。お母さんは草花が好きだから」
「私そんなこと言ったことあるかしら」
「あら、何言ってるの。自分で言ったことも忘れちゃったの? 本当に私がいないとダメなんだから」
二つのピースが合わさらない。まるで一方が無理矢理はめ込もうとしているみたいで。彼女は何を求めている? 彼女がこの世界にいる理由は?
ふいに釣り人が言ったことを思い出した。
「あの人はずっとあそこで親子ごっこを続けているんだよ。そしてもう一人はそれに付き合っているに過ぎない」
ああ、そういう意味なのか。ようやくわかった気がする。
お茶がなくなったので入れ直してくると言って女性は家の中に戻っていった。その場には僕と老女だけが残された。
「ごめんなさいね、付き合わせちゃって」
老女は穏やかな顔を少し困らせた顔に変えて僕に言った。
「ここに来るのはあの人ぐらいだから。お茶の相手もなかなか見つからないのよ」
「かまいませんよ。このお茶とお菓子はおいしいですし」
僕がそう言うとありがとうと老女は礼を言った。
「気付いていらっしゃるんでしょ? あの子の存在意義に」
老女は僕の顔を正面から見つめた。
「でもそれを本人に言ってはダメよ。気付かなければ保たれる世界もあるのだから」
「あなたは彼と同じなのですか?」
釣ってきたものを配る彼と同じように、他人の存在意地に手を貸しているのか。
すると老女はゆっくりと首を横に振った。
「私はあの人のようにはできないわ。そんなことができるのはあの人だけよ。私がここにいるのはそれが私の存在意義だから」
誰にも愛でられることのない花が風に揺れる。その花びらをさらってしまおうとしているかのように。
「私は確かにあの子のごっこ遊びに付き合ってあげているだけよ。でも何も言わないことが私の役目なの。何に気付いても、何もしてはならない。何かを知っていても、何も言ってはならない。そうしなければ私の世界が崩れてしまうから」
「・・・あなたの存在意義を教えてもらっても良いですか?」
僕が訪ねると、老女はまたゆっくりと首を横に振った。
「言ってはならないのが私に課せられたルールなの。でもこれだけは教えてあげられるわ。私の存在意義はこの世界の根源に近いものなの。だから他の人より多くのことを知っている。でも、それを言う資格はないの」
「・・・彼ならそれを言えるんですか?」
「あの人は何も教えてはくれないわ。貴方自身が辿り着かなければならないことだから」
老女はふわりと笑う。
「いつか、貴方がそれに辿り着いたのなら答え合わせぐらいなら付き合ってあげられるわ。またいらっしゃい」
「ありがとうございます」
それが終わりの合図だった。僕は席を立ち、彼女にお辞儀をしてその場を後にしようとした。その時、彼女は僕の背に言葉を投げかけた。
「自分の力で辿り着いたのならそれを語ってはならないというルールはないわ。私以外にもそれに近づいている人はいるはずよ」
知りたければ探してみなさい。
それが彼女のヒントだった。
僕は新たなヒントを手にして今度こそその場を後にした。
庭の花が風に吹き飛ばされ空に舞う。二度と帰らぬ旅へ、その行き着く先は誰も知らない。