III-V 月
彼女の世界は月なのだと釣り人は言った。
僕はそれに納得した。
彼女は常に光を受け輝く月。自らの力では輝くことができない。だから他の光を求める。
釣り人は光に集まる蛾のようだとも言った。蛾が光に集まる理由はわからない。もしかしたらたいした理由はないのかもしれない。少なくとも、人にとっては知る必要のない理由だ。
彼女が光を求めるのにも理由があるのかもしれない。だが他人が知る必要のないものかもしれない。
それともやはりたいした意味もないのかもしれない。
他人という光を受けることでしか輝けない少女。だから彼女は他人に興味を示す。近づく。
しかしこの村の住人達は、他人を求めていない。限られた世界にあるものだけを必要とし、それ以外はあってもなくてもいい存在だ。
自分を自分たらしめる存在があればいい。それだけで生きていられる。
「それでも、月は所詮かりそめの輝きしか持たない。彼女も同じだ。他人が居るから存在できる。だがそれはかりそめでしかない。自分に輝く力がないから他人を求めているだけだ」
釣り人が言った話が耳に残っている。この世界で人々がそれぞれ何かを必要としているのなら、彼女にとってはそれが他人なのだと。そしてそれはこの世界ではもっとも危うく、儚い存在なのだと。いつ消えてしまうかわからない泡のように。いつか彼女の世界は消えてしまうのだろうか。彼女の存在と共に―――。
「人間が自分を自覚するのに必要なのは他人。他人が居るからこそ人は自分を認識できる。『外』じゃよく聞く話だな」
本のベッドに横たわり、本を読みながら彼はそう言った。
「『外』の哲学者の有名な言葉がある。『我思う故に我有り』これはすべての存在を疑うという行動を取っている自分だけは間違いなく存在しているという考えだ。だとすると、人は他人がいなくても存在することになる。存在するだけなら簡単だ。だが自我を確かなものとするなら他人は必要だ。他人に認められること、違いを見せつけられること、人は他人と接触することにより『自分』を認識する。だけど『ここ』は『外』とは違う。ここでは自我がすべてだ。そしてその自我を保つ『何か』が必要だ。そしてそれ以外はどうでもいいのさ。他人も、自分が何者であったのかさえ」
「『自我』を保つためにしているのに、自分を忘れてしまってもいいの?」
暗い図書館の中で僕たちは語り合う。この世界とここに生きる人たちについて。
幸い彼はおしゃべりが嫌いではなく、むしろ人と話すことを楽しむ人間のようだ。
釣り人は知識を無駄に持つ人間はやたらその知識を披露したがるものだと言っていたが。
それは僕にとっては都合の良いことで、この世界のことをもっと知る必要がある。それが僕の目的に繋がる。僕の知識は小学生の算数レベルで、数学には至っていない。それだけでは足りない。
釣り人はあまり話したがる人間ではないし、僕も彼ばかりに迷惑はかけられないのでこうやって他の人間の話を聞いている。
最初に彼の元へ行ったのは正解だったのだろう。少なくとも彼は、自分の世界に酔いしれてはいるが、他人との接触を切ってはいない。
今もこうやっていやがることなく話をしてくれる。
「自分がここにいるという『感覚』があればそれでいいのさ。名前や生年月日は必要ない。個人情報なんてここではそこら辺に落ちてる石ころよりも価値のないものだ。必要なのは『感覚』だ。まだ自分が存在しているという感覚。それがあれば十分なのさ」
それに何の意味があるのだと問うと、司書は笑った。
意味もまた必要ないのだと―――。