I−I 釣り人I
人は失うことを恐れる。忘却、損失。生きているうちに誰もが体験する別れ。僕は恐れる。失うことを。そして失ったことすら忘れてしまうのを、何よりも恐れる。
そしてふと思う。失われたものは何処へ行くのかと――。
彼は釣りをしていた。長い釣り糸が水面に突き刺さっている。どこにでもありそうなただの棒きれに糸を付けただけの、簡易な釣り竿だ。彼は水面を見つめている。僕の存在をまったく気にしていない。すでに声はかけた。しかし彼はこちらを見ようとしない。見ているのは水面と釣り糸だけ。彼の隣には釣り上げられた物が転がっている。それは魚ではない。はっきり言って、ただのゴミだ。どうやったらあんな釣り竿で釣れるのだろうと思う物もある。例えば泥だらけの電池。どういう形の釣り針ならあんな物を釣れるのだろう。さらに額縁に入った絵。かなり大きく、釣り針が引っかかる場所なんて無いに等しい。さらには自転車のタイヤまである。この湖の底には、その美しさからは想像できないくらいゴミが積もっているのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、森を包む静寂を破る声がした。
「いつまで、そうしているんだ?」
それが彼の第一声だった。
「君が何か言ってくれるまで」
「なぜ?」
「僕はこれからどうすればいいのかわからないから」
釣り人はため息をついた。
「つまり君は僕に何かしてほしい、もしくは何をすべきか教えてほしいんだね?」
その通りだと答えると、彼はその場から立ち上がった。そして積み上げられていたがらくたを縄で縛った。それから彼は森に向かって笛を吹いた。犬の訓練に使われるような笛の音は、何のメロディーも奏でず、一つの音だけをはき出す。
すると、まるでそれを待っていたかのように木の陰から大きな獣が現れた。僕が知っている生き物の中で一番近いのは馬だろうか。大きさは馬くらいで、蹄もあった。しかしその耳は先が尖っていて長く、額には赤い宝石のような物が輝いている。尾は牛に似ているが、毛の色は黄緑に近い。しかし首元の毛とたてがみだけ白い。こんな生き物は見たことも聞いたこともない。
四本足の獣は釣り人に寄り添うように並んだ。釣り人が獣の首を掻いてやると、獣は猫のように喉を鳴らした。釣り人はがらくたを獣の背に乗せ、初めて僕の方を見た。
「とりあえず一緒に来て」
そう言って彼は獣と一緒に歩き始めた。僕は何も言わず、彼の言葉に従った。
僕が最初に見たのは、森に囲まれた美しい湖。最初に会ったのは、先の尖った麦わら帽子を被った釣り人だった。