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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私と彼女の冬の日の話

作者: 氷川変電所

 私は恋をしていた。いつからかは自分でもわからない。いつからか私は恋をしていた。恋なのかどうかもわからなかった。これを恋と呼び始めたのは最近であった。私の前で彼女が、村井ゆいが眼鏡を外したときからであった。

 彼女は窓際に座っていた。よく本を読んでいた。クラスの中ではよく言えば大人しい、悪く言えば地味な子で、友達がたくさんいるようには思えなかった。実際、彼女が誰かと楽しそうに話しているところを見たことがなかった。クラスの女の子グループに属していないだけだったのかもしれない。特別、彼女が嫌われているというわけでもなかった。ただ関心に上らないような、人知れず咲いた花のようだった。

 私も、彼女に興味はなかった。たまたま席が隣になり、私が教科書の忘れ物をしたときや、課題の確認をするときには、一言二言の会話を交わすことがあった。逆に言えばそれくらいしかなかった。いつも本を読んでいたから、話しかけづらいと感じていたくらいだった。しかし、話をしたときに毎度感じたのは、彼女の声が驚くほど小さく、高いということだった。彼女は地味ではあったが、決して美しくないわけではなかった。彼女のメタルフレームの眼鏡が、彼女の美しさに霧をかけていた。眼鏡の向こうには、眠たそうな二重と、長い睫があった。ふと隣の席を見たときに、眼鏡をとったらきっと可愛いんだろうな、と思うことはあったかもしれない。しかしそれ以上の関心はなかった。

 彼女はクラスの図書委員であった。もちろん彼女が立候補したわけではなく、クラスメイトによる推薦であった。その推薦に対して、彼女含め異議を唱えるひとはいなかった。読書好き、と皆が認識していたからだ。図書委員の彼女は昼休みや放課後に図書室へ出向き貸出しや返却の手続きの仕事をしていた。そのことに気付いている人はほとんどいなかった。今日はあの子委員会で教室にいないね、そんな話が教室中でされたことを聞いたことがなかった。もちろん私もそんな話をしたことはなかったし、気に留めることもなかった。


 × × ×


 ある秋の日、私は自分の下駄箱に手紙を発見した。差出人は、隣のクラスの男子であった。伝えたいことがあるから放課後に図書室に来てほしい、とのことだった。放課後、図書室へ向かうと入り口の前にその男子が立っていた。彼は、中で話がしたい、と言って私を図書室へと促した。図書室の一番奥、書架の森の中、人目につかないところまで彼は連れてきた。斜陽の差す図書室は人の呼吸さえ聞こえないような静寂が張りつめていた。彼は去年同じクラスだった時から好きだったと私に言った。私は彼に特別な感情を抱いたことはなかった。容姿はどちらかというと良いほうですらあったが、ただの、クラスメイトだったし、ただの、元クラスメイトだった。私はモテるタイプではなかったので偉そうに彼の申し出を断るのに抵抗があったが、何とも思っていない人と付き合うこともできなかった。私は彼に、友達から始めませんか、とそう告げた。彼のひどく悲しそうな顔を斜陽が淡く照らしていた。彼は上手に笑って、ありがとう、ごめんね、と言った。彼は自身の傷を隠すように明るく振舞って見せ、去年のクラスでの思い出話なんかをし始めて、私との間の沈んだ雰囲気を取り払おうとした。私も気まずい空気に耐性がなかったので、明るい昔話に明るく相槌を打った。全然楽しくないのに笑っている自分が気持ち悪かった。

 そうしていると、書架の陰から彼女――村井ゆいが音もなく現れた。私も彼も気づくや否や口を閉じた。小柄な彼女はじっとこちらを見上げていた。数秒の、無音空間。すると彼女がゆっくりと声を空中に浮かべた。

「もうすぐ、閉館ですので」

 彼女の声は、図書室の静寂の中ででしか聞き取れないような、か細く小さいものだった。私たちは図書室を退出した。彼はばつが悪そうな顔を無理やり笑顔に変え、もうこんな時間だね、遅くまで付き合わせちゃってごめん、と言った。そんなことないよ、と私も答える。当たり障りのない、中身のない会話を、つなぎ合わせるだけ。今日は本当にありがとう、それじゃ、と言って彼は去って行った。私は晴れそうにもない気分の悪さを抱えて、荷物を取りに教室へと戻った。

 教室では、整然と並んだ机が薄明かりに眠っていた。電灯を点け、自分の机へと向かい、脇に掛けたカバンを机の上に乗せる。静寂、しかし図書室ほどの居心地の悪さはなかった。とはいえ私は胸の中でもやもやとした気体が膨らんでいたので、ため息として吐き出した。一度では吐き出しきれるものではなかった。そもそも、ため息で吐き出せるものでもなかったのかもしれない。落ち着きなく教室内をぐるぐる徘徊した。何周かして、結局窓の外を眺めることにした。外には下校する生徒たちが道路に散らばっていた。薄暗さに誰ともわからぬ人たちが流れていくのをただぼんやりと眺めた。喧噪だけが、私の耳に入っていくようだった。ついに制服の色と景色が同化したと思うと、私は眺めるのをやめ、窓を閉じた。もう帰ろう、そう心に呟いて振り返ると、教室に村井ゆいがいた。一瞬、背筋が凍った。誰もいないと思っていたから。声すらあげそうになった。彼女は音も立てずに自分の机からノート類を取り出しカバンに入れていた。私は勝手にうろたえながら、あ…戻ってたんだ、とつぶやくように言った。彼女は返事もせず―したかもしれないが少なくとも私には聞き取れない声で―私を見た。私は何か言わなくては、と言葉探しを急いだ。

「えっと、さっきの…見てた?」

 彼女の目がほんの少し見開く。そして、聞こえるかどうかの声で、

「さっきの?」と返した。

「図書室での…」

 私はそういいながら、彼女の声をしっかり聞き取るために彼女に数歩近づく。

「ああ…吉田くんと話してたこと?」

 近づいてもなお、聞き取るのに苦労するボリュームであった。

「うん、話とかって聞こえてた?」

 狼狽しているのがバレバレなくらいに早口になっていた。

「うん」

「どこから?」

 間髪入れずに聞いた。彼女は少し考える素振りをした。その数秒が、長かった。

「吉田くんが松下さんのこと好きだってところから」

 すぐさま返す言葉が出てこなかった。つまりほとんど聞かれていたわけだ。別に知られてまずいわけではないけど、なにか都合の悪いものを予感して、取り繕おうとしてしまう。しかしほとんどの内容が知れている以上取り繕いようもない。私は観念した。

「聞かれちゃってたんだね…ごめんね、変な話聞かせちゃって」

「どうしてあなたが謝るの?」

 また少しだけ目が見開かれる。そのたびに動揺させられた。

「ほら、他人のこういう話って、聞いて気分のいいもんじゃないでしょ?」

「そうなの?」

「うん…」

 再びの沈黙。私は堪えきれず、どっちにしろ迷惑かけてごめんね、もう遅いから帰るね、と言って机の上のカバンをひったくって教室を出ていった。



 × × ×


 その日から、私は彼女を嫌でも目で追ってしまっていた。気になるようになった。それが恋に形を変えるとは思っていなかった。私は彼女に声をかけるようになっていた。おはよう、とか、じゃあね、とか、友達に対しても言わないほど几帳面に声をかけていた。彼女はそのたびに聞こえないほどの声で、おはよう、とか、じゃあね、と返すのだった。次第に私は彼女に興味を持つようになった。彼女がどんな本を読んでいるのか。彼女の好きなことはなんなのか。図書委員会の当番はいつなのか。友達はいるのか。タイミングを見つけては彼女に声をかけ、質問を投げかけていた。友達に、最近村井さんとよく話してるけどなんかあったの?とか、村井さんと友達だったっけ?と聞かれたときには、私は曖昧に返すだけで切り抜けていた。友達と呼べるかどうかも私自身わからない状態だったから。でも、村井さんってどんな人なの?と聞かれたときには、こんな子なんだよ、とつい語ってしまっていた。私は彼女のことをよく知っていた。そのことが、どこか嬉しかったのかもしれない。私はもっと彼女のことを知りたくなっていた。

 またある日、教室の掃除当番で彼女と一緒になったとき、私はバケツに足をひっかけて派手に転んでしまった。村井ゆいを巻き込んで。私は倒れるときに咄嗟に彼女の腰にしがみついてしまったらしく、彼女もいっしょに押し倒してしまったのだ。転倒の痛みに耐えながら、彼女の方へ目を向けると、倒れた衝撃で眼鏡を落としていたことに気が付いた。私はそこで初めて彼女の素顔を見た。本人と見まがうほどの、可愛らしい顔立ちであった。私は言葉を失っていた。クラスメイトが、大丈夫?と駆け寄ってきたのをキューに我に返った。私も彼女に、ごめんね、大丈夫?と声をかけて、落ちた眼鏡を彼女に渡した。彼女はしりもちをついたようで、しばらく立てずにいた。しかも、バケツの水で私たちは制服が濡れて汚れてしまっていた。私は痛みを我慢して、彼女と更衣室に行って着替えてくる、とクラスメイトに告げ、彼女と自分の分の着替えを持って彼女を更衣室へ連れて行った。

「ほんとごめんね、私がドジしたばっかりに」

「ううん、私も不注意だったし」

「痛いところとかない?」

「お尻がまだちょっと痛いかな…」

「歩くの平気?」

「うん、ありがとう」

 女子更衣室は、清掃が済んでいたのか誰もいなかった。パチンと電気を点け、彼女を椅子に座らせる。

「大丈夫?着替えられる?」

「痛みが引けば大丈夫だと思うけど」

「ちょっと待ってね」

 私はぱっぱと自分の更衣を済ませた。

「まだ痛む?」

「うん、ちょっと」

「じゃあ着替え手伝ってあげる」

「ごめんね、ありがとう」

 彼女を座らせたまま、私は彼女にジャージを履かせた。

「パンツまで濡れてない?」

「うん、大丈夫」

 私は彼女のスカートを脱がせた。ずいぶんと濡れてしまったようだった。彼女のセーラーとカーディガンはスカートほどではなかったが、一緒に着替えることにした。まずカーディガンを脱がし、セーラーのタイを外し、ファスナーを下ろす。同世代の子の、まして女の子の服を脱がせるのは初めてだった。何とも言えない緊張感があった。たぶん私だけが、変に意識してしまっていた。キャミソール姿になった彼女を見て、私は思わず手が止まってしまった。彼女の透けるような白い肌は、華奢すぎるほどの身体は、今にも壊れてしまいそうであったから。

「寒い…」

「あっごめんね」

 私は我に返り、手早く体操服とジャージを着せた。その間、私の頭の中では、彼女の素顔と彼女の華奢な身体の映像が流れ続けていた。私は、私が一番彼女のことを知っていると自負した。そして、私だけが、彼女の本当の姿を知っているんだ、と思うようになった。気づけばそれは恋だった。

 私はそれから頻繁に彼女と遊ぶ予定を入れた。彼女と会うたびに私は彼女のことをまた一つ知ることができた。いろいろなことを知っていくにつれ、私は彼女の多くを領有したような気分になった。

 それと同時に、彼女が私をどう思っているのかが気になった。彼女は、私が恋をしているのを知っているだろうか。私が貴女に恋をしているのを知っているだろうか。それを知ったら何を思うのだろうか。これらの疑問は、今までの質問よりも勇気の消費の激しいものだった。私は訊ねるのを躊躇った。なにより、彼女を失うのが、この関係が崩れるのが怖かった。でも、このままでは、と私の心は燻るのだった。それが私を悩ませた。私は何度となく枕を濡らした。考えれば考えるほど、苦しくなった。思えば思うほど、欲しくなった。



 × × ×



 ある冬の日、彼女は珍しく、用事がある、と言って私と一緒に帰るのを断った。私は怪しんだ。図書委員の仕事が当たっている日ではなかったからだ。そっか、と言ってその場は立ち去ったが、私は彼女の後をつけることにした。彼女の友達との用事かもしれない。彼女に新たな友達ができたのかもしれない。もしかしたら私と帰るのが嫌になったのかもしれない。私は確かめたかった。

 彼女は天性のステルス能力で誰の注意を引くこともなく旧校舎棟の屋上への扉の前まで歩いていった。屋上はどこも施錠されていて出ることはできないが、扉の前は広めの踊場になっていて、使わなくなった机や椅子やホワイトボードなどが置かれている。こんな人目のないところへ来て何をするのだろうか。階段のすぐわきのトイレに駆け込んで、聞き耳を立てて待つことにした。

 ほどなくして、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。私は見つからないよういったんトイレの奥に隠れ、通り過ぎたのを確認してからまた聞き耳を立てた。

「ごめん、待った?」

 男子生徒の声だ。もしゆいが襲われたりしたら、私が助けなきゃ。

「そっか」

 話し口からして、そんな雰囲気は感じられないけど、何が起こるかわからないし。

「えっとじゃあ本題なんだけど」

「去年同じクラスだったの覚えてる?」

「そうそう!橋田と一緒にいたやつ」

 だめだ、ここからじゃゆいの声が聞こえない。

「覚えてくれてたとは嬉しいなー」

 なんだ、この男。馴れ馴れしくゆいに話しかけて。

「そういえば今年も図書委員やってるの?」

 当たり前でしょ。

「へぇーそうなんだー」

 なにがそうなんだーだよ。

「んでさ、実は俺」

 もう。

「去年からずっと」

 だめ。

「村井のことが」

 やめて。

「好きだったんだ」

 ―――。

 私はうずくまって耳を塞いだ。目も強くつぶった。外からの情報の一切を断ちたかった。もうなにも言わないで。もう何も聞かせないで。つぶった瞼をかき分けて涙が押し出されてくる。声を出しちゃだめだ。洟もすすっちゃだめだ。

 お願い。ゆいは私のゆいだから。

 本当に?

 そうだもん、私がゆいの一番だもん。

 一番何なの?

 一番よく知ってる人だもん。

 それは友達?

 友達なんて言葉じゃ言い表せないよ。

 じゃあ付き合ってるの?

 ―――。

 私はゆいの何なの?

 ―――!

 耳を塞ぐ手の力が緩んだ。目をつぶるのも弱めた。涙が音もなく頬を伝った。

 声が聞こえた。

「そっか、ありがとう!」

「じゃあ、これからもよろしくね!」

 

 急いで、口を塞いだ。声が、出てしまいそうだったから。叫んでしまいそうだったから。「じゃ!俺部活あるから!」

 階段を駆け下りる音。通り過ぎる学ラン。階段を駆け下りる音。階段を駆け下りる音。階段を駆け下りる音…!





「うっ、うわああああああああああああああああああああああああああ!!」


 堤防が音を立てて決壊した。私の声はトイレ中に反響し、階段に雪崩ていった。

「ぅわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!!」

「いやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「げほっ、げほぉっ、ごほぉぇっ!」

 息継ぎする間もなく叫びがあふれ出す。身体が付いて行かず、思いっきりむせ返る。むせ返っても、激情は収まらない。それは声やら涙やらで体の外へ出ていく。

「うぐぅうううぅっ…!!!ぅあああああああああああああっ!!!ぃあああああああああああああん!!!!」

 私の顔はきっとぐじょぐじょになっているだろう。でももうそんなこと気にならなかった。今は自分の奥から噴出してくるものを、なすがままに発散させていたかった。というより、そうするしかなかった。どうしたらいいかわからなかった。

文字にならない怒号にも似た大音声を床にぶつける。床には私の涙や鼻水、唾液などの液体が滴っていた。なにがなんだかはよく見えなかった。私はきっと獣のようだった。

 彼女が目の前に立っているのに気付くのに、どれくらいの時間が経っていたんだろう。彼女は黙って私を見ていたのだろうか。それとも私に何か声をかけていたのだろうか。どっちにしても聞こえない。私は私のただ泣き叫んでいる声しか聞こえていなかった。彼女がこっちに近づいてくる気配がした。私は泣き止まない。むしろ余計涙が出てくる。

 だめ。

 優しくされたら、私が壊れる。

 私は私でいられなくなる。

 私は、あなたを壊してしまう。

 こっちに来ちゃだめ。

 本当に。

 だめだから。


 ゆいが私の肩を抱き寄せた。



「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」



 目の前が真っ暗になった。



 × × ×



 私は目を開いた。私はベッドの上にいた。保健室みたいだ。私は気を失っていたのだろうか。あるいはただ眠っていたのだろうか。身体は脱力しきっていて、ひどく重かった。上体を無理やり起こすと、私の背中側に、ゆいが腰かけていた。

「あっ」

 彼女はぱたん、と本を閉じた。

「大丈夫?」

 彼女に言われるのは、初めてかもしれなかった。私は声が出せなかった。

「無理しないでいいから、ゆっくり休んで」

 彼女は私の肩を軽く押し、私を再びベッドに寝かせる。私は抵抗しようともしなかった。首だけで彼女のほうを見る。

「なにがっ、ごほっ、ごほぉっ、ごほごほっ…」

 うまく声が出なかった。叫びすぎて喉がやられていた。呼吸するにもひりひりと痛んだ。私は話すのを諦めた。その分、彼女が話しかけてくれていた。

「貴女は何を勘違いしたのかしら?」

くすすっと困ったように笑った。

「貴女は私がとある男子に呼び出されたところをつけてきたんでしょ?聞いてたとは思うけど、私は彼に告白されたわ。初めてのことだったから、びっくりしちゃった」

 さっきの光景が、色を帯びて蘇ってくる。息が一瞬、苦しくなる。でも、不思議とそれは穏やかになっていく。彼女は相変わらずの高くて細い声で続ける。

「私がいけないんだよね、私、あんまり大きな声出せないから。貴女には男の子の声しか聞こえなかったんでしょう?」

 うん、とうなずく。涙が目を過剰に潤す。

「私は、お友達から始めましょう、って返したんだよ」

 彼女の目がすっと細くなる。

 表面張力が、負ける。目尻から涙がこぼれた。

「貴女がいつだか言ってたみたいに、ね。ほかに断り方知らないんだもの」

「そしたら彼、振られたはずなのに喜んじゃって。またまたびっくりしちゃった。前向きなのね」

「だから、彼は私の友達になっただけ」

 涙が止まらない。ああ今日どれだけの涙を流したんだろう。私は汚くしゃがれた声を無理やり出した。

「ほんと…?」

「ほんと」

 彼女は笑った。私はそれが、とてもいとおしくなった。今すぐにでも抱きついてしまいたかった。でも起き上がるほどの力が出ない。私は掛布団の中からもぞもぞと右手を脱出させて、彼女の手を取った。強く握ったら、折れてしまいそうな細い指。幸い、私にそんな力はなかった。ただ、触れるように、手を握った。彼女の手は、少し冷たかった。本を読んでいたせいだろうか。

 彼女が、私の手を放す。刹那、彼女は音もなく眼鏡をとった。

「亜美ちゃん」

 私の、下の名前。松下さんからこの前ステップアップした呼び方。

「ほんとはね」

 え。

「私」

 だめ。

「貴女のことが」

 近いよ。

「―――」

 だめだってば。




 そんなことしたら、余計動けないじゃないの。




 でも、ちょうどいいのかもしれない。

 私が動けないくらいの方が。

 彼女を壊してしまわない方が。


 私は、幸せだ。

 こんなに嬉しいことはない。


 

 目を軽くつむった。

 涙が駆けていった。




 音もなく。



 × × ×



 私はいま、いやに暖房の効いた職員室にいる。クラス担任との面談の最中だ。隣のデスクから引っ張ってきた回転イスに浅く腰かけて、目の前の標的と対峙する。担任は困ったように頭を掻いている。うーん、うーんと頭を悩ませている。

「だから、文転するのは構わないんだけど、理由が見えてこないっていうか…」

「とりあえず文転したいんです」

 大真面目にそう答える。

「将来の目標が変わったのか?」

「幸せになります」

「漠然としすぎだろおい」

「だめですか」

 まっすぐに見つめ返す。

「だめじゃないけど…。なんだ、ぶっちゃけたところ、松下にはそのまま勉強を続けてもらって、ぜひとも医学部に行ってもらいたい。俺だけじゃなくって学年のほかの教員もそう言ってるんだよ。きっと親御さんも」

「私がいるべき場所は、私が決めます」

「でもさぁ」

「それをどう思うかは先生たちの自由です。私の口出しできる領域ではありません」

「な…」

「ご検討、お願いしますね」

私は息苦しい暖房の熱気から飛び出した。あんなところで座ってるから、教師はみんな太っていくんだ。職員室をでると、廊下は生徒たちの声であふれかえっていた。その中に彼女が待っているのを見つけた。目が合うと、私は悪ガキのように笑って見せた。

「まったく、センセーも頭が固いよね」

「まただめだったの?」

 

 彼女の声は、高くか細い。


「まただめだったよ、まぁ実際だめだったのはセンセーたちなんだろうけど」

「そうかもね」


 彼女の声は、無くなりそうに小さい。


「私は何言われても文転するから。忙しいんなら時間かけてないで早く認めてよって感じよね」

「貴女はいつも強引なんだから」


 彼女の声は、簡単に喧噪のなかに消えていく。


「私は私の人生を生きたいだけ。ゆいと一緒に居たいだけ」

「そう、私も亜美ちゃんと一緒に居たい」



 彼女の声は、私にしか聞こえない。



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