そして元の世界に戻った
私たちは、ただ日常を過ごしていた。
蛇口をひねると、細い水流が一度だけ、青白く光ってから消えた。
水が出ない。
「……また?」
アイリスはポットを置くと、壁に埋め込まれた魔石を覗き込んだ。
元はエメラルドグリーンだった石が、今は透明に透き通っている。
「魔力切れね」
交換時期だった。
ため息をついて、戸棚から新品の魔石を取り出す。
いまや魔石は、人類の生活そのものだった。
朝は魔石式のコンロで湯を沸かし、魔石式の暖房で部屋を温める。仕事へ向かうには魔石式の列車に乗り、遠方へ行くなら魔石動力の飛行船に乗る。
工場では魔石を使った機械が昼夜を問わず動き、病院では魔力補助式の義肢が人の失われた手足を動かしている。
魔石がなければ、街は一日たりとも機能しない。
魔石…フリライトから魔力を取り出せることに気づいたのは、100年以上も前の名もない鉱物研究者だった。
「小さな石ころの力が何になる」
笑われながらも、彼は研究を続け、ついに小さな灯りをともすことに成功した。
小さな発明は、やがて技術者達の努力により様々な機械を動かし、水を汲み、乗り物を走らせる力になった。
「世紀の大発明だ!」
フリライトは魔力を生みだす石…魔石として人々の生活に恩恵を与えた。
人々は歓喜し、魔石は瞬く間に文明の中心となった。
その時は、誰も気に留めなかった。
魔石から魔力を取り出すたび、ほんの少しずつ魔力が漏れ出していたことを。
石から力が取り出せる、それは人類にとってどこまでも便利で都合の良い発見だった。
数十年前から大気中の魔力濃度の上昇は確認されていた。
しかし「魔力が空気を汚す」という研究結果が発表されても、事態を深刻には捉える人間は少なかった。
いつからか森に魔物が増えてきた。
南方の村で、原因不明の病が流行した。
魔力の濃い谷では、子どもが生まれにくくなった。
そこで人類は、ようやく対策を練り始めた。
幸いなことに、研究者たちは、すこぶる優秀だった。
魔石から放出される余剰魔力を減らす技術を次々と開発した。
新型魔石炉は旧式より三割少ない魔力を放出する。
次世代型なら五割。
最新型なら七割。
素晴らしい技術力だった。
問題は、人類が魔石を使う量が、それ以上の速度で増えていたことだった。
魔石一個あたりの汚染が減っても、十個使えば同じこと。
十個が百個になり、百個はいつしか百万個になる。
しかし誰も、
「魔石を使うことそのものを減らそう」
とは言わなかった。
正確には、声をあげた者もいたのだろう。
しかし、より大きな声にかき消されてしまったのだ。
魔石は燃料であり、水道であり、交通機関であり、医療だった。
人類の文明そのものだった。
もはや、魔石のある生活を捨てるということは、人類であることを捨てるということに等しかった。
「西部の数値が、居住不可能な領域に達しました」
会議室で、若い研究者が報告した。
「魔力濃度が基準値の四倍です。人間が長期間暮らせる環境ではありません」
「ならば、別の場所へ移住させればよいではないか」
「どこへ?」
「まだ北部は無事のはずだ」
「北部の値も急激に上昇しています」
「では東へ…」
研究者は首を振った。
「……」
地図の上には、色が塗られていた。
まだ安全で人の住める、緑の地域。
数値の上昇が激しい、黄色の地域。
そして…もやは人の住める土地ではなくなった、赤色の地域。
少しずつ拡大していたその赤が、この近年、急激に範囲を広げていた。
魔力は地形によって偏る。
谷や盆地には溜まりやすく、風の強い高地には溜まりにくい。
そのため、一部の地域では人々が土地を捨て始めていた。
当然、不満が生まれた。
「なぜオレ達だけが故郷を捨てなければならない!」
「裕福な都市部では大量の魔石を使い続けているじゃないの!」
「魔力を排出しているのは大都市だ!」
「我々の土地を犠牲にして、便利な暮らしを続けるのか!」
暴動。
破壊。
テロ。
そして内乱。
混乱に乗じて、隣国へ侵攻する国まで現れた。
軍用魔道具が空を飛び、魔石砲が大地を焼いた。
兵器が使う魔石は、民間の魔道具より遥かに巨大なものだった。
戦争が、更なる魔力を撒き散らした。
その魔力が、人々を追い詰め。
追い詰められた人々が、また戦争を始める。
そんな悪循環だった。
そして、そんな中で、
魔王が復活した。
アイリスは、古代遺跡から運び出された遺物に目を通していた。
おびただしい数の、古びた石板。
それには古代の伝説が記されていた。
かつて人類が魔王を倒した英雄譚。
何年も前から研究者たちは解読を試みていた。
だが、必要な資金が得られず、研究は行き詰まっていた。
しょせんは伝説、過去の人間が創作した夢物語。
現代社会に無価値な遺物だと捨て置かれていたのだ。
だが、魔王は復活した。
現実に存在していたのだ。
すぐさま、莫大な資金と最先端の技術が投入された。
古代文字が解析され現代語に置き換えられていく。
アイリスは、その中の一文に目を通し…息をのんだ。
『フリライトは、世界に満ちた魔力を封じる人工鉱石である』
「…これは…」
神話は語る。
何千年も前に世界を支配していたのは魔王だった。
人類を家畜として扱い、魔物を従え、世界を魔力で満たしていた存在。
しかし、抑圧されていた人類はついには反旗を翻した。
大気中に漂う魔力をフリライトとして固定する技術を生み出したのだ。
大気中の魔力が薄まれば、魔王も魔物も力を失う。
力の弱った魔物達を倒し。
その支配者たる魔王をも倒し。
ついには、人類は世界を手に入れた。
そうして、永遠とも思われる平和が訪れた。
だが、しかし。
人類は永き平穏の果てに、かつての偉業を忘れ去ってしまった。
何のためにフリライトが生み出されたのかを。
魔力を封じ込めるための装置だったそれを、やがて人々は「魔力を取り出せる便利な石」として「発見」することとなる。
アイリスは呆然と椅子に座り込んだ。
文明が発展するほど。
魔道具が増えるほど。
人間が便利になるほど。
世界には魔力が戻っていく。
復活した魔王は宣言した。
「世界を、あるべき姿に戻す」
その意味を理解したアイリスは背筋が凍った。
魔王が望んでいることは、実にシンプルだ。
世界を再び魔力で満たす。
そうすれば魔物が増える。
住処を追われた人間は分断され、困窮することとなるだろう。
かつての世界が再現される。
世界は震撼した。
しかし…
そんな中で、魔王に恭順を示す国が現れた。
大国から攻められている小国だった。
彼らにとっては「魔王に従えば、大国から国を守れる」ということが大きな理由になり得たのだ。
「魔王が人間の世界を滅ぼす?」
だから何だと小国の王は言った。
「我々はまず、明日を生き延びねばならん」
その言葉に反論できる者はいなかった。
研究所の窓から、夕暮れの街が見えた。
空を飛ぶ飛行船。
線路を走る列車。
魔石灯に照らされた道路。
ビルや病院の光る窓の向こうでも魔道具が働いているのだろう。
義足で歩く人。
店先で料理をする人。
子どもたち。
笑い声。
何も知らずに日常を過ごしている彼らが悪いのだろうか。
便利な生活を望んだことが罪なのだろうか。
違う、とアイリスは思った。
単に私たちは知らなかったのだ。
知らないまま、積み重ねてしまった。
…いや、気づくきっかけはあった。
それを見逃したのは人間たちの惰性だ。
そして今、
世界は魔王の望んだ姿へ、ゆっくりと戻りつつある。
皮肉なことに、人類自身の手で。
「アイリスさん」
扉が開いた。
年若い同僚が立っている。
「ここにも避難命令が出ました」
「今さら、どこへ逃げろというの?」
「北部です」
はっ、と笑いが漏れた。
「北部の魔力濃度も既に危険域に入っているというのに?」
アイリスは目を閉じた。
もう逃げる場所はない。
それでも彼女は翻訳されたデータをかき集めた。
「これを持っていくわ」
「もう時間がありません」
「だとしてもよ」
「捨てましょう」
「駄目!」
アイリスは首を振った。
「最後までできることをしましょう…人類として」
石板にはフリライトの設計図すらも書かれていた。
しかしこの国はもはや、設備や素材を用意する時間も人員も持ち合わせてはいなかった。
遅すぎたのだ。
人類は既に時を逃がしていた。
それから三日後。
王都は陥落した。
魔王軍によってではない。
人間同士の戦争によってだ。
空を飛んでいた飛行船が墜落した。
魔石炉が暴走した。
都市の中心で魔力濃度が跳ね上がった。
大量の魔物が現れた。
逃げ惑う人々。
壊れる魔道具。
消える灯り。
そして…静寂。
アイリスは最後の記録を残していた。
この記録が誰に読まれるかは分からない。
そもそも、誰かに届くのかも分からない。
それでも書いた。
『この世界は、間もなく人類のものではなくなるでしょう。
原因は魔王の強さだけではありません。
これは私たち自身の奢りが招いた事態なのです。』
ペンが止まる。
窓の外で、巨大な魔物が街を歩いている。
空はもう、かつて見慣れた空色ではなかった。
不気味なほどに輝くエメラルドグリーンの光が、大気そのものを染めていた。
『私たち人類はかつて、魔王から平和を勝ち取るという偉業を成し遂げました。
しかし長い平和の中で、私たちは先人たちの成し得たことを忘れてしまいました。
そうして、ついには、一度は封じ込めた危険な力を再び世界へ解き放ってしまったのです。』
アイリスは苦笑した。
『なんて愚かなことでしょう』
手元に涙が落ちた。
『もし、この記録が誰かに届くのなら、どうか覚えていてください。
当たり前に続く日常などありません。
きっとそれは、何かを犠牲にして成り立つものだから。
どうか流されないで。』
最後に、アイリスは一行を書いた。
『私たちを笑ってください、そして、私たちと同じ道だけは歩まないで。』
窓の外がが光った。
遠くへ。
どこまでも遠くへ、光は伸びていく。
人間の世界の終わりを知らせるために。
街から完全に音が消えた。
魔石灯が一つ。
また一つ。
消えていく。
人類が築いた文明が、光の中へ沈んでいく。
そして世界は。
魔王が望んだように。
再び、魔力に満たされていった。
自然の姿が正義というのなら、さぞや世界は喜んでいることでしょう。




