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『勇者移植』魔王を倒した俺は、もう一度勇者になった。―けれど、その身体は俺のものではなかった。

作者: キョウ
掲載日:2026/05/07

魔王を倒した。


互いに最後の魔法を放ち、最後の一撃を交わした。

俺の剣は奴の心臓を、奴の剣は俺の胸を貫いた。


黒い城は崩れ、空を覆っていた瘴気は晴れ、俺の胸を貫いていた魔王の剣も、やがて消滅した。


勝ったのだと思った。


仲間たちの泣き声が聞こえた。

聖女が俺の名前を呼んでいた。

騎士団長が、震える声で「勇者よ」と叫んでいた。


ああ、終わったのだ。


俺はそう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。


これで、もう誰も死ななくて済む。


これで、もう誰も泣かなくて済む。


これで、俺はようやく勇者を終えられる。


そう思っていた。


――そのはずだった。




「勇者様」


声が聞こえる。


「勇者様、どうかお目覚めください」


眩しい光が、瞼の裏を焼いている。

俺は重い瞼を開く。


そこにあったのは、崩れ落ちる魔王城ではなかった。

血に濡れた玉座の間でもなく、泣き崩れる仲間たちの顔も無い。


白い石で造られた神殿。

円形に並ぶ神官たち。

床一面に刻まれた、見覚えのない魔法陣。


そして、俺を見下ろす少女が、涙を浮かべて微笑んでいた。


「よかった……成功したのですね」


俺は、息を呑んだ。


身体が動く。

痛みがない。

胸に空いていたはずの穴もない。


それどころか、手が小さかった。


指が細い。

腕が軽い。

声を出そうとして、喉の奥に引っかかった音が、自分のものではないことに気づく。


「……ここは」


俺の声ではない声で、俺は言った。

少女は両手を胸の前で組み、祈るように告げる。


「ようこそ、勇者様」


そして、続けた。


「どうか再び、世界をお救いください」


再び。

その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。


俺は魔王を倒した。


俺は世界を救った。


俺は、たしかに死んだはずだった。


なのに――



俺は上体を起こそうとして、身体の軽さにまた違和感を覚える。

手を床につく。指は細く、腕は頼りない。

胸を貫かれたはずの痛みはどこにもない。


だが、それ以上に気味が悪かったのは、声だった。


「……再び、とはどういう意味だ」


喉から出たのは、俺のものではない声。


まだ若い。いや、若いというより幼い。自分の声を聞いているはずなのに、知らない誰かが喋っているような感覚があった。


少女は一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げる。


年は十六か、十七ほどだろうか。

白銀の髪を肩口で揺らし、淡い青の瞳には涙の跡が残っている。

身に纏う衣は神官のものよりもずっと上等で、胸元には王家の紋章らしき刺繍があった。


「申し遅れました。私はリシェル・アルヴェイン。この国、アルヴェイン王国の第一王女です」


王女。


神殿。神官。魔法陣。そして、勇者様。


嫌なほど状況は整っていた。


「ここはどこだ。俺がいた世界とは違うのか」


「はい」


王女――リシェルは、静かに頷いた。


「ここは、貴方様がかつて救われた世界とは別の世界です」


やはり、と俺は思った。

死んだはずの俺が目を覚まし、見知らぬ神殿にいる。ならば、誰かが俺を呼んだのだろう。


勇者召喚。

かつて物語の中でだけ聞いたような奇跡が、今まさに自分の身に起きた。


だが、納得できないことが多すぎる。


「俺は、魔王を倒した」


「存じております」


「同時に俺は死んだはずだ」


「はい」


「なら、なぜ俺はここにいる」


リシェルは唇を引き結んだ。


「私たちは、貴方様の魂をお招きしました」


「魂?」


「はい。魔王を討ち、世界を救った勇者様の魂。その残滓を、この世界へと召喚したのです」


「なぜ、俺を選んだ」


「私たちが貴方様を選んだわけではありません。私たちは、魔王を討った勇者という条件で召喚陣を組みました」


「私たちが選んだのではなく、この世界が貴方様を選んだのです」


神官たちが、深く頭を垂れる。


床一面に刻まれた魔法陣は、まだ淡く光を帯びている。

複雑な円と線が幾重にも重なり、中央にいる俺を縛るように囲んでいる。


召喚陣。


そう呼ぶには、いびつだった。


俺の知る転移魔法とも、魂に干渉する禁術とも違う。術式の組み方が粗い。魔力の通り道に無駄が多く、無理やり力で押し通したような跡がある。


この世界の魔法は、随分と未熟らしい。


「勇者様、改めてお願いいたします」


「魔王の手から、もう一度世界を救ってください」


神殿の空気が重く沈む。


「三年前、北の大陸に魔族が現れました。彼らは人よりも遥かに強靭な肉体と、膨大な魔力を持っています。辺境の村は次々に焼かれ、砦は破られ、騎士団も多くを失いました」


「この世界の魔法は?」


「あります。けれど……魔族には到底敵いません」


リシェルは悔しそうに拳を握る。


「私たちの魔法は、祈りと陣に頼るものです。火を灯し、水を清め、傷を塞ぐ。それが限界でした。戦場で魔族に対抗できるほどの術は、ほとんど存在しません」


なるほど。


俺は神官たちを見回す。


彼らの魔力そのものは低くない。だが扱いが雑だ。体内で魔力を練る技術も、術式を瞬時に組み替える発想もない。


「だから、別世界から勇者を呼んだのか」


「はい」


リシェルはまっすぐに俺を見た。


「私たちには、時間がありませんでした。魔法を一から発展させる余裕も、魔族に抗う力を育てる時間もなかった。だから、すでに魔王を討った勇者様の力に縋るしかなかったのです」


縋る。


その言葉だけは、妙に正直だった。


王女は俺を利用しようとしている。

世界を救うために、もう一度戦わせようとしている。


だが、不思議と腹は立たない。


俺は一度、勇者だった。


泣いている人間を見捨てられない程度には、勇者として生きてしまった。


「俺の仲間たちはどうなった」


リシェルは目を伏せた。


「申し訳ありません。私たちが召喚できたのは、貴方様だけです」


「そうか」


胸の奥が、少しだけ沈んだ。


あいつらは、俺の死を見届けたのだろうか。

聖女は泣いただろうか。

騎士団長はまた、あの不器用な顔で拳を握っただろうか。


もう会えない。


そう思うと、死んだ時よりも少しだけ苦しかった。


「では、なぜこの身体なんだ」


俺は自分の手を見下ろした。


小さな手。


魔王を斬った時の俺の手ではない。

剣を握り続け、血と傷で硬くなった手ではない。

まだ何かを奪うより、何かに縋る方が似合う手だ。


「召喚の影響です」


リシェルは答えた。


答えるには、早すぎる。


「異なる世界から魂をお招きするため、肉体はこの世界に適応する形で再構成されました。勇者様のお力は、すぐに戻ります。どうか、ご安心ください」


「再構成、か」


「はい」


俺は、黙って王女を見る。


リシェルの声は震えていない。説明も淀みない。

おそらく、何度も練習したのだろう。


そこまで考えて、俺は自分の疑念を飲み込んだ。


違和感はある。


だが、今ここで問い詰める理由はない。


少なくとも、この世界が魔王に脅かされているのは本当だ。神官たちの怯えも、王女の疲れ切った顔も、作り物には見えない。


なら、今やるべきことは一つだった。


「魔王はどこにいる」


俺がそう言うと、神殿の空気が変わった。


顔を伏せていた神官たちが、はっと俺を見る。王女の瞳に、わずかな光が戻る。


「勇者様……」


「勘違いするな」


俺は立ち上がろうとして、少しだけよろめく。


すぐに神官が手を伸ばしかけたが、俺はそれを視線で止める。

身体は軽い。筋力も足りない。だが、魔力はある。いや、ありすぎるほどあった。


この小さな身体の内側に、不自然なほど膨大な魔力が詰め込まれている。

まるで、器に見合わない量の水を無理やり流し込んだように。


その違和感にも、俺はまだ名前をつけなかった。


「俺は勇者を終えたかった」


静かに言う。


「魔王を倒して、もう誰も死ななくて済むなら、それで終わりにしたかった」


リシェルは何も言わない。


それでも。


ここにも、泣いている人間がいる。


「だが、目の前で誰かが泣いているなら、剣を取らない理由にはならない」


王女の瞳から、また涙が零れた。

今度の涙は、安堵の色が濃かった。


「ありがとうございます、勇者様」


彼女は深く頭を下げ、神官たちも一斉に膝をついた。


俺はその光景を見下ろしながら、胸の奥に残った小さな違和感を押し殺した。


そして、俺は再び勇者になった。



そして俺は、魔王を倒した。


一度目よりも、ずっと早く。

一度目よりも、ずっと楽に。


この世界の魔族は、確かに強かった。


人間とは比べものにならない膂力を持ち、騎士の鎧ごと肉を裂く爪があり、城壁を砕くほどの魔力を吐き出す者もいた。


だが、ただそれだけだった。


力が強い。

魔力が多い。

身体が頑丈。


その程度の敵なら、一度目の世界で嫌というほど斬ってきた。


魔族の魔法は粗い。

魔力の流れは丸見えで、術式の組み立ても遅い。攻撃の前兆を隠すという発想すらなく、巨大な魔力をただ叩きつけてくるだけ。


こちらの世界の騎士たちからすれば、それは絶望かもしれない。


だが、俺からすれば隙だらけだった。


二度目の魔王も、同じだった。


膨大な魔力。

強靭な肉体。

空間を震わせるほどの殺意。


それでも、一度目の魔王ほど脅威ではなかった。


自らの仲間である魔族を盾にする残忍さも、勇者の仲間を人質にする狡猾さも、二度目の魔王にはない。


一度目の魔王ほど、俺の心を折ろうとはしてこなかった。


強いだけ。

ただ、それだけの王だった。


だから倒せた。


剣を突き立て、魔力の芯を断ち、黒い巨体が崩れ落ちるのを見届けた。


今回は、俺の胸を貫く剣もなかった。


仲間の泣き声もない。

命が零れていく感覚もない。


ただ、魔王が倒れた。


それだけだった。


王国の騎士たちは泣きながら歓声を上げ、神官たちは地面に額を擦りつけるように祈る。


「勇者様!」


「魔王が倒れた!」


「これで、この世界は救われた!」


その声を聞きながら、俺は剣を下ろす。


終わった。


二度目の世界でも、魔王は倒れた。


これで、もう誰も死ななくて済む。

これで、もう誰も泣かなくて済む。


今度こそ。


今度こそ、俺は勇者を終えられる。



王都に戻った俺を待っていたのは、英雄の凱旋だった。


城門から王城まで続く大通りには、人が溢れ、

花びらが空を舞い、鐘が鳴り、子供たちは親の肩の上で手を振っている。


「勇者様!」


「救世主様!」


「魔王を討ってくださって、ありがとうございます!」


泣いている者がいた。

笑っている者もいた。

互いに抱き合い、膝から崩れ落ち、天に祈る者もいた。


そのすべてを見て、俺は少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。


救えた。


この世界でも。

俺は誰かを救えたのだと。


王城では、凱旋の宴が開かれた。


広間には貴族や騎士、神官たちが集められ、壁には王国の旗が掲げられている。長い卓には豪奢な料理が並び、楽団が勝利を讃える音楽を奏でていた。


中央の席には国王が座り、その隣に王女リシェルがいる。


国王は痩せた男だった。

長い戦で疲れ切った顔をしている。だが、俺を見る目にははっきりとした安堵があった。


「勇者殿」


国王は立ち上がり、深く頭を下げる。


「我が国を、いや、この世界を救ってくださったこと、心より感謝する」


広間が静まり返る。


王が頭を下げるなど、本来ならありえないのだろう。貴族たちが息を呑み、神官たちが感極まったように目を伏せる。


だが俺には、どうでもよかった。


「礼はいらない」


俺は言う。


「魔王は倒した。あとは、この世界の人間でどうにかしろ」


それで終わりにしたかった。

今度こそ、勇者を終えたかった。


リシェルが静かに立ち上がる。


彼女は宴のための華やかな衣装を身に纏い、白銀の髪には宝石の髪飾りが輝き、淡い青の瞳は潤んでいる。


「勇者様」


彼女は俺の前に歩み出て、深く膝を折った。


「貴方様こそ、この世界の救世主です」


広間に集まった者たちが、一斉に膝をつく。


「救世主、か」


俺は小さく息を吐いた。


一度目の世界でも、そう呼ばれた。


勇者。

英雄。

希望。

人類最後の剣。


そんな言葉をいくら重ねられても、死んだ者は帰ってこなかった。救えなかった村は戻らなかった。仲間の傷が消えるわけでもなかった。


だから、俺はもう呼び名に意味を感じていない。


「俺は、魔王を倒しただけだ」


そう言うと、リシェルは首を横に振った。


「それでも、貴方様がいなければ、私たちは滅びていました」


「……そうか」


「はい。貴方様のおかげで、もう誰も魔王に怯えずに済みます。もう誰も、魔族に家族を奪われずに済みます」


その言葉に、俺は少しだけ視線を落とした。


もう誰も死ななくて済む。

もう誰も泣かなくて済む。


それは、俺が一度目の最後に願ったことと同じだ。


なら、これでよかったのだろう。

そう思おうとした。


その時だった。


「お兄ちゃん!」


広間の入口で、甲高い声が響いた。

祝宴の音が、一瞬だけ途切れる。


なぜか俺は振り返ってしまった。

いつもの癖のように。


兵士たちに止められながら、一人の少女が広間へ入ろうとしている。


年は十にも届かないくらいだろうか。淡い栗色の髪を乱し、安物の外套を握り締めている。頬は涙で濡れ、息は何度も詰まり、けれど視線だけは真っ直ぐに俺を捉えている。


「お兄ちゃん!」


もう一度、少女が叫ぶ。

兵士が慌てて彼女を押さえた。


「下がれ! ここは貴族と騎士のための――」


「離して!」


少女は必死に腕を振りほどこうとする。


「お兄ちゃんなんでしょ!? 帰ってきたんでしょ!?」


俺は、動けなかった。


知らない少女だった。


俺はあの子を知らない。

名前も知らない。

声も知らない。

あんなふうに呼ばれた覚えもない。


なのに。


胸の奥が、強く跳ねた。


心臓を掴まれたように痛む。

喉が詰まる。

視界の端が、かすかに滲む。


俺の感情ではない。


そう思った。


けれど、そう切り捨てるには、あまりにも痛かった。


「お兄ちゃん!」


少女は泣きながら叫ぶ。


「ねえ、なんで……なんでそんな顔するの?」


そんな顔。


俺は、自分がどんな顔をしているのか分からない。

ただ、身体が震えていた。


少女の顔を見た瞬間から、知らないはずの何かが胸の奥で暴れている。


小さな家。

木の床。

古びた椅子。

夕暮れの窓辺。

髪を結んでくれと笑う少女。


知らない。

知らないはずだ。


なのに、その笑顔だけが、胸に焼きついて離れない。


「お兄ちゃん、わたしのこと……忘れちゃったの?」


少女の声が、広間に落ちる。

その瞬間、俺の中で何かが軋んだ。



記憶ではない。


少なくとも、俺の記憶ではなかった。

けれど胸の奥で、確かに何かが暴れている。


兵士が少女の腕を掴み、強引に広間の外へ連れ出そうとした。


「離して! お兄ちゃん、ねえ、お兄ちゃん!」


少女の声が震えている。

その泣き声を聞いた瞬間、身体が勝手に動く。


「触るな」


広間の空気が凍った。

自分で言っておきながら、俺はその声に驚いた。


怒りが混ざっていた。

俺の怒りではない。

もっと幼くて、もっと切実で、もっと近い場所から湧き上がってくる怒りだった。


兵士の手が止まる。


「ゆ、勇者様……?」


「その子から手を離せ」


俺はゆっくりと立ち上がる。

椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。

少女は涙に濡れた顔で俺を見ていた。


「お兄ちゃん……」


違う。

俺は、お前の兄じゃない。


そう言おうとした。


けれど、喉が動かなかった。

代わりに、胸の奥で知らない名前が浮かぶ。


ミナ。


誰だ。

俺はその名前を知らない。


知らないはずなのに、目の前の少女を見た瞬間、その名前だけがひどく自然に胸へ落ちてきた。


「……ミナ」


気づけば、俺はそう呟いていた。

少女の目が大きく見開かれる。


「やっぱり……!」


その顔が、くしゃりと歪んだ。


「やっぱり、お兄ちゃんなんだ……!」


違う。


違うはずだ。


俺は勇者だ。

魔王を倒した。

かつての俺に妹はいない。

それは確実だ。


そして別の世界から召喚された。

この世界を救うために、もう一度呼ばれた。


そう説明された。

そう納得した。


なのに、なぜ。


どうして俺は、あの子の名前を知っている。


広間のざわめきが遠のいていく。

俺はゆっくりとリシェルを見た。


王女は、青ざめていた。


さっきまで救世主を讃えていた顔ではない。

魔王が倒れたことに安堵していた顔でもない。


見つかってはいけないものを見つかった人間の顔だった。


その瞬間、胸の奥に沈めていた違和感が、はっきりと形を持った。


小さな手。

幼い声。

器に見合わない魔力。

答えるには早すぎた「再構成」という説明。

そして、泣きながら俺を兄と呼ぶ少女。


俺はリシェルに向かって歩き出した。

誰も止めなかった。


止められる者など、この場にはいない。


「リシェル」


俺が名を呼ぶと、王女の肩が小さく跳ねた。


「はい……勇者様」


「話がある」


「今は、祝宴の最中です。民も、皆、貴方様を――」


「話がある」


今度は、魔力を込め、同じ言葉を繰り返す。


広間の燭台が一斉に揺れ、楽団の弦がかすかに鳴る。膝をついていた貴族たちが息を呑み、神官たちが顔を伏せた。


リシェルは、もう微笑まなかった。


「……分かりました」


その声は、ひどく小さかった。


俺は少女――ミナを一度だけ見た。


泣いている。


まだ泣いている。


俺を見て、兄を見て、帰ってきたと信じて、泣いている。


俺は、もう誰も泣かなくて済む世界を目指したはずだった。


魔王を倒せば。

戦いを終わらせれば。

勇者を終えれば。


そうすれば、誰かの涙は止まるのだと信じていた。


なのに。


どうして俺が、妹を泣かせている。


その答えを聞くために、俺は王女の後を追った。


案内されたのは、宴の広間から離れた小さな応接室だった。


王城の中にある部屋にしては、飾り気が少ない。

重厚な机と椅子。壁際に置かれた本棚。窓には厚いカーテンが引かれ、外の祝祭の音は遠く、ぼんやりとしか届かない。


さっきまで、城中が俺を讃えていた。


魔王を倒した勇者。

世界を救った救世主。

再び現れた希望。


その言葉が、今はひどく遠い。


部屋に入ると、リシェルは扉の前で足を止めた。


「人払いを」


俺が言うより先に、リシェルが控えていた騎士へ命じる。

騎士は一瞬だけ迷うように俺を見たが、すぐに頭を下げた。


「……承知しました」


扉が閉まる。

部屋には、俺とリシェルだけが残された。


しばらく、誰も喋らなかった。


リシェルは窓際に立ったまま、こちらを見ようとしない。


さっきまで広間で膝を折り、俺を救世主と呼んでいた王女。


だが今、その横顔には安堵も喜びもない。


あるのは、怯えだった。


「答えろ」


「さっきの子は誰だ」


リシェルの肩が、ほんのわずかに震える。


「……存じ上げません」


「嘘だな」


「本当に、私は――」


「なら、なぜ目を逸らした」


リシェルは黙り込む。


だから俺は一歩近づく。

床に敷かれた絨毯が、足音を吸い込む。


「俺はあの子を知らない」


自分にそう言い聞かせるように、俺は言った。


「名前も知らない。会ったこともない。あんなふうに呼ばれた覚えもない」


なのに。


ミナ。


その名前だけが、まだ胸の奥に残っている。

口がその単語を覚えている。


まるでずっと前から知っていたみたいに。

まるで、何度も何度も呼んできた名前みたいに。


「どうして俺は、あの子の名前を知っている」


リシェルは答えない。


「この身体は、誰のものだ」


静かな問いに対して、リシェルは息を呑む。

その反応だけで十分だった。


「……召喚の影響です」


「またそれか」


「勇者様の魂をこの世界に定着させるため、肉体がこの世界に適応した。それだけです」


同じ説明。


淀みのない声。

何度も練習したような言葉。


俺は、短く息を吐く。


「そうか」


俺は右手を上げた。

リシェルが怪訝そうにこちらを見る。


「なら、嘘をつけないようにしてから聞く」


「……え?」


俺は指先に魔力を集めた。


この世界の魔法ではない。

祈りでも、陣でも、奇跡でもない。


一度目の世界で、魔族の偽装を暴くために使っていた真実の魔法。


魔力を糸のように伸ばし、床へ走らせる。

青白い光が絨毯の下へ染み込み、石床に魔法陣を刻んだ。


円。

文字。

束縛。

証明。


そのすべてを、呼吸ひとつの間に組み上げる。


リシェルはみるみる青ざめる。


「お待ちください、勇者様。それは……」


「知っているのか」


「いえ、ですが…」


「知らないなら黙っていろ」


魔法陣が完成する。


淡い光がリシェルの足元から立ち上がり、細い鎖のように彼女の身体へ絡みついた。


肉体を縛る魔法ではない。

舌を切る魔法でもない。


ただ、言葉と心の間に生じる歪みを許さない魔法。


「答えろ」


俺はもう一度問う。


「この身体は、誰のものだ」


リシェルの唇が震えた。


彼女は何かを言おうとする。

だが声にならない。


喉元に手を当て、苦しげに息を吸う。

目に涙が浮かぶ。


それでも、魔法は許さない。


やがてリシェルは、観念したように目を伏せた。


「……ルカ」


その名が、部屋に落ちた瞬間。

胸の奥で、何かが跳ねた。


「ルカ・エルネスト」


リシェルは続ける。


「王都の外れに住んでいた、魔力適性の高い少年です」


ルカ。


その名を聞いた瞬間、脳裏に知らない景色が弾ける。


狭い家。

薪の匂い。

擦り切れた上着。

小さな手で裾を掴む少女。


――お兄ちゃん。


違う。

俺の記憶ではない。


なのに、胸が痛む。


「俺は召喚されたんじゃないのか」


リシェルは答えない。


「答えろ」


魔法陣の光が強まる。


リシェルは唇を噛み、けれど嘘は吐けなかった。


「……貴方様を、肉体ごと召喚することはできませんでした」


「なら、何を呼んだ」


「魂の残滓と、記憶です」


リシェルの声は震えていた。


「魔王を倒した勇者の魂の残滓。戦いの記憶。魔法の知識。剣の技術。勇者として積み上げたすべてを、この世界へ引き寄せました」


「それを、どうした」


「器に、定着させました」


「器?」


俺の声が、自分でも分かるほど低くなるのがわかる。

そしてリシェルは小さく頷いた。


「ルカ・エルネストの人格を、勇者様の記憶で上書きしました」


部屋の空気が、止まった気がした。


上書き。


その言葉の意味を、理解したくなかった。


「上書き、だと」


「はい」


「人格を、消したのか」


「完全に消えたわけではありません」


リシェルは慌てるように言う。


けれど、それも嘘ではないのだろう。

魔法は彼女の喉を止めない。


「人格の残滓は、肉体の奥に残る場合があります。先ほどの少女に反応したのは、おそらくその影響です」


「残る場合がある?」


「はい」


「なら、戻せるのか」


リシェルは沈黙した。


俺は一歩近づく。


「戻せるのかと聞いている」


「……戻せません」


答えは、小さかった。


だが、はっきりと聞こえた。


「勇者様の記憶を定着させた時点で、元の人格は崩れています。仮に勇者様の記憶を取り除いても、ルカ・エルネストは元には戻りません」


何かが、胸の奥で冷えていく。


怒りではない。


まだ、怒りではなかった。


理解が、ゆっくりと遅れてやってくる。


この身体には、元の持ち主がいた。


ルカという少年がいた。


妹がいた。

帰る家があった。

名前を呼んでくれる誰かがいた。


そのすべての上に、俺がいる。


勇者である俺が、少年を殺した。

聖女は泣くだろうか。

騎士団長は、思い切り頬を叩いてくれるだろうか。


「俺が……ルカを殺したのか」


「違います!」


リシェルが初めて声を荒げた。


「貴方様が殺したのではありません!」


「なら誰だ」


リシェルは、何も言えなかった。

魔法陣の光が、彼女の沈黙を照らしている。


「誰が、この子を殺した」


俺が問う。


リシェルは震えながら、胸元を握り締めた。


「……私です」


その言葉は、あまりにも静かだった。


「私が、ルカ・エルネストを器に選びました。私が、勇者召喚の儀式を執り行いました。私が、彼の人格を塗り潰しました」


王女は、泣いていた。

けれど、その涙に縋る気にはなれなかった。


「なぜルカだった」


「魔力適性が高かったからです」


「それだけか」


「年齢、精神の柔軟性、魂の定着率。条件を満たす者は、多くありませんでした」


「まるで材料だな」


リシェルの顔が歪む。


「材料ではありません」


「違うのか」


「違います」


「なら、何だ」


リシェルは答えられなかった。


魔法陣が、嘘も誤魔化しも許さない。

答えられないということが、答えだった。


俺は自分の胸に手を当てた。


小さな身体。

細い腕。

まだ成長しきっていない骨格。


この身体は、ルカのものだった。


魔王を倒した勇者の身体ではない。


妹に髪を結んでやる約束をしていた、どこにでもいる少年のものだった。


「魔力はどうした」


俺は低く問う。


「この身体には、不自然なほど魔力がある。ルカ一人のものじゃない」


リシェルの顔から、さらに血の気が引いた。


「答えろ」


「……ルカの魔力だけでは、勇者様の魔法に耐えられませんでした」


「それで?」


「勇者様の記憶を定着させても、魔法を発動できなければ意味がありません。魔族を倒す力がなければ、この世界は救えない」


「それで、どうした」


リシェルは唇を震わせる。


「魔力適性の高い子供たちを、集めました」


部屋の外から、遠い祝祭の音が聞こえる。


誰かが笑っている。

誰かが歌っている。

魔王が倒れたことを、世界が喜んでいる。


その音が、今はひどく不快だった。


「集めて、どうした」


俺は聞く。


答えは分かっていた。


分かっていたのに、聞かずにはいられなかった。


「その子供たちから、魔力を抽出しました」


リシェルの声が震える。


「抽出した魔力を結晶化し、ルカの身体へ流し込みました。器の強度を上げ、勇者様の魔法に耐えられるようにするためです」


「子供たちは」


リシェルは目を閉じた。


「多くは、耐えられませんでした」


「死んだのか」


「……はい」


短い返事だった。

だが、その一音で十分だった。


「何人だ」


「今回の召喚で、三十七人」


三十七。


数字が、あまりにもあっさりと出てきた。


三十七人。


三十七人の子供。


その一人一人に名前があったはずだ。

家族がいたはずだ。

兄はいるだろうか。

笑い方があったはずだ。

嫌いな食べ物や、好きな遊びや、帰りたい場所があったはずだ。


そのすべてが、俺を動かす燃料にされたのだ。


「……三十七人」


俺は呟く。

それでも、それでもと、リシェルは泣きながら言った。


「それでも、この世界は救われました」


俺は顔を上げる。


王女は震えていた。

けれど、その瞳の奥にあるものは、後悔だけではなかった。


確信。


自分は間違っていないという、どうしようもない確信。


「魔王を倒せなければ、もっと多くの子供が死んでいました。もっと多くの母親が泣いていました。国は滅び、人々は魔族に蹂躙されていた」


リシェルは涙を拭わず、俺を見た。


「だから、必要でした」


「必要」


「はい」


彼女は頷く。


「ルカも、犠牲になった子供たちも、無意味に死んだのではありません。貴方様をお招きし、この世界を救うための礎となったのです」


礎。


その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。


怒鳴りはしなかった。


剣も抜かなかった。


ただ、胸の奥が冷たく澄んでいく。


「リシェル」


「はい」


「お前は、俺を勇者と呼んだな」


「はい。貴方様は、この世界を救った勇者です」


「違う」


俺は首を横に振った。


「俺は、ルカを潰して作られたものだ」


リシェルの顔が歪む。


「そんな言い方をなさらないでください」


「子供三十七人の魔力で動く、勇者の記憶だ」


「違います!」


「何が違う」


「貴方様は世界を救いました!」


リシェルの叫びが、部屋に響いた。


「貴方様がいなければ、私たちは滅んでいました! ルカ一人を救っても、この世界は救えなかった! 三十七人の子供を守っても、その何百倍もの命が失われていた!」


「だから、正しいのか」


「正しかったと、信じています」


嘘ではなかった。

魔法陣は、彼女の言葉を止めなかった。


リシェルは本気でそう信じている。


自分は世界を救った。

必要な犠牲だった。

子供たちの死は、無意味ではなかった。


その確信が、何よりも救いようがなかった。


俺は一度、目を閉じた。


魔王を倒した。


一度目の世界で、俺は確かにそうした。


これで、もう誰も死ななくて済む。

これで、もう誰も泣かなくて済む。


そう願って、死んだ。


二度目の世界でも、魔王を倒した。


同じように願った。


これで、もう誰も死ななくて済む。

これで、もう誰も泣かなくて済む。


そう思った。


なのに。


広間には、泣いている少女がいた。


ミナ。


ルカの妹。


俺を兄と呼び、帰ってきたのだと信じて、泣いていた。


「俺は」


声が、かすかに掠れた。


「もう誰も泣かなくて済む世界を、目指したはずだった」


リシェルは何も言わない。


「魔王を倒せば。戦いを終わらせれば。勇者を終えれば。そうすれば、誰かの涙は止まるのだと信じていた」


俺は自分の胸を押さえた。


そこには、ルカの心臓がある。


俺のものではない鼓動が、まだ動いている。


「なのに」


喉の奥が焼ける。


怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。


「どうして俺が、妹を泣かせている」


リシェルの顔が、くしゃりと歪んだ。


「勇者様……」


「その名で呼ぶな」


声は静かだった。


けれど、リシェルはびくりと身体を震わせた。


「俺は勇者じゃない」


俺はゆっくりと剣の柄に手をかける。


「少なくとも、この世界にとっては違う」


「お待ちください」


リシェルは一歩後ずさった。


けれど、逃げようとはしなかった。


「貴方様が私を憎むのは当然です。ルカのことも、子供たちのことも、私は背負うつもりでした。ですが、どうか考えてください。この世界には、まだ貴方様が必要なのです」


「魔王は倒した」


「魔王が倒れても、世界はすぐには平和になりません。魔族の残党がいます。国境の混乱もあります。貴方様の力があれば、もっと多くの人々を救えます」


「そのために、また妹を泣かせるのか」


リシェルは言葉を失った。


「必要な犠牲だと言って」


俺は剣を抜いた。

刃が、燭台の光を受けて鈍く光る。


「子供を殺して」


一歩、近づく。


「家族を泣かせて」


もう一歩。


「それでも世界は救われたと胸を張るのか」


リシェルは涙を流しながら、それでも俺を見つめていた。


「はい」


答えは、小さかった。

けれど、確かだった。


「私は、間違っていたとは言えません」


「そうか」


俺は頷いた。


不思議と、怒りはなかった。


少なくとも、表に出るほどの熱はもう残っていなかった。


ただ、決まっただけだ。


「なら、お前が救った世界に、俺はいらない」


リシェルの瞳が揺れる。


「勇者様」


最後まで、彼女は俺をそう呼んだ。


だから俺は、彼女をその呼び名ごと斬った。



刃が、肉を断つ感触を残した。


リシェルの身体が、ゆっくりと傾く。

白銀の髪が燭台の光を受けて揺れ、華やかな衣装の胸元に赤が広がっていく。


王女は倒れなかった。


倒れる直前、俺がその身体を支えたからだ。


理由は分からない。


憎かったはずだ。

許せなかったはずだ。

今でも、許すつもりなどない。


それでも、床に叩きつける気にはなれなかった。


リシェルは俺の腕の中で、かすかに唇を動かした。


「……勇者、様」


「その名で呼ぶなと言った」


「ごめん、なさい」


謝罪。


それが何に対するものだったのかは、分からない。


俺にか。

ルカにか。

三十七人の子供たちにか。

それとも、最後まで自分を正しいと信じたまま死ぬことに対してか。


リシェルの瞳から、光が消えていく。

それでも彼女は、最後まで俺を見ていた。


「世界、を……」


救ってください。

そう続けようとしたのだろう。


リシェル・アルヴェインは、俺の腕の中で息絶えた。


部屋の外から、祝祭の音が聞こえる。


鐘の音。

楽の音。

人々の笑い声。


魔王が倒れたことを、世界中が喜んでいる。


そのすぐ裏で、この世界を救った王女が死んだ。


俺が殺した。


「……そうか」


俺は小さく呟いた。


これが、二度目の勇者の終わりか。


リシェルの身体を床に横たえる。

その顔は、妙に穏やかだった。


間違っていたとは言えない。


彼女は最後にそう言った。


きっと本心だったのだろう。


魔法は嘘を許さなかった。

だから、あれは彼女の真実だった。


ならば。


俺も、俺の真実を通すしかない。


俺は剣についた血を払った。


同時に、扉の向こうが騒がしくなる。


「リシェル殿下?」


控えていた騎士の声。


「殿下、いかがなさいましたか」


扉が開く。

騎士が一人、部屋の中を覗き込む。


そして、床に倒れたリシェルを見た。


「でん、か……?」


彼の声が震える。

次の瞬間、顔色が変わった。


「貴様――!」


剣を抜こうとした騎士の喉元に、俺の剣先が触れていた。


抜くよりも、叫ぶよりも早く。


騎士は息を呑む。


「邪魔をするな」


俺は言った。


「今すぐ全員を下がらせろ」


「き、貴様、自分が何をしたのか分かっているのか! リシェル殿下を、この国の王女を――!」


「分かっている」


王女を殺した。


世界を救った人間を殺した。


この国からすれば、俺は魔王を倒した勇者であると同時に、王女殺しの罪人になった。


それくらいは分かっている。


「ならば――!」


「分かっていて、やった」


騎士の言葉が止まる。

騎士は震える手を下ろし、後ろにいた者たちへ叫んだ。


「下がれ! 全員、下がれ!」


廊下の騒めきが広がっていく。


誰かが悲鳴を上げた。

誰かがリシェルの名を呼んだ。

遠くで鎧の音が連なる。


だが、すぐに俺を止められる者はいない。


魔王を倒した勇者を、今すぐこの場で止められる者など、この城にはいない。。


俺は応接室を出た。


廊下には騎士たちが並んでいる。

誰もが剣に手をかけていた。

誰もが俺を見ていた。


魔王を討った英雄を見る目ではない。


化け物を見る目だった。


それでいい。


俺は、そういうものになった。


「召喚陣はどこだ」


俺が問うと、誰も答えなかった。


だから、俺は近くにいた神官を見た。


神官は膝を震わせながら、壁際に立っている。


「お前は知っているな」


「わ、私は……」


「答えろ」


魔力を込める。

それだけで、神官は膝から崩れ落ちた。


「し、神殿です! 王城地下の神殿に……!」


「案内しろ」


「は、はい……!」


神官は這うように立ち上がる。


誰もが、もう俺の名を呼ばなかった。

ついさっきまで、あれほど勇者様と叫んでいたのに。


不思議と、少しだけ楽だった。


石壁には祈りの文様が刻まれ、等間隔に青白い灯火が揺れている。階段を下るたびに、濃い魔力の匂いが強くなる。


知っている。


この匂いを、俺は知っている。


血ではない。

腐臭でもない。

だが、それに近い。


神官が扉の前で止まる。


「こ、こちらです……」


そこは、俺が目覚めた神殿だった。


白い石で造られた空間。

円形に並ぶ柱。

床一面に刻まれた、いびつな魔法陣。


俺はゆっくりと中央へ歩いた。


ここで目を覚ました。


勇者様と呼ばれた。


世界を救ってくれと縋られた。


そして、ルカという少年の人生はここで塗り潰された。


三十七人の子供の魔力が、ここで俺の中へ流し込まれた。


「……よくもまあ」


吐き気がする。


俺は剣を握り直した。


すると、神官が背後で叫んだ。


「お、お待ちください! その陣は、この世界の希望です! 勇者召喚の奇跡は、まだ――」


「奇跡?」


俺は振り返った。


神官は、ひっと息を呑む。


「これを奇跡と呼ぶのか」


床の魔法陣を剣先で示す。


「子供を潰して、魂の残滓を貼りつけて、誰かの人生を塗り潰す。この汚い術を、お前たちは奇跡と呼ぶのか」


神官は答えられなかった。


答えられないなら、十分だ。


俺は剣に魔力を通した。


白い炎が刃に宿る。


一度目の世界で魔王を焼いた炎。

二度目の世界で魔王を断った炎。

この世界が、子供たちを犠牲にしてまで欲しがった勇者の魔法。


その力を、俺は床へ向けた。


「なら、奇跡ごと終わらせる」


剣を振り下ろす。


白い石の床が砕けた。


「やめろ!」


誰かが叫ぶ。


「その陣がなければ、次の魔王が現れた時に――!」


「次の勇者を作るのか」


俺は二撃目を振るった。


柱が斜めに裂ける。

刻まれていた術式が燃え上がり、黒い煙を上げて崩れた。


「次は何人の子供を殺す」


三撃目。


魔力を蓄えていた結晶が砕ける。

中から溢れた青白い光が、悲鳴のように天井へ散った。


「次は誰の兄を奪う」


四撃目。

祭壇が割れる。

そこに置かれていた銀の器が床に転がり、乾いた音を立てた。


「また次の勇者を人殺しにするのか」


神官たちは、もう何も言わなかった。

ただ、崩れていく神殿を見ていた。


俺は止まらなかった。


召喚陣を砕く。

柱を斬る。

術式を焼く。

魔力結晶を割る。

記録の棚を倒し、儀式の手順が書かれた羊皮紙を炎に放り込む。


この世界が勇者を作るために積み上げてきたものを、一つずつ壊していく。


それは魔王を倒すよりも簡単だった。


そして、魔王を倒すよりもずっと重かった。


やがて、神殿の奥に置かれた一冊の厚い帳簿を見つけた。


表紙には、ただ一言。


《器及び供物名簿》


俺はしばらく、その文字を見つめた。


名前が並んでいる。


ルカ・エルネスト。


その名の横には、器、と記されている。


ミナの兄。

小さな家に帰るはずだった少年。

髪を結ぶ約束をしていた少年。


その下には、さらに三十七人の名前があった。


年齢。

魔力値。

抽出量。

生存可否。


生存可否。


俺は奥歯を噛み締めた。


この帳簿を燃やせば、少しは楽になれたかもしれない。


けれど、できなかった。


ここに書かれた名前まで消してしまえば、この子たちは本当に材料でしかなくなる。


俺は帳簿を閉じ、懐にしまった。


「これは持っていく」


誰に言うでもなく、そう告げた。


その時、崩れかけた神殿の奥に、さらに扉があることに気づいた。


白い鉄でできた扉。


祈りの言葉が刻まれている。


鍵はかかっていた。

だから斬った。


白い鉄の扉が音を立てて割れ、奥の空間が露わになる。


そこに並んでいたのは、棺ではなかった。


記録だった。


壁一面に刻まれた文字。

棚に収められた帳簿。

名前の下に並ぶ、冷たい項目。


《剣聖召喚・成功》

《聖女召喚・成功》

《賢者召喚・成功》


俺は、しばらく文字から目を離せなかった。


成功。


その二文字が、ひどく軽かった。


それぞれの記録の下には、別の名が刻まれている。


器となった子供の名前。

捧げられた子供の人数。

定着率。

人格残滓の有無。

運用可能時間。


俺だけではなかった。


ルカだけではなかった。


この世界は、すでに何度も同じことをしていた。

それぞれが、誰かの子供を器にして作られた勇者だった。


ここに召喚された勇者が俺だけとは限らない。

そして、勇者が俺と同じ様に再び魔王を討つとは限らない。

二度目の生を、魔王討伐という苦行に費やす必要だって無い。

召喚された勇者は、まだどこかで生きているのだろうか。


俺は壁に手をついた。

指先が、石に刻まれた文字をなぞる。


人格残滓、有。


その文字が、やけにはっきりと目に入った。


残っている。

彼らの中にも、まだ誰かが残っているかもしれない。


妹を見て胸が痛んだ俺のように。

ミナの名前を知っていた俺のように。


消えきれなかった誰かが、まだ身体の奥で泣いているのかもしれない。


「……お兄ちゃん?」


背後で、少女の声がした。


俺は振り返らなかった。


いつの間に来たのか。


ミナが神殿の入口に立っていた。


兵士に止められたのだろう。

涙で顔を濡らしたまま、息を切らしている。


その小さな身体で、ここまで追いかけてきたのか。


「お兄ちゃん、なの……?」


その声に、また胸が痛んだ。


俺の痛みではない。


そう思いたかった。


けれど、もう分からなかった。


俺は勇者だった。


魔王を倒した。

世界を救った。

もう誰も死ななくて済むように。

もう誰も泣かなくて済むように。


そのはずだった。


なのに、この世界では救いの名で子供が殺されている。

希望の名で誰かの人生が潰されている。

勇者という言葉の下で、家族が泣いている。


なら、終わらせるしかない。


王女を斬った。

召喚陣を砕いた。

神殿を焼いた。


それでも足りない。


まだ勇者がいる。



誰かの身体を奪い、誰かの記憶を消し、誰かの家族を泣かせて立っている勇者たちが、まだこの世界に残っている。


俺は剣を握り直した。


「殺す」


声は、思ったよりも静かだった。


背後で、ミナが息を呑む気配がした。


それでも、もう止まれなかった。


「全員、俺が殺す」


これは復讐ではない。


救済でもない。


正義ですらない。


ただの後始末だ。


勇者が生まれたせいで泣く者がいるなら。


勇者というものが、誰かの人生を奪って作られるものなら。


俺は、勇者を終わらせる。


俺自身も含めて。


朝焼けが、崩れかけた神殿を赤く染めていた。


白い石の床には、砕けた召喚陣の残骸が散らばっている。燃え残った祈りの文様が煙を上げ、割れた結晶の欠片が淡い光を失っていく。


その光景の中で、俺は歩き出した。


勇者としてではなく。


勇者を殺す、最後の勇者として。


けれど、一歩目を踏み出したところで、胸の奥が小さく痛んだ。


俺の痛みではない。


この身体に残った、ルカの痛みだった。


背後では、ミナがまだ泣いている。


兄を取り戻したわけではない。

けれど、完全に失ったとも思えない。


そんな顔で、俺を見ている。


俺は振り返らないまま、小さく呟いた。


「もう少しだけ、お兄ちゃんの身体を貸してくれ」


それは、ミナへ向けた言葉ではなかった。


この身体の奥に、まだかすかに残っているかもしれない少年へ向けた言葉だった。


返事はない。


それでも、胸の奥がほんの少しだけ熱くなった気がした。


俺は帳簿を懐にしまい、剣を握り直す。


魔王を倒した勇者は、その日から、

勇者を終わらせる、勇者殺しになった。

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