『勇者移植』魔王を倒した俺は、もう一度勇者になった。―けれど、その身体は俺のものではなかった。
魔王を倒した。
互いに最後の魔法を放ち、最後の一撃を交わした。
俺の剣は奴の心臓を、奴の剣は俺の胸を貫いた。
黒い城は崩れ、空を覆っていた瘴気は晴れ、俺の胸を貫いていた魔王の剣も、やがて消滅した。
勝ったのだと思った。
仲間たちの泣き声が聞こえた。
聖女が俺の名前を呼んでいた。
騎士団長が、震える声で「勇者よ」と叫んでいた。
ああ、終わったのだ。
俺はそう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
これで、もう誰も死ななくて済む。
これで、もう誰も泣かなくて済む。
これで、俺はようやく勇者を終えられる。
そう思っていた。
――そのはずだった。
◆
「勇者様」
声が聞こえる。
「勇者様、どうかお目覚めください」
眩しい光が、瞼の裏を焼いている。
俺は重い瞼を開く。
そこにあったのは、崩れ落ちる魔王城ではなかった。
血に濡れた玉座の間でもなく、泣き崩れる仲間たちの顔も無い。
白い石で造られた神殿。
円形に並ぶ神官たち。
床一面に刻まれた、見覚えのない魔法陣。
そして、俺を見下ろす少女が、涙を浮かべて微笑んでいた。
「よかった……成功したのですね」
俺は、息を呑んだ。
身体が動く。
痛みがない。
胸に空いていたはずの穴もない。
それどころか、手が小さかった。
指が細い。
腕が軽い。
声を出そうとして、喉の奥に引っかかった音が、自分のものではないことに気づく。
「……ここは」
俺の声ではない声で、俺は言った。
少女は両手を胸の前で組み、祈るように告げる。
「ようこそ、勇者様」
そして、続けた。
「どうか再び、世界をお救いください」
再び。
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。
俺は魔王を倒した。
俺は世界を救った。
俺は、たしかに死んだはずだった。
なのに――
◆
俺は上体を起こそうとして、身体の軽さにまた違和感を覚える。
手を床につく。指は細く、腕は頼りない。
胸を貫かれたはずの痛みはどこにもない。
だが、それ以上に気味が悪かったのは、声だった。
「……再び、とはどういう意味だ」
喉から出たのは、俺のものではない声。
まだ若い。いや、若いというより幼い。自分の声を聞いているはずなのに、知らない誰かが喋っているような感覚があった。
少女は一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げる。
年は十六か、十七ほどだろうか。
白銀の髪を肩口で揺らし、淡い青の瞳には涙の跡が残っている。
身に纏う衣は神官のものよりもずっと上等で、胸元には王家の紋章らしき刺繍があった。
「申し遅れました。私はリシェル・アルヴェイン。この国、アルヴェイン王国の第一王女です」
王女。
神殿。神官。魔法陣。そして、勇者様。
嫌なほど状況は整っていた。
「ここはどこだ。俺がいた世界とは違うのか」
「はい」
王女――リシェルは、静かに頷いた。
「ここは、貴方様がかつて救われた世界とは別の世界です」
やはり、と俺は思った。
死んだはずの俺が目を覚まし、見知らぬ神殿にいる。ならば、誰かが俺を呼んだのだろう。
勇者召喚。
かつて物語の中でだけ聞いたような奇跡が、今まさに自分の身に起きた。
だが、納得できないことが多すぎる。
「俺は、魔王を倒した」
「存じております」
「同時に俺は死んだはずだ」
「はい」
「なら、なぜ俺はここにいる」
リシェルは唇を引き結んだ。
「私たちは、貴方様の魂をお招きしました」
「魂?」
「はい。魔王を討ち、世界を救った勇者様の魂。その残滓を、この世界へと召喚したのです」
「なぜ、俺を選んだ」
「私たちが貴方様を選んだわけではありません。私たちは、魔王を討った勇者という条件で召喚陣を組みました」
「私たちが選んだのではなく、この世界が貴方様を選んだのです」
神官たちが、深く頭を垂れる。
床一面に刻まれた魔法陣は、まだ淡く光を帯びている。
複雑な円と線が幾重にも重なり、中央にいる俺を縛るように囲んでいる。
召喚陣。
そう呼ぶには、いびつだった。
俺の知る転移魔法とも、魂に干渉する禁術とも違う。術式の組み方が粗い。魔力の通り道に無駄が多く、無理やり力で押し通したような跡がある。
この世界の魔法は、随分と未熟らしい。
「勇者様、改めてお願いいたします」
「魔王の手から、もう一度世界を救ってください」
神殿の空気が重く沈む。
「三年前、北の大陸に魔族が現れました。彼らは人よりも遥かに強靭な肉体と、膨大な魔力を持っています。辺境の村は次々に焼かれ、砦は破られ、騎士団も多くを失いました」
「この世界の魔法は?」
「あります。けれど……魔族には到底敵いません」
リシェルは悔しそうに拳を握る。
「私たちの魔法は、祈りと陣に頼るものです。火を灯し、水を清め、傷を塞ぐ。それが限界でした。戦場で魔族に対抗できるほどの術は、ほとんど存在しません」
なるほど。
俺は神官たちを見回す。
彼らの魔力そのものは低くない。だが扱いが雑だ。体内で魔力を練る技術も、術式を瞬時に組み替える発想もない。
「だから、別世界から勇者を呼んだのか」
「はい」
リシェルはまっすぐに俺を見た。
「私たちには、時間がありませんでした。魔法を一から発展させる余裕も、魔族に抗う力を育てる時間もなかった。だから、すでに魔王を討った勇者様の力に縋るしかなかったのです」
縋る。
その言葉だけは、妙に正直だった。
王女は俺を利用しようとしている。
世界を救うために、もう一度戦わせようとしている。
だが、不思議と腹は立たない。
俺は一度、勇者だった。
泣いている人間を見捨てられない程度には、勇者として生きてしまった。
「俺の仲間たちはどうなった」
リシェルは目を伏せた。
「申し訳ありません。私たちが召喚できたのは、貴方様だけです」
「そうか」
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
あいつらは、俺の死を見届けたのだろうか。
聖女は泣いただろうか。
騎士団長はまた、あの不器用な顔で拳を握っただろうか。
もう会えない。
そう思うと、死んだ時よりも少しだけ苦しかった。
「では、なぜこの身体なんだ」
俺は自分の手を見下ろした。
小さな手。
魔王を斬った時の俺の手ではない。
剣を握り続け、血と傷で硬くなった手ではない。
まだ何かを奪うより、何かに縋る方が似合う手だ。
「召喚の影響です」
リシェルは答えた。
答えるには、早すぎる。
「異なる世界から魂をお招きするため、肉体はこの世界に適応する形で再構成されました。勇者様のお力は、すぐに戻ります。どうか、ご安心ください」
「再構成、か」
「はい」
俺は、黙って王女を見る。
リシェルの声は震えていない。説明も淀みない。
おそらく、何度も練習したのだろう。
そこまで考えて、俺は自分の疑念を飲み込んだ。
違和感はある。
だが、今ここで問い詰める理由はない。
少なくとも、この世界が魔王に脅かされているのは本当だ。神官たちの怯えも、王女の疲れ切った顔も、作り物には見えない。
なら、今やるべきことは一つだった。
「魔王はどこにいる」
俺がそう言うと、神殿の空気が変わった。
顔を伏せていた神官たちが、はっと俺を見る。王女の瞳に、わずかな光が戻る。
「勇者様……」
「勘違いするな」
俺は立ち上がろうとして、少しだけよろめく。
すぐに神官が手を伸ばしかけたが、俺はそれを視線で止める。
身体は軽い。筋力も足りない。だが、魔力はある。いや、ありすぎるほどあった。
この小さな身体の内側に、不自然なほど膨大な魔力が詰め込まれている。
まるで、器に見合わない量の水を無理やり流し込んだように。
その違和感にも、俺はまだ名前をつけなかった。
「俺は勇者を終えたかった」
静かに言う。
「魔王を倒して、もう誰も死ななくて済むなら、それで終わりにしたかった」
リシェルは何も言わない。
それでも。
ここにも、泣いている人間がいる。
「だが、目の前で誰かが泣いているなら、剣を取らない理由にはならない」
王女の瞳から、また涙が零れた。
今度の涙は、安堵の色が濃かった。
「ありがとうございます、勇者様」
彼女は深く頭を下げ、神官たちも一斉に膝をついた。
俺はその光景を見下ろしながら、胸の奥に残った小さな違和感を押し殺した。
そして、俺は再び勇者になった。
◆
そして俺は、魔王を倒した。
一度目よりも、ずっと早く。
一度目よりも、ずっと楽に。
この世界の魔族は、確かに強かった。
人間とは比べものにならない膂力を持ち、騎士の鎧ごと肉を裂く爪があり、城壁を砕くほどの魔力を吐き出す者もいた。
だが、ただそれだけだった。
力が強い。
魔力が多い。
身体が頑丈。
その程度の敵なら、一度目の世界で嫌というほど斬ってきた。
魔族の魔法は粗い。
魔力の流れは丸見えで、術式の組み立ても遅い。攻撃の前兆を隠すという発想すらなく、巨大な魔力をただ叩きつけてくるだけ。
こちらの世界の騎士たちからすれば、それは絶望かもしれない。
だが、俺からすれば隙だらけだった。
二度目の魔王も、同じだった。
膨大な魔力。
強靭な肉体。
空間を震わせるほどの殺意。
それでも、一度目の魔王ほど脅威ではなかった。
自らの仲間である魔族を盾にする残忍さも、勇者の仲間を人質にする狡猾さも、二度目の魔王にはない。
一度目の魔王ほど、俺の心を折ろうとはしてこなかった。
強いだけ。
ただ、それだけの王だった。
だから倒せた。
剣を突き立て、魔力の芯を断ち、黒い巨体が崩れ落ちるのを見届けた。
今回は、俺の胸を貫く剣もなかった。
仲間の泣き声もない。
命が零れていく感覚もない。
ただ、魔王が倒れた。
それだけだった。
王国の騎士たちは泣きながら歓声を上げ、神官たちは地面に額を擦りつけるように祈る。
「勇者様!」
「魔王が倒れた!」
「これで、この世界は救われた!」
その声を聞きながら、俺は剣を下ろす。
終わった。
二度目の世界でも、魔王は倒れた。
これで、もう誰も死ななくて済む。
これで、もう誰も泣かなくて済む。
今度こそ。
今度こそ、俺は勇者を終えられる。
◆
王都に戻った俺を待っていたのは、英雄の凱旋だった。
城門から王城まで続く大通りには、人が溢れ、
花びらが空を舞い、鐘が鳴り、子供たちは親の肩の上で手を振っている。
「勇者様!」
「救世主様!」
「魔王を討ってくださって、ありがとうございます!」
泣いている者がいた。
笑っている者もいた。
互いに抱き合い、膝から崩れ落ち、天に祈る者もいた。
そのすべてを見て、俺は少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
救えた。
この世界でも。
俺は誰かを救えたのだと。
王城では、凱旋の宴が開かれた。
広間には貴族や騎士、神官たちが集められ、壁には王国の旗が掲げられている。長い卓には豪奢な料理が並び、楽団が勝利を讃える音楽を奏でていた。
中央の席には国王が座り、その隣に王女リシェルがいる。
国王は痩せた男だった。
長い戦で疲れ切った顔をしている。だが、俺を見る目にははっきりとした安堵があった。
「勇者殿」
国王は立ち上がり、深く頭を下げる。
「我が国を、いや、この世界を救ってくださったこと、心より感謝する」
広間が静まり返る。
王が頭を下げるなど、本来ならありえないのだろう。貴族たちが息を呑み、神官たちが感極まったように目を伏せる。
だが俺には、どうでもよかった。
「礼はいらない」
俺は言う。
「魔王は倒した。あとは、この世界の人間でどうにかしろ」
それで終わりにしたかった。
今度こそ、勇者を終えたかった。
リシェルが静かに立ち上がる。
彼女は宴のための華やかな衣装を身に纏い、白銀の髪には宝石の髪飾りが輝き、淡い青の瞳は潤んでいる。
「勇者様」
彼女は俺の前に歩み出て、深く膝を折った。
「貴方様こそ、この世界の救世主です」
広間に集まった者たちが、一斉に膝をつく。
「救世主、か」
俺は小さく息を吐いた。
一度目の世界でも、そう呼ばれた。
勇者。
英雄。
希望。
人類最後の剣。
そんな言葉をいくら重ねられても、死んだ者は帰ってこなかった。救えなかった村は戻らなかった。仲間の傷が消えるわけでもなかった。
だから、俺はもう呼び名に意味を感じていない。
「俺は、魔王を倒しただけだ」
そう言うと、リシェルは首を横に振った。
「それでも、貴方様がいなければ、私たちは滅びていました」
「……そうか」
「はい。貴方様のおかげで、もう誰も魔王に怯えずに済みます。もう誰も、魔族に家族を奪われずに済みます」
その言葉に、俺は少しだけ視線を落とした。
もう誰も死ななくて済む。
もう誰も泣かなくて済む。
それは、俺が一度目の最後に願ったことと同じだ。
なら、これでよかったのだろう。
そう思おうとした。
その時だった。
「お兄ちゃん!」
広間の入口で、甲高い声が響いた。
祝宴の音が、一瞬だけ途切れる。
なぜか俺は振り返ってしまった。
いつもの癖のように。
兵士たちに止められながら、一人の少女が広間へ入ろうとしている。
年は十にも届かないくらいだろうか。淡い栗色の髪を乱し、安物の外套を握り締めている。頬は涙で濡れ、息は何度も詰まり、けれど視線だけは真っ直ぐに俺を捉えている。
「お兄ちゃん!」
もう一度、少女が叫ぶ。
兵士が慌てて彼女を押さえた。
「下がれ! ここは貴族と騎士のための――」
「離して!」
少女は必死に腕を振りほどこうとする。
「お兄ちゃんなんでしょ!? 帰ってきたんでしょ!?」
俺は、動けなかった。
知らない少女だった。
俺はあの子を知らない。
名前も知らない。
声も知らない。
あんなふうに呼ばれた覚えもない。
なのに。
胸の奥が、強く跳ねた。
心臓を掴まれたように痛む。
喉が詰まる。
視界の端が、かすかに滲む。
俺の感情ではない。
そう思った。
けれど、そう切り捨てるには、あまりにも痛かった。
「お兄ちゃん!」
少女は泣きながら叫ぶ。
「ねえ、なんで……なんでそんな顔するの?」
そんな顔。
俺は、自分がどんな顔をしているのか分からない。
ただ、身体が震えていた。
少女の顔を見た瞬間から、知らないはずの何かが胸の奥で暴れている。
小さな家。
木の床。
古びた椅子。
夕暮れの窓辺。
髪を結んでくれと笑う少女。
知らない。
知らないはずだ。
なのに、その笑顔だけが、胸に焼きついて離れない。
「お兄ちゃん、わたしのこと……忘れちゃったの?」
少女の声が、広間に落ちる。
その瞬間、俺の中で何かが軋んだ。
◆
記憶ではない。
少なくとも、俺の記憶ではなかった。
けれど胸の奥で、確かに何かが暴れている。
兵士が少女の腕を掴み、強引に広間の外へ連れ出そうとした。
「離して! お兄ちゃん、ねえ、お兄ちゃん!」
少女の声が震えている。
その泣き声を聞いた瞬間、身体が勝手に動く。
「触るな」
広間の空気が凍った。
自分で言っておきながら、俺はその声に驚いた。
怒りが混ざっていた。
俺の怒りではない。
もっと幼くて、もっと切実で、もっと近い場所から湧き上がってくる怒りだった。
兵士の手が止まる。
「ゆ、勇者様……?」
「その子から手を離せ」
俺はゆっくりと立ち上がる。
椅子が床を擦る音が、やけに大きく響く。
少女は涙に濡れた顔で俺を見ていた。
「お兄ちゃん……」
違う。
俺は、お前の兄じゃない。
そう言おうとした。
けれど、喉が動かなかった。
代わりに、胸の奥で知らない名前が浮かぶ。
ミナ。
誰だ。
俺はその名前を知らない。
知らないはずなのに、目の前の少女を見た瞬間、その名前だけがひどく自然に胸へ落ちてきた。
「……ミナ」
気づけば、俺はそう呟いていた。
少女の目が大きく見開かれる。
「やっぱり……!」
その顔が、くしゃりと歪んだ。
「やっぱり、お兄ちゃんなんだ……!」
違う。
違うはずだ。
俺は勇者だ。
魔王を倒した。
かつての俺に妹はいない。
それは確実だ。
そして別の世界から召喚された。
この世界を救うために、もう一度呼ばれた。
そう説明された。
そう納得した。
なのに、なぜ。
どうして俺は、あの子の名前を知っている。
広間のざわめきが遠のいていく。
俺はゆっくりとリシェルを見た。
王女は、青ざめていた。
さっきまで救世主を讃えていた顔ではない。
魔王が倒れたことに安堵していた顔でもない。
見つかってはいけないものを見つかった人間の顔だった。
その瞬間、胸の奥に沈めていた違和感が、はっきりと形を持った。
小さな手。
幼い声。
器に見合わない魔力。
答えるには早すぎた「再構成」という説明。
そして、泣きながら俺を兄と呼ぶ少女。
俺はリシェルに向かって歩き出した。
誰も止めなかった。
止められる者など、この場にはいない。
「リシェル」
俺が名を呼ぶと、王女の肩が小さく跳ねた。
「はい……勇者様」
「話がある」
「今は、祝宴の最中です。民も、皆、貴方様を――」
「話がある」
今度は、魔力を込め、同じ言葉を繰り返す。
広間の燭台が一斉に揺れ、楽団の弦がかすかに鳴る。膝をついていた貴族たちが息を呑み、神官たちが顔を伏せた。
リシェルは、もう微笑まなかった。
「……分かりました」
その声は、ひどく小さかった。
俺は少女――ミナを一度だけ見た。
泣いている。
まだ泣いている。
俺を見て、兄を見て、帰ってきたと信じて、泣いている。
俺は、もう誰も泣かなくて済む世界を目指したはずだった。
魔王を倒せば。
戦いを終わらせれば。
勇者を終えれば。
そうすれば、誰かの涙は止まるのだと信じていた。
なのに。
どうして俺が、妹を泣かせている。
その答えを聞くために、俺は王女の後を追った。
◆
案内されたのは、宴の広間から離れた小さな応接室だった。
王城の中にある部屋にしては、飾り気が少ない。
重厚な机と椅子。壁際に置かれた本棚。窓には厚いカーテンが引かれ、外の祝祭の音は遠く、ぼんやりとしか届かない。
さっきまで、城中が俺を讃えていた。
魔王を倒した勇者。
世界を救った救世主。
再び現れた希望。
その言葉が、今はひどく遠い。
部屋に入ると、リシェルは扉の前で足を止めた。
「人払いを」
俺が言うより先に、リシェルが控えていた騎士へ命じる。
騎士は一瞬だけ迷うように俺を見たが、すぐに頭を下げた。
「……承知しました」
扉が閉まる。
部屋には、俺とリシェルだけが残された。
しばらく、誰も喋らなかった。
リシェルは窓際に立ったまま、こちらを見ようとしない。
さっきまで広間で膝を折り、俺を救世主と呼んでいた王女。
だが今、その横顔には安堵も喜びもない。
あるのは、怯えだった。
「答えろ」
「さっきの子は誰だ」
リシェルの肩が、ほんのわずかに震える。
「……存じ上げません」
「嘘だな」
「本当に、私は――」
「なら、なぜ目を逸らした」
リシェルは黙り込む。
だから俺は一歩近づく。
床に敷かれた絨毯が、足音を吸い込む。
「俺はあの子を知らない」
自分にそう言い聞かせるように、俺は言った。
「名前も知らない。会ったこともない。あんなふうに呼ばれた覚えもない」
なのに。
ミナ。
その名前だけが、まだ胸の奥に残っている。
口がその単語を覚えている。
まるでずっと前から知っていたみたいに。
まるで、何度も何度も呼んできた名前みたいに。
「どうして俺は、あの子の名前を知っている」
リシェルは答えない。
「この身体は、誰のものだ」
静かな問いに対して、リシェルは息を呑む。
その反応だけで十分だった。
「……召喚の影響です」
「またそれか」
「勇者様の魂をこの世界に定着させるため、肉体がこの世界に適応した。それだけです」
同じ説明。
淀みのない声。
何度も練習したような言葉。
俺は、短く息を吐く。
「そうか」
俺は右手を上げた。
リシェルが怪訝そうにこちらを見る。
「なら、嘘をつけないようにしてから聞く」
「……え?」
俺は指先に魔力を集めた。
この世界の魔法ではない。
祈りでも、陣でも、奇跡でもない。
一度目の世界で、魔族の偽装を暴くために使っていた真実の魔法。
魔力を糸のように伸ばし、床へ走らせる。
青白い光が絨毯の下へ染み込み、石床に魔法陣を刻んだ。
円。
文字。
束縛。
証明。
そのすべてを、呼吸ひとつの間に組み上げる。
リシェルはみるみる青ざめる。
「お待ちください、勇者様。それは……」
「知っているのか」
「いえ、ですが…」
「知らないなら黙っていろ」
魔法陣が完成する。
淡い光がリシェルの足元から立ち上がり、細い鎖のように彼女の身体へ絡みついた。
肉体を縛る魔法ではない。
舌を切る魔法でもない。
ただ、言葉と心の間に生じる歪みを許さない魔法。
「答えろ」
俺はもう一度問う。
「この身体は、誰のものだ」
リシェルの唇が震えた。
彼女は何かを言おうとする。
だが声にならない。
喉元に手を当て、苦しげに息を吸う。
目に涙が浮かぶ。
それでも、魔法は許さない。
やがてリシェルは、観念したように目を伏せた。
「……ルカ」
その名が、部屋に落ちた瞬間。
胸の奥で、何かが跳ねた。
「ルカ・エルネスト」
リシェルは続ける。
「王都の外れに住んでいた、魔力適性の高い少年です」
ルカ。
その名を聞いた瞬間、脳裏に知らない景色が弾ける。
狭い家。
薪の匂い。
擦り切れた上着。
小さな手で裾を掴む少女。
――お兄ちゃん。
違う。
俺の記憶ではない。
なのに、胸が痛む。
「俺は召喚されたんじゃないのか」
リシェルは答えない。
「答えろ」
魔法陣の光が強まる。
リシェルは唇を噛み、けれど嘘は吐けなかった。
「……貴方様を、肉体ごと召喚することはできませんでした」
「なら、何を呼んだ」
「魂の残滓と、記憶です」
リシェルの声は震えていた。
「魔王を倒した勇者の魂の残滓。戦いの記憶。魔法の知識。剣の技術。勇者として積み上げたすべてを、この世界へ引き寄せました」
「それを、どうした」
「器に、定着させました」
「器?」
俺の声が、自分でも分かるほど低くなるのがわかる。
そしてリシェルは小さく頷いた。
「ルカ・エルネストの人格を、勇者様の記憶で上書きしました」
部屋の空気が、止まった気がした。
上書き。
その言葉の意味を、理解したくなかった。
「上書き、だと」
「はい」
「人格を、消したのか」
「完全に消えたわけではありません」
リシェルは慌てるように言う。
けれど、それも嘘ではないのだろう。
魔法は彼女の喉を止めない。
「人格の残滓は、肉体の奥に残る場合があります。先ほどの少女に反応したのは、おそらくその影響です」
「残る場合がある?」
「はい」
「なら、戻せるのか」
リシェルは沈黙した。
俺は一歩近づく。
「戻せるのかと聞いている」
「……戻せません」
答えは、小さかった。
だが、はっきりと聞こえた。
「勇者様の記憶を定着させた時点で、元の人格は崩れています。仮に勇者様の記憶を取り除いても、ルカ・エルネストは元には戻りません」
何かが、胸の奥で冷えていく。
怒りではない。
まだ、怒りではなかった。
理解が、ゆっくりと遅れてやってくる。
この身体には、元の持ち主がいた。
ルカという少年がいた。
妹がいた。
帰る家があった。
名前を呼んでくれる誰かがいた。
そのすべての上に、俺がいる。
勇者である俺が、少年を殺した。
聖女は泣くだろうか。
騎士団長は、思い切り頬を叩いてくれるだろうか。
「俺が……ルカを殺したのか」
「違います!」
リシェルが初めて声を荒げた。
「貴方様が殺したのではありません!」
「なら誰だ」
リシェルは、何も言えなかった。
魔法陣の光が、彼女の沈黙を照らしている。
「誰が、この子を殺した」
俺が問う。
リシェルは震えながら、胸元を握り締めた。
「……私です」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「私が、ルカ・エルネストを器に選びました。私が、勇者召喚の儀式を執り行いました。私が、彼の人格を塗り潰しました」
王女は、泣いていた。
けれど、その涙に縋る気にはなれなかった。
「なぜルカだった」
「魔力適性が高かったからです」
「それだけか」
「年齢、精神の柔軟性、魂の定着率。条件を満たす者は、多くありませんでした」
「まるで材料だな」
リシェルの顔が歪む。
「材料ではありません」
「違うのか」
「違います」
「なら、何だ」
リシェルは答えられなかった。
魔法陣が、嘘も誤魔化しも許さない。
答えられないということが、答えだった。
俺は自分の胸に手を当てた。
小さな身体。
細い腕。
まだ成長しきっていない骨格。
この身体は、ルカのものだった。
魔王を倒した勇者の身体ではない。
妹に髪を結んでやる約束をしていた、どこにでもいる少年のものだった。
「魔力はどうした」
俺は低く問う。
「この身体には、不自然なほど魔力がある。ルカ一人のものじゃない」
リシェルの顔から、さらに血の気が引いた。
「答えろ」
「……ルカの魔力だけでは、勇者様の魔法に耐えられませんでした」
「それで?」
「勇者様の記憶を定着させても、魔法を発動できなければ意味がありません。魔族を倒す力がなければ、この世界は救えない」
「それで、どうした」
リシェルは唇を震わせる。
「魔力適性の高い子供たちを、集めました」
部屋の外から、遠い祝祭の音が聞こえる。
誰かが笑っている。
誰かが歌っている。
魔王が倒れたことを、世界が喜んでいる。
その音が、今はひどく不快だった。
「集めて、どうした」
俺は聞く。
答えは分かっていた。
分かっていたのに、聞かずにはいられなかった。
「その子供たちから、魔力を抽出しました」
リシェルの声が震える。
「抽出した魔力を結晶化し、ルカの身体へ流し込みました。器の強度を上げ、勇者様の魔法に耐えられるようにするためです」
「子供たちは」
リシェルは目を閉じた。
「多くは、耐えられませんでした」
「死んだのか」
「……はい」
短い返事だった。
だが、その一音で十分だった。
「何人だ」
「今回の召喚で、三十七人」
三十七。
数字が、あまりにもあっさりと出てきた。
三十七人。
三十七人の子供。
その一人一人に名前があったはずだ。
家族がいたはずだ。
兄はいるだろうか。
笑い方があったはずだ。
嫌いな食べ物や、好きな遊びや、帰りたい場所があったはずだ。
そのすべてが、俺を動かす燃料にされたのだ。
「……三十七人」
俺は呟く。
それでも、それでもと、リシェルは泣きながら言った。
「それでも、この世界は救われました」
俺は顔を上げる。
王女は震えていた。
けれど、その瞳の奥にあるものは、後悔だけではなかった。
確信。
自分は間違っていないという、どうしようもない確信。
「魔王を倒せなければ、もっと多くの子供が死んでいました。もっと多くの母親が泣いていました。国は滅び、人々は魔族に蹂躙されていた」
リシェルは涙を拭わず、俺を見た。
「だから、必要でした」
「必要」
「はい」
彼女は頷く。
「ルカも、犠牲になった子供たちも、無意味に死んだのではありません。貴方様をお招きし、この世界を救うための礎となったのです」
礎。
その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。
怒鳴りはしなかった。
剣も抜かなかった。
ただ、胸の奥が冷たく澄んでいく。
「リシェル」
「はい」
「お前は、俺を勇者と呼んだな」
「はい。貴方様は、この世界を救った勇者です」
「違う」
俺は首を横に振った。
「俺は、ルカを潰して作られたものだ」
リシェルの顔が歪む。
「そんな言い方をなさらないでください」
「子供三十七人の魔力で動く、勇者の記憶だ」
「違います!」
「何が違う」
「貴方様は世界を救いました!」
リシェルの叫びが、部屋に響いた。
「貴方様がいなければ、私たちは滅んでいました! ルカ一人を救っても、この世界は救えなかった! 三十七人の子供を守っても、その何百倍もの命が失われていた!」
「だから、正しいのか」
「正しかったと、信じています」
嘘ではなかった。
魔法陣は、彼女の言葉を止めなかった。
リシェルは本気でそう信じている。
自分は世界を救った。
必要な犠牲だった。
子供たちの死は、無意味ではなかった。
その確信が、何よりも救いようがなかった。
俺は一度、目を閉じた。
魔王を倒した。
一度目の世界で、俺は確かにそうした。
これで、もう誰も死ななくて済む。
これで、もう誰も泣かなくて済む。
そう願って、死んだ。
二度目の世界でも、魔王を倒した。
同じように願った。
これで、もう誰も死ななくて済む。
これで、もう誰も泣かなくて済む。
そう思った。
なのに。
広間には、泣いている少女がいた。
ミナ。
ルカの妹。
俺を兄と呼び、帰ってきたのだと信じて、泣いていた。
「俺は」
声が、かすかに掠れた。
「もう誰も泣かなくて済む世界を、目指したはずだった」
リシェルは何も言わない。
「魔王を倒せば。戦いを終わらせれば。勇者を終えれば。そうすれば、誰かの涙は止まるのだと信じていた」
俺は自分の胸を押さえた。
そこには、ルカの心臓がある。
俺のものではない鼓動が、まだ動いている。
「なのに」
喉の奥が焼ける。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。
「どうして俺が、妹を泣かせている」
リシェルの顔が、くしゃりと歪んだ。
「勇者様……」
「その名で呼ぶな」
声は静かだった。
けれど、リシェルはびくりと身体を震わせた。
「俺は勇者じゃない」
俺はゆっくりと剣の柄に手をかける。
「少なくとも、この世界にとっては違う」
「お待ちください」
リシェルは一歩後ずさった。
けれど、逃げようとはしなかった。
「貴方様が私を憎むのは当然です。ルカのことも、子供たちのことも、私は背負うつもりでした。ですが、どうか考えてください。この世界には、まだ貴方様が必要なのです」
「魔王は倒した」
「魔王が倒れても、世界はすぐには平和になりません。魔族の残党がいます。国境の混乱もあります。貴方様の力があれば、もっと多くの人々を救えます」
「そのために、また妹を泣かせるのか」
リシェルは言葉を失った。
「必要な犠牲だと言って」
俺は剣を抜いた。
刃が、燭台の光を受けて鈍く光る。
「子供を殺して」
一歩、近づく。
「家族を泣かせて」
もう一歩。
「それでも世界は救われたと胸を張るのか」
リシェルは涙を流しながら、それでも俺を見つめていた。
「はい」
答えは、小さかった。
けれど、確かだった。
「私は、間違っていたとは言えません」
「そうか」
俺は頷いた。
不思議と、怒りはなかった。
少なくとも、表に出るほどの熱はもう残っていなかった。
ただ、決まっただけだ。
「なら、お前が救った世界に、俺はいらない」
リシェルの瞳が揺れる。
「勇者様」
最後まで、彼女は俺をそう呼んだ。
だから俺は、彼女をその呼び名ごと斬った。
◆
刃が、肉を断つ感触を残した。
リシェルの身体が、ゆっくりと傾く。
白銀の髪が燭台の光を受けて揺れ、華やかな衣装の胸元に赤が広がっていく。
王女は倒れなかった。
倒れる直前、俺がその身体を支えたからだ。
理由は分からない。
憎かったはずだ。
許せなかったはずだ。
今でも、許すつもりなどない。
それでも、床に叩きつける気にはなれなかった。
リシェルは俺の腕の中で、かすかに唇を動かした。
「……勇者、様」
「その名で呼ぶなと言った」
「ごめん、なさい」
謝罪。
それが何に対するものだったのかは、分からない。
俺にか。
ルカにか。
三十七人の子供たちにか。
それとも、最後まで自分を正しいと信じたまま死ぬことに対してか。
リシェルの瞳から、光が消えていく。
それでも彼女は、最後まで俺を見ていた。
「世界、を……」
救ってください。
そう続けようとしたのだろう。
リシェル・アルヴェインは、俺の腕の中で息絶えた。
部屋の外から、祝祭の音が聞こえる。
鐘の音。
楽の音。
人々の笑い声。
魔王が倒れたことを、世界中が喜んでいる。
そのすぐ裏で、この世界を救った王女が死んだ。
俺が殺した。
「……そうか」
俺は小さく呟いた。
これが、二度目の勇者の終わりか。
リシェルの身体を床に横たえる。
その顔は、妙に穏やかだった。
間違っていたとは言えない。
彼女は最後にそう言った。
きっと本心だったのだろう。
魔法は嘘を許さなかった。
だから、あれは彼女の真実だった。
ならば。
俺も、俺の真実を通すしかない。
俺は剣についた血を払った。
同時に、扉の向こうが騒がしくなる。
「リシェル殿下?」
控えていた騎士の声。
「殿下、いかがなさいましたか」
扉が開く。
騎士が一人、部屋の中を覗き込む。
そして、床に倒れたリシェルを見た。
「でん、か……?」
彼の声が震える。
次の瞬間、顔色が変わった。
「貴様――!」
剣を抜こうとした騎士の喉元に、俺の剣先が触れていた。
抜くよりも、叫ぶよりも早く。
騎士は息を呑む。
「邪魔をするな」
俺は言った。
「今すぐ全員を下がらせろ」
「き、貴様、自分が何をしたのか分かっているのか! リシェル殿下を、この国の王女を――!」
「分かっている」
王女を殺した。
世界を救った人間を殺した。
この国からすれば、俺は魔王を倒した勇者であると同時に、王女殺しの罪人になった。
それくらいは分かっている。
「ならば――!」
「分かっていて、やった」
騎士の言葉が止まる。
騎士は震える手を下ろし、後ろにいた者たちへ叫んだ。
「下がれ! 全員、下がれ!」
廊下の騒めきが広がっていく。
誰かが悲鳴を上げた。
誰かがリシェルの名を呼んだ。
遠くで鎧の音が連なる。
だが、すぐに俺を止められる者はいない。
魔王を倒した勇者を、今すぐこの場で止められる者など、この城にはいない。。
俺は応接室を出た。
廊下には騎士たちが並んでいる。
誰もが剣に手をかけていた。
誰もが俺を見ていた。
魔王を討った英雄を見る目ではない。
化け物を見る目だった。
それでいい。
俺は、そういうものになった。
「召喚陣はどこだ」
俺が問うと、誰も答えなかった。
だから、俺は近くにいた神官を見た。
神官は膝を震わせながら、壁際に立っている。
「お前は知っているな」
「わ、私は……」
「答えろ」
魔力を込める。
それだけで、神官は膝から崩れ落ちた。
「し、神殿です! 王城地下の神殿に……!」
「案内しろ」
「は、はい……!」
神官は這うように立ち上がる。
誰もが、もう俺の名を呼ばなかった。
ついさっきまで、あれほど勇者様と叫んでいたのに。
不思議と、少しだけ楽だった。
石壁には祈りの文様が刻まれ、等間隔に青白い灯火が揺れている。階段を下るたびに、濃い魔力の匂いが強くなる。
知っている。
この匂いを、俺は知っている。
血ではない。
腐臭でもない。
だが、それに近い。
神官が扉の前で止まる。
「こ、こちらです……」
そこは、俺が目覚めた神殿だった。
白い石で造られた空間。
円形に並ぶ柱。
床一面に刻まれた、いびつな魔法陣。
俺はゆっくりと中央へ歩いた。
ここで目を覚ました。
勇者様と呼ばれた。
世界を救ってくれと縋られた。
そして、ルカという少年の人生はここで塗り潰された。
三十七人の子供の魔力が、ここで俺の中へ流し込まれた。
「……よくもまあ」
吐き気がする。
俺は剣を握り直した。
すると、神官が背後で叫んだ。
「お、お待ちください! その陣は、この世界の希望です! 勇者召喚の奇跡は、まだ――」
「奇跡?」
俺は振り返った。
神官は、ひっと息を呑む。
「これを奇跡と呼ぶのか」
床の魔法陣を剣先で示す。
「子供を潰して、魂の残滓を貼りつけて、誰かの人生を塗り潰す。この汚い術を、お前たちは奇跡と呼ぶのか」
神官は答えられなかった。
答えられないなら、十分だ。
俺は剣に魔力を通した。
白い炎が刃に宿る。
一度目の世界で魔王を焼いた炎。
二度目の世界で魔王を断った炎。
この世界が、子供たちを犠牲にしてまで欲しがった勇者の魔法。
その力を、俺は床へ向けた。
「なら、奇跡ごと終わらせる」
剣を振り下ろす。
白い石の床が砕けた。
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。
「その陣がなければ、次の魔王が現れた時に――!」
「次の勇者を作るのか」
俺は二撃目を振るった。
柱が斜めに裂ける。
刻まれていた術式が燃え上がり、黒い煙を上げて崩れた。
「次は何人の子供を殺す」
三撃目。
魔力を蓄えていた結晶が砕ける。
中から溢れた青白い光が、悲鳴のように天井へ散った。
「次は誰の兄を奪う」
四撃目。
祭壇が割れる。
そこに置かれていた銀の器が床に転がり、乾いた音を立てた。
「また次の勇者を人殺しにするのか」
神官たちは、もう何も言わなかった。
ただ、崩れていく神殿を見ていた。
俺は止まらなかった。
召喚陣を砕く。
柱を斬る。
術式を焼く。
魔力結晶を割る。
記録の棚を倒し、儀式の手順が書かれた羊皮紙を炎に放り込む。
この世界が勇者を作るために積み上げてきたものを、一つずつ壊していく。
それは魔王を倒すよりも簡単だった。
そして、魔王を倒すよりもずっと重かった。
やがて、神殿の奥に置かれた一冊の厚い帳簿を見つけた。
表紙には、ただ一言。
《器及び供物名簿》
俺はしばらく、その文字を見つめた。
名前が並んでいる。
ルカ・エルネスト。
その名の横には、器、と記されている。
ミナの兄。
小さな家に帰るはずだった少年。
髪を結ぶ約束をしていた少年。
その下には、さらに三十七人の名前があった。
年齢。
魔力値。
抽出量。
生存可否。
生存可否。
俺は奥歯を噛み締めた。
この帳簿を燃やせば、少しは楽になれたかもしれない。
けれど、できなかった。
ここに書かれた名前まで消してしまえば、この子たちは本当に材料でしかなくなる。
俺は帳簿を閉じ、懐にしまった。
「これは持っていく」
誰に言うでもなく、そう告げた。
その時、崩れかけた神殿の奥に、さらに扉があることに気づいた。
白い鉄でできた扉。
祈りの言葉が刻まれている。
鍵はかかっていた。
だから斬った。
白い鉄の扉が音を立てて割れ、奥の空間が露わになる。
そこに並んでいたのは、棺ではなかった。
記録だった。
壁一面に刻まれた文字。
棚に収められた帳簿。
名前の下に並ぶ、冷たい項目。
《剣聖召喚・成功》
《聖女召喚・成功》
《賢者召喚・成功》
俺は、しばらく文字から目を離せなかった。
成功。
その二文字が、ひどく軽かった。
それぞれの記録の下には、別の名が刻まれている。
器となった子供の名前。
捧げられた子供の人数。
定着率。
人格残滓の有無。
運用可能時間。
俺だけではなかった。
ルカだけではなかった。
この世界は、すでに何度も同じことをしていた。
それぞれが、誰かの子供を器にして作られた勇者だった。
ここに召喚された勇者が俺だけとは限らない。
そして、勇者が俺と同じ様に再び魔王を討つとは限らない。
二度目の生を、魔王討伐という苦行に費やす必要だって無い。
召喚された勇者は、まだどこかで生きているのだろうか。
俺は壁に手をついた。
指先が、石に刻まれた文字をなぞる。
人格残滓、有。
その文字が、やけにはっきりと目に入った。
残っている。
彼らの中にも、まだ誰かが残っているかもしれない。
妹を見て胸が痛んだ俺のように。
ミナの名前を知っていた俺のように。
消えきれなかった誰かが、まだ身体の奥で泣いているのかもしれない。
「……お兄ちゃん?」
背後で、少女の声がした。
俺は振り返らなかった。
いつの間に来たのか。
ミナが神殿の入口に立っていた。
兵士に止められたのだろう。
涙で顔を濡らしたまま、息を切らしている。
その小さな身体で、ここまで追いかけてきたのか。
「お兄ちゃん、なの……?」
その声に、また胸が痛んだ。
俺の痛みではない。
そう思いたかった。
けれど、もう分からなかった。
俺は勇者だった。
魔王を倒した。
世界を救った。
もう誰も死ななくて済むように。
もう誰も泣かなくて済むように。
そのはずだった。
なのに、この世界では救いの名で子供が殺されている。
希望の名で誰かの人生が潰されている。
勇者という言葉の下で、家族が泣いている。
なら、終わらせるしかない。
王女を斬った。
召喚陣を砕いた。
神殿を焼いた。
それでも足りない。
まだ勇者がいる。
誰かの身体を奪い、誰かの記憶を消し、誰かの家族を泣かせて立っている勇者たちが、まだこの世界に残っている。
俺は剣を握り直した。
「殺す」
声は、思ったよりも静かだった。
背後で、ミナが息を呑む気配がした。
それでも、もう止まれなかった。
「全員、俺が殺す」
これは復讐ではない。
救済でもない。
正義ですらない。
ただの後始末だ。
勇者が生まれたせいで泣く者がいるなら。
勇者というものが、誰かの人生を奪って作られるものなら。
俺は、勇者を終わらせる。
俺自身も含めて。
朝焼けが、崩れかけた神殿を赤く染めていた。
白い石の床には、砕けた召喚陣の残骸が散らばっている。燃え残った祈りの文様が煙を上げ、割れた結晶の欠片が淡い光を失っていく。
その光景の中で、俺は歩き出した。
勇者としてではなく。
勇者を殺す、最後の勇者として。
けれど、一歩目を踏み出したところで、胸の奥が小さく痛んだ。
俺の痛みではない。
この身体に残った、ルカの痛みだった。
背後では、ミナがまだ泣いている。
兄を取り戻したわけではない。
けれど、完全に失ったとも思えない。
そんな顔で、俺を見ている。
俺は振り返らないまま、小さく呟いた。
「もう少しだけ、お兄ちゃんの身体を貸してくれ」
それは、ミナへ向けた言葉ではなかった。
この身体の奥に、まだかすかに残っているかもしれない少年へ向けた言葉だった。
返事はない。
それでも、胸の奥がほんの少しだけ熱くなった気がした。
俺は帳簿を懐にしまい、剣を握り直す。
魔王を倒した勇者は、その日から、
勇者を終わらせる、勇者殺しになった。
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