第061話 エピローグ 愛されない令嬢の黒字国
新王都とミオラを結ぶ街道には、春の馬車が絶えなくなった。
かつて御者が引き返した落ち橋には、新しい石橋が架かっている。橋のたもとには小さな掲示板があり、通行料、修繕費、先月の通行台数、次の補修予定が、子どもにも読める大きな字で書かれていた。
王都の貴族は最初、それを田舎の奇習だと笑った。
けれど、笑いながら馬車を止めた商人が数字を読み、次の荷をどこへ送るべきか考え始めると、もう笑い声は消えた。
数字は、使う者の身分を選ばない。
ユリアナ・レイスは、橋の上で馬車を降りた。
王妃の外套はまだ肩に重い。金糸の刺繍も、王家の紋章も、彼女の好みから言えば少し派手すぎる。だが、その内側のポケットには、今も小さな計算板と、ミオラ式の鉛筆が入っている。
「王妃陛下が自分で橋の掲示を直すのは、儀典官が泣くと思う」
隣でカイゼルが言った。
今は国王となった男だ。黒い外套の旅人だったころより服は立派になったが、笑う時の目元は変わらない。
「数字が一桁ずれていました」
「一桁くらい」
「一桁で国は傾きます」
「知っている。だから君を王妃にした」
「契約書では、共同統治補佐兼監査院総裁です」
「そこに妻も入っている」
「別紙です」
カイゼルは声を立てて笑った。
王宮でその笑いを聞けば、重臣たちは驚くだろう。だがミオラの橋の上では、通りがかった荷馬車の少年が手を振り、魚売りの女が「おかえり」と叫ぶだけだった。
おかえり。
その言葉を聞くたび、ユリアナは胸の奥が少しだけ痛む。
王都で婚約破棄された夜、彼女には帰る場所がないと思っていた。実家は借金に縛られ、王宮は敵になり、社交界は噂を楽しむ観客だった。
それなのに今、ミオラには彼女を待つ人がいる。
待たれることは、愛されることより少しだけ実務的で、ずっと確かだ。
港へ着くと、鐘が鳴った。
新しい桟橋には北方の毛織物、南方の香辛料、隣国からの亡命商人の家具、ミオラの干し魚と保存スープが積まれている。荷役の子どもたちは番号札を読み上げ、ノアはその中央で台帳を抱えていた。
「遅い、ユリアナさん。新しい監査院の書式、こっちにも回してよ」
「王妃に向かってその口の利き方は」
ミナが注意しかけ、ユリアナは手で制した。
「いいの。ノアの方が正しい時は多いから」
「そこは叱ってください」
「叱る欄は別紙よ」
ノアは得意げに笑った。
かつて計量石を盗んだと疑われた少年は、今では港湾監査班の若い責任者だ。字は相変わらず少し曲がっているが、数字の読みは誰より速い。彼の後ろでは、マルタ先生が新入りの子どもたちに読み書きを教えている。
ミナは、港通りに小さな店を開いた。
表向きは茶と軽食の店だが、奥の棚には旅人用の契約符、簡易台帳、雨に強い荷札が並ぶ。客はそれを「ミナ印の逃げない紙」と呼ぶ。
本人は嫌がっているが、評判はいい。
「お嬢様」
「今は王妃よ」
「私にとっては、いつまでもお嬢様です」
ミナはそう言って、湯気の立つ杯を差し出した。
中には、豆と麦を煮た懐かしいスープが入っている。ミオラに来た最初の朝、領主館前で配ったものより、ずっと具が多い。
「味が変わったわね」
「町が黒字ですので」
「黒字の味」
「はい。少しだけ贅沢です」
ユリアナは杯を受け取り、ゆっくり飲んだ。
塩気、麦の甘み、豆の柔らかさ。前世で徹夜明けに飲んだ味噌汁とは違う。それでも、冷えた体を内側から戻してくれる感覚は似ていた。
港の広場には、公開監査の掲示が出ている。
今月の港湾収入。
治癒院への支出。
子ども食堂の利用者数。
橋と水路の修繕予定。
王国救済基金への拠出額。
かつて赤字だらけだった行は、今では黒と青の数字で埋まっていた。ただし、ユリアナは黒字という言葉を軽く使わない。
黒字は、勝利の飾りではない。
次に困る人を助けるための余力だ。
「エルネスト殿下の処分が確定したそうです」
ユーディン監査官が近づいてきた。
彼は王都から戻ったばかりで、外套にはまだ馬車の埃がついている。
「殿下ではなく、エルネスト卿です」カイゼルが静かに訂正した。
「失礼しました。エルネスト卿は、王家の保護を離れ、北方修道院で財務教育と労役に就くことになります。ブリジット・ラナは隠し資産の返還後、社交資格を永久停止。横領に関わった商会は解散、関係者は監査院で再調査中です」
ミナが鼻を鳴らした。
「もっと厳しくてもよかったのでは」
「厳しくしたわ」ユリアナは言った。「ただし、私怨ではなく、再発防止の形で」
「お嬢様らしいです」
「甘い?」
「いいえ。逃げ道がない処分です」
その通りだった。
死や追放は物語として派手だ。だが、奪った金を返し、壊した制度を直すために働き、毎月の監査で名前を読み上げられる方が、彼らにはずっと重い。
ユリアナは復讐のために帳簿を開いたのではない。
もう二度と、誰かの浪費が別の誰かの空腹に変わらないようにするために開いた。
夕方、港に灯りがともった。
ジゼルの焼いた黒パンが売れ、ガルムは門番ではなく街道警備隊長として子どもたちに槍の持ち方を教えている。リリアの治癒院には薬草棚が増え、アデルの竜騎士団は保存スープを正式な軍用食として採用した。
それぞれの仕事が、別々の場所で続いている。
ユリアナはそれを見るのが好きだった。
自分がいなくても回る仕組み。
自分が疲れて眠っても、誰かが困った時に手を伸ばせる制度。
それこそが、彼女が前世で作れなかったものだ。
「疲れた?」
カイゼルが尋ねた。
「少し」
「休む?」
「休みます。明日の朝、監査院の会議が終わったら」
「それは休むと言わない」
「では、今夜は台帳を一冊だけにします」
「一冊も多い」
彼はユリアナの手から台帳を取り上げようとして、失敗した。
ユリアナは笑って避ける。
その瞬間、視界の端で透明な帳簿が開いた。
赤ではない。
黒でも、金でもない。
真っ白な頁だった。
最初の夜、その帳簿には王国全体の支払不能が記されていた。あれから一年。赤い行は消えていない。国にはまだ借金があり、争いもあり、明日になれば新しい問題が届くだろう。
けれど、白い頁は絶望ではなかった。
余白だ。
次に何を書くかを、自分たちで選べる余白。
ユリアナはペンを取り、最初の行に小さく書いた。
愛されない帳簿係だった私へ。
そこまで書いて、少し迷う。
カイゼルが黙って隣に立った。ミナが店先から見守り、ノアが遠くで荷札を読み上げ、町の鐘が夕暮れを知らせる。
ユリアナは続きを書いた。
あなたはもう、誰かの赤字を背負うだけの人ではありません。
あなたの数字は、人を守れます。
潮風が頁をめくる。
新しい空白が現れる。
ユリアナは笑った。
「では、次の黒字を作りましょう」
ミオラの灯りが、春の海に長く伸びていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。ユリアナとミオラの物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。




