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第一章 尾道

 尾道の坂は東京の坂とはちがう。東京の坂は道のついでに傾いているが、ここの坂はもともと坂であることを選んでいる。石畳は雨にぬれてほのかに光り、どこかの軒先から垂れ下がった干し柿が風にゆれていた。杉本慎也は自転車を押しながら、その坂のひとつひとつの段差に足をとられた。サドルバッグが左右に揺れるたびに、中のものが鈍い音を立てた。着替えが三日分、小さなノート、消えかけのボールペン、そして読み終えたはずの文庫本が一冊。それだけだった。

 三十二歳にしては、荷物が少なすぎた。

 けれど慎也には、もうそれ以上運べるものがなかった。

 ロードバイクを選んだのは、乗り物の中でもっとも言い訳のきかない乗り物だからだ。車には屋根があり、電車には窓があり、バスには他の乗客がいる。自転車だけが、外の空気をそのまま体に当てながら走る。誤魔化しが利かない。それがよかった。少なくとも出発の朝には、そう思っていた。

 尾道駅から徒歩十分ほどのビジネスホテルに荷物を置き、慎也は坂の町に出た。特に目的はなかった。目的があって来た旅ではなかったから。

 目的がないというのは、正確ではないかもしれない。

 ポケットの中に一通の封筒がある。それが目的といえば目的だった。ただし、どう向き合えばいいのかが、まだわからなかった。

 坂の上から港が見えた。瀬戸内海は、絵葉書のような光を散らしていた。対岸の向島の山並みがぼんやりとかすんで、現実というより水彩画の背景のように見えた。渡し船が白い航跡を引きながらゆっくりと進んでいた。その小ささが、なぜか慎也の胸を締めつけた。

 何も始まらなさそうな町だ、と思った。

 悪口のつもりではなかった。むしろその逆だった。何も始まらなそうだから、ここに来たのだ。


 商店街のアーケードをくぐると、空気がすこし変わった。外の明るさから急に薄暗がりに入ると、目が慣れるまでのあいだ、世界の輪郭がぼやける。慎也はその感覚が嫌いではなかった。もっとも、最近は何かを好きかどうかということ自体、よくわからなくなっていたが。

 シャッターの下りた店が多かった。元は何屋だったのか判然としない建物が連なり、ときおりその隙間から現役の店が顔を出した。金物屋、瓦屋根の居酒屋、昼間から暖簾を出した小料理屋。錆びた金属の看板が低い位置に取り付けられていて、目を向けると昭和の文字が読めた。ある看板は三分の二ほど文字が消え、残りの一文字だけが無意味に残っていた。「薬」とだけ書かれた看板。文脈を失っても、そこに在り続けるものがある。

 猫がいた。

 黒と白のぶちの猫が、閉まった蒲鉾屋の軒先で寝ていた。通り過ぎようとすると片目を開け、慎也をひとわたり値踏みしてから、また目を閉じた。関係ない、と言われた気がした。その無関心が、東京では得られないものだった。東京の猫は人の視線に慣れすぎていて、逃げるか媚びるかのどちらかだ。この猫は、ただそこにいた。

 路地を曲がると急に視界が開け、海が見えた。細い路地のつきあたりに、切り取られたように瀬戸内の青があった。光の量が多すぎて、慎也はすこし目を細めた。

 海は何かを言いたそうだったが、何も言わなかった。

 坂を下りながら、慎也は考えないようにした。考えると、また夜が来る。ベッドに横たわって天井を見て、同じことを繰り返す。あの日の会議室。蛍光灯の下の白い原稿用紙。自分が言った言葉の、取り消しようのない確かさ。

 考えないようにしながら、それでも考えた。


 古本屋はアーケードの外れにあった。

 看板もなかった。正確には、あったのかもしれないが読めなかった。軒先に段ボール箱がいくつか置かれ、その中に文庫本が雑然と詰め込まれていた。一冊百円とも書いてあったが、値段のついていない本もあった。ドアが開け放されていて、中の暗がりから紙の匂いがした。古い本の匂いは、腐敗と保存が絶妙に混ざり合った匂いだ。慎也はその匂いが好きだった。編集者をしていた七年間、その匂いに包まれていた。

 惰性で店に入った。

 店内は狭く、天井まで本棚が並んでいた。文学、歴史、料理、建築、詩集、写真集。分類の論理はよくわからなかったが、それでも何かの意志によって並べられていることはわかった。床に積み上げられた本の間を歩くと、足元が不安定だった。

 奥にカウンターがあり、老人が座っていた。

 七十を過ぎているだろうか。白髪を短く刈り込み、眼鏡の奥の目がゆっくりとこちらを向いた。値踏みするわけでも、警戒するわけでもなく、ただ見た。猫と似ていると思った。

 慎也は本棚に視線を戻した。文芸の棚を流し見しながら、指先で背表紙をなぞった。知っている名前、知らない名前、忘れていた名前。出版の世界にいると、本の題名と著者名が脳に刷り込まれる。もうその世界にいないのに、条件反射は残っていた。

 その本を見つけたのは、偶然だったと思う。

 棚の端、ほかより少し奥に押し込まれていた一冊。背表紙の文字はかすれていたが、著者名は読めた。

 三枝拓海(さえぐさたくみ)

 手が止まった。

 指先が、背表紙の上でわずかに震えた。


 三枝拓海の名前を最後に見たのは、追悼記事の中だった。二年前。文芸誌の片隅に、十行ほどで処理された訃報。新人賞を受賞したものの二冊目が売れず、三十歳で亡くなった作家。それだけの記事だった。

 慎也は本を棚から抜き出した。デビュー作だった。「光の底で」という題名。一刷と奥付にあった。増刷はされなかったから当然だ。カバーには薄い埃が積もっていた。

「それ、好きな作家でしたか」

 老人の声は、しわがれていたが穏やかだった。

「……いえ」

 慎也は言葉に詰まった。

「知っている人間の本です」

「そうですか」

 老人はそれ以上聞かなかった。

 慎也は本を開いた。最初の一行を読んだ。文章は、まだそこにあった。三枝拓海の言葉が、二年経っても紙の上に生きていた。

 当たり前のことが、胸に刺さった。


 老人は茶を淹れてくれた。

 店の奥の小さなテーブルに招かれ、慎也は断る理由が見当たらなかった。湯呑みはやや欠けていて、茶は少し濃かったが、温かかった。老人は向かいに座り、特に急ぐ様子もなかった。客が来ていないわけだから、急ぐ必要もないのだろう。

「遠くから来ましたか」

「東京からです」

「自転車で来ましたか」

「尾道まで新幹線で来て、ここからは自転車で行くつもりです」

「しまなみを渡るんですか」

「そのつもりです」慎也は言いながら、本当にそのつもりなのかと思った。つもりが確信になったのはいつだったか。封筒を受け取った日だろうか。それとも会社を辞めた日だろうか。

「いい道ですよ」老人はそれだけ言った。「海の上を走るんです。橋の上で立ち止まって後ろを見ると、来た道が全部見える」

「後ろを見るんですか」

「見たくなります」

 慎也は手の中の文庫本を見た。三枝拓海の小説。百円均一の箱に入っていたはずだが、いつの間にか手に持っていた。

「この本のこと、ご存知ですか」

「読みましたよ」

 老人は言った。

「売れなかった本だ」

「ええ」

「だからといって、読まれなかったわけじゃない」老人は茶を一口飲んだ。

「ここで買う人は、たまにいます。誰に勧められるわけでもなく、背表紙に惹かれて手に取る人が」

「どんな人が買いますか」

「たいてい、若い人ですね。感受性が尖っている時期の人間は、売れない本を嗅ぎ分けます。売れているものより、誰も見ていないものに価値を感じる年齢というのがある」

 慎也はその言葉を咀嚼した。

「売れない本にも、読まれる理由はある」

 老人は続けた。

「市場が決めた価値と、読者が感じる価値は、必ずしも一致しない。それは本屋をやっていると、嫌というほどわかる」

 反論できなかった。

 できないどころか、その言葉が喉元まで来て、つかえた。慎也はかつて、まさにその論理の逆を信じて仕事をしていた。売れるかどうかが、すべてだと思っていた。売れない本を世に出すことは作家への親切ではない、と。そう言い聞かせて、三枝拓海の二作目の原稿を突き返した。

「これ、いただいていいですか」

「もちろんです」

 老人は立ち上がった。

「百円です」

 百円を払いながら、慎也は思った。三枝拓海の一冊が、百円だ。値段がすべてだとは言わない。でも、この百円は何かの重さを持っている。


 ホテルに戻ると、封筒のことを考えずにはいられなくなった。

 ジャケットのポケットから取り出した。白い封筒。裏の差出人の欄に、細い筆跡で書かれた名前。三枝澄花。

 三枝拓海の、妹。

 慎也が出版社を辞めて三ヶ月が経った頃に届いた。辞めたことを知っていたのか、それとも偶然なのか、直接の住所宛に来ていた。転居届を出していたから、転送されてきたのかもしれない。封筒を受け取った瞬間、差出人の名前を見て、床に落としそうになった。

 中には便箋が一枚と、折りたたまれた紙が入っていた。

 便箋にはこう書かれていた。


 ――突然のお手紙、失礼いたします。三枝拓海の妹の澄花と申します。兄のことは、もうご存知のことと思います。兄が亡くなってから、遺品を整理していたのですが、どこにも見当たらないものがあります。兄が最後まで書いていた原稿です。データも紙も、自宅には残っていませんでした。兄が生前、島々を旅しながら書いていたと聞いたことがあります。もしかしたら、しまなみ海道のどこかに手がかりがあるかもしれない。あなたが兄の担当編集者だったと、兄の日記に書いてありました。お願いとも頼みともつかないことですが、もし機会があれば、探していただけないでしょうか――


 折りたたまれた紙は地図だった。

 しまなみ海道の地図。向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島。六つの島のそれぞれに、小さな丸印がついていた。手書きの印で、どんな意味があるのかは書かれていなかった。

 慎也は、この手紙を三ヶ月間、封筒に戻したり取り出したりしながら、返事を書かなかった。書けなかった。

 自分は、三枝拓海の担当編集者ではなかった。

 正確には、一時期だけそうだった。デビュー作の後、二作目の原稿を受け取ったのが慎也だった。読んだ。悪くはなかった。しかし、売れるとは思えなかった。三枝拓海の一作目は新人賞受賞作として一定数売れたが、続かなかった。出版社の中で彼の優先度は下がっていた。二作目を出すなら、もっと読者に寄り添った内容に書き直してほしい、と慎也は言った。

 そう言わなければならない理由が、たくさんあった。

 すべて本当の理由だった。

 そのどれもが、言い訳のような気がした。

 三枝拓海はそれから半年後に亡くなった。自死だった。遺書はなかったと聞いた。慎也への言及もなかったと聞いた。

 それがかえって、重かった。


 夜、慎也はホテルの窓から港を見た。

 尾道の夜は静かだった。東京は夜でも騒がしい。車の音、電車の音、どこかで誰かが話している声。でもここは静かで、潮の匂いがした。窓から見下ろすと、渡し船の乗り場に小さな明かりがあった。夜間は運休しているはずだが、明かりだけが灯っていた。黄色い、小さな明かり。

 今治まで七十キロほど。橋と島を繋ぎながら、海の上を走る道。

 逃げるつもりだったのかもしれない。最初から。

 尾道に来たのも、自転車を用意したのも、封筒に返事を書く前に動き出してしまったのも、すべて逃げるための準備だったかもしれない。三枝澄花への返事を書けば、向き合わなければならない。三枝拓海の最後の原稿を探すということは、彼の最後の時間を辿るということで、その旅の中に自分の言葉の影がある。

 でも逃げるにしても、向かう方向が必要だった。

 方向があれば、逃げることは進むことに見える。

 慎也はテーブルの上の地図を広げた。六つの丸印。それぞれの島に、何かがある。三枝拓海が最後の年に何度も訪れたという島々に。彼が書いていたもの。書けなかったもの。書こうとしていたもの。

 自分には、それを探す資格があるのか。

 ない、と思う。

 でも来てしまった。

 窓の外で、夜の海が光っていた。町の明かりを映した水面が、動きながら光を散らしていた。渡し船の乗り場の黄色い明かりは、揺れずにそこにあった。

 百円で買った文庫本を開いた。三枝拓海の最初の一行。

 「光というものは、見ようとした瞬間に逃げる」

 慎也は本を閉じた。

 明日の朝、出発しよう。

 逃げるように、海の上へ。


 眠れなかった。

 時計が二時を過ぎた頃、慎也は起き上がり、ベッドのふちに腰かけた。暗い部屋の中で、窓から入る街灯の光だけがかすかにあった。

 会議室を思い出した。

 あの部屋は蛍光灯が少し古くて、ときどき瞬いた。白いテーブルの上に、三枝拓海の原稿が置かれていた。三百枚ほど。慎也は原稿を読み終えた後で、それを手に取り、三枝に渡した。渡す前に少しためらって、でも渡した。

「このままでは難しいです」

 三枝は原稿を受け取りながら、何も言わなかった。うなずいた。それだけだった。目が、どこかを見ていた。慎也の顔ではなく、部屋のどこかを。

 帰り際に言った言葉がある。

「もっと、人に届くものを書いてください」

 今でもその言葉が、ときおり口の中に戻ってくる。まるで吐き出したものが喉に逆流するように。

 人に届くものを書いてください。

 三枝拓海の文章は、人に届かなかったのだろうか。

 あの古本屋の老人は言った。売れない本にも、読まれる理由はあると。

 あの文庫本を百円で棚に並べながら、時折誰かが手に取るのを見てきた老人の言葉だ。慎也は反論できなかった。できないどころか、その言葉の前で縮んだ。自分がずっと信じていたものが、正しくなかったかもしれないという感覚が、暗い部屋の中でじわじわと広がった。

 窓の外で、どこかの猫が鳴いた。

 一声だけ鳴いて、また静かになった。

 慎也は横になった。眠れなかったが、横にはなった。

 明日、海に出る。

 それだけが、今の自分に言えることだった。旅の意味がわかったわけでも、三枝澄花への返事を決めたわけでもない。ただ、向島への渡し船に乗って、橋を渡って、島から島へ進んでいく。それだけのことだ。

 それだけのことが、今の自分にはできないことを悩むよりずっと大事な気がした。

 部屋の隅に立てかけたロードバイクが、暗がりの中で静かにあった。

 夜明け前に目が覚めた。

 眠れたのか眠れなかったのか、境界がよくわからないまま、空が白みはじめていた。窓を開けると、夜の名残りを引きずった潮風が入ってきた。塩と藻の匂い。都会では嗅いだことのない、もっと根源的な匂い。

 港が見えた。渡し船が動いていた。

 乗り場に、早朝から人が集まっていた。島に通う人たちだろうか。生活のための渡し船。観光ではなく、日常として海を渡る人たち。慎也はそれを窓から眺めながら、自分は何者として渡るのかと思った。

 答えは出なかった。

 支度をした。ジャージに着替え、サドルバッグに荷物を入れ直し、空気圧を確認した。百円の文庫本は、バッグの外ポケットに入れた。地図と封筒は、ジャケットの内ポケットに。

 チェックアウトの時間まで少しあった。

 慎也はテーブルに座り、小さなノートを開いた。

 何かを書こうとして、書けなかった。

 代わりに、ノートの最初のページに一行だけ書いた。

 「三枝拓海は最後まで、書こうとしていたのだろうか」

 問いを書いただけだった。

 答えはわからない。でも問いを書いた。それだけは確かだ。

 ノートを閉じ、ペンをしまい、バッグを肩に掛けた。エレベーターで一階に降り、フロントでカードキーを返した。外に出ると、尾道の朝が広がっていた。

 坂の向こうに海が見えた。

 渡し船は今もゆっくりと走っていた。対岸の向島が、朝靄の中にぼんやりと浮かんでいた。あそこから先が、旅の始まりだ。

 慎也は自転車にまたがった。

 坂を下りながら、港へ向かった。

 背後で尾道の町が、何も言わずに見送った。猫も、老人も、百円の本棚も、渡し船の乗り場の黄色い明かりも。

 逃げるように、という言葉が頭の中にあった。

 でも足はペダルを踏んでいた。

 今できることは、それだけだった。



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