悪魔の喫茶店で「最愛」を捨てた男 ~約束は彼を手放さない~
初めまして!あるいは『帝都東京で配信中!』からお越しいただいた皆様、ありがとうございます。
ふらいんぐタートルです
連載開始を記念した短編セレクション、今回は『忘却クラブ』をお届けします。
本作は、私がPixivの企画で「忘れられた約束」というテーマで書いた第二作です。
この作品は、私の執筆スタンスの一つである「日常のすぐ隣にある異界」と「そこに課せられた独自のルール」を、ミステリアスな雰囲気で描いた一作です。舞台は現代の喫茶店ですが、そこで扱われるのは「魂」と「約束」。
以前公開した『怪人水着仮面』と同様、この物語にも「いたずら心」を忍ばせています。最後まで読んだ後、もう一度最初から読み直すと、マスターや客の言葉が全く違って響いてくるはずです。
誰にも言えない「忘れたい約束」を抱えた客と、それを待ち構える「人間ではないマスター」。 二人の奇妙な対話が生み出す結末を、どうか最後まで見届けてください。
その店は繁華街から離れ、古い町並みの残る路地の一角にひっそりと建っている。
「レーテー川」という名の、小さな喫茶店だ。
レーテー川とはギリシャ神話に出てくる川の名前からとっている。神話では人はその川の水を飲むと全ての記憶を忘れるという。忙しい毎日の中で、少し他のことは忘れて、ゆっくり時間を過ごしてほしいというのが店名の由来なのだとマスターは語る。
カウンターとテーブルが3個ほどの小さな店で、マスターが1人で切り盛りしている。落ち着いた雰囲気でありながらしゃれた内装で、マスターこだわりのコーヒーもなかなかの味なのだが、商売下手なのか立地が悪いのか、いつも店では閑古鳥が鳴いている。マスターは趣味でやっているだけだから問題ないと語るが、内心そのことを気にしているらしい。
そんな喫茶店だが、ごくたまに人が来ることがある。今日もその珍しい日のようで、何やら暗い顔をした男が1人、店の扉を開いた。
「いらっしゃいませ」
マスターは、いつものように営業スマイルを浮かべて客を迎え入れる。
男は少し不安げな顔をして、店の中をキョロキョロと見回したあと、カウンター越しにマスターに声をかけた。
「あなたが、その、ここの店の店長で…?」
「はい。さようでございます」
男は少し不審そうにマスターを見つめる。マスターはぱっと見では年齢が分からない。若そうにも老成しているようにも見える。男はおそらく、若すぎるとでも思ったのだろう。
よくあることなので、マスターも気にしない。
「空いているテーブルにおかけください」
マスターの勧めに対し、男は恐る恐るといった体でカウンター席に腰を掛ける。
「こちら、メニューでございます。ご注文がお決まりになりましたらお声がけください」
通常のように接客するマスターに対し、男はしばらく黙っていたが、やがて決心したかのように一言つぶやいた。
「……忘却クラブ」
その一言に、マスターの流れるような所作がぴたりと止まる。その反応を見て、男は少し安心したように改めてこう告げた。
「忘却クラブのカプセルを、その、一つ。」
マスターは静かにその客を見つめると、やがて一つため息をついた。
「やれやれ、久々の店のお客様かと思いましたが、クラブに御用の方でしたか」
マスターはそれまで拭いていた食器を一度置くと、あらためて男の方に向き直った。
「当クラブにようこそお越しくださいました。それで――あなたはどのような忘却をお望みで?」
*
男が忘却クラブを知ったのは、ネット上の怪しげな掲示板だった。
曰く、O県I市にあるさびれた喫茶店は、裏で忘却クラブという怪しげな営みを行っている。
そこでは、客人たちの望みのままに、記憶の一部を封印することができるとかなんとか。
他にも、マスターは人間ではないだとか、店は異世界に通じているとか、いろいろと眉唾物の言説が飛び交っている。およそこんな内容の記事、信じる方がどうかしているのだが、男はその、記憶の封印という言葉にいたく心を揺さぶられた。
必死にその喫茶店の場所を特定し、実際にそこに訪れてみるくらいには。
とはいえ、そこからさらに実際にマスターに話をするのは、男にとって高いハードルだった。店に訪れたありがたい客から、痛々しい厄介者に変わってしまうことを恐れ、本当に恐る恐るキーワードを口にしてみたわけだが、マスターの表情がいぶかしげでも鬱陶しげでもないことが確認できた時には心底ほっとした。
気が緩んだら色々聞きたくなる
「……クラブ目当ての客はよく来るんですか?」
「そうですね。当店目的のお客様よりはいらっしゃいますが、それでも多いというほどではありません。冷やかしのお客様はもう少しいらっしゃることもありますが、本当に当クラブをご利用されたいお客様は1月に1人程度でしょうか」
「冷やかしとそうでない客の区別はどうやってつけて?」
「それは、当クラブのホームページをご存じかどうかで簡単にわかります。お客様も御覧になられたでしょう?」
確かに見た。喫茶店の情報を探してずいぶん色々と調べたところ、忘却クラブが出していると思しきホームページになんとかたどりついたのだ。
先ほどの注文の言葉も、忘却クラブの客としての合言葉だったりする。
ただ――
「ホームページくらい冷やかしの人でも見つけられるでしょう?」
「見つけられません。あのホームページは、本当に当クラブをお求めでない限りたどりつかないようになっていますから」
当たり前のようにマスターは言う。
そんなわけはないと理性は告げるものの、それを信じたいからこそここまで来てしまった男からしたら納得するしかない。
忘却クラブを求めている客。
それはすなわち、本当に自身の中に忘れてしまいたい記憶がある客たちのことだろう。
ただし、忘れるためには、奇妙な条件がある。
忘れられる記憶は、約束に関するものに限るという条件だ。
当該クラブのホームページの説明文にはこうある。
『約束とは、あらゆる生物の中でも、人間にのみ許された崇高な行為です。
それは、互いの信頼関係の証明であり、未来への宣誓でもあります。
そのため、約束は、守られなければなりません。
しかし、その一方で、こう思うことはないでしょうか。約束を守るのは、疲れる、と。
約束は、たしかに神聖なものですが、我々を束縛するわずらわしいものであることも確かです。
約束をした当時には思ってもいなかった未来を生きる私たちにとって、美しい過去の約束は重荷になることだってあるでしょう。
そこで、そんな皆様に私たちから提案があります。
その約束ーー忘れてしまいませんか。
約束はもちろん守られなければなりません。破ってしまうことは、我々の人間性を否定することと同じだからです。
しかし、一方で、約束を忘れてしまうことはーー約束を破ることにはならないと思いませんか?
私たちは、ただその約束を一旦保留にするだけです。約束をしたまま、いったん時間を留め置くだけです。
1年、10年でも良いでしょう。
もっと思い切って、100年だってかまいません。
100年ほど経ったら、また思い出せばいい。そしてそのときにまた、その約束と向き合えばよいのです。
思い出せるわけがない?そうでしょう。その頃には皆様はすでにこの世にはいらっしゃらない可能性が高い。
しかし、どうでしょう。これは約束を破ったことにはなりませんよね?
なぜなら約束違反をとがめる人もまた、もう誰一人いないのですから。
当事者たちはすでにおらず、ただ約束をしたという事実だけがこの世に残る。
これがある意味、最も美しい約束の形ではないでしょうか?
約束が尊いのは、それが守られるからではなく、守られるかわからない約束を互いに交わしたことそのものなのですから。
あなたが抱え続け、縛られ続けている約束は、最も美しい形で未来へと届くのです。
約束は破られることも解消されることもなく、永遠に約束であり続けられるのです。
そう考えればどうでしょう?思い切って、その約束を私たちに預け、忘れてしまうというのも、実はそんなに悪い選択肢ではないと思いませんか?
私たちはその約束を未来までお届けすることを約束します。
あなたの大切な約束、私たちに預けてみませんか。
忘却クラブは皆様の大切な約束をお待ちしております。』
あまりに奇天烈な説明文句である。
しかし、それをみて男はわざわざここにきている。
「因みに、忘れられる記憶というのは約束限定なんですか?」
「約束と、それにまつわる一切の記憶、ということになります。なので、忘れたい記憶の中に約束に関するものさえあれば、それで必要な範囲は忘れられますよ?」
「なぜ、そんなに約束にこだわる必要が?約束とか関係なく忘れたい記憶そのものを封印してもらうことはできないんですか?」
「それは当クラブがご提供する忘却が、約束にまつわる魂ごと記憶をお預かりする、という方法で実現されるからでございます。約束は魂への誓約行為ですから必ず魂に刻み込まれます。あいまいな記憶よりよほど起点として用いやすいんですよ」
「魂なんてーーどこまで本気なんですか?」
「もちろん全てです。私の言葉は端から端まで真剣そのもの、一点の冗句も含んではおりません。――失礼ですが当クラブのホームページはすべてご覧になられておりますよね?」
「も、もちろんです」
「それは安心いたしました。ホームページには注意事項や利用約款などを記載しております。内容のご認識がない限り、当クラブのご利用ができませんもので、確かめさせていただきました。であれば、ご存じでしょう―――私は人間ではございません」
そうマスターは宣言する。
男はごくりとつばを飲み込んだ。
改めてマスターを観察する。パッと身の印象ではどこにでもいそうな風貌に見えつつ、それでいて年齢不詳、性別不明。まるでマネキンでも見ているかのような心持ちをさせるその姿は、確かに人外といわれても信じられる。
「じゃ、じゃあやっぱり」
「はい。私は悪魔です。だからこそ、魂の取り扱いには精通しておりまして」
そういって、マスターは無造作に指を一本、立てて見せる。
そこに突如として青紫の火の玉が上がり、くるくると指の周りを回って見せる。
「ご納得いただけましたか?」
男はこくこくとただうなずいた。
手品か何かで実現できないわけでもないだろう。だが、男は疑わない。マスターがやってみたその行為の中には、何か世界が捻じ曲げられたかのような、そんな異様な空気が漂っていたからだ。
とたん、ゆるんだ気持ちがまたギシギシと音を立て始める。
自分は超常の人外を前に会話をしているのだ。
マスターはそこで最初に見せたような営業スマイルをして見せた。
「ご安心ください。悪魔はよく巷で語られるような無法者ではございません。ただ皆様と寄り添う異界の存在というだけでございます。違いとしては、魂を糧とすること、くらいですよ」
「魂…」
「よく聞くでしょう。魂と引き換えに3つ願いをかなえるとか。
もちろん、悪魔にできることには限度がありますが、そうやって皆様のサポートをさせていただきながら報酬として魂をいただくことで我々悪魔は生計を立ててきました。
しかし、やはり魂丸ごととなると抵抗が強いようで、昨今ではどうにも成約まで進められなくてですね。その点、当クラブは違います。その約束にかかわる魂のみを部分的にいただこう、とそういう趣旨でございます」
マスターはそう穏やかに説明する。
確かに、少なくともすぐ男をどうこうしようという様子もないようだ。
そうなると、好奇心が頭をのぞかせる。男はわりといらぬところに首を突っ込む質がある。
「……その、よくわからないんですが、もしそういう目的の商売ならなんだかずいぶん周りくどくないですか?このクラブは、約束をわざわざ保管なんてしているんでしょう?そんな事せずにその該当する魂を食べるなりなんなりして、なくしてしまえばいいじゃないですか?」
マスターは少し面白そうに男を見やると、説明を続ける。
「やはり、我々悪魔にはそういう粗野なイメージがあるのですねぇ。ですが、我々は契約に誠実です。自身の債務を履行しないまま、対価をいただくことなどできません」
「魂の売買、という形ならいいのでは?所有権を確保したなら、あとはどうしようとかまわないでしょう?」
「ふふふ。それは良い考えです。ただ、魂の売買となると買値が途方もなくなってしまいます。正当な対価であればとても払えるものではありませんよ。もちろん安く買いたたくような無法者もいないわけではないですが、私はあくまでフェアにいきたくってね」
どうも悪魔の社会もいろいろと世知辛いらしい。
「そういう意味だと、確かにこのクラブのやり方はうまいですね」
クラブの利用約款にはこうある。
約束の品と共に、約束の記憶を顧客の望む期間保管する。期限が来たらそれらは顧客に返却するが、その際引き取り人が現れない場合、約束の品と記憶の所有権は忘却クラブに移る。
「この取り決めならば、魂をクラブ側が回収するのはあくまで先方のせいってことになりますからね」
誰だって、こんなところに頼ってまで忘れた記憶をわざわざ思い出したいとは思わない。みんなおよそ自分が回収できないくらいの時間を設定するはずだ。
「その通りです。まあ、まれにきちんと期間後に回収にいらっしゃる方もございます。すべての魂をいただけるわけではないですが、生業としては十分成立しております」
「しかし、この方法だと魂が得られるのはずいぶん先になってしまうのではないですか?それで日々の生活はやっていけるのですか?」
「そこはそれ。うまく回しております。契約内容を認識され、およそ自分では回収不可能と認識して記憶を預けられる方は、その段階で魂の処分をされているのと同じです。その場合、魂の状態でわかりますからね。その分を先に魂だけいただいてもこちらの不履行にはなりません」
マスターは何やら胡乱なことを言い出した。
「それじゃあ、始めから魂をもらっているのと変わらないじゃないですか」
「いえいえ。ちゃんと契約を取り交わした上で、先方がそれを始めから放棄した、という段取りを経ることが重要なのです。それに、当方はお預かりの品自体は取り決め通り100年でも1000年でもお預かりしますよ?」
なんというか、言っていることがせこい。
悪魔というくらいだから、もう少し高尚というのは変だが超越的なふるまいをしてほしいところだが、だましてませんよね、みたいな詐欺まがいのことをするとは少しがっかりだ。
まあ、悪魔は人間世界と隣り合って人間と同様に暮らしている。そこで人間じみたところも出てきてしまうのだろう。しかし――
「1000年って…盛りすぎでしょ」
「悪魔ですから。1000年くらいなんでもないんですよ」
悪魔は何でもないという顔をして答えた。
誇張ではないのだろう。男は少し反省する。少し慣れてきたせいで気を抜いてしまった。
あらためて、ここはそういう場所なのだ。
「さて、脇道にそれるのはこれくらいにいたしまして、本題とまいりましょうか。改めて伺います。――あなたはどのような忘却をお望みで?」
見定めるような目つきで、悪魔は男を見つめている。
男は、一瞬たじろぎながらも、懐に手を入れると、「約束の品」を取り出した。
「――こちらです。この結婚指輪を、忘れさせてください」
*
「よくある話です。
この指輪の持ち主は、幸恵といいます。僕たちは互いに指輪を交換し永遠の愛を誓い合いました。
健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しいときも、死が2人を分かつまで、いや、死が2人を分かとうとも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、永遠に真心を尽くすことをと。
そのときの私たちは幸せでした。そしてその幸せがずっとずっと先まで続くと、そう闇雲に信じていました。
しかし、思いもしない曲がり角というのは、いつだって突然現れるものです。
それは幸恵の死という形で訪れました。
事故でした。新居のバルコニーから転落してしまい、そのままです。
本当に、一寸先は闇とはこのことです。僕たちの幸せはあっという間に真っ暗な闇夜へと変わりました。
あとに残ったのは、後処理の負担と無残な新生活の残骸、そして果たせない約束だけとなってしまいました。
僕の愛は行き先を失いました。しかし2人の記憶は、約束は僕を手放してはくれません。
どこにいても、何をしても、彼女のことを思い出します。それだけでボクはもう何もできなくなります。
彼女との約束を果たせない自分が許せなくなるのです。彼女を助けると誓ったのに、彼女に尽くすと誓ったの。僕はもう彼女に何をすることもできなくなりました。
ただただその負債を抱えて生きていくことに、僕は疲れてしまいました。
だから、彼女には申し訳ないんですが、忘れたいんです。
すべてをリセットして新しく生きていきたいんです。
お願いします。この、僕たちの無残な約束を、未来まで持っていってくださいませんか」
*
男の独演会はそこで終わった。
マスターの反応はない。表情一つ変えず、男の話を聞いている。
男はまたもや不安になってきた。
「あの――」
「お話は以上ですか?」
「あ、はい。終わりです」
「そうですか。お預かり期間はどれくらいにいたします?」
「そうですね…。では1000年で」
「ほう。思い切りましたね」
「別に問題はないんでしょう」
「もちろんです。ではそちらの指輪をこちらのカプセルに入れていただけますか」
マスターは、男の前に小さな箱を差し出してきた。
「あの、これは?」
「タイムカプセルのようなものですね。こちらに入れていただいた指輪を未来へと届けるわけです。指輪だけならばこの大きさで十分でしょう」
「は、はあ。因みに、他の思い出の品は入れなくても大丈夫なんですか?」
「入れたいものがあれば入れてかまいませんよ。しかし別に思い出の品すべてを入れていただく必要はありません。約束の品さえ入れていただければ、それにまつわる魂はすべて隔離できますから」
「じゃあ、思い出の品を見ても思い出すことはない、と?」
「はい。どんなものであれ、その物の背景に興味を持つことはなくなるでしょう。ただの道端の石ころと同じです。その後どうされるかはお好きにしていただいて構いません」
よくわからないが、そこまで悪魔が断言するのであればそうなのだろう。
少し安心して男は言われるがまま指輪をカプセルの中に落とし込んだ。
そのときマスターは始めてにやりと笑った。いかにも悪魔という表情だ。
「――ほうほう。なるほどねぇ」
「な、何ですか」
「いえ、何でもございません。ではこちらで十分ということであれば、これで閉め切ってしまいますね」
マスターが蓋を閉めると、蓋と箱の境目がすっと消えてなくなる。
その不思議な光景に男は驚きつつも、気になることを確認する。
「え、これで終わりということはないですよね?僕の記憶は残ったままですし」
「もちろんでございます。これはタイムカプセルですからね。あとは、これをうずめてしまって封印は完了です」
「どこか、人目の付かない場所に埋めるんですか?1000年間も掘り返される可能性のない場所なんてあるんでしょうか?それともあなたは結構な土地持ちだったりします?」
「まさか。私はしがない悪魔ですよ?この小さな喫茶店を手放さないようにするだけで精一杯ですとも」
「じゃあ――」
「そんなに気になるようならば御覧になりますか?」
マスターはそういうと、カウンターの奥にある扉を開いて男を誘った。
こういう時、好奇心に負けてしまうのが男の性分だ。
男は誘われるがままに扉を潜り抜けた。
扉の先は、いきなり地下に通じる階段になっている。
「この店、地下なんてあったんですね。」
「さほど大きくはないですがね。まあ、当クラブの目的を達するためには十分な広さはありますよ」
「まさか、店の地下に埋めているなんてつまらない話なんですか?そうならなんだかがっかりだな。もっと面白いものを見せてもらえると思ったのに」
「ふふふ、ご希望に添えると思いますよ?」
そういって、マスターが誘ったのは、倉庫程度の大きさの何もない地下室だった。
やはり何もないじゃないか、と内心がっかりしたところで、男は地下室の床に何やら書いてあることに気が付いた。
「これは――魔法陣?」
「決して、その魔方陣の先には足を踏み入れないようお願いしますよ?あらぬところに飛ばされてしまいますので」
そういって、マスターは先ほどのように無造作に指を一本立てると、再び青紫の火の玉が現れた。
ただし、今回はその数が多い。瞬く間に、無数の火の玉が部屋中に充満する。
「――ΗΛΣΦБΔ」
悪魔は、そこで何やら聞きなれない音を発した。おそらく呪文か何かなのだろうがまったく言葉として認識できない。
するととたんに部屋中の火の玉が地面に向かって勢いよく飛び込んでいく。火の玉は地面に接触したかと思うと、そのまま魔法陣を彩り始め、魔法陣全体が紫の火の文様として浮かび上がる。
「おお――!」
男は驚いて思わず尻もちをついた。
マスターは男をちらりとみやり、魔法陣の先に体が飛び出していないことを確認するとそのまま立てていた指を魔法陣に向けて振り下ろし
「Ω」
とつぶやく。とたん、それまで部屋の床だと思われていた場所が、突然水に変わったかと思うと、ごうごうと音を立てて流れ始めた。
「な―――!」
マスターはそこまで終えると、改めて男の方を振り返った。
「ご覧ください。こちらがかの有名なレーテ―川でございます」
レーテ―川。忘却の川。
「は、え、これはその」
「まあ、召喚魔法の一種だと思ってください。喫茶店の地下室の一室に一時的にですがレーテ―川のごく一部を呼び出した状態です」
改めて驚かされる。
やはり尋常ならざる世界というのはこうやって当たり前のように人間世界と接しているらしい。
そのことを男はよくわかっていたはずだが、こうやって目前で披露されるとやはり魂消てしまう。
「さて、先ほどのカプセルについてですが、あれらはすべて防水性になっておりましてね。これをこのレーテ―川に沈めるのです」
「は、はあ。それで、忘れられるものなんですか?その、神話のように私自身が川の水を飲んだりする必要は…?」
「そんなことしたら、あなたは何もかも忘れてしまいますよ。これは、単に隔離の方法として活用しているだけです。レーテ―川はあなたの体と魂とのつながりを切断するのです。なので、ここにこのカプセルを沈めれば、あなたの体とこのカプセルに込められた魂のつながりが一時的に切断され、この魂にこめられた記憶にもアクセスできなくなるというわけです」
「は、はあ」
何とも非科学的な物言いだが、まああまりに今更だ。科学も記憶のメカニズムを解き明かし切っているわけではない。人知の及ばないロジックが、世界にはきっと埋もれているのだろう。
「しかし、沈めてしまっては、中のものが傷んでしまうのでは?」
「この川の中で時間なんて流れませんからね。カプセル内部に水が浸入することがない限り、1000年後であろうと、今の状態のままですよ」
「取り出す時はどうするんです?」
「沈めるときに、ちゃんと紐づけてありましてね。時間がきたらきちんと引き上げられるようになっています。その時には、そのとき預け主の方が生きていたら、魂と体がつながって、記憶もつながるようになりますよ」
「はは。その時までにあなたが魂をつまみ食いしていなかったら、ですよね」
「もちろんその通りですね」
マスターはにっこりと笑う。
「あなたはどのタイミングで魂をつまみ食いするのですか?沈めてしまった後は食べられませんよね?」
「ふふふ。まったく意地の悪いお客様ですねぇ。まあ、いいでしょう。お答えします――最初に約束の品をお預かりしたタイミングです」
男はその回答に違和感を感じた。
「え、あれ?なら僕の魂も食べてしまったんですか?その割には記憶は特にそのままなのですが」
「いいえ、食べてはおりません」
「いや、先ほどの話では…」
「はい、あなたが魂の受け取り権を放棄した段階で、あなたの所有権は失われますね」
「じゃあ、なぜ食べないんですか?僕に余計な話をしてしまったから?」
そこでマスターは再び悪魔のような微笑みを浮かべた。
「簡単なことです。――1000年後に受け取りの方がいらっしゃるからです」
男はそこで制止する。
1000年後に受け取れる?まさか、これから先そこまで科学技術が発達して、人類は1000年を超えて延命できるようになったとでもいうのか?
というかそもそも
「――1000年先の話が、なんであなたにわかるのですか?悪魔は未来のことも何でもわかるとでも?」
「まさか。時間に関しては全くの門外漢です。しかし、魂に関することならわかるのです。手元の魂の所有権がどうなっているかくらいは、ね」
「魂の所有権ーー」
「例えばですね。100年先だろうと200年先だろうと、約束を履行可能と魂が認識しているなら、魂の所有権が本人から離れることはありません。
面白いケースがありましてね。わざわざ、未来からタイムマシンで現在までいらして記憶を預けにきたなんて方もいらっしゃいましてね、その方は未来にいるわけですから無事魂を受け取れるわけで―――」
「つまらない話はやめてください!僕が、1000年先に生きているなんて認識、しているわけがないでしょう!」
「おや、お気に召しませんか。面白い話なんですがねぇ。まあいでしょう。確かにあなたの魂は、1000年後に預けたものを受け取ることができないことを認めています。既に魂の所有権はあなたにはない」
「ならーー!」
「ですが、他の方にはあるんですよねぇ。所有権」
「そ、そんなわけ」
「おや?あなたが、その所有者をご存じないわけないですよね?何せ当クラブはまだ忘却を提供しておりませんので」
マスターは、まるで口が裂けているのではないかというくらいに、口角を吊り上げる。
「他のどなたでもない、あなたの魂の隣人、幸恵さんですよ」
男はそういわれて一切の表情を失う。
そう。わかっていた。だから忘れたかった。逃げ出したかった。
「まさかお相手の名前が分からなくでもなりました?。なにせあなた、常習犯ですもんね。なんというのでしたっけ?たしか結婚詐欺、でしたかね。
でも、幸恵さんとは実際に結婚までしてるんですから、流石にわかりますよね。ちなみに目的は財産ですか?愛に目覚めた、とかだといいですねぇ。その方が面白そうです」
マスターは悪魔の面目躍如とばかりに楽し気に言葉を紡ぎ続ける。
「まあ、なんにせよ今回は相手が悪かったですねぇ。なんせ相手は人間社会と接しながら日々を送っている異人、悪魔だった。
まあ、馬鹿な悪魔がいたものですよ、魂の契約で、相互に死後までお互いを愛し、尊重し、尽くし続けるなんて契約をするなんて。
それじゃあ、食べられないじゃないですか。魂」
悪魔。
人間と同様に暮らしている。そこで人間じみたところも出てきてしまう。
人と見分けがつかなくなるくらいまで。
「まあ、これが愛というやつなのでしょうね。ご馳走様です」
「ゆ、幸恵が悪魔だなんて、ああありえない!」
「往生際が悪いですねえ。あなたが知らないわけないでしょう。余計なことに首を突っ込むことをやめられない性分のようですから。それで相手が悪魔だと知って動揺したせいで、下手な殺人までしてしまって、散々でしたねえ。まあ、足がつかないことをお祈りしておりますよ」
「ありえないありえないありえない!悪魔は1000年だろうが生きるんだろう?超常の魔法をつかえるんだろう!?人に殺せるわけがない!だから死んだ幸恵は悪魔なんかじゃない!」
「いえいえ。何をおっしゃるやら。バルコニーから落ちたら普通に死にますって。まあ魂は残りますが。だからこそ今なおあなたには彼女のラブコールが聞こえるのでしょう?」
どこにいても、何をしても、彼女のことを思い出す。
約束は彼を手放さない。
「まあ、ご安心ください。忘却クラブはお約束のとおりあなたに忘却をお届けします。あなたはとりあえず死ぬまでは静かに暮らせますよ。死んだあとは、文字通り彼女のとりこになるわけですが」
彼女は死ぬ前に語った。
今でも語っている。2人の愛の行く末を。蕩ける愛の結末を。
だが。忘却クラブなら。同じ悪魔にゆだねれば、救われると思った。逃げ切れると思った。
だがそれは1000年間だけの話らしい。その先に待っているのは――
「ま、まってくれ!預け期間を変更したい!2000年、いや、1億年なら――」
「承れません。既に成約し、お約束の品も受領いたしました。まあ、あきらめなさい。魂にとって、1000年も1億年も関係ありません。そもそもあなた誓ったのでしょう?永遠の愛を」
そういって、悪魔は無造作に、手に持っていたカプセルを放り投げた。
その先に流れるのは、忘却の川、レーテ―川だ。
「ああああ、嫌だ!許してくれ、幸恵!永遠なんて、永遠なんてい―――」
「それでは良い忘却を」
とぷんと、つまらない音を立てて、カプセルは沈んでいった。
*
気が付くと男は喫茶店のカウンターに突っ伏していた。
「あ、あれ?ここは――?」
「お客さん。もう閉店ですよ」
マスターらしきものがそう告げる。らしきというのは、年齢も性別も、いまいちわからないからだ。まあ、店には1人しかいないのだし、おそらくマスターだろう。
「あ、あの僕は眠ってしまっていたのでしょうか?」
「見てわかることを聞かないでください。まったく、こちらは商売あがったりですよ」
「それは失礼しました。お勘定――あれ?僕何を注文しましたっけ?」
「もうお代は結構ですから、お帰りになってください。もう店閉めちゃいますから」
「は、はあ、それはすみません。えっと、そのご馳走様でした」
「はいはい。彼女とは末永くお幸せに」
「は?何を急に?」
「まあ、いつかわかりますよ。そうですね――1000年後くらいには」
そういうマスターに、男はいぶかしげに首をかしげながら、そそくさと店を出ていった。
店内に再び沈黙が訪れる。
マスターはやれやれといった具合に肩を回した。
「今回はとんだ働き損でしたよ。先約がいるなんて、本当にやめていただきたいですねぇ。むやみに永遠の約束なんてしないでほしいですよ、本当に。相手が誰だか分かったものじゃないじゃありませんか」
人間とは本当によくわからないものだ。
できない約束なら始めからしなければいいのに。
まあ、そんなうかつな隣人だからこそ、彼ら悪魔は何とか食いつないでいくことができるのだが。
「まあ、気長にお待ちしておりますよ。今度こそよい約束を私に食べさせてくださいね」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
男が迎える結末、いかがだったでしょうか。
1000年の時を超えて最愛の人と再会する――文字面だけ見ればロマンチックですね!
私が物語に独自設定を入れる際、大切にしているスタンスがあります。 それは、「細かいところほど厳密に理屈を詰める」というところです。 「悪魔が記憶を奪っていく」という何気ない思い付きに自問自答を繰り返して検証した結果、悪魔の生業や魂の所有権といった、執筆前には想像もしなかった歪な世界が立ち上がってきました。 私の小説は、そうした「思考の果てに見つけた景色」のおすそ分け、という側面が多分にあります。
この「独自の理屈で世界を構築する」というスタイルは、現在連載中の『帝都東京で配信中!』の根幹設定である「情報物理学」にも通じています。
次回、本作の番外編であり、ある意味で「忘却クラブ」の真の姿を描く「SF×ファンタジー」をお届けします。
SFでは定番すぎて化石どころか石油になっているようなネタを、ファンタジーのフィルターで再構築することで、皆様を思わぬ世界――「100年先の客」がもたらす歪な真実へとお連れします。
どうぞ、ご期待ください。




