第22章 要塞都市ロルンへ
実家から迎えに来た馬車は、決して豪華とは言えない質素なものだった。
御者台には騎士が座り、馬車を操っている。後続にはさらに二台の馬車が続き、そこにはアミリア、アンジェラ、シリア姉さん、そしてアンジェラの侍女たちが分乗している。
イファン領へ帰るのは半年ぶりだ。父から定期的に手紙は届いていたが、実際にどれほど変わっているのかは自分の目で確かめるまで分からない。
今回の目的地は、イファン領の手前にある要塞都市ロルンだ。本拠地までは二日かかるため、ここで一泊することになっている。
この街にもすでに電気と水道が通り、インフラが整備されている。人口は一万人を超え、周辺地域を含めればさらに多い。
モンスター襲撃の際、行き場を失った十万人以上の難民がイファン領に流れ込んできた。王都や他の都市が門を閉ざす中、彼らを無条件で受け入れたのはイファン領だけだったからだ。
難民の多くは特殊な技能や知識を持っており、それが街の急速な発展に繋がった。
俺はいずれファザート家の当主になる身だ。後で面倒なことにならないよう、今のうちに地盤を固めておくに越したことはない。
「……」
俺は深いため息をついた。連日の激務と心労で、体が悲鳴を上げている。
アンジェラとヘンリーの話し合いは、予想通り最悪の結果に終わったようだ。アンジェラの腫れ上がった目がそれを物語っていた。ヘンリーは何も学ばず、自分の行動を省みることもなかったらしい。
彼は今頃、アリスや側近たちと海辺の別荘でバカンスを楽しんでいるのだろう。
将来、アリスへの恋心が冷めたとき、彼がどうなるか見ものだ。彼はアミリアという本物の聖女だけでなく、アンジェラという有能な婚約者まで失ったのだから。
滑稽な話だ。
そう思いながらも、胸が締め付けられるように痛む。
聖女と公爵令嬢に挟まれて旅をするなんて、俺には荷が重すぎる。すべてを持って生まれたヘンリーに対する羨望と嫉妬が、俺の心を蝕んでいた。
俺は馬車に揺られながら、誰にも気づかれないように胸を押し、痛みに耐えていた。
幼い頃からの孤独と劣等感は、そう簡単には消えないらしい。昔よりはマシになったが、ふとした瞬間に古傷が疼く。
***
後続の馬車では、アミリアとアンジェラが隣同士に座り、向かい側にシリアが座っていた。
アミリアは憔悴しきった様子のアンジェラを心配し、シリアと共に彼女の話に耳を傾けていた。
「笑っちゃうわよね……。殿下は婚約破棄を告げる時、微塵のためらいもなかったわ。私って本当に馬鹿ね。別の女に現を抜かす男のために、すべてを投げ打つなんて」
アンジェラは自嘲気味に笑った。彼女は自分のプライドを捨ててまでヘンリーを救おうとしたが、彼の心を変えることはできなかった。
結局、アリスという偽物のヒロインに敗北したのだ。
「アンジェラ様は悪くありません」
「いいえ、私が愚かだったのよ。私が降参すれば、彼が少しは振り向いてくれるかもしれないなんて期待して……。結果は、彼をあの女ごと失っただけ」
彼女はまだヘンリーを愛している。たとえ彼が自分を裏切っても、その想いを断ち切れないでいる。
「それに、ファザートまで私の我儘に巻き込んでしまったわ。彼の学院での立場を、さらに悪くさせてしまった」
アミリアはアンジェラの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「そんなことありません。アランさんは優しい人です。困っているアンジェラ様を見捨てるなんてできませんよ。私だってアランさんに助けられたから、アンジェラ様の気持ち、よく分かります」
アンジェラの目から涙が溢れた。
「私は彼にお礼さえ言えなかった……。それなのに彼は、私を責めることもなく、自分の領地へ招いてくれたのよ……。私って、本当に最低な女ね」
アミリアは泣きじゃくるアンジェラの背中を優しくさすった。
シリアは黙って聞いていたが、特に感情を動かされる様子はなかった。
「私はあんたたちの事情に口出しするつもりはないけど……。アランがあんたを助けたのは、あいつ自身が決めたことよ。罪悪感なんて持つ必要はないわ。あいつだって、あんたに負い目を感じてほしいわけじゃないでしょうし」
アンジェラが落ち着きを取り戻すまで、しばらく時間がかかった。
***
夕暮れ時、馬車は要塞都市ロルンに到着した。
街は高さ八メートルを超える鉄筋コンクリートの防壁に囲まれている。魔導技術によって生み出された電気が街中に張り巡らされ、夜になればまばゆい光を放つ。
防壁の上には、黒い鎧を纏った兵士たちが警備にあたっている。
馬車を降りると、この街の領主が出迎えてくれた。
身長二メートル近い巨漢、ブランダル卿だ。父の友人で、母方の遠縁にあたる。帝国随一の剣術の使い手として知られる一族の当主だ。
「久しぶりだな、アラン。昨日手紙をもらったばかりで、大したもてなしもできんが」
彼の声は相変わらず厳めしい。
「いえ、急にお邪魔して申し訳ありません」
「何を言うか。この街が生き残れたのは、君のおかげだ。住民一同、感謝してもしきれんよ」
「ところで、ベラはどうしていますか? 数年会っていませんが、アーケンソー魔法学院に入学したと聞きました」
ベラはブランダルの娘で、俺の一つ年下の幼馴染だ。
「ああ、今は北方のガーバー王国へ留学中だ。卒業するまで戻ってこんよ」
「彼女らしいですね。昔から騎士になって王都へ行くのが夢でしたから」
彼女を幼馴染と呼ぶのは、当時まともに会話できた数少ない相手だったからだ。そして、元婚約者でもある。
彼女もまた、高位貴族との結婚を夢見る典型的な貴族令嬢だった。俺を見下し、最後には婚約破棄を申し出てきた。俺は怒っていない。人はより良い条件を選ぶものだ。
ブランダルは少し申し訳なさそうな顔をした。今の俺の地位を見て、娘の判断を悔いているのかもしれない。
立ち話をしていると、街の人々が俺に気づき始めた。
「おい……あれ、若様じゃないか?」
「アラン様だ!」
「本当だ、若様がお帰りになったぞ!!」
ささやき声は瞬く間に歓声へと変わり、人々が通りへ溢れ出してきた。見知った顔も、知らない顔も、誰もが満面の笑みで俺を迎えてくれる。
アンジェラとアミリアは、その光景に呆気にとられている。
人々は一斉に頭を下げ、静寂が訪れた。そして次の瞬間、誰かが俺の名を呼び、それが波紋のように広がって大合唱となった。
小さな女の子がよちよちと歩いてきて、俺に花束を差し出した。
「おかえりなさい、わかさま」
俺はしゃがみ込んで花束を受け取り、彼女の頭を撫でた。その光景に、住民たちはさらに歓声を上げ、感謝の言葉を叫び始めた。
ブランダルが俺の肩に手を置いた。
「……君は彼らに、ただ生きるだけでなく、人間らしい生活を与えてくれた。この街の真の主は私ではない、君だ。君がいなければ、この街はとっくに滅びていただろう。……改めて礼を言う、アラン」
ブランダルが深く頭を下げると、住民たちもそれに続いた。
俺は言葉を失った。街を整備したのは事実だが、これほどの感謝を受けるとは思っていなかった。
シリア姉さんも驚きを隠せない様子だ。
「さあ、積もる話もあるだろうが、まずは休んでくれ。客人も疲れているだろう」
ブランダルが案内してくれたのは、街の中心にある巨大な屋敷だった。
***
屋敷の中には、許可された三人だけが入ることを許された。シリア姉さんは用事があると言って別行動をとった。
アンジェラとアミリアは、屋上にある露天風呂に入っていた。
星空が見える開放的な空間。中央にはライオンの彫像からお湯が噴き出す装置があり、風呂というよりはプールに近い広さだ。山から引いた温泉水が心地よい香りを漂わせている。
アミリアがアンジェラの長い髪を洗っていた。
「アンジェラ様の髪、とっても綺麗ですね!」
「そう? 私は邪魔だからいつもまとめてるけど……時々切りたくなるわ」
アミリアはお湯で泡を洗い流す。
「この街、すごく綺麗ですね。王都以外でこんな素敵な場所、初めて見ました」
アンジェラは星空を見上げながら呟いた。
「アランがこの街でどれだけ尊敬されているか、よく分かったわ。自分の領地でもないのに、住民たちは彼を心から敬愛している。彼は戦うだけでなく、領地経営の才能もあるのね」
二人は湯船に浸かった。
「不思議なのは、これほど有能な人物が辺境にいるのに、誰も気づいていないことよ。王家すら彼の価値を理解していない。……だからこそ、あの大貴族たちが彼に協力したのね。彼の真価に気づいたから」
アミリアが首を傾げた。
「もし王家がそれを知ったら、どうなるんでしょうか?」
「あなたも見たでしょう? この街の発展ぶりを。もし彼の本拠地がこれ以上だとしたら、それはもう新しい国家が誕生したも同然よ。王家は黙っていないわ。彼を帝国側に繋ぎ止めるために、政略結婚を持ちかけるはず。他の貴族たちだって、彼の本当の力を知れば娘を差し出すでしょうね」
アミリアの表情が曇る。
アンジェラはアミリアの豊かな胸を見て、自分のものと見比べた。サイズは同じくらいだ。
男爵という地位は問題ではない。力があれば、地位など後からついてくる。
「……羨ましいわ」
「えっ?」
アンジェラは自分の体を洗いながら、ぽつりと漏らした。
「あなたは彼の恋人なんでしょう? いつも一緒にいるし……もしかして、もう婚約してるの? 私もあなたみたいになりたかったわ」
アミリアは悲しげに俯いた。
「……違います。私と彼では住む世界が違いすぎます。私なんか、彼にふさわしくありません。彼がこんなにすごい人だと知って……ますます距離を感じてしまいました」
アミリアは平民だ。今のままでは、貴族であるアランと結婚することはできない。
アンジェラは彼女が特待生であることを思い出した。
「ごめんなさい……そうだったわね」
アミリアは首を横に振った。
「私は……アランさんはアンジェラ様のことが好きなんじゃないかと思います」
「どうしてそう思うの?」
アンジェラは意外そうに聞いた。
「あれだけ必死にアンジェラ様を守ったんですから。戦っている時も、言葉で庇った時も……。それを見ていて、私、すごく羨ましくて、胸が苦しくなりました」
アンジェラはアミリアを抱き寄せた。
「そんなことないわよ。私が見る限り、彼は地位や名誉に興味がないわ。もしそうなら、とっくに自分の正体を明かしているはずだもの」
アミリアはアンジェラの肩に顔を埋めた。
「分かってます……。でも、やっぱり私は彼にふさわしくないんです。それでもアランさんは優しいから……私にできることは、少しでも彼の役に立って、傍にいさせてもらうことだけです」
「アランだって、あなたの気持ちに気づいているはずよ……」
二人は手を取り合い、星空を見上げながら湯に浸かった。
もし誰かがこの光景を見たら、二人が親友同士だと思うだろう。
まさか、ヒロインと悪役令嬢だとは夢にも思うまい。




