第11章 変わりゆく物語
二日目の昼前、俺たちは全行程の半分まで到達した。
どのグループよりも早く、そして安全に。モンスターの襲撃は一度もなかった。
モンスターは凶暴で旅人を襲うものだが、馬鹿ではない。自分より格上の相手には近づかないのだ。逃げなかったのは、人間を襲わないツノウサギや無毒なグリーンスライムくらいだった。
アミリアは道中で見つけた月光草を片っ端から採取し、鞄をパンパンにしていた。金が必要なのだろう。俺は何も言わずに見守った。
俺にとってこの旅は、サバイバル訓練というより森林浴に近い。しかも隣には高貴な美少女がいるのだから、退屈するはずもない。
一方、王子たちのグループは今頃崩壊しているだろう。
ヘンリーとアリスの関係が露呈すれば、嫉妬や不満が爆発し、グループは分裂する。その後、脳みそ筋肉の側近たちがそれぞれの事情で妥協し、再び王子のハーレムに戻っていくのがお決まりのパターンだ。
俺はそんな茶番に関わるつもりはない。
気になるのは、王子たちと決別したアンジェラだ。本来なら彼女のグループは他のグループより遅れを取り、モンスターの襲撃を受けてボロボロになって帰還するはずだ。
まあ、彼女にとっては不運な役回りだが、俺にできることはない。
「アランさん、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
森を抜け、広大な草原に出たところでアミリアが話しかけてきた。
目の前にはどこまでも続く緑の草原、背後には雄大な山脈。この世のものとは思えない絶景だ。天気も昨日より良く、入学以来最高の気分だった。
「何だ?」
「アランさんは、将来何をしたいんですか?」
彼女は興味深そうに俺を見た。
「ただ、自分の部屋でのんびりしたいだけだよ」
「そうじゃなくて……騎士になるとか、官僚になるとか、そういう立派な夢のことです!」
俺にとって、名誉や権力などどうでもいい。望むのは平穏だけだ。
「そんな立派な夢なんてないよ。僕はただ、普通の人と同じように静かに暮らしたいんだ」
「静かに暮らす?」
アミリアは理解できないといった顔で首を傾げた。
「ああ。故郷に戻って、家族と一緒に普通の生活を送りたい。できれば誰かと結婚して、それだけで十分だ。騎士や官僚みたいに華やかじゃなくても、死ぬときに『いい人生だった』って思えればそれでいい」
貴族、特に男として生まれた以上、そんな平凡な人生を送るのは難しい。
最悪なのは政略結婚だ。家のために格上の家の娘と結婚させられ、相手が性格の悪い年増や傲慢な女だった場合、夫というより奴隷のような扱いを受けることになる。
「そうですか……素敵ですね」
アミリアはなぜか顔を赤らめた。俺は彼女が何を想像しているのか分からず戸惑った。
「……君はどうなんだ? 何かしたいことはあるのか?」
答えは知っているが、一応聞いてみた。彼女の考えが変わっていないか確認したかったのだ。
「私は……絶望している人たちを助けたいんです。困っている人や、泣いている人に手を差し伸べられるようになりたいです」
彼女は優しい目で語った。
予想通りの答えだ。夢物語のように聞こえるかもしれないが、彼女は本気だ。
その純粋な心があるからこそ、彼女は聖女に選ばれたのだろう。未来の聖女として、彼女は多くの人々を、そして世界を救うことになる。アミリアは代わりの利かない唯一無二の存在だ。
「……夢見がちですよね。クラスのみんなには笑われました」
彼女は寂しそうに微笑んだ。
「笑うことなんてないさ。普通の人間が自分の信念に従って行動することの何がおかしいんだ? 人助けをしたいという思いは、嘲笑されるべきものじゃない。尊いことだ。誰が笑おうと、少なくとも僕はその考えを尊敬するよ」
俺は淡々と言ったが、アミリアの目はキラキラと輝き始めた。彼女は嬉しそうに微笑み、照れ隠しのように両手を組み合わせて俯いた。
「やっぱり……アランさんは本当に優しい人ですね。私……」
彼女は何か呟いたが、声が小さすぎて最後の言葉は聞き取れなかった。
その後、俺たちは街と森の境界にある湖に到着した。
草原の端にキャンプを張り、焚き火を起こして食事をとった。
アミリアは湖で水浴びをしたかったようだが、塩水湖だと知ってがっかりしていた。
食後すぐに就寝することになったが、やはり隣にアミリアがいると緊張して眠れない。彼女は相変わらず無防備にすやすやと眠っていた。
翌朝、俺は寝不足のまま目を覚ました。アミリアはすっきりした顔をしている。
朝食を済ませて出発し、昼過ぎには何事もなく街へ到着した。
一番乗りだ。他のグループは昨夜の嵐で足止めを食らっているのだろう。
俺たちは高位貴族ではないので、帰還しても歓声や拍手で迎えられることはない。ただ静かに待機室へ通された。
数時間後、王子たちのグループが帰還した。
窓から見下ろすと、沿道の人々が拍手喝采で迎えているのが見えた。ヘンリーとアリスは、出発前よりも親密な雰囲気で寄り添っていた。
俺はただ、それを遠くから眺めることしかできなかった。
夜には王宮で解散式と祝賀会が開かれる予定だ。貴族同士の交流を深めるためのささやかなパーティーだ。
俺にとって今回の合宿は、単位取得とアミリアとの仲が深まったこと以外に収穫はなかった。
最近、王都でも故郷の特産品を見かけるようになった。
五年前に俺が開発したコーヒー、砂糖、チーズなどだ。これらはラヴィア王国を経由して輸入されている。帝国は辺境との交易を行っていないため、直接取引はしていないのだ。
塩田開発の際、真っ先に接触してきたのがラヴィア王国だった。彼らは新しい特産品に興味を示し、高値で買い取ってくれた。帝国と同等の富を持つ大国だ。
帝国はモンスター襲撃の際、軍を引き上げて市民を見捨てた。そのせいで辺境の民は帝国に不信感を抱いている。事態収束後に派遣された兵士や騎士たちは猛反発を受け、撤退せざるを得なかった。
帝国は強硬手段に出れば辺境がラヴィア王国に寝返ることを恐れている。だから懐柔策として俺に男爵位を与えたのだ。高位の爵位を与えなかったのは、力を持ちすぎるのを防ぐため。そして俺を王都に呼んだのは、人質として監視するためだ。
あわよくば帝国の貴族令嬢と結婚させて取り込もうとしているのだろうが、そう簡単にはいかない。反帝国の貴族たちが俺に接触してくる可能性もある。
俺が街を発展させた黒幕だということは、帝国の上層部と一部の高位貴族しか知らない極秘事項だ。もし知れ渡っていれば、俺の元には縁談が殺到していただろう。
つまり、俺がここにいる三年間は、帝国にとって辺境との関係修復のチャンスでもあるわけだ。
イファン領は小さいが、黒髪の民を差別せずに受け入れたことで、五年前から多くの移民が流入し、今では人口五万人を超える中規模都市に成長している。実質的な統治者は父だが、裏で糸を引いているのは俺だ。
別に大層なことをしようとしたわけじゃない。あまりにも何もない街だったから、少しでも快適に暮らせるように知識を使って整備しただけだ。結果的に発展しすぎてしまったが。
やりすぎたかな……。
俺がため息をつきながらお茶を飲んでいると、アミリアが心配そうに覗き込んできた。
「どうしたんですか? ため息なんてついて」
彼女の優しい声に癒される。少なくとも、彼女の前では自分の悩みを隠す必要はない。
「故郷のことを考えてたんだ。色々と気掛かりなことがあってね」
「故郷ですか……。分かります。私も、家に残してきた母のことが心配で……。やらなきゃいけないことがたくさんあるのに」
アミリアの表情が曇る。
彼女の故郷も、以前のイファン領と同様に貧しい場所だ。領主が無能で税金を浪費し、民は飢えている。漁村出身の彼女は、さらに過酷な環境で育ったはずだ。
それでも彼女は優しさを失わなかった。将来、聖女として覚醒した彼女は、故郷だけでなく、同じように苦しむ多くの土地を救うことになる。
アミリアは寂しげに微笑んだ。
「夏休みに一度帰省しようと思ったんですけど、卒業するまで帰ってくるなと両親に言われてしまって……。ここで過ごすしかないんです」
彼女の父親は、母親が重病で介護が必要な状態であることを隠すために、帰省を禁じたのだ。
……待てよ? ゲームの設定では、彼女は母親と二人暮らしで、父親は生まれる前に亡くなっていたはずだ。
記憶違いか?
俺は真実を告げることもできず、罪悪感を覚えた。
「それなら……よかったら僕の故郷に来ないか? 王都ほど華やかじゃないけど、きっと気に入ると思うよ」
アミリアの顔がパッと輝いた。本来なら、彼女は夏休みに王子たちと海辺の別荘で過ごすイベントがあるはずだ。それを思うと胸が痛むが、今の彼女には俺しかいない。
「う、嬉しいです! アランさんの故郷に行けるなんて……!」
彼女はとろけるような笑顔を見せた。最近、彼女の笑顔を見るたびに心拍数が上がる。
シナリオの改変によって未来がどうなるか分からないが、今は目の前の彼女を大切にしたい。
夕方までお茶を飲みながら話し込み、アミリアはパーティーの準備のために部屋へ戻っていった。
ようやく他のグループも戻ってきた。教員や騎士たちが慌ただしく動き回っている。
アンジェラたちのグループがボロボロになって帰還するシーンか。
「クソッ、何なんだよあいつら……。森の中じゃ子猫みたいに大人しかったくせに、街に着いた途端に狂犬になりやがって」
集合場所の中庭で、ダニエルが膝を抱えて泣いていた。
「俺なんて酷いもんだぞ……。同じグループの女子たちの荷物持ちをさせられた挙句、夜は人間の盾としてテントの周りで寝かされたんだ。街に着いたら礼の一つもなく消えやがった」
ラモンドが死んだ魚のような目で遠くを見つめている。
「二人とも大変だったな……。俺の話はやめておくよ」
俺は二人の肩を叩いて慰めた。美少女と二人きりの甘い逃避行だったなんて言ったら、こいつらは舌を噛み切って死ぬかもしれない。
「いいんだ……アラン」
「ああ、何も言うな。お前の話の方が悲惨に決まってる」
二人は勝手に同情して頷き合った。
「誰からも相手にされず、ボッチ同士でペアを組まされるなんて……。俺たちにはまだ仲間がいるだけマシだったんだな」
「俺ってそんなに哀れに見えるのか?」
彼らは俺を全力で励ましてくれたが、その内容は的外れもいいところだった。友人にさえこう思われているなら、他人の目にはどう映っていることやら。
その時、アミリアが血相を変えて走ってきた。制服に着替えた彼女は息を切らせている。
ダニエルとラモンドは、アミリアを見るなり態度を一変させ、俺を鬼の形相で睨みつけた。
「おい!! 特待生がこんなに可愛いなんて聞いてねえぞ! お前、独り占めしてたのか!?」
「羨ましい! 羨ましすぎて死にそうだ!! アラン・ファザートォォォ!!」
「さっきまでの同情を返せ!」
「うるさい! 向こう行け!」
ラモンドは叫びながらダニエルの手を引き、走り去っていった。
残された俺とアミリア。彼女は深刻な顔をしている。
「アランさん、大変です! アンジェラ様がまだ戻っていないそうです! 昨日から森ではぐれたみたいで……」
これはゲーム通りの展開だ。アンジェラにとって最悪のシナリオ。
「心配ないさ。グループ行動だし、騎士たちが助けに行くまでの間くらい、みんなで協力してモンスターを追い払えるはずだよ」
アンジェラは剣も魔法も使える。取り巻きたちのレベルは低いが、森のモンスター程度なら死ぬことはないだろう。
「……違います、アランさん。アンジェラ様は一人なんです。同じグループの人から聞いたんですけど、殿下と喧嘩した時に置き去りにされたって……」
「なんだって?」
俺は驚愕した。
話が違う。本来なら、街に帰還してから孤立するはずだ。森の中で、しかもたった一人で置き去りにされた?
俺は事態を甘く見ていた。これはゲームじゃない、現実だ。シナリオという安全装置など存在しない。
アンジェラは一人で森に残されている。
面倒なことになった。




