再会するお姫様
「…………」
気まずい。話したいのだが、適切な言葉が見つからない。
そんなことを思いながら、エーファはゲイルをじっと見つめる。
彼女の視線に気付いたのか、ぴくりと体を震わし、目をあからさまにそらすと、何食わぬ顔をするゲイル。
忠誠を誓われてから数時間、ずっとそんな調子だった。
このままだと出発も遅れてしまう。驚きと戸惑いの気持ちを払い除けるように、頭を横に振ると、エーファは勇気を振り絞って、口を開く。
「あの……ゲイル、出発……」
だが、緊張してしまって、随分と言葉足らずになってしまった。これでもちゃんと答えてくれるだろうかと、不安になる。
「……件のドラゴン」
ゲイルがそうつぶやく。答えようとしたのだろうが、彼もまた上手く話せないようだった。
そう考えて、エーファは聞き返す。
「え?」
「金色のドラゴンだが、ここに住んでいる。 私達ドラゴンの連絡手段で、彼に尋ねてみたのだが、会ってくれるそうだ」
少し無愛想な声色だったが、ゲイルがそう話した。そして、どこからか、ビンを取り出し、エーファに渡す。
「お前が投げて、遠くに行ってしまったのを見つけて来た。 割れていなかったのを見ると、魔法が掛っていたんだろうな」
礼を述べ、エーファはそれを受け取り、魔法のポーチにしまう。
「乗れ」
その間にドラゴンに戻ったゲイルがそう言った。
うなずき、エーファは少し躊躇いながら、彼の背中に乗り、そっと捕まる。
ゲイルが飛び立ち、宙に浮かぶのを感じた彼女は、いつもと乗り心地が違うような気がしたのだった。
半時間程経って、辿り着いたのは、何か不思議な力に満ち溢れている森。空から見ていた他の森とは違って、そこは緑や生物達が生き生きとしている。
ゲイルがまた人になり、一行は彼の案内で森の中を歩いて行った。
そして、到着したのはドーム状になっている、広場のような場所。
「待っていろ、彼を呼んで来る」
そう言い残して、ゲイルが更に森の中へと入って行った。
彼を見送った後、エーファは辺りを見回す。ここを囲んでいる木はきっと何百年以上も生きて来たのだろう、かなりの高さがあって、見上げていると首が痛くなりそうだ。それに、広さもかなりのもので、ゲイルのようなドラゴンが最低でも十匹はいることができるだろう。
そんなことを考えながら、エーファが待っていると、またドラゴンになっていたゲイルと、彼より一回り小さい、金色のドラゴンが奥からやって来て、目の前で立ち止まる。
その瞬間、彼女は森が光り輝いたように思えた。まるで、金色のドラゴンが姿を現したことを森全体が喜んでいるようだ。彼女もその威厳に圧倒されつつ、会釈をした。
金色のドラゴンがすっと目を細めて、彼女を見つめる。そして、少し経ってから、初めて口を開く。
「……驚いたな。 ゲイルの話を聞いた時はてっきり男が来るのかと思ったのに。 初めまして、ピアート王国の姫君。 僕はドラゴンを一応まとめている、ディーゴと申します。 よろしくお願いしますね」
そう言い終えた後で、金色のドラゴン――――ディーゴがふふっと苦笑する。
「何だか堅苦しいですよね、エーリィンとお呼びしても……?」
一瞬にして、自分のことを理解したディーゴに、エーファは驚愕した。おまけに、略称ではない、本当の名前さえも彼は見破って、その一部で呼ばせてくれと言うのだ。
やはり、他のドラゴンとは違う。けれど、一目見て、彼が悪いドラゴンではないことも分かった。
「あ、はい」
少し緊張しながら、エーファは答える。
「……彼女は『素敵』だね、ゲイル。 君が惚れ込んだのも分かるよ。 エーリィン、彼は無茶をしなかったかい? きっと君が話す間なんかない内に、忠誠を誓ったんじゃないかな。 でも、彼を責めないであげてくれ。 彼は他のメスさえ愛したことがなかったし、ましてや人間の女性とは縁がなかったんだからね。 要するにオンナの扱いには慣れてないってことさ」
くすくすと笑いながら、ディーゴがそう言う。
そんな様子を見ていて、彼はきっとまだ若いのだろうと、エーファは思った。
横から咎めるように彼の名前を呼びながら、赤面しているゲイルを無視して、彼が続けて言う。
「その印……僕達ドラゴンの忠誠の証なんだ。 誓いを破ったりしない限り、それは消えない。 けど、それに手を当てて、彼を呼べば、どんなに遠くにいたって、彼が君を助けに来ることができるんだ。 彼はいつでも君を助ける意思を持っているよ。 だから、どんどん使ってやってくれ。 さて、鱗だったよね……こちらに」
そして、地面に横たわると、彼女に目配せをする。
胸元の印にも気付かれたたことにも驚きながら、エーファはうなずき、彼の側に向かう。
「取りなさい。 ここのがいいかな、一番しっかりしてるから」
ディーゴが羽を広げ、地面に降ろすと、その近くを指差す。
エーファは近くに行き、その付近を見つめる。
そこには他と比べて、一層強く、金色に輝く鱗がいくつかあった。
その美しさに魅了されたかのように、エーファは手を伸ばしたが、あることにふと気付き、口を開く。
「……鱗を取ったら、痛くないですか?」
「大丈夫、ちょっとかゆくなるだけ。 気にせず、取りなさい。 簡単に取れるよ」
首を横に振り、優しく微笑みながら言った、ディーゴの答えにほっと安堵しながら、彼女は「失礼します」と言って、一番輝いている鱗に触れ、それを慎重にはがす。
そして、簡単に取れたそれを大事にしまい、礼を厚く述べた。
少しその部分をかいた後、ディーゴが起き上がる。
「いやいや、礼には及ばないよ。 ……それよりも伝えたいことがある」
そして、目を細めながら、空を見上げて、こう話した。
「エーリィン、今、あなたの周りには何か、邪悪な気配がまとわりついている。 十分に気を付けて、この先を進んだ方がいい。 ゲイルも彼女をしっかり守るんだよ」
それから、彼と他愛もない会話をした後、一行は旅立つことを決め、ポシェルに向かうことにしたのだ。
目的は「神木」。それはポシェルの奥の森にあるらしいので、探しに行くことにしたのだった。
その途中、ゲイルの背中でのこと。
「えっとね、ボク、姿を消してることにするよ。 今まで、ほとんど役に立ったことなんてなかったし。 それに、二人きりの方がいいでしょ……きっと」
突然、ユタがそんなことを言い出したのだ。この間のことを考慮して、気を使っているのだろう。
「必要な時だけ呼んでね。 それじゃあ……」
エーファが止める間もなく、彼がそう言い残して、跡形もなく姿を消した。
何だか複雑な気持ちに陥った彼女は、ゲイルの背中を見つめる。
恐らく、彼女の視線に気付いているだろう。だが、それに応えることもなく、話す気配すらない。相も変わらず、彼とは上手く行っていないのだ。
結局の所、ユタの計らいは裏目に出てしまった。それまで、話は「少し」ならできたのだが、彼がいなくなってから、エーファとゲイルは黙りの状態になってしまったからだ。
ポシェルに着くまではもちろん、「神木」のある目的地に行く時さえも全く話さなかったのだ。
唯一話したのは聞き込みの報告ぐらいで、それも二人共事務的な口調になってしまっていた。
もちろん、エーファは何度も話し掛けようとしていたのだが、やはり上手く言葉が出て来なかったのだ。本当は今まで通り、皆で仲良くやって行きたいのに。
そう思い、悲しく感じながら、エーファは足を運んだ。
「神木」は確かに、ポシェルの北側にある、奥の森の中に存在していた。
現地民が言うには、それはかなり貴重で神聖な木で、特別な時以外は取ることは滅多にないらしい。
けれど、一応その枝を取ることは許されているそうだ。だが、木には「心」があるらしく、本当に必要だと判断された者だけが枝を取ることができるんだとか。
そんなことが言われていても、エーファはもちろん行くつもりだった。万が一取れなくても、何とかしようと決めていたのだ。
現に、エーファは未だ話せないゲイルと一緒に、森の奥までやって来たのだ。そして、「神木」のある所までやって来た。
「うわぁ……」
その光景に、エーファは声を上げる。
一番奥には大きな湖があった。そして、その中心に小さな島があり、湖とその間には木でできた橋が架っている。
「神木」はそこに根を張っていた。根元を見る限りではかなり細く思えるが、上を見上げれば、他とは違うことが分かる。天に向かって、大きく高く伸びているのだ。
そのずば抜けた高さに驚きながら、エーファは「神木」を見上げた。
――――キイィーン。
ふと、彼女の背後の弓が高音を発する。――まるで、また「神木」の元に帰れたことを喜ぶかのように。
エーファは橋を渡り、木をじっと見つめた。そして、おずおずと手を伸ばし、木に触れる。
――――トクン、トクン…………。
すると、「神木」が心臓と同じように動いているのが分かった。
何だか、懐かしい気持ちがして、エーファは木に抱きつき、目を閉じる。
そうしてみると、「神木」が仄かな熱を持っていることに気付く。エーファは体も心も温かくなるのを感じた。
今度は耳を木に当てる。
――――トクントクントクントクン…………。
すると、先程よりももっと大きく、早く、木が脈打つ音が聞こえた。
あぁ……この木はこんな風に生きて来たんだ。それも、何年も何百年も何千年も。
そう思うと、エーファは自分の心臓が「神木」の脈打つ音と同調したのが分かった。
その次の瞬間。不意にポトリという音が聞こえた。
不思議に思って、エーファは目を開け、「神木」から離れると、周囲を見回す。
「あっ……!」
そして、背後に「それ」を見つけた。――青々と繁っている数枚の葉が付いている、一本の枝を。
彼女はそれを広い上げ、胸に抱くと「神木」を見上げた。
木は分かってくれたのだ。彼女のことを理解したのだ――――その心臓と同調した、あの一瞬で。
そう悟って、エーファは小さくつぶやいた。
「……ありがとう」
エーファはもう一度「神木」に抱きつき、その枝をポーチに入れると、橋を渡ろうとした。
――が、何か違和感を感じて、立ち止まる。
それが何かを突き止めるため、エーファは弓矢を構えながら、辺りを見回す。
その間に、両足がガクガクと震え出した。恐怖を全身が感じている。
ふと、エーファは橋の反対側の水辺に人影を見つける。
まがまがしい空気をまとっている、その人影。彼女はそれが誰なのか知っていると思った。
「“おイタ”が過ぎますね……姫君」
普通なら届かないはずなのに、その声がはっきりと聞こえる。そう言いながら、人影が口元ににやりと邪悪な笑みを浮かべた。
……間違いない。エーファはそう思って、とっさに矢を放つ。
――――バキッ!
人影が右手だけで矢をつかんだかと思うと、簡単に折ってしまった。そして、脇にそれを捨てると、何事もなかったかのように、そのまた手を彼女に差し出す。
「お迎えにあがりましたよ」
それを見た瞬間、エーファは息を呑んだ。そして、あれは間違いなく、魔王だと思った。
「よく言うわよ! 今の今まで、散々放っておいたくせに! 誰があなたなんかと行くもんですか!」
彼女はそう言い放つ。それと同時に、悟ってしまった。今の自分は実力が桁違いに劣っている、と。
彼女は腰の剣に触れる。抜けるかもしれないと期待したのだが、それを見事に裏切って、剣は彼女の身を少し焼いた。
このままでは勝ち目がない。何とか逃げられないだろうか。エーファはそう思いながら、剣から手を放す。
一方、魔王が残念そうに肩をすくめると、「そうですか。 ならば――」と口を開く。
「――実力行使で行かせてもらう」
敬語を止めてそう言ったかと思うと、人影――――魔王が水辺から消えた。そして、次の瞬間には彼女の目の前に姿を現す。
ひぃっと悲鳴を上げて、エーファは後ずさりする。
魔王が彼女に手を伸ばすが、割り込んで、それを阻止する者がいた。人間化したゲイルだ。
舌打ちをして、魔王がゲイルをじっと見つめると、納得したように「あぁ」とつぶやく。
「お前は見張り役に連れて来たドラゴンだな。 ……すっかり、姫に肩入れしたようだな」
「うるさい」
不愉快そうに眉を潜めたゲイルがエーファを抱き寄せると、橋を一気に飛び越えた。そして、そのまま、森の中に入る。
少しの間、少し走って逃げると、彼がエーファを降ろした。
……このまま逃げたって意味がないに決まっている。魔王はすぐに追い付くはずだ。
そう考えて、エーファはゲイルを見た。彼もこれからどうすればいいのか、途方に暮れている様子だ。
「逃げても無駄だ」
そんな声が聞こえたかと思うと、二人の目の前に再び魔王が現れた。
ゲイルがまた、エーファを背中にかばう。
「いいことを教えてやろう。 姫よ、先程、『放っておいた』と言ったな? 逆に聞くが、この俺様がお前を“タダ”で野放しにしていたと思うか?」
そんな彼をあざけるような目つきで見ながら、唐突に魔王が口を開いた。
「耳を傾けるな」
ゲイルの忠告にうなずき、エーファは耳を両手で押さえた。
「もちろん、答えはノーだ――――お前は俺様の手中で動いていただけだ」
それに構う様子もなく、魔王がフードに手を掛けながら、続ける。
「エーリィンルナファ・ピアート」
耳を塞いでいるのに妙にはっきり聞こえたその名に、エーファはぴくりと体を震わす。その名は彼女の略称ではない、本当の名前。どうやって知ったのか分からないが、魔王がそれを口に出したので驚愕し、思わず反応してしまったのだ。
「……俺様はお前という存在をずっと待っていた。 もう長い間、この世界に住んでいたが、こうやって出歩くようになったのもお前が誕生してからだ。 それまでは隠れ潜んで暮らしていた。 エーリィンルナファ、俺様の望みを叶えられるのはこの世の中でお前だけなのだ」
無意識に、エーファは両手を耳から離していた。何かに魅入ったかのように、曇った目で魔王をじっと見つめている。
彼女の様子を見て勝ち誇ったように、魔王がにやりと笑った。そして、フードを少しずつ下ろしながら、また口を開く。
「……お前の能力が欲しい。 様々な生物と話せることなど、ただの一端に過ぎないのだ」
「何……私の能力って…………?」
……何だか、意識が朦朧としている。けれど、そんなことどうだっていい。今は知りたい。自分の能力が何なのかを。
エーファは一心にそう思って尋ねる。彼女の目は未だ、魔王を見ていた。
「駄目だ、エーファ! 聞くな、罠だ! 目を醒ませ!」
そんな彼女の異変に気付いたゲイルが、その肩を揺さ振る。
だが、何の反応もなく、彼女は曇った瞳でひたすら魔王を見て、彼のことなど見えていないかのようだった。
「邪魔だ」
忌まわしそうに、魔王が手を振った。すると、ゲイルの体がふわりと宙に浮かび、強く木に打ち付けられた。
「おとなしくそこで見ていろ」
魔王がそう言った瞬間、ゲイルは見えない何かで縛り付けられ、身動きができなくなったのを感じた。
「…………ッ」
ゲイルが悔しそうに顔を歪める。力の差があり過ぎて、魔法を解くこともできないのだ。
ふっと嘲笑して、魔王がついにフードを外した。
耳辺りまで伸びている灰色の髪、病的に蒼白い肌の顔。その顔は二十代半ばに見えた。……実際はどの位生きているのか、分からないが。
だが、顔よりももっと目立つものがあった。ゲイルが驚いた目で、エーファは完全に魅入られた目で、「それ」を見ている。
色違いの瞳。フードを脱いだことで「それ」は露になった。右目は血を思わせるような、まがまがしい赤、左目は妖しくもあるが、どこか美しい紫だ。
「知りたいか? ならば、教えてやろう。 心を惹き付けることにより、生物はもちろん、人をも操る力。 それがお前の能力だ」
そこで、エーファは我に返った。けれど、目だけは魔王の瞳に囚われている。
……え?今、何て言ったの?
「人と生物を操る能力。 以前使ったことがあるだろう? 両方に?」
ふと、エーファは思い出した。一度目は記憶がある。ノイターの森で生物達を操った。二度目は恐らく……シェリミアの時だ。熱さのせいだと言われて、鵜呑みにしたので気付かなかったが、無意識的に王女を操ったに違いない。
エーファはガタガタと震え出す。自分が怖い。なんて恐ろしいことをしてしまったんだろう。
「その能力があれば、俺様はこの世界を支配できる。 能力を覚醒させるため、お前を放っておいたのだ」
全部仕組まれたことだったの?いや、そんなことより、もしかして、私は知らない内にユタとゲイルを操っていたんじゃ……?
……怖い。
……恐い。
……コワイ。
エーファは一層震え出す。見る見る内に青ざめ、歯も上手く噛み合わず、ガタガタと音を出しながら、震えている。
耳も上手く聞こえない。誰かが名前を必死に呼んでいるような気がしたが、それが誰なのか考える気力が彼女には残っていなかった。
「……そうだ、もっと自分を恐れろ! そして、俺様のものになるのだ!」
甲高く笑いながら、魔王が叫ぶ。そして、指をパチンと鳴らした。
その次の瞬間、エーファの頭の中で、キィンという耳鳴りに似た音が響き始める。
反射的に、エーファは耳を押さえた。だが、その音は止まらない。
「う……」
振り払おうとするように、彼女は頭を横に激しく振る。
「あぁ……ッ!」
苦しい、クルシイ。エーファは顔を歪める。
彼女の傍らに、魔王が立ち、詠唱を始めた。
「うわああぁぁ――――!」
呪文が進められると同時に、エーファは顔を一層歪め、叫ぶ。
彼女の周りに、黒い煙が発生した。どう見ても、不穏で邪悪なそれは彼女を包み込んで行く。
「……ウワアアアァァァ――――――ッ!!」
エーファはまた叫び、その場に倒れ込んだ。
苦しさのせいで、意識が朦朧としている。さらに、煙のせいか、呼吸も上手くできない。その上、音のせいで、頭がひび割れそうだった。
……この苦痛から解放されたい。彼女は強くそう願った。
その時、煙がエーファの全身を包み込み、彼女の姿が周りから見えなくなる程黒ずんでいた。
だが、当の本人はそのことに気付いていなかったし、煙のこともほんの少ししか気にしていなかった。
息切れしながら、エーファは泣きじゃくり始める。苦しい……助けてタスケテ…………。
――――眠れ。
誰かの声が聞こえる。彼女は思わず、反応して、耳を傾ける。眠る……?そうすれば、楽になることができるのだろうか?
――――あぁ、その通りだ。 さあ、眠れ、眠るのだ……!
……そうか、眠れば楽になれるのか。なら、眠ろう。そうすれば、きっと何も心配はいらない。人や生物を操るなどという不安からも解放される。あぁ……きっとそうだ。
そんなことを考えていたエーファの瞳から、次第に光が消えて行く。
「エーファ! しっかりしろ、魔王に惑わされるんじゃない! 自分の意思をしっかり持つんだ! エーファ、エーファ…………!」
ゲイルが大声で叫んだが、虚しくも、彼の言葉はエーファの耳に届いていなかった。
「……無駄なことを。 さあ、早く眠れ。 その苦痛から解放されたいのだろう?」
ふっと彼を嘲笑し、魔王が言う。そう、エーファに語り掛けている声とは紛れもなく、魔王のものだった。
――――さあ、早く眠れ。 その苦痛から解放されたいのだろう?
急かす声に、エーファは心の中で二つ返事をする。
そうだ、早く眠ってしまおう。彼女はそう思って、目を閉じ、石井を手放そうとする。
だが、不意に、体が何かに反応して、ぴくりと動いた。そして、急に、心臓の鼓動が早くなる。
エーファははっと息を呑み、目を開けた。……この感覚、まさか――――。
――――エーファ姫!
眠れと言っていたものとは違う声が聞こえて来た。かと思うと、何かで煙がなぎ払われる。
その瞬間、エーファは音以外の苦しみから解放された。
「エーファ姫! 大丈夫ですか?」
そう言いながら、駆け寄って来た人物がいた。漆黒の一つにまとめられた長い髪、緑の瞳――――。
「……リューグ?」
エーファの問いに、彼が微笑みながら、うなずいた。
「あぁ、リューグ、本当にあなたなのね……!」
彼女は嬉し涙を一筋流すと、彼――――リューグに強く抱きつく。そして、やっと会えたことを嬉しく思えて、丁寧語を使うことも忘れて、自分の気持ちを伝えようとする。
「私、あなたにずっと会いたかったの。 今まで、どう――――」
最後まで言い切る前に、彼女は力がだんだん抜けて行くのを感じた。その上、目も霞んで来ていたので、視界に入る全てがぼやけて見えていたのだ。
「あ……っ」
……もっと話したい。そう思って、エーファはリューグにしがみついたが、口を開くこともできず、そのまま気を失ってしまった。
リューグはそんなエーファを傍らにそっと寝かせ、優しく彼女の手を握る。
「エーファ!」
そこに、心配そうな顔をしたゲイルが駆け寄って来た。黒い煙をなぎ払う前、彼もまた助けられていたのだ。
「大丈夫、気を失ってるだけで、魔法には掛ってないから。 ……彼女を頼んだよ」
初対面だったが、何の遠慮もなく、リューグは彼にそう言った。
そして、彼がうなずいたのを確認すると、エーファの手を離し、魔王の方に向き直る。
「……姫に何をした」
果敢にも魔王を睨み付けながら、低く、怒りに満ちた声音でそう尋ねた。
「お前はナティアの王子だな? ……父王とグルではなかったのか?」
魔王がふんと笑いながら、挑発して来る。
「答えろ!」
だが、それに乗ることもなく、リューグはそう言い放つ。そして、腰から「あるモノ」を抜いた。
それは剣――――名もなき大地で手に入れ、その刃に水晶がはめられている、曰く付きの剣。エーファの周りの煙をなぎ払ったのも、ゲイルが縛り付けられてられていた何かを破ったのもそれだった。
「その剣は……!」
魔王が驚きに満ちた瞳で剣を見つめる。
そこで初めて、魔王に「恐れ」というものが浮かび上がる。本人は隠そうと必死だったが、顔がほんの少し青ざめ、体が小刻みに震えていた。
「……何が要求だ?」
魔王が剣から目を離さないまま、リューグの質問に答えず、唸るように尋ねる。
「退け」
リューグは冷たい声で話した。エーファと同じように、彼もその場で戦っても勝ち目のないことが分かっていたのだ。
納得が行かないのか、ちっと舌打ちをすると、魔王がフードを被り、身をひるがえして、姿を消したのだった。