第5章 病棟担当医が教えてくれた言葉と一冊の本
※この連載に書いてある文章はすべてノンフィクション(実話)です。
一階の病棟担当が私の主治医から主治医の義理の弟さんに変わって(私の入院してた病院はご家族で病院をしているところだったんです。)私は正直「えーまじか…。」と思ってました笑。なぜなら、外出や外泊の必要がある場合や退院についての決断は主治医しかできないからです。毎週あった主治医と話す機会がなくなってしまうのは致命的でした。
しかし病院の事情ですし、義理の弟先生と面談をさせていただくことになりました。
最初の面談では相撲の話をしました笑。義理の弟先生はなんと小学生のころから相撲好きなようで、ちょうど11月場所が始まることもあってお相撲さんへの愛を語り合いました笑。
2回目以降もまた相撲⁉…ではなく笑。いろいろな知識を教えてくださいました。
まずは、「木鶏」です。戦前の大横綱、双葉山が大台の70連勝に大手の懸かった取組で安藝ノ海に敗れ、その夜に友人に電報を送った言葉に「我未だ木鶏たりえず」というものがあります。「木鶏」というのは中国の古典『荘子』の故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態を指し、強さを秘めて敵に対してまったく動じないことのたとえらしいです。11月場所に私が大好きな琴桜関が優勝して、琴桜関は優勝インタビューを受けても笑顔を見せたものの泰然とした態度で「まだ上があるから」と話していた。先生は私に『お前も「木鶏」になれ』と伝えたかったのかどうかは分かりませんが、そういう精神力の強さが生きる上で大事だと学びました。琴桜関の優勝は私にとって大きな出来事でした。私は入院中ずっと2つあるうちの1つの大きなテレビを借りて相撲を観ていました。(ガチファンなので15時頃に始まる十両から18時までです、当時の患者さんたちご協力ありがとうございました笑)入院生活に疲れて早く退院したいという気持ちでいっぱいの時期、年間最多勝と優勝を果たした琴桜関を見て「生きててよかった。あの時死んでたらこの瞬間を観れなかったんだ。」と心底感じられて自然と涙が頬をつたっていました。人生捨てたもんじゃないと思いました。
そして、12月に入って義理の弟先生との面談で私は言いました。
「私は自分の存在意義が分からなくなったんです。」
私の言葉に義理の弟先生は眉毛をぴくっと動かし、顎に右手をついて言いました。
「自分の存在意義……か。うーん。なるほどね。」
その次の面談後、義理の弟先生は私の部屋にわざわざ訪れてくださって一冊の本を持ってきてくれました。
「あの、『夜と霧』という本はご存知ですか?」
「いいえ。どういった本なんですか?」
私は前のめりになって興味津々でした。
「すごく難解な本なんです。ヴィクトール・フランクルさんというオーストラリアの精神科医かつ心理学者、そしてユダヤ人迫害で強制収容所から生還した人が著者なんですよ。『夜と霧』は東日本大震災後にすごく売れて、人々の心を照らした本なんです。」
あの強制収容所から生還した人!?私は『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクさんが小学生の頃から大好きだったので(伝記の漫画のイラストが可愛かったこともあって笑)、より一層興味を持ちました。義理の弟先生が持っていたのは、『ヴィクトール・フランクル それでも人生には意味がある』というNHKこころの時代で発売した本でした。
「この人はどんな人生にも意味があるという考えを持ったロゴセラピストなんです。この本1000円くらいしたから読んだら返してくださいね。」
「あ…そうなんですね。必ず返します。ありがとうございます。」
私は貸していただいた本を1週間で2周しました。私はヴィクトール・フランクルさんの考えに感銘を受けたのです。
まず、「一人類主義」です。『この世には2種類の人類しかいない。それは品格があるかどうかである。そして必ずどのコミュニティーにもこの2種類の人間が入り混じっている。』
ヴィクトール・フランクルさんは性別や人種、宗教などで人間を差別することは決してあってはならないという考えを持っていました。私も開放病棟に来たての時に思ったことがあったんです。
「”人間”っていうだけで、ただそれだけで、お互いに仲良くなれたらどれだけ素敵な世の中になるだろう。『私、人間なんです。あなたも人間ですか?』『そうですそうです。』『え、じゃあ人間同士ですね。仲良くなれるじゃないですか!』なーんて世の中ならどれだけ生きやすいだろうに。」
何だかその時の自分の考えが蘇ってきて胸が熱くなりました。
次に、「実存主義」です。何だか話が難しいと感じると思いますが、「自己のあり方を他者や社会の中に位置づけ、自らの生き方を追求することによってこそ、人間は存在する。」という考え方です。つまり、過剰に自己観察するのではなく、”まなざしを外に向けるべきだ”ということだと私は解釈しました。世界に目を向ければ、紛争や戦争が絶えない国や貧富の差が激しくて生きるのが苦しい人たちがたくさん存在するのです。そういう問題を解決するために自分はどのような貢献ができるか考えてみれば、自分の人生に意味を見出せるのです。私はこの考え方を知って、「自分はまだ社会に貢献できていなかった。これから貢献していかないといけないんだ。」と強く思えました。
最後に、「私たちは人生の意味を問うのではなく、人生に意味を問われている」という、哲学的に言うとコペルニクス的転回です。「人生に何の意味があるのか?」ではなく、「人生から生きている意味を問われているのだ」と考えるのです。
私は最初この考えを読んだときに「は?」ときょとんとしてしまいました笑。人生が私たちに生き方を問いている?人生ってそもそも物理的に存在するものじゃないのに?
ヴィクトール・フランクルさんは強制収容所で劣悪な環境下で耐えがたく自殺しようとするユダヤ人たちにこのような言葉をかけて励ましていたそうです。
「今はまだ分からないだろうが、誰かが何かがあなたを待っているはずだ。だから苦しみから逃げてはいけない。どうか生き延びてくれ。」
私はこの言葉を見てようやくヴィクトール・フランクルさんの考えに納得しました。私たちは人生に期待するのではなく、人生から期待されているのだ、と。人生の意味は人生を全うし、死を迎えるまで分からないかもしれない。しかし、人生の中でいろんな状況を経験し、その1つ1つの状況下で人生に意味を見出して「意味への意志」を忘れずに生きていくことが大事なのだと学びました。
この本を読んでヴィクトール・フランクルさんと出会い、私は自分の存在意義は何なのかを見失うことはなくなりました。私のことを待っている誰かや何かがあると思えたら、私は生きていてもいいんだと思えたからです。
私は今でもずーっと義理の弟先生に心から感謝しています。この本と出会えて私の人生観は180度変わりました。みなさんにもぜひ読んでほしい本ですね!
ー本を貸してくれた時に「この本1000円くらいかかったから返してね。」と言うお医者さんに対して、「え!お医者さんにとっての1000円って100円みたいなものじゃないの!?この本プレゼントはしてくれないんだ…。」と思わず心の中でつぶやいてしまった生意気な小娘でしたね笑。私は退院後、この本を買いました。またいつか生きていることに悩む時期が来たら読み返そうと思って。そういう人がいたときに貸せるようにと思って。何だかお守りみたいな本です。『夜と霧』も読んでみようっと。母が買ってきてくれたんです。本の内容の理解は…できる自信はあんまりありませんけどねえ笑
つづく
ヴィクトール・フランクルさん、いよいよ登場です!私の入院生活の中で彼の存在が大きかったことか言葉では表せません。入院してなかったら出会えていなかったのでこれも何かの運命だったのでしょうね。みなさまにも彼の思想をぜひ知っていただきたいです★