夏の水影 第三章 境界を越えて
息が止まっていることに気づき、慌てて吸い込んだ空気は冷たく、肺の奥まで刺さった。
視線を逸らさぬまま一歩踏み出すと、足元の石がごろりと転がる。
音は川面まで届かず、すぐに泥に沈んだ。
──その時だった。
流れが緩んだと思った瞬間、水面が広がり始めた。
静かな川は、ゆっくりと膨らみ、やがて対岸との距離を飲み込むほどの湖へと変わっていく。
足元の石が沈み、冷たい水が靴の底を濡らした。
湖面には、月光が幾筋も降り注いでいた。
一本、二本──やがて数え切れない光の帯が水面を走り、白銀の網のように広がる。
その光は揺れながら、こちらの岸まで伸びてくる。
ポケットの中で、スマホが再び震えた。
画面には短い一行。
「お前のことを愛しているよ」
胸の奥で何かが外れた音がした。
次の瞬間、視界が滲み、熱いものが頬を伝って落ちた。
水の冷たさと、涙の温かさが交じり合い、境界がわからなくなる。
湖面はさらに輝きを増し、目を細めるほどの光に満ちた。
その中心に、かつての記憶が影のように浮かんでくる──
笑い声、手の温もり、食卓の匂い。
それは確かに、僕が失くした日々の形をしていた。
伸ばした手は、空を掴むだけだった。
光は静かに湖面を覆い、やがて、すべてを白く塗りつぶしていった。
──気づくと、冷たい石の感触が背中にあった。
玄関の戸が開き、灯りが差し込む。
濡れた靴の先に、スリッパが二つ揃えられている。
おじさんが無言で片方を履かせ、おばさんがタオルを押し付ける。
僕はそれを受け取らず、鞄の中を探った。
ノートの端が濡れている。指先で押さえると、紙がふやけて柔らかい。
そのまま靴を脱ぎ、廊下を抜け、部屋に入る。
机の上の地図を広げ、赤い線を一本引く。
風穴の位置から遠ざかるように、街の方へ。
ペンを置き、鞄から御札を出す。
ノートのポケットに差し込んで、深く押し込む。
机の引き出しを閉め、鍵をかけた。
居間から皿の音がする。
匂いが漂ってきても、立ち上がらない。
窓の外の夜をじっと見つめる。
やがて、袖で濡れたノートの表紙を拭いた。
明日、駅前の文房具屋で新しいノートを買うだろう。
けれど、もう「風穴」と書くことはない。
あれから十年──冷たい風と白い湖面は、いまだ瞼の奥に残っている。
白衣の袖をまくり、手袋をはめる。
手の甲に走る細い血管が、緊張で浮かんでいた。
処置室のベッドには、小さな男の子が横たわっている。
泣きじゃくる声をやさしく遮るように、彼は胸に聴診器を当てた。
耳に響く鼓動の奥で、かすかな風の音が混じった気がする。
「大丈夫だよ」
声は低く、揺れない。
器具を持つ手は迷いなく動き、子どもの呼吸は徐々に整っていった。
処置が終わると、男の子は母親に抱きしめられた。
彼は視線を落とし、カルテに簡潔な記録を書き込む。
──ペンを置く瞬間、ふと机の引き出しの奥の感触を思い出す。
湿った紙、冷たい風、白く塗りつぶされた湖面。
誰にも話さないまま、彼は次の患者の部屋へ向かった。




