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Rev.2_夏のホラー2025水の章  作者: シニフィアン&グノーシス(AI)
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夏の水影 第三章 境界を越えて

 

 息が止まっていることに気づき、慌てて吸い込んだ空気は冷たく、肺の奥まで刺さった。

 視線を逸らさぬまま一歩踏み出すと、足元の石がごろりと転がる。

 音は川面まで届かず、すぐに泥に沈んだ。


 ──その時だった。


 流れが緩んだと思った瞬間、水面が広がり始めた。

 静かな川は、ゆっくりと膨らみ、やがて対岸との距離を飲み込むほどの湖へと変わっていく。

 足元の石が沈み、冷たい水が靴の底を濡らした。


 湖面には、月光が幾筋も降り注いでいた。

 一本、二本──やがて数え切れない光の帯が水面を走り、白銀の網のように広がる。

 その光は揺れながら、こちらの岸まで伸びてくる。


 ポケットの中で、スマホが再び震えた。

 画面には短い一行。

 「お前のことを愛しているよ」


 胸の奥で何かが外れた音がした。

 次の瞬間、視界が滲み、熱いものが頬を伝って落ちた。

 水の冷たさと、涙の温かさが交じり合い、境界がわからなくなる。


 湖面はさらに輝きを増し、目を細めるほどの光に満ちた。

 その中心に、かつての記憶が影のように浮かんでくる──

 笑い声、手の温もり、食卓の匂い。

 それは確かに、僕が失くした日々の形をしていた。


 伸ばした手は、空を掴むだけだった。

 光は静かに湖面を覆い、やがて、すべてを白く塗りつぶしていった。


 ──気づくと、冷たい石の感触が背中にあった。

 玄関の戸が開き、灯りが差し込む。

 濡れた靴の先に、スリッパが二つ揃えられている。


 おじさんが無言で片方を履かせ、おばさんがタオルを押し付ける。

 僕はそれを受け取らず、鞄の中を探った。

 ノートの端が濡れている。指先で押さえると、紙がふやけて柔らかい。


 そのまま靴を脱ぎ、廊下を抜け、部屋に入る。

 机の上の地図を広げ、赤い線を一本引く。

 風穴の位置から遠ざかるように、街の方へ。


 ペンを置き、鞄から御札を出す。

 ノートのポケットに差し込んで、深く押し込む。

 机の引き出しを閉め、鍵をかけた。


 居間から皿の音がする。

 匂いが漂ってきても、立ち上がらない。

 窓の外の夜をじっと見つめる。


 やがて、袖で濡れたノートの表紙を拭いた。

 明日、駅前の文房具屋で新しいノートを買うだろう。

 けれど、もう「風穴」と書くことはない。




 あれから十年──冷たい風と白い湖面は、いまだ瞼の奥に残っている。


 白衣の袖をまくり、手袋をはめる。

 手の甲に走る細い血管が、緊張で浮かんでいた。


 処置室のベッドには、小さな男の子が横たわっている。

 泣きじゃくる声をやさしく遮るように、彼は胸に聴診器を当てた。

 耳に響く鼓動の奥で、かすかな風の音が混じった気がする。


 「大丈夫だよ」

 声は低く、揺れない。

 器具を持つ手は迷いなく動き、子どもの呼吸は徐々に整っていった。


 処置が終わると、男の子は母親に抱きしめられた。

 彼は視線を落とし、カルテに簡潔な記録を書き込む。


 ──ペンを置く瞬間、ふと机の引き出しの奥の感触を思い出す。

 湿った紙、冷たい風、白く塗りつぶされた湖面。


 誰にも話さないまま、彼は次の患者の部屋へ向かった。


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