夏の水影 第二章 影が消えても
土曜の夕方、空は濁った灰色だった。
昼間の温度が嘘のように下がり、風が手首の内側を撫でるたび、皮膚がざわつく。
天気予報は降水確率二十パーセント。傘は持たない。両手を空けたかった。
丘を越える坂道を、駅から一時間かけて歩く。
住宅の並びが途切れると、アスファルトの色が急に褪せ、路肩に草がはみ出してくる。
やがて、舗装も切れ、砕けた石と湿った土が靴底を重くした。
前に来た時と同じ祠が、木立の奥に立っていた。
瓦の隙間に溜まった枯れ葉は、前より少し増えている。
祠の前に立ち、手を合わせるふりだけをする。
柏手は打たない。音は奥のものを呼び寄せる気がして。
裏手に回ると、盛り土がぽっかり崩れていた。
黒い口。
湿った冷気が、ゆっくりと吐き出される。
それは呼吸というより、見えない誰かがこちらを試すために吐くため息のようだった。
しゃがんで覗く。
奥は暗く、入口から一歩先で光が死んでいる。
スマホを取り出し、ライトを点ける。
土壁は湿って黒光りし、根が細い指のように絡み合って垂れていた。
一歩、踏み込む。
足音が吸われていく。
外の風と違う、地下の温度が足首から這い上がる。
二歩目で、背中の空気が閉じた。
呼吸音がやけに大きく聞こえる。自分のものかどうか、すぐにはわからなかった。
足元に小石が転がる。音は響かず、すぐに泥に吸い込まれる。
光は届かないが、耳の奥で水の流れる音がする。
細い、水琴窟のような響き。
その音に導かれるように、狭い通路を進む。
通路が少し広がり、湿気が肌にまとわりつく。
足元の泥が急に固くなった。踏み出すと、靴底に石の感触。
視界が開けた。
そこは天井の割れ目から月光が落ちる空間だった。
銀色の光は、地下を流れる川にまっすぐ注ぎ込み、水面を揺らしている。
川幅は十メートルほど。向こう岸は薄い霧に包まれ、輪郭がぼやけている。
ポケットの中で、スマホが震えた。
圏外のはずなのに、画面が点き、文字が浮かぶ。
「ごめんな、寂しかっただろう、でも、いつでも、私たちはお前を見守っているよ」
胸の奥で何かがきしむ音がした。
川の向こうの霧が薄れ、二つの影が立っているのが見えた。
大人の背丈。輪郭は柔らかく、光に溶けそうだ。
呼びかけようとした瞬間、冷たい風が吹き、霧が閉じた。
月光は変わらず川を照らしている。
だが、影はもういなかった。




