夏の水影 第一章 風の向こうで
放課後の図書室は、エアコンの吹き出し口が唸るだけで静かだった。
新聞縮刷版の紙は重く、端が波打っている。
僕は「行方不明」「洞窟」「崩落」「未確認」の索引を指 で追い、付箋を貼っていった。
平成十七年、奥多摩で少年が単独行動中に不明──のちに無事保護。別紙には、旧防空壕の崩落記事。
さらに昭和の終わり、武蔵野台地にぽつぽつ口を開けた「陥没穴」の写真。
地面の穴の黒が、やけに均質で、覗き込む瞳のように見えた。
ノートの表紙は指の汗で柔らかくなっている。
今日のページの見出しは赤ペンで大きく、「風穴/黄泉」。
見出しの下に、都下の記事の切り抜きが並ぶ。
多摩丘陵、旧谷戸道、祠、無名の穴。地名は伏せ字で書いた。
誰かに読まれても、意味がわからないように。
古本屋では、迷わず郷土誌と怪談実話の棚に向かう。
蛍光灯は一本切れて、棚の奥だけが薄暗い。
背表紙を一本一本、人差し指で撫でながら、紙魚の食い跡のある一冊を抜く。
『東京の鍾乳洞と風穴』。
モノクロ写真の頁が開いた場所は、奇妙に紙が寄れていた。
そこに載るのは、祠の裏から吹き出す“夏でも冷たい風”。
ぺら、とめくると、余白に誰かの字で名前と電話番号が鉛筆で薄く残っていた。
読み取らない。
写さない。
ページの上に手を置くだけ。指先に、鉛筆の炭がざらりと移る。
帰り道、バスの窓から丘陵の稜線が見える。
夏の雲が低く、稜線の切れ目に二本の電波塔が突き刺さっている。
その向こうに、湿った風が溜まっている気がした。
夜、机に等高線の地形図を広げる。
谷戸の底に溜まった冷気は、地図の線の重なりが教えてくれる。
紙の上の波のような線の間には、民家、畑、神社。
僕は赤いシャープペンで点を打ち、点と点を結ぶ。
点の一つに、ほんの小さく丸をつけた。
理由はない。ただ、そこに風の音がする気がしただけだ。
枕元に置いた文庫本は、黄泉の章で折れている。
「黄泉比良坂──戻れぬ境」。
頁の端が少し濡れていて、翌朝、乾いた紙は波を打っていた。
どうして濡れたのかは、ノートには書かない。書かないほうがいいこともある。
週末は、都下の“記事の現場”に行く。
駅を降りて、ロータリーの端から生活道路に入る。
自転車のベル、パン屋の匂い、選挙の拡声器。
日常の音は、奇妙なほど異界を隠す。
路地を三つ折れて、ポケット地図と同じ角度で祠が現れた。
祠の裏は崩れた土盛り。
細い竹が二本、抜けた歯のように斜めに立っている。
近づくと、土の匂い。湿り気が増す。
耳を澄ますと、土の奥でかすかに空気が吸い込まれる音がした。
「ふう……」
風の呼吸。
吸って、吐いて。祠のひさしの影が、わずかに震える。
スマホで写真を撮る。
ピントが合うまでの間に、影が形を変える。
一枚目、二枚目、三枚目。
四枚目でやめた。数が増えると、どれも同じに見えるからだ。
画像はクラウドに上げない。
フォルダは小さな鍵のアイコンが付いたまま、机の奥で眠る。
別の日、青梅方面の古い神社で、御札をもらった。
「家内安全」と「交通安全」、それから端のほうに小さく「父母守護」と墨で書かれた札。
賽銭箱の向こうで、宮司は何も言わない。
僕も何も言わない。
御札はノートの最後のポケットに差し込む。ただそれだけだ。
効き目を試す儀式は、しない。儀式は、してしまうと失敗するから。
夜はネット。
地図アプリで衛星写真を拡大し、木々の隙間から灰色の地肌がのぞく場所を探す。
匿名掲示板の過去ログを漁る。
「夏でも冷たい」「白い息が出る」「タバコの煙が吸い込まれる」。
返信のない書き込みは、何年経ってもそこにいる。
スクショは撮らない。
画面に顔を近づけ、目に焼き付ける。
それで十分だ。消えても、頭のどこかで点滅する。
深夜、机のランプを消し、真っ暗な部屋で、耳だけで世界を聞く。
冷蔵庫のコンプレッサー、遠くの国道、猫の足音。
ふいに、窓の桟から細い風が抜けた。
ランプを点ける。
風の通り道に、ノートが開いたまま置かれている。
ページは「黄泉」ではなく、「風穴」の章で止まっていた。
偶然だ。偶然だが、偶然の形はときどき、指でなぞれる。
月曜の朝、教室で笑われる。
「また、オカルト? お前、好きだな」
僕は笑ってごまかす。教卓の角でノートの端がまた一枚、柔らかくなる。
窓のガラスに映った自分は、案外元気そうに見えた。
放課後、別の丘に向かう。
都下の住宅地は、どこも似ている。似ているから、道を覚えるのが早い。
蛇行する小川に沿って歩き、堤の切れ目で右に曲がる。
空き地の端に、金網で囲われた小さな立入禁止の看板。
金網の結束バンドは、一本だけ新しい。
しゃがんで覗くと、地面の色がそこで急に黒くなる。
覗く者の目に吸い込まれないように、地面は先に吸い込んでいる──そんなふうに見えた。
帰りのバスで、窓に額をつける。
ガラスはほんの少しだけ冷たい。
遠くに、昼間見た祠と同じ型の屋根が見えた。屋根の真下は、たぶん穴だ。たぶん風が通る。
バス停の名前は、覚えない。
名前で場所を呼ぶと、どこかが固定される。
固定されると、道が細くなる。細い道は好きだけれど、今はまだ広いほうがいい。
家に戻ると、台所から匂いがした。
湯気の向こうで、誰かが笑っている。
靴を脱ぐ音が少し大きすぎて、廊下に響く。
ノートは鞄の中に入れたまま、ファスナーを閉めた。
閉めながら、ふと思う。
ノートには何でも書くけれど、書かないほうが落ち着く言葉もある。
その夜、風が強かった。
ベランダの物干し竿が、金属音を一度だけ鳴らした。
音は短く、すぐに夜の深いところへ沈んでいった。
目を閉じると、祠の裏の湿った土の匂いが戻ってくる。
あの黒い口は、呼吸をしていた。
吸って、吐いて──
僕は、吸う側に立っていたのか、吐く側に立っていたのか。
どちらにせよ、次の週末にはまた、同じ丘を歩いているはずだ。




