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Rev.2_夏のホラー2025水の章  作者: シニフィアン&グノーシス(AI)
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夏の水影 第一章 風の向こうで


 放課後の図書室は、エアコンの吹き出し口が唸るだけで静かだった。

 新聞縮刷版の紙は重く、端が波打っている。

 僕は「行方不明」「洞窟」「崩落」「未確認」の索引を指  で追い、付箋を貼っていった。

 平成十七年、奥多摩で少年が単独行動中に不明──のちに無事保護。別紙には、旧防空壕の崩落記事。

 さらに昭和の終わり、武蔵野台地にぽつぽつ口を開けた「陥没穴」の写真。

 地面の穴の黒が、やけに均質で、覗き込む瞳のように見えた。


 ノートの表紙は指の汗で柔らかくなっている。

 今日のページの見出しは赤ペンで大きく、「風穴/黄泉」。

 見出しの下に、都下の記事の切り抜きが並ぶ。

 多摩丘陵、旧谷戸道、祠、無名の穴。地名は伏せ字で書いた。

 誰かに読まれても、意味がわからないように。


 古本屋では、迷わず郷土誌と怪談実話の棚に向かう。

 蛍光灯は一本切れて、棚の奥だけが薄暗い。

 背表紙を一本一本、人差し指で撫でながら、紙魚しみの食い跡のある一冊を抜く。

 『東京の鍾乳洞と風穴』。

 モノクロ写真の頁が開いた場所は、奇妙に紙が寄れていた。

 そこに載るのは、祠の裏から吹き出す“夏でも冷たい風”。

 ぺら、とめくると、余白に誰かの字で名前と電話番号が鉛筆で薄く残っていた。

 読み取らない。

 写さない。

 ページの上に手を置くだけ。指先に、鉛筆の炭がざらりと移る。


 帰り道、バスの窓から丘陵の稜線が見える。

 夏の雲が低く、稜線の切れ目に二本の電波塔が突き刺さっている。

 その向こうに、湿った風が溜まっている気がした。


 夜、机に等高線の地形図を広げる。

 谷戸の底に溜まった冷気は、地図の線の重なりが教えてくれる。

 紙の上の波のような線の間には、民家、畑、神社。

 僕は赤いシャープペンで点を打ち、点と点を結ぶ。

 点の一つに、ほんの小さく丸をつけた。

 理由はない。ただ、そこに風の音がする気がしただけだ。


 枕元に置いた文庫本は、黄泉の章で折れている。

 「黄泉比良坂──戻れぬ境」。

 頁の端が少し濡れていて、翌朝、乾いた紙は波を打っていた。

 どうして濡れたのかは、ノートには書かない。書かないほうがいいこともある。


 週末は、都下の“記事の現場”に行く。

 駅を降りて、ロータリーの端から生活道路に入る。

 自転車のベル、パン屋の匂い、選挙の拡声器。

 日常の音は、奇妙なほど異界を隠す。

 路地を三つ折れて、ポケット地図と同じ角度で祠が現れた。

 祠の裏は崩れた土盛り。

 細い竹が二本、抜けた歯のように斜めに立っている。

 近づくと、土の匂い。湿り気が増す。

 耳を澄ますと、土の奥でかすかに空気が吸い込まれる音がした。

 「ふう……」

 風の呼吸。

 吸って、吐いて。祠のひさしの影が、わずかに震える。


 スマホで写真を撮る。

 ピントが合うまでの間に、影が形を変える。

 一枚目、二枚目、三枚目。

 四枚目でやめた。数が増えると、どれも同じに見えるからだ。

 画像はクラウドに上げない。

 フォルダは小さな鍵のアイコンが付いたまま、机の奥で眠る。


 別の日、青梅方面の古い神社で、御札をもらった。

 「家内安全」と「交通安全」、それから端のほうに小さく「父母守護」と墨で書かれた札。

 賽銭箱の向こうで、宮司は何も言わない。

 僕も何も言わない。

 御札はノートの最後のポケットに差し込む。ただそれだけだ。

 効き目を試す儀式は、しない。儀式は、してしまうと失敗するから。


 夜はネット。

 地図アプリで衛星写真を拡大し、木々の隙間から灰色の地肌がのぞく場所を探す。

 匿名掲示板の過去ログを漁る。

 「夏でも冷たい」「白い息が出る」「タバコの煙が吸い込まれる」。

 返信のない書き込みは、何年経ってもそこにいる。

 スクショは撮らない。

 画面に顔を近づけ、目に焼き付ける。

 それで十分だ。消えても、頭のどこかで点滅する。


 深夜、机のランプを消し、真っ暗な部屋で、耳だけで世界を聞く。

 冷蔵庫のコンプレッサー、遠くの国道、猫の足音。

 ふいに、窓の桟から細い風が抜けた。

 ランプを点ける。

 風の通り道に、ノートが開いたまま置かれている。

 ページは「黄泉」ではなく、「風穴」の章で止まっていた。

 偶然だ。偶然だが、偶然の形はときどき、指でなぞれる。


 月曜の朝、教室で笑われる。

 「また、オカルト? お前、好きだな」

 僕は笑ってごまかす。教卓の角でノートの端がまた一枚、柔らかくなる。

 窓のガラスに映った自分は、案外元気そうに見えた。


 放課後、別の丘に向かう。

 都下の住宅地は、どこも似ている。似ているから、道を覚えるのが早い。

 蛇行する小川に沿って歩き、堤の切れ目で右に曲がる。

 空き地の端に、金網で囲われた小さな立入禁止の看板。

 金網の結束バンドは、一本だけ新しい。

 しゃがんで覗くと、地面の色がそこで急に黒くなる。

 覗く者の目に吸い込まれないように、地面は先に吸い込んでいる──そんなふうに見えた。


 帰りのバスで、窓に額をつける。

 ガラスはほんの少しだけ冷たい。

 遠くに、昼間見た祠と同じ型の屋根が見えた。屋根の真下は、たぶん穴だ。たぶん風が通る。

 バス停の名前は、覚えない。

 名前で場所を呼ぶと、どこかが固定される。

 固定されると、道が細くなる。細い道は好きだけれど、今はまだ広いほうがいい。


 家に戻ると、台所から匂いがした。

 湯気の向こうで、誰かが笑っている。

 靴を脱ぐ音が少し大きすぎて、廊下に響く。

 ノートは鞄の中に入れたまま、ファスナーを閉めた。

 閉めながら、ふと思う。

 ノートには何でも書くけれど、書かないほうが落ち着く言葉もある。


 その夜、風が強かった。

 ベランダの物干し竿が、金属音を一度だけ鳴らした。

 音は短く、すぐに夜の深いところへ沈んでいった。

 目を閉じると、祠の裏の湿った土の匂いが戻ってくる。

 あの黒い口は、呼吸をしていた。

 吸って、吐いて──

 僕は、吸う側に立っていたのか、吐く側に立っていたのか。

 どちらにせよ、次の週末にはまた、同じ丘を歩いているはずだ。



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