アシールの神話
神の山はアラビア半島南西部、アシールの沿岸部にそびえる火山だった。周囲に高い山がなく、この山だけがただ一つ高くそびえ、夜になると山肌が所々赤く光ることから、人々に燃える山、神が宿る山と呼ばれ畏怖されていた。
一帯は太古の時代から火山活動が活発だったので、紅海沿岸部の砂漠地帯から離れたこの地域は、何万年ものあいだ繰り返し噴火した火山により、山と谷が険しく入り組んだ断崖が無数に形成され、切り立った山が沢山連なっている。また、夏はモンスーンが雨を、冬は北西の風が雨や雪をもたらしたので、高い山には雪が残った。
大地にジュニバーが生い茂り、ブルーベリーのような青い果実が実る季節になると、この辺り全域をほんのり甘い香りで染める。
アメンヘテプが辿り着いたのまさにジュニバーの青い実が大地を覆い尽くし、村を含むこの辺り全域が甘い香りで包まれる季節だった。
一週間もの間、アメンヘテプは死んだように眠り続けていた。
うっすらした意識の中で、どこからともなく優しい香りがした。
目を少しばかり開けてみる。
「ここは……」
窓から空が白んでいるのが見えた。夜が明けようとしていた。
「いい香りだ。何の花だろう」
ベッドの端に腰掛け、アメンヘテプは思いっきり深呼吸をした。
「ジュニバーよ」
切れ長で大きな目をした小麦色の肌の少女が、部屋の入り口から顔だけ出して笑っている。
「どこで焚いてるの」
アメンヘテプは入り口の少女に微笑む。
「焚いてなんかないわ。草花や木々から匂いがでているのよ」
肩ひものついた、胸からくるぶしまでの長く白いスカートを身に纏った、十二歳ぐらいの少女が、後ろに手を組んで部屋の中に入ってきた。
「きみは」
アメンヘテプは目の前の少女を不思議そうに見つめるた。
目の前の大人びた少女はエジプトの身分の高い女性と変わりない優雅さと高貴さを漂わせている。
「アティです」
少女が微笑む。
「わたしは」
言いかけたとき、
「知ってます。エジプトの王子さま」
アティがそう言って跪こうとした。
「いいよ」
アメンヘテプはアティが跪くのを止め、トン、トン、と右手でベッドの端を軽く叩き、隣に座るよう促した。
「ふふ」
アティがちょんと腰かける。二人は目を見合い微笑んだ。
「ぼくがエジプトから来たってどうして知ってるの?」
「エジプトの船が難破して村中が大騒ぎになったからよ」
「そうか」
「多くの人が浜に打ち上げられたの。殆どのエジプト人が死んでいたわ」
「……」
アメンヘテプは項垂れ両手で頭を抱え込んだ。
「ぼくのせいで、みんな死んだ」
「自分を責めないで」
アティは沈痛な面持ちで叫んだ。
「ぼくは生きる資格がない」
アメンヘテプはそう言うと急に立ち上がり、石の床に跪いて頭を叩きつけた。
「やめて!」
アティは慌ててベッドから飛びおり、王子の頭を抱きかかえた。
「放せ!」
そう言ってアメンヘテプがアティの手を払い除けようとした時、
「アメンヘテプさま」
男の声と同時にアメンヘテプの腕が制止された。
「何をする!」
涙目のアメンヘテプが顔を上げると、
「……」
ラモーゼだった。
「ラモーゼ」
アメンヘテプはその場に座り込み涙を流した。
「ご無事でなによりです」
ラモーゼはすぐに王子から退き、膝をついて頭を下げた。
「そなたも無事だったか」
「神のご加護により」
アメンヘテプが頷く。
「カフタは無事か?」
「アメンヘテプさま、ご無事で何よりです」
ラモーゼの後ろに控えていたカフタが跪き頭を下げた。
「カフタ!」
アメンヘテプは目頭に涙を浮かべ、過酷な長い旅で、まるで砂漠の商人のように真っ黒く日焼けした彼らを見つめた。
「アメンヘテプさまは、必ず生きておられると信じておりました」
何があっても動じない、いつもは山のようにどっしりしたラモーゼが、感激のあまりむせび泣く。
「アメンヘテプさま」
王子捜索の途中からラモーゼの捜索隊と合流したカフタも、感激のあまり言葉を詰まらせ、まるで子供のように泣きじゃくった。
「ラモーゼ、カフタ」
アメンヘテプも感極まって、自分の前で跪く二人の肩を抱き三人で涙を流す。
「艦隊は無事か?」
「残った船はアシール沖合に碇を下ろし停泊させております」
「旗艦の乗組員は」
「極一部の者を残して」
「わたしが悪いのだ」
「航海に危険はつきものです」
「わたしのために」
「みな覚悟の上です」
「そうだろうか……」
「わたしもカフタもアメンヘテプさまのためなら、いつでも命をさしだす覚悟はできております」
「ラモーゼ、カフタ」
「……」
「命を粗末にするな」
「何を仰います。我らの命は」
そう言いかけた時、
「乗組員の遺体はどうした」
アメンヘテプはラモーゼを遮り、恐る恐る訊いた。
「浜に打ち上げられた遺体の損傷と腐敗は酷く……多くを荼毘に」
「ミイラに出来なかったのか」
「はい」
ラモーゼもカフタも沈痛な面持ちで俯く。
「無念であったろう」
アメンヘテプは自分の身勝手な旅で多くの犠牲者を出したことに酷く心を痛めた。たとえ神のお導きとは言っても、そのために死者がでたのだ。
エジプトに帰って来ることを夢見、旅の成功を信じた船員たちの無念さを思うと、心は血に染まり魂は深く傷ついた。
「あああ──」
アメンヘテプはその場に崩れ落ち、四つん這いになって項垂れ、右手で激しく地面を叩きながらむせび泣いた。
「どうかご自身を責めないで下さい」
アティが駆けよって王子の背中に優しく手を添えた。
「わたしの旅で犠牲になった者たちの亡骸は荼毘にふされたのだ。ミイラとなってエジプトの大地に埋められないのなら、どうやって彼らは再生復活を果たすことが出来るのか。彼らの無念さを思うと……」
その時、部屋の入り口付近に控えていた背の低い老人が、アメンヘテプのところまでゆっくり歩いてきて、
「お亡くなりになった方々は、今、神さまの元で幸せに暮らしておいでです」
と澄んだ声で言い、凜と背筋を伸ばして窓から燃える山を眺めた。
「あなたは」
「わたしはこの神殿の祭司、パフラと申します」
「貴方は今、亡くなった者達は神の元で幸せに暮らしていると仰った。何故そう言い切れるのですか」
アメンヘテプは立ち上がり、パフラに熱い視線を注ぐ。
「我々の村に古来から信じられてきた信仰があります。それは神という、愛の生命エネルギーが人間に他ならないというものです」
「神の愛のエネルギーが人間と申すか?」
「さようで御座います」
「何という不謹慎なことを」
カフタが不審に満ちた顔で口を挟んだ。
「カフタ控えよ。パフラ祭司がお話だ」
アメンヘテプが強い口調で制止する。
「はっ……」
カフタは口を固く結んだ。
「神の愛のエネルギーが人間ならば、何故人間は死ぬのだ?」
アメンヘテプはパフラに質問した。
「人間に死は訪れません。神の元へ戻るだけで御座います。それが人間界では死といわれております」
「パフラ祭司、私には意味がわからない」
今度はラモーゼがたまりかねて口を挟む。
「この地、アシールに古くから伝わる神話では、神の愛のエネルギーが汗のようにほとばしりでて、それが魂といわれるものになったというのです。神からほとばしり出た魂はこの世界で暮らせるようにと、神の姿に似せて人間の姿、肉体を創造したとも」
パフラ祭司はそこまで言ってアメンヘテプに強い視線を投げかけた。
「神の愛のエネルギーが肉体を創造した……ならば肉体とは魂の入れ物ではないと申すか」
「さようで御座います。肉体に魂が宿るのではなく、魂が肉体を創造したのです」
「ならばなぜ人間が死ぬと肉体が残る。なぜ愛のエネルギーに戻らないのだ」
「貴国のメンフィス創世神話のクヌム神と同じように、神は土から人間を創造したのです」
「クヌム神は土から人間を創ったが、神の愛のエネルギーではない」
「方便でございます」
「なに」
「神から汗のようにほとばしり出た愛のエネルギーが、同じように神の愛によって創造された土を纏い人間の姿となったのです」
「土もまた神の愛のエネルギーだというのか」
「さようで御座います。ですから、肉体もやがて時間をかけてゆっくりと愛のエネルギーに戻るのです」
「腐敗し土に戻るというのだな」
「さようでございます。この世の生きとし生けるものは死ぬと腐敗しますが、やがて土となりこの大地に戻ります。天も地も神が創造したものです。ゆえにこの天地すら神の愛そのものなのです」
「ならばミイラにするのは間違っていると申すか」
「間違ではありません」
「だが土に帰れないぞ」
「ミイラとて永遠では御座いません。時の流れの中でいずれ崩れ、粉々になり、神の元へと帰るのです」
「肉体の死というものは存在しないと言うか」
「死そのものが無いのです。肉体とはそもそも魂の仮の姿なのですから」
「だから肉体を失った者は、魂という神の愛のエネルギーに戻って、神の元で、いや、神と一体となり幸せに暮らしているというのだな」
「そう捉えるのが分かりやすいと思います」
「何という不謹慎なことを」
血の気の多いカフタが剣の柄を握りしめた。
エジプトの宗教観では神と一体となれるのはファラオだけであり、ファラオこそが現人神として人々の上に君臨することが出来る。それゆえゆえ、一般の人々が神であるなどと言うのは不謹慎きわまりないことなのだ。
「カフタ控えよ」
そう言ってアメンヘテプは目でとめ、
「パフラ祭司、あなたのお話で、わたしの宗教観が大きく変わりそうです」
答えながら目を輝かせると、
「アメンヘテプさま……」
さすがのラモーゼも沈痛な面持ちになる。
「ラモーゼ、ならば余のために命を失った者たちは、ミイラが無い限り、永遠に黄泉を彷徨うことになるかもしれないのだ」
「ですが……」
そういわれるとラモーゼは何も言い返せなくなり口を噤む。
「多神教の神々も元を正せば一柱の神、一柱の神の様々な側面を表したのが多神教の神なのです。同じように神の魂が御霊分けして人間の似姿をとれば、人間は神の子であり、全人類が家族ともいえるのです」
パフラ祭司がさらに話し続けようとしたとき、
「エジプトは多くの神々を祭っていますが、実は一柱の神の様々な側面を表しているのです。すなわち多神教に見えて一神教であると。しかし、神の御霊分けした魂が神の似姿としての肉体を造り、この世に存在しているというのであれば、我々人間は全て神の子であり、即ち一柱の神の子であると言えます。だとすればパフラ殿の仰るとおり人間は皆一つの家族だといえましょう」
ラモーゼやカフタの不満そうな顔を尻目に、アメンヘテプは生き生きと持論を展開した。
「仰せの通りで御座います」
エジプトの王子と心が通うのを感じ、パフラの目頭に熱いものがこみ上げてくる。
「我々人間はこの真理に早く気付くべきだった。人間同士が相争い、憎しみ、疑惑、嫉妬、暴力で命を奪い合うことなどしてはならない。我々人間は肌の色、言語、宗教が異なっても元を正せばみな一柱の神の子、そう世界は民族、宗教を超越して一つの家族なのだ」
アメンヘテプが言い終わると、パフラ祭司は自分の孫ほどの歳の、まだ少年の面影すら残る若きエジプトの王子に目を見張り、彼の心の清らかさと聡明さに深く感服した。
窓の外からジュニパーの香りがそよ風に乗って入ってきた。
甘い香りがアメンヘテプの鼻をくすぶる。
香りで胸が満たされると、それだけでアメンヘテプは、心の痛みや魂の傷が癒されるように感じた。
「お亡くなりになった方々は、お気の毒でしたが、彼らは神さまとの約束を果たし、あなたさまをここまでお連れするという自分の人生の使命を果たし天に召されたのです。そうお考えになりませんか」
パフラは穏やかな声で言うと、エジプトの王子を見守った。
アメンヘテプは強く唇を噛みながら、大きく開放された木枠の窓の方に目をやる。
青く晴れ渡った空に燃える山の赤い山肌が浮かぶ。
アメンヘテプは急にパフラの方を振り返り、
「パフラ祭司、あなたはいま『死んだ者たちは、神との約束を果たしたから、天に召された』と言われたが、それはどういう意味でしょうか?」
真剣な眼差しで問いかけた。
パフラは「これは我々の死生観ですが」とことわり、アカシアの堅い杖をコツコツとつきながら、大きな窓のところまで歩いた。
「お聞かせ下さい」
アメンヘテプは真剣な瞳をして老祭司を見守る。
パフラはおもむろに話し始めた。
「先ほどもお話しましたように、神の愛のエネルギーが汗のようにほとばしり生まれたのが人間ですが、生まれた人間はその後、自分の人生の使命や目的を、神と約束し、転生を繰り返すのです」
「それで死んだ者は、神と自分の約束を果たし神の元へ帰り、新たな課題を決めて再び生まれてくるというのか」
「さようでございます」
「ただし魂の計画は、神が決めたり魂が決めたりするようです」
「なぜそのような」
「エジプトの死生観と似ています。ただ違うのは、正直で信心深い者が、死後、すばらしい楽園で楽しめるという信仰ではありません。生まれ変わる度に次の人生の目的、課題を決め、その決意を神さまに約束し、転生を繰り返すというものです」
「わからない。それでは人として生きること、死ぬことの意味が理解できない。何故そのような息苦しい課題を決めて転生を繰り返すのだ」
「人生とは魂を磨くための修行だからです」
パフラは語気を強めた。
「なぜ魂を磨く必要があるのだ」
「神の愛のエネルギーが汗のようにほとばしり、神の似姿としての人間となったからでございます」
「だが、人間が神ならば魂を磨く必要はあるまい」
「神の子と言うべき存在で御座います。人間から人間が生まれるのと同じです。子は多くの経験から学び、やがて親から独り立ちして、その子自身の人生を歩み始める。それと同じです」
「人間は神の子というのならわかる」
「子が親から学び自己を磨いていくように、神の子である人間の魂は、神の愛の光り、輝きに近づこうと魂を磨く努力をするのです」
「そのために課題を決め何度も転生を繰り返すというのか」
「さようでございます」
「転生するのなら此度の遭難で命を落とした船員に会いたい。会って赦しを請いたい。暗殺された兄トトメスに会って、もういちど話がしたい」
急に感情を露わにしたアメンヘテプは涙目でパフラに詰め寄った。
「お兄さまの魂も、お亡くなりになった船員たちの魂も、人生の旅の疲れが癒え、新たな計画が決まれば、再び生まれて来るでしょう」
「なに! それはまことか」
「今すぐではありませんが、やがて時がくれば」
「時とはいつだ! 兄にいつ会える。皆にいつ会えるのだ」
アメンヘテプはつい興奮しパフラの肩を鷲づかみした。
「残念ながらいつお会い出来るのか、わたしにもわかりません」
「何故だ」
「まったく別人として生まれ変わり、新しい人生を歩まれることになるからです。それが何時、何処になるか……」
「生まれ変わりとはそういうことなのか」
「お兄さまにはお兄さまの魂の課題が、王子さまにも王子さまの魂の課題がございます」
「ではもう兄とも皆とも会えないと申すか」
「それはわたくしにはわかりません。ですが今生でご兄弟となったご縁、家臣となったご縁はとても深いものがございます。時を経ていつか再び巡り会う日が来るでしょう」
「そうか……」
アメンヘテプはガッカリと肩を落とした。
「王子さま」
「会えば兄に『意気地なし』と叱られそうだ」
アメンヘテプは苦笑した。
「生まれ変わられたお兄さまの魂を宿す者と再会されたときは、直感でわかり合えると思います」
「わたしが生きているうちに再会できるといいのだが」
「それは神さまに委ねることになさいませんか」
「委ねるか」
「はい」
「ところで、人間の魂の輝きが神の愛の輝きと同じになった時どうなるのだ」
「神の愛の光りと一体化します。魂は、もう、人間の姿をとる必要がなくなるからです」
「死んでオシリスと一体化するエジプトの信仰と似ているが……もしかしたら、エジプトの死生観の原点はこの山の信仰だったのかもしれないな。それが数千年の時の流れの中で今のような形に……」
「おそれながら、それは飛躍しすぎるのではありませんか」
さすがにラモーゼがたまりかねて口を挟んだ。エジプトの宗教観を根底から否定しかねないと思えたからだ。