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遭難

 王子をはじめ甲板にいた者達は、デッキのあちらこちらに飛ばされた。

「どうした!」

 ラモーゼはデッキについて這いつくばり、かろうじて体を起こすとすぐに周囲を見渡した。

「アメンヘテプさま!」

 たった今ままで側にいた王子の姿がなかった。

「船が沈むぞ!」

 総司令官が叫んだ。

「沈むだと」

 衝撃で船底に大きな亀裂が入ったのだ。

 ラモーゼは傾き始めたデッキの上をよろめきながら立ち上がった。

「亀裂だと」

「岩礁に衝突し船底に穴が開きました!」

「なぜ気づかなかった!」

「航路を変更したのです」

「どういう意味だ」

「今までの航路は海底火山の活動で岩礁が増え危険だと、水先案内人のパロイが強く主張するものですから」

「パロイは」

「それが姿が見えないのです」

「なんだと……」

 その時、海に王子の衣服らしき物が漂うのが見えた。

「まさか!」

 ラモーゼはすぐに海に飛び込み王子を追った。

 その後すぐに船は大きく傾き始め甲板にいた船員をはじめ、漕ぎ手たちは全員紅海に飛び込んだ。

 潮の流れは激しかった。

 船から飛び降りた負傷者に血に飢えたサメの大群が襲いかかった。

「助けて!」

 流木のように海面に浮かぶ大勢の船員は興奮したサメの格好の餌食になった。

「クソ」

 ラモーゼは容易に王子に追いつくことができないばかりか、自分の命でさえ危うくなりかけた。

「アメンヘテプさま!」

 傾いた船底から何とか脱出できたカフタも、王子とラモーゼを追って海に飛び込んだ。

 旗艦の遭難に気づいた後続の四隻がボートをおろし、溺れかけている船員を次々と救助した。その間、傾いた旗艦内で発生した火災が、割れた甕から流れ出る油に引火し激しく炎上した。

 炎はマストに燃え広がった。

 巨大な軍船は瞬く間に火達磨となった。

「船を捨てろ!」

 誰かが叫んだ。

 海に飛び込んだ船員の多くがサメの餌食になったり、海藻が足に絡まったりして溺死した。

「アメンヘテプさま!」

 王子の姿が瞬く間に視界から消えると、ラモーゼもカフタも力尽き、海に呑み込まれてしまった。

「アメンヘテプ王子は死んだ。おまけに目障りなラモーゼとカフタの奴も」

 一足先に船から逃げ出していたパロイと数名の裏切り者たちは、作戦の成功を見届けると、混乱するエジプト船団を尻目に海賊船を走らせた。

「これで俺の出世は間違いなしだ」

 旗艦の水先案内人パロイは大金と出世を条件にアアヘベル側に寝返り、指示された通り、岩礁の多い航路に王子の船団をわざと進め遭難させたのだった。


 溺死したと思われたアメンヘテプはアラビア半島南西部、アシール地方の浜辺に打ち上げられていた。

 朦朧とする意識の中で突如金色の光の球体が現れ王子の全身を包み込む。

「アメンヘテプ」

 神が名を呼んだ。

「……」

「燃える山へ登りなさい」

「燃える山……」

「急ぎなさい」

 神は命じた。

「はい」

 アメンヘテプは返事をした。すると金色の光がより激しく光輝き王子の全身を包んだ。

「燃える山」

 アメンヘテプは繰り返す。

 それから四つん這いになり顔をもち上げた。

「あれは……」

 目の前の切り立った岩場の向こう側に、とても高い山が見える。

「か、神の山だ」

 アメンヘテプは直感でそう思った。

「急がないと」

 よろめきながら立ち上がる。

 目が霞む。

 アメンヘテプは2,3歩歩いて再び仰向けに倒れてしまった。

      

              *


 後続の船に救助されたラモーゼが意識を取り戻した。

「ラモーゼさま」

 総司令官の深刻な顔で見守っている。

「アメンヘテプさまはご無事か?」

「それが……」

「何だと!」

 ラモーゼは声を荒げ上体を起こした。

「方々お捜ししたのですが」

「馬鹿者!」

 ラモーゼはよろめきながら立ち上がり、海に飛び込もうとした。

「ラモーゼ様、おやめ下さい」

 数人の部下がラモーゼを押さえつける。

「艦船の捜索艇を全て出せ。海上から小島にいたるまで、しらみつぶしに探すんだ!」

 ラモーゼは総司令官を睨みつけた。

「し、しかしこの海域は岩場が多く船団を停泊できる港がありません」

「海図をもう一度パロイに調べさせろ!」

「水先案内人のパロイは裏切りました」

「何だと!」

 ラモーゼが激高して総司令官の胸ぐらを掴む。

「パ、パロイは数名の船員と共に、船が難破する前にいち早くボートで逃げたのです」

「……」

「も、申し訳ございません」

 ラモーゼの掴んだ手が緩むと、総司令官はその場に崩れるように跪き、四つん這いになって頭をうなだれた。

「もうよい」

「……」

「今は、アメンヘテプさまを捜すのだ」

「か、畏まりました」

「急げ!」

 ラモーゼは地団太を踏んで悔しがった。

 王子を守ることができなかったのだ、万が一のことがあれば生きて帰るつもりなどない。


               *


 気がつくとカフタは砂浜に俯せていた。

「……」

 周囲を見渡すと同じように砂浜に打ち上げられ、動かなくなったエジプト人の船員が大勢いた。

「ここは地獄か」

 カフタは奇跡的に助かったのだった。

「おい。しっかりしろ」

 カフタは起き上がり、周りに打ち上げられた船員に声をかけ、体を揺さぶった。

「誰か生きている者はいないか!」

 大声で叫んだが、聞こえてくるのは波の音と潮風にざわめく木々の音だけだった。

 夥しい遺体が砂浜に打ち上げられていた。

 まるで生きているような死に顔の若い男や女、サメに食われたのか、手や足がない遺体、難破した船の木材にしがみついたまま打ち上げられた遺体、全ての遺体が、ついさっきまで甲板で元気に話をしていた同じ船の乗組員たち。どの遺体も故国に連れ帰ってくれ、ミイラにして欲しい、とカフタに訴えかけているようだった。

 

 エジプト人は身分にかかわらず、最後はエジプトの大地で死んで、ミイラにされ母なるナイルのほとりに埋葬されることを望んだ。それが彼らの求める、永遠の命、を得ることになるからだ。

 永遠の命を得るため、ミイラによる肉体の保存を強く望んだエジプト人にとって肉体が損傷すること、異国の地で肉体を失うことは苦痛以外の何ものでもなく、それ以上に不幸なことはなかった。

 

 砂浜を歩きながら、全ての遺体の中にアメンヘテプ王子の姿がないのを確かめると、カフタは異国の地で果てることを望まなかった無念さの滲む遺体達に別れを告げた。

 その時、

「これは」

 カフタの目が一枚の白い布と金の腕輪をとらえた。

「アメンヘテプさまのリング」

 すぐに屈んで拾い上げ目を懲らす。

 するとリングに王家の紋章が刻まれているのを確認した。

「アメンヘテプさま!」

 カフタは周囲を見渡し大きな声で叫んだ。

「これは……」

 アメンヘテプの腕輪があった場所の周囲の砂浜に、複数の人の足跡がくっきりとある。

「もしや」

 足跡の方を目で追い彼方を見上げる。

「あれは」

 遠くに山肌がときおり赤く光り、ひときは高くそびえる山が見えた。

「あれが燃える山に違いない」

 カフタは直感でアメンヘテプがあの山へ向かったのだと思った。しかも、砂浜の足跡から複数人で行ったのだと。

「アメンヘテプさま」

 カフタはアメンヘテプのものであろう足跡を追って走り出した。

 何としてもアメンヘテプ王子を捜すのだ。もし王子が生きていなかったらエジプトに生きて帰るつもりなどない。

 トトメスを守れなかった負い目に苦しむカフタは、アメンヘテプ王子を命懸けで守る覚悟を決めていた。


 エジプト本国では、宝石商に成りすましたヘヌトがテーベ郊外のアアヘベル邸を訪れていた。

「お寛ぎのところ失礼します」

 召使いに案内されヘヌトが邸宅に入ると、アアヘベルがお気に入りのシリア娘ゼノビアに背中をマッサージさせてくつろいでいた。

 部屋の中を乳香の甘い香りが満たしている。

「ヘヌトか、お前はいつもタイミングが悪い」

 アアヘベルは長いすに俯せて微睡んでいた。

「殿下、今日は格別なワイングラスを用意しました」

「ほう」

「勿論、ギリシア産の最高級白ワインも」

 ヘヌトは腰を屈めアアヘベルの耳元で囁いた。

「なに!」

 アアヘベルは急に真顔になり、ゼノビアの小さくプリッとした弾力ある尻を、平手でパンと軽く叩く。するとゼノビアは腰を屈め彼の頬に軽くキスをして部屋を出て行った。

「殿下、もう懇ろですね」

「余計なことを詮索するな」

「ははっ」

「それより早く申せ」

 アアヘベルは起き上がり、金箔で飾られた豪華な椅子に腰布一枚で座った。

 椅子はライオンの脚を模した四本の脚が鮮やかな幾何学紋様で飾られており、足下には弓で射貫かれ横たわる幾人ものヒクソス人の姿が描かれた足置きがあった。

「作戦は成功です」

「でかしたぞ」

「殿下の時代です」

 ヘヌトはアアヘベルの足下にひざまずき、ファラオに仕える臣下のように、その足を両手にかきいだいて接吻した。

「パロイはどこにいる」

「はっ、パロイは帰国しておりますが、今は姿を隠しております」

「王子の遺体は」

「旗艦沈没と供に海の藻屑となったそうです」

「遺体は発見されたのか?」

「い、いえ」

「何だと」

「座礁した際に海に投げ出され、多くの船員と供にサメの餌食になったということです」

「確かだろうな」

「砂浜に打ち上げられた夥しい遺体は、手や足や顔がないもの、胴体だけのものなど、損傷が激しく、ほとんど肉の塊のようだったとか」

「だがそれだけで王子が死んだといいきれん。遺体がないのだ」

 アアヘベルはライオンの顔が刻まれた肘置きの先端を強く握りしめた。

「ではこれでいかがでしょう」

 ヘヌトは自分の懐に右手を入れ、リネンの白い布の包みを取り出しアアヘベルに手渡した。

「なんだこれは」

「中をご覧下さいませ」

 アアヘベルがぐるぐる巻きにされた布を広げると、

「これは……」

 布の中から黄金と宝石で飾られた短剣が出てきた。

「王子の物で御座います」

 アアヘベルは短剣に刻まれた銘文と装飾から、これが、ミタンニ王から王子にプレゼントされた特別な短剣だということがすぐに分かった。

「ヘヌト、でかした!」

「いよいよです」

「それは早計だ」

「ですが」

「ティイがどう動くか」

「……」

 王妃ティイの名を聞くとさすがにヘヌトも押し黙った。

「ティイを懐柔しなければ、わしは王になれない」

 アアヘベルは王子の短剣を鞘に収め無造作に床に投げ捨てた。

「確かにティイ王妃は手強い相手ですが、世継ぎが無ければ、殿下に白羽の矢が立つのは時間の問題かと」

「だといいが」

 アアヘベルは椅子から立ち上がり、床に転がった黄金の鞘に収まった短剣を憎々しげに踏み、窓際の長いすに腰掛けた。

「ご苦労、今日は下がれ、王子の消息に関しては気を抜くな」

「畏まりました」

「王子遭難の噂、広めなくてよい。いずれプントから四隻しか船が帰還しないことではっきりする」

「パロイの処遇は」

「奴は始末しろ。裏切り者は裏切りを繰り返すものだ」

「御意」

 ヘヌトは頭を下げた。

「余はこれからマッサージの続きを楽しむぞ」

 そう言いながらアアヘベルが鈴を鳴らす。するとすぐにゼノビアが、長いシルクのような輝く金髪をなびかせてやって来た。

「ではこれにて失礼します」

「大儀であった」

 アアヘベルは長いすに俯せになり両手で枕を抱きしめる。ゼノビアが微笑みながら甘い香りのオイルを彼の背中に少しづつ垂らす。

 ヘヌトは楽しそうな二人のやりとりを尻目に邸宅を出て行った。

 重い任務を与えられた。功労者パロイを始末せねばならなくなった。だが主君の命なのだ任務を果たさなければならない。



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