プント国へ
プント国はアラビア半島南西部辺りにあったと言われ、エジプトの人々から神の国あるいは香料の国と呼ばれていた。と言うのもプント国があったと言われているこの地域は、エジプトから見て東の方、太陽が昇る方角に位置していたからだ。
プントは乳香、没薬、金、白金、コクタン、象牙、毛皮などの豊富な天然資源と、キリン、ヒヒ、カバ、ヒョウ、ゾウなど、多くの珍しい野生動物が生息する国だったことで知られ、特に乳香と没薬は神殿での宗教儀式とミイラ作りに欠かせない香料だったので、ダイアモンドにも匹敵する価値があった。
エジプト側の交易記録によれば、クフ王の時代、紀元前二千六百年ごろまで遡る。その後、第二十王朝の新王国時代が終わるまでの約千四百年間交易が続いたという。
エジプトからの交易ルートは、テーベから船で上エジプト第五ノモスの州都コプトスまで下る。そこから紅海まで陸の交通路ワディ・ハンママートを使った。紅海に出たところにはコセイルの港があり、そこから四、五隻の船団で紅海を下るのだ。
地球の裂け目と言われる紅海は海底火山がいくつもの島や岩礁を新たに形成し、海図は常に書き換えられていた。どんなにベテラン艦長であってもこの海域に詳しい水先案内人がいないと安全な航行が出来ない。そのうえ無数の小島には海賊の基地が多く、いつ武装漁船に襲われるか分からなかったので、航海は常に危険をともなった。
旅に出たアメンヘテプとその一行は、陸路、ワディ・ハンママートを無事に抜け、紅海沿岸の港町コセイルに着いた。ところが港で王子を出迎えたのはアメンヘテプ三世が手配した三隻の軍船と二隻の荷船だった。
「この船は……」
巨大な船体をアメンヘテプは呆然としながら見上げる。
堅いレバノン杉で丈夫に建造された軍船は、全長およそ六十二メートル、幅二十二メートルの巨大な船で、船首部には鋭いナイフの様な装飾が施され、船尾には船の内側に優美に湾曲したロータスの花の装飾が飾られていた。
航行時になると船体のおよそ三分の二の高さのマストに、真っ白く大きな帆が一枚翻る。船員は、総司令官、水先案内人、舵手、漕ぎ手指揮官、帆を上げたり支索を固定したり櫂を漕ぐ下級船員、兵士の総勢百二十人で構成されていた。
荷船も全長二十五メートルほどあり、長い航海に必要な食料としての大麦、小麦、トウモロコシ、大豆、小豆などの穀物類、ビールやワインの甕、食用の家畜や鳥、野菜、油、塩、干し肉、戦車、弓、矢、剣、馬など多数積み込まれているのだ。
「どうして軍船が停泊してるんだ」
アメンヘテプは怒りを露わにした。
王子が商船を望んでいたのは重々承知していたが、父王は海賊対策のため、シナイ半島東部アカバ港に臨するエイラートから三隻の大型軍船と荷船を手配していたのだ。
「お怒りもわかりますが、ファラオは万が一のことを心配され軍船を手配されたのです」
ラモーゼが困り顔で王子を慰める。
「分かっている」
アメンヘテプは深いため息をつく。
「アメンヘテプさま」
カフタも心配顔で王子を見つめる。
アメンヘテプの頑固さは有名だったので、カフタは、軍船に王子がすんなり乗ってくれるとはとうてい思えない。
「兄の暗殺事件からお父さまも、お母さまも神経質になりすぎなのだ。朝から晩まで、何処で何をしても警護の目が光っている」
自分を守るためだと分かっていてもアメンヘテプはつい愚痴ってしまう。
「お気持ちは分かりますが……」
ラモーゼはそこまで言って口を噤んだ。
「自由がない。全くない。息が詰まりそうだ!!」
「……」
ラモーゼもカフタも慰めようもなく沈黙する。
ところがアメンヘテプは巨大な軍船を暫く見上げ、
「乗船するぞ」
そう言って、さっさと歩き出す。
ラモーゼとカフタの予想に反して、王子はあっさり船に乗り込んでくれたのだ。
「アメンヘテプさま!」
慌ててラモーゼとカフタが後を追う。
王子の一行が船に乗り込むと、五隻の船団は巨大なマットを翻えらせ、コセイル港から次々と出港した。
旗艦の船首に立ったアメンヘテプは、憮然とした表情で、離れ行く陸や海を眺め続けた。
あれほど軍船は嫌だと言ったのに、父王が約束を破ったからだ。
「神に導かれし神聖なる旅なのに」
アメンヘテプはどうしても納得がいかない。
赤褐色の切り立った海岸、永遠に続く黄金色の砂丘の浜辺、生い茂るヤシの木、煉瓦造りの神殿に立てられた幾本ものポールに翻る旗。
その時、岸辺から声が響いた。
王子が遠くの陸に目をやると、村人たちが集まり、旗艦の船首に立つ王子の名を呼び歓喜しているのだ。
「民がこのわたしを祝福してくれている……」
岸辺がみるみる遠ざかり、船は沖へと離れていく。
アメンヘテプは、赤、黄、青……様々な色に輝く珊瑚礁の海。
イルカの群れが船団の前を楽しそうに泳ぐ。
抜けるような蒼い空にカモメの群れが優雅に曲線を描いている。
船は波しぶきを上げて進む。
自然の景色と潮風に包まれているうちに、アメンヘテプの心のわだかまりはいつの間にか消え去った。
アメンヘテプの一行を乗せたエジプトの船団は、天候にも恵まれ紅海を順調に航行し、長旅の末ついにプント国の領海に入った。
追い風に煽られ思ったより速く航行していたのだ。
「この調子なら明日には着きそうですね」
ラモーゼはデッキに立ち、さっきからずっと夕日を眺める王子に話しかけた。
「ラモーゼ、おまえはヘルモポリスの原初の丘を見たことがあるか?」
突然の問いにラモーゼは戸惑う。
「随分昔のことですが……」
「行ったことがあるのだな」
「もう二十年以上も昔です」
「どんな所だった?」
アメンヘテプは顔を乗り出した。
「そうですな……」
ラモーゼは腕を組み言葉を探した。
「いや、言わなくてもよい」
「はっ」
「神が示した燃える山は原初の丘のような所なのだろうか」
「……」
「母は、燃える山の伝説を知っていた。ラモーゼ、そなたも知っていたのか?」
「いえ、わたくしは……」
「わかった。もうよい。楽しみはとっておこう」
アメンヘテプは目を輝かせた。
「もうすぐ着きますぞ」
「うん」
その時、突然、船に激しい衝撃が走った。