旅立ち
トトメスの死に家族が打ちひしがれているとき、追い打ちをかけるように、今度は、アメンヘテプ王子と腹違いで二歳年下の妹が死んだ。
ティイはアメン神官団から呪いをかけられているのだと確信した。
アメンヘテプ王子と年が近いこともあり妹は王子がどこに行ってもついて回り、そんな妹を王子はとても可愛がっていた。
妹との別れはマラリア熱による死だった。
兄を失い妹までも失った王子の悲しみはとても深く、妹の亡骸がミイラに処置されて二重三重の棺に納められても「妹が生き返った時、すぐに棺の中から出してあげないといけないから」と言って、棺から片時も離れようとはしなかった。そして妹の棺が王家の谷に埋葬される最後の瞬間まで王子は棺の傍にいて妹は必ず生き返るのだと信じて疑わなかった。
妹の埋葬が終わっても、王子は来る日も来る日も、思い出に耽っては涙で目頭を潤ませポロポロと涙を流した。
王様も王妃様も二人の子の死に心を痛めたが、それ以上に、アメンヘテプ王子の悲しみ嘆く姿に夫婦は心を酷く痛めた。
夫婦は王子の悲しみを和らげようとこれ以上ないと思えるほど愛情深く接したが、王子の悲しみを癒やすことは時が過ぎるのを待つしかなかったのだ。
王子は妹の復活を信じて来る日も来る日も、父王が信仰する太陽神アテンに祈った。
「アテンよ、どうかわたしの妹を早く生き返らせて下さい」
「……」
「アテン様!」
「……」
だがどんなに王子が神に祈り続けても神は答えてくれなかった。
「兄さん、行っちゃだめだ!」
アメンヘテプは不意に目が覚めた。
気がつくと上半身を起こして右手を真っ直ぐ伸ばしている。
肌着もシーツも皮膚に張り付くように汗でびっしょりだ。
「夢か……」
このところ繰り返し見る夢だった。
兄トトメスの死から二年が経っていた。
「兄さんこそファラオに最も相応しかったのに」
窓から外を眺めるとまだ星々が煌めいていた。
「どうして兄も妹も神さまの元に行ってしまったのですか?」
アメンヘテプは夜空を見上げ問いかけた。
すると、
「あなたは光なのです」
という声がどこからともなく聞こえてきた。
「だれですか!」
アメンヘテプは振り返り部屋の隅々を見回すが、どこも静まりかえり、深い闇に包まれている。
アメンヘテプはもう一度夜空を仰ぎ見る。
無数の星々が煌めき、時折幾本もの光のすじが流れては消えた。
「神よ……」
アメンヘテプは跪き、星々に問いかけてみる。
だが、どれだけ待っても返事はなく、夜の静寂が彼を包み込んだ。
「光……」
小さく呟き、アメンヘテプは再び深い眠りに落ちた。
それから数日後のことだっ。
王子がマルカタ王宮のビルケットハブの人工湖で、一人、船に乗ってうたた寝していると、またしても何処からともなく声がした。
「アメンヘテプ」
「誰?」
そう叫んだ瞬間、アメンヘテプの前に、金色に輝く、卵ほどの光の球体が現れ、光りの球はあっという間に大きくなって王子の全身を光りで包み込んだ。
「燃える山へ行きなさい」
光の中から神の声が響いた。
「燃える山?」
「燃える山です」
神は繰り返した。
「その山は何処にあるのですか?」
すると神はアラビア半島南西部の沿岸にそびえる火山の姿を映し出した。
「あなたが長年問い続けてきた答えがそこにあります」
「私の問い? 答え? いったいそれは何ですか?」
「行けば分かります」
「……」
神の光はより激しく光り輝いた。
アメンヘテプの体は雷に感電したように強い衝撃を受け、激しい光りの波動が王子の魂を包んだ。
「神よ……」
神は愛の光りで、傷ついたアメンヘテプの心と魂を癒したのだ。
愛の光りに王子は体を仰け反らせ気を失った。
意識を取り戻すと、アメンヘテプの遙か頭上に、隼が大きな羽を広げて悠々と飛んでいた。
「ホルス……」
アメンヘテプは船の舳先から、王権の象徴、ホルス神である隼が遠くへ飛び去るのを暫くのあいだ目で追った。
「やはり僕はファラオになってはいけないのだろう。隼が飛び去ったのはそれを伝えたかったからだ」
アメンヘテプは唇を固く結んだ。
「兄さんがいれば……」
湖の彼方には永遠と続く砂漠とその先にナイルが微かに見える。
近くには、椰子の木が沢山茂る湖の辺で、王宮の女たちがいつものように水遊びをして、時折、船の上の王子を見ては微笑んだ。
現実世界は何もかもがいつもの通りで、いつものように穏やかに時が流れていく。だが、神の愛の光を浴びたアメンヘテプの心と魂は明らかに目覚めの時を迎えようとしていた。
翌日、アメンヘテプは、突如、旅に出たいと王さまと王妃さまに申し出た。
「私は旅に出たいのです」
「今度はいったい何処へ」
ティイはひどく心配そうな顔をする。
王子が旅好きだと承知していたが、危険を伴う外国への旅は長男トトメスの暗殺から、出来るかぎり行かせたくなかった。
「アラビア半島のアシールです」
王子は正直に答えた。
「アラビアだと!」
父親のアメンヘテプ三世は思わず声を上げた。
「アシール地方沿岸の、燃える山に登りたいのです」
「神の山ですね」
ティイがすぐに察した。
「ティイ、そなたはその山を知っているのか?」
アメンヘテプ三世が王妃の顔を見上げる。
「はい、ヘブライ人の間で大昔から語り継がれてきた山。神が宿ると言われた神聖なる山でございます」
ティイはそう言って王を見つめた。
「遠すぎる。しかも危険だ」
すぐに父王は反対した。
「神さまがわたしに命じたのです」
昨夜、王子が体験したことを隠さずに伝えた。
「何、神が!」
父王の声が上擦った。
「はい。昨日、神さまがそう告げたのです」
アメンヘテプはそう言って目を輝かせる。
兄の暗殺と妹の死からすっかり落ち込み、食事も摂らずに引き籠もりがちだった王子が、まるで別人のように目を輝かせている。
「エジプトはあの地域と、乳香や没薬の取引で、長年の交易がありますよね」
「確かにそうだが」
王は腕を組み、眉間に皺を寄せて深いため息をつく。
「あそこへ行けば答えが得られるのです」
両親の心配をよそにアメンヘテプは生き生きと話し続ける。
「答え?」
ティイはこれほど真剣な眼差しの息子を見たのは初めてだった。
「僕が問い続けてきたことに対する答えがあるのです」
「何を問い続けて来たのですか?」
ティイが優しい眼差しで訊いた。
「真理です」
アメンヘテプの目は真剣そのものだった。
王さまは、ますます眉間に皺をよせ、腕を組んだまま目を閉じた。
「お父さま」
「あなた」
ティイは賛成のようだ。
「……」
長い沈黙が続き、ようやく王さまが口を開いた。
「いいだろう。旅を許可しよう」
「お父さま、お母さま、ありがとうございます」
大喜びしてアメンヘテプは両親に抱きついた。
「ただし幾つか条件がある」
「条件とは何ですか?」
アメンヘテプの顔がたちまち曇る。
王さまはアメンヘテプの両肩に静かに手をおき、
「第一に、必ずラモーゼとカフタを連れて行くこと。第二に、エイラート港の航海艦隊を使うこと。第三に、絶対に無理しないこと」
と言って息子の目を真剣に見つめた。
アメンヘテプの背後には、王に呼ばれたラモーゼとカフタが膝をつき頭を下げている。
ラモーゼは王家に仕える侍従でアメンヘテプより二十歳年長の三十五歳、ティイの血縁で同じアクミーム出身。
カフタはガードマンと毒味吟味役で、あらゆる毒に精通している毒の専門家だ。
「第一と第三の条件は守ります。でも第二の紅海艦隊は断ります」
アメンヘテプはためらうことなくそう答える。
「おまえは分かっておらん。紅海の船旅がどれだけ危険か」
こんどは王さまの表情がたちまち曇った。
「どれだけ危険かは『難破した水夫の物語』を読んで知ってます」
王さまは、やれやれといった面持ちで息子の顔を見た。
「あなたも存じているでしょうが、あの海域は火山の活動が活発で、海図にない新しい岩礁が沢山でき、多くの船が難破しているのです。しかも、小さな島々に海賊の隠れ家があって、航行する沢山の船が襲われているというではありませんか」
「それは分かってます。でもわたしは戦争にいくのではありません。神のお導きに従い、旅に出るのです。ですから軍艦じゃなく商用船で行きたいのです」
王さまと王妃さまは困り果て顔を見合った。
両親の心配をよそにアメンヘテプは目を輝かせ話し続ける。
「心配いりません。今回の旅は神様のお導きによるものです。僕はあらゆる危険から守られます。軍隊など必要ありません。ラモーゼとカフタがいれば十分ですよ」
兄トトメスより頑固なアメンヘテプの意思はとても固く、どう説得しても動じそうにない。
「お父さま、お母さま」
王さまと王妃さまはもう一度顔を見合わせ、
「よかろう」
そう言って微笑んだ。
「有り難うございます!」
「気をつけて行くのですよ」
「はい!」
大喜びしたアメンヘテプは両親に抱きつき、王さまと王妃さまも息子を強く抱きしめた。
こうしてアメンヘテプは、アラビア南西部アシールにそびえる弧峰、燃える山へ行くことが許されたのだ。
数日後、アメンヘテプは、ラモーゼとカフタを含む数人の家臣を連れ旅立った。