ネフェルティティの胸像
「ネフェルティティ王妃の体調はどうだね?」
珍しく北の王妃の宮殿にアクナテンが予告なく姿をあらわした。
血を吐く病を患ってから王妃は療養のため、アケトアテンの最北端にある北の宮殿ですごしていた。
「王妃様は、今日はことのほかお元気で、朝早くお出かけになられました」
アテン神に帰依したゼノビアは玉座のアクナテンの前にひれ伏している。
「それはよかった。ならば帰るのを待とう。面を上げよ」
アクナテンは上機嫌で笑みを湛える。
「数日、お戻りにならないかもしれません」
ゼノビアは神を崇めるようにアクナテンを見上げた。
同じ王族とはいえアアヘベルのような下品で醜い俗物とは大違である。
「そんなに遠出したのかね」
「彫刻家トトメスの工房にいらっしゃいました」
「トトメスのところに」
「はい、もう少しで王妃さまの胸像が完成するのです」
「ネフェルティティ王妃の胸像か。そなたは見たことがあるのか?」
「それはそれはとても美しい作品です」
ゼノビアは女神でも見てきたかのような、幸せそうな笑みをみせた。
そのころトトメスの工房では、
「王妃様、完成しました」
トトメスが平らな赤い冠を王妃の胸像にはめ込んだところだった。
「すごくよい出来だわ」
ネフェルティティ王妃はスッと椅子から立ち上がり、胸像の前にまわりこんだ。
「そんなに急がれなくても胸像は逃げやしませんよ」
いつもは白い肌色の王妃が、今日はまるで生き返ったように頬をピンクに染めている。
「そんなことわかっているわ。完成を楽しみにしていたのです」
目を細めながら、まるで恋人の顔を見つめるように像をいろんな角度から楽しんでる。
「それが完成した王妃の胸像なんだね」
工房の入り口から声がした。
「陛下」
ネフェルティティ王妃が振り返ると、アクナテンが目を細め、小さく手を振っている。
「北の宮殿に行ったら、ゼノビアがここだと教えてくれたんだ」
そう言いながら、アクナテンは王妃の隣に並んで立ち、ネフェルティティ王妃の胸像を鑑賞した。
「陛下、トトメスの最高傑作よ」
ネフェルティティは若い頃のようにエクボをつくり、アクナテンをみあげた。
「まるで君の生き写しだ」
アクナテンは軽いため息をして、王妃の肩を抱く。
「あたしが神様のところへ行っても悲しまないで。その時はこの胸像があるから……」
ネフェルティティは囁くように言って、アクナテンの手をか細い指先で握った。
「何を言うんだ! 君は死にやしない。もうこんなに元気じゃないか!」
アクナテンは目に涙を浮かべ愛しい妻の肩を両手で強く抱いた。
トトメスは涙を堪えきれずその場から静かに姿を消した。
「君は神のところへ行くには早すぎる」
「お願い、聞いて」
「君の健康は必ず回復する! アテン神を信じるんだ!」
「陛下、あたしにもしものことがあったら、妹のベネを陛下の妃にしてください」
「何を言っているんだ。君は死にやしない!」
「ベネは幼い頃からあたしと同じようにあなたを慕っております。アテン神を信じる心もあたしに引けをとりません。あなたとともにベネならメリトアテンとスメンスカーラーを正しき道へ導くことができるでしょう」
ネフェルティティはそこまで言うと、アクナテンの腕の中に抱きかかえられるようにして意識を失った。
ネフェルティティ王妃の病の噂は瞬く間に町中に広まった。太陽の都アケトアテンの女神ともいうべき王女が重い病に伏しているのだと。
町中に暗雲が立ちこめた。
人々はこれから訪れるであろうより深い闇に心を押しつぶされそうだった。
太陽の都の主であるアクナテンは王妃につきっきりで、人々の前に姿を現さなかった。そんな理由から人々の不安はより膨らんだ。
「なぜきみがこんな目に遭わねばならないのだ。アテンよどうか妻を救い給え」
アクナテンの祈りは毎日、途切れることなくつづけられた。
ムウトベネレトやアティ、そして巫女として戦士として成長したアティの妹チィもネフェルティティの北の宮殿に結界を張り、テーベのアメン神官団が放つ邪悪な呪いからファラオと王妃を守った。
王妃が倒れて十三日目の朝、アクナテンは頬にやわらかな温かさを感じて目を覚ました。「あなたお体に障ります」
ネフェルティティ王妃の優しい眼差しが目に飛び込んできた。
「わたしならだいじょうぶだ」
アクナテンは妻のほっそりした白い手をにぎり涙を浮かべた。
「あなた、ありがとう」
ネフェルティティ王妃は微笑んだ。
「ネフェルティティ」
アクナテンは王妃の上体を抱きかかえ胸のあたりで強く抱擁した。
「アテン神のご加護です」
王妃は目頭にうっすら涙を浮かべる。
「そうだ、そうだとも」
アクナテンも王妃の言葉に何度も頷いた。
ネフェルティティの頬がうっすらピンクに染まった。
今回も命の危機は奇跡的に回避されたのだ。