暗殺
「さ、今日は俺の誕生日だ。おまえも祝ってくれ」
トトメスは扉が開かれると嬉しそうに大広間に入っていく。
「兄さん、入っちゃいけない」
アメンヘテプの言葉に兄は驚き振り返った。
「どうした」
「だめだ」
アメンヘテプは声を震わせた。
「いったいどうしたんだ」
トトメスは真意を確かめようと弟の目を見る。
その時、二人の背後から太鼓やタンバリン、フルートの軽快な音色をともないながら、幾人もの召使いが豪華な料理をたくさん運んできた。
「腹ぺこだ! さ、行くぞ」
トトメスはそう言って大広間にさっさと入って行った。
「兄さん……」
アメンヘテプは胸苦しさをおぼえながらも兄の後に続く。
酷く嫌な予感がした。
何かがありそうな、それも悪いことが。
そんな時、必ずアメンヘテプは胸を締め付けられるような、言いようのない気分の悪さを感じる。
大広間に入ると、敷き詰められた厚いカーペットの上に、豪華な料理が所狭しと並べられ、料理を取り囲むように王族や貴族や幾人もの高官らがいた。そして部屋の最も奥の玉座の間には、アメンヘテプ三世王とティイ王妃が、金で飾った豪華な椅子に腰掛け、我が子トトメスが現れるのを今か今かと待ちわびていた。
「早う、まいれ」
父王アメンヘテプ三世が、黄金の椅子から立ち上がり、わが子を手招きする。
「ただ今、参ります」
トトメスが王と王妃の元へ歩き始めると、踊り子達が道を空けた。
「……」
アメンヘテプは、胸騒ぎの理由がわからないまま、兄を見守るしかなかった。
「父上、母上」
王も王妃も逞しく成長した王子に目を細めた。
「トトメス。おめでとう」
ティイ王妃が優しい眼差しで見つめながら息子を抱きしめた。
「おめでとう」
アメンヘテプ三世王が、王妃とトトメスの肩を抱いた。
すると会場に集まった全ての人々が一斉に、
「おめでとうございます」
と祝福の声を上げ、ワインをかかげて乾杯した。
乾杯が終わると、アメンヘテプ三世は、ティイ王妃と兄トトメスを伴って、集まった人々に改めて向き直った。
「今日は皆によい知らせがある」
人々がファラオに注目した。
アメンヘテプ三世が、軽い咳払いをわざとらしくする。
大広間が一瞬で静まりかえる。
貴族や大臣をはじめとする集まった全員が王の次の言葉を待った。
「余は息子トトメスを共同統治者とすることをここに宣言する」
王アメンヘテプ三世はそう言って、右手でトトメスの左手をしっかり握り高々と持ち上げた。
その瞬間会場が「わぁ」という歓喜の声と拍手で割れた。
次のエジプト王が決まった瞬間だった。
アメンヘテプは大広間の隅の方から兄の様子を一人で静かに見守っていた。すると兄が大勢の人の中からすぐに彼を見つけ出し、「来い」と目で合図した。
アメンヘテプは、どぎまぎしながら兄の元へ急ぎ、
「兄さん、おめでとう」
祝いの言葉を伝えると、トトメスは澄んだ瞳で彼を見つめた。
「ありがとう」
トトメスはアメンヘテプの肩を右手で強くつかみながら、
「お前の助けが必要だ」
そう言って弟の目をじっと見つめた。
「……」
「頼んだぞ」
トトメスはアメンヘテプの肩を軽く叩き微笑んだ。
「は、はい」
自信なさげにアメンヘテプが小さく返事をすると、
「ありがとう」
トトメスは満面の笑みを浮かべた。
宴は盛大に盛り上がり、贅を尽くした料理や飲み物が次々と運ばれた。
小羊や鴨のロースト、ラムシチュー、オムレツ、モルヘーヤのスープや白身魚のスープ、ハチミツパン。蒲萄、メロン、無花果などの果物。ナツメヤシ、プルーン、アンズ、レーズン、無花果などが入ったドライフルーツのサラダやオリーブのサラダ。セモリナ・ケーキやクッキーなどの菓子。さらに高級ワインが入った大きな壺が部屋の随所に置かれた。
大広間の中央はフラットな舞台になっていて、大勢の胸も露わな踊り子達が、ハープ、リュート、タンバリン、ケムケムと呼ばれる樽型太鼓、トランペット、手拍子などに合わせ、高く飛び跳ねたり、倒立回転したり、あるいは腰をくねらせ妖艶に踊り狂った。
多くの人が集まるパーティーが苦手なアメンヘテプは、兄の生き生きとした笑顔を見ると安心し、この大広間に入る前に感じた不吉な予感のことなどすっかり忘れていた。
「僕はこの辺で退散します」
そう呟き、アメンヘテプが部屋から出ようと出入り口の扉に近づいた。
するとその時だった、
「失礼します」
アカイア人の女召使いが大きな皿に美味しそうな蒲萄を沢山盛って入ってきた。
アメンヘテプがその召使いを何気なく目で追っていると、
「女、待て」
入り口の陰から男の声がしてその召使いを呼び止めた。
「カフタ」
アメンヘテプは、面長の幾分青白い顔色のその男から目が外せなくなった。
カフタは王の用心棒兼毒味役だ。
猛毒を持つ蛇やサソリや毒蜘蛛など、アフリカやアラビアに存在するあらゆる毒に精通している。
「その蒲萄、なぜ今頃持ってきた」
カフタが鋭い目つきで召使いを睨んだ。
「料理長から、果物が足りないだろうから持って行くようにと言われました」
怯えた様子で召使いは恐る恐る返事をする。
「調べさせてもらう」
カフタはさっそく大皿に盛った蒲萄を一房ずつ調べ始めた。
その時、大広間に通じる出入り口から一匹の小動物が、狂ったような勢いでパーティ会場に飛び込んできた。
「子猫よ!」
会場がざわめいた。
トトメスはすぐに自分が飼っているリビア山猫の子猫だとわかった。
「待て!」
人々に追い立てられた子猫は主人のトトメスに飛びつく。
怖くなって飼い主の懐に逃げ込もうとしたのだ。
「いい子だ」
トトメスの瞳が緩む。
愛猫には目がないのだ。
ところが抱きかかえた子猫の様子がおかしい。
苦しげに引き付けを起こし、眼を大きく見開いている。
「どうした」
トトメスが子猫の頭を優しく撫でようとすると、
「ガルルー」
猫は急に興奮して、トトメスの腕や手を両手両足で引っかき回した。
「あっ!」
幾筋もの引っ掻き傷から血が滴り落ちる。
思わずトトメスが手を緩めると、子猫は猛烈なスピードで走り去っていった。
引っ掻き傷に血が滲み、手の甲がチクチクする。
「ひどい血だわ」
トトメスの妻メルティが駆け寄り、彼の腕や手に流れる血をタオルで拭った。
「あいつ、様子が変だった」
そう呟き、トトメスがメルティに赤ワインが注がれたグラスを渡そうとした時、
(ガチャン!)
右手に持ったグラスが手から滑り落ちた。
次の瞬間、
「息が、息が……」
そう言いながらトトメスは喉を引っ掻きよろめいた。
「あなた!」
メルティが悲鳴をあげた。
トトメスは二、三歩前へよろめき、崩れるようにメルティの腕の中へ倒れ込んだ。
「早く医者を呼ベ!」
王が大声で叫んだ。
「兄さん!」
アメンヘテプも急いで兄の元にやって来た。
パーティー会場は一瞬にして大騒ぎとなった。
出入り口で蒲萄をチェックしていたカフタが慌てて駆けつけた。
「王子!」
すぐにカフタはトトメスの右手の引っ掻き傷を見ると、
「まさか」
血が滲む王子の患部を強く吸い、ペッ、とすぐに唾と一緒に血を吐いた。
「しまった!」
懐から毒に合った解毒剤を慌てて取り出し、王子に飲ませようとしたが、カフタがトトメスの頭を抱き起こしたとき王子は既に息絶えていた。
「あなた!」
メルティが動かなくなった王子にしがみついて大声で泣いた。
王子の亡骸を目の前にカフタは四つん這いになって両手の拳を握りしめた。
「トトメス……」
王と王妃が息子の前で崩れるように跪き我が子の体を揺さぶった。
「兄さん……」
アメンヘテプはショックのあまり言葉が出なかった。
自分のことを誰よりもよく理解してくれていた兄の死は、弟アメンヘテプにとって深い悲しみと喪失感をもたらした。
「悪い予感がしたとき、兄さんを引き留めていればこんなことに、兄さんが死んだのは僕のせいだ。僕が兄さんを殺したんだ」
危険を察知していたにもかかわらず、兄を守れなかったことで、アメンヘテプは自分を苛み、兄を見殺しにしてしまった罪悪感と、いつ自分も暗殺されるかもしれないという、人間に対する疑心、恐怖、怒りが彼の心に闇をつくった。
王子の心の傷はとても深く、王宮では、神の魔法しか彼の心を癒やすことは出来ないとさえ囁かれた。
「兄さん、御免なさい。兄さん!」
アメンヘテプはトトメスの首にすがりつき、繰り返し兄の名を叫んだが、固く結んだ口が決して開くことはなかった。
トトメスの暗殺は、何者かが兄の愛猫の爪に猛毒をしこんだ上、毒性の強い興奮剤を飲ませて暴れさせるという巧妙なものだった。
兄の死から数日後、王宮の庭師が猫の死骸を発見し、すぐにカフタが検査して解明された。
可哀想に兄の愛猫も自分の爪に塗られた毒を舐めて死んでいたのだ。
いったい誰がトトメスを暗殺したのか、最後に兄の子猫に近づいたのは誰なのか、警察やカフタの懸命の捜索にもかかわらず犯人を割り出すことが出来ないでいた。
「アメンの神官が殺したに違いないわ」
王妃ティイは息子を暗殺したのはアメンの神官に違いないと疑い続けた。
果たして犯人は誰だったのか、兄の暗殺事件は未解決なまま無情にも幕を下ろした。