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兄と弟

 金色に輝く二頭立てのチャリオットが今か今かと出番を待っている。

「狩りと思うな。戦場に行くと思え!」

 皇太子の兄トトメスが弟アメンヘテプを心配そうに見守る。

 メンフィスのプタハ神の大司祭でありながら、次期ファラオを継承する兄トトメス。

 生まれつき戦士のような兄に比べ、弟アメンヘテプは繊細で感情の起伏の激しい芸術家肌の王子だ。

 これほど対照的な兄弟かがかつていただろうか。

「準備は出来たか?」

 兄が弟を厳しい目でみつめる。

「出来ました!」

 アメンヘテプの声の張りから、弟が期待に応えようとするのが伝わってくる。

 兄弟は車体から振り落とされないよう、チャリオットに備え付けられた幅広の黒い革ベルトを腰に巻き両手できつく縛った。 

 王子らが乗ったチャリオットは、たった今、兵器を製造する工房から届けられた戦車だ。熟練した職人によって製作された最新式のチャリオットで、十八歳になったトトメスの誕生日に合わせて作られた特別仕様だった。

 戦車のパーツの全てに厳選された素材が使われ、ボディから車輪の幅、スポークの一本一本に至るまで精密に設計、製作された。

 この最新鋭のチャリオットは、試作品が完成するまでの間、二人の王子立ち会いの下、泥濘、砂利道、砂漠……どんな荒れ地でも高速で走り、どのような激しい衝撃にも充分耐えることが出来るよう、厳しい試験走行を何度も繰り返し、数ヶ月を要してようやく完成したものなのだ。


「着いてこい!」

 兄トトメスのかけ声で二台のチャリオットが猛スピードでマルカタの王宮から走り出た。

 二頭立てのチャリオットに乗った二人の王子は金やビーズが施された豪華な胸当てを着用し、リネンで作られた白いひだのある腰布を纏い、腰布の上からは金や赤、青など鮮やかな模様織りの幅広の腰紐を身につけている。 

「速い、しかも走りが安定してる!」

 トトメスは目を輝かせた。

 ピシッ、ピシッと手綱を弾く。

 車輪が跳ねるように回転し砂埃を激しく舞上げながら加速する。

 しかも加速する度にチャリオットの車体が沈み車体が安定するのだ。

「兄さん!」

 アメンヘテプも負けじと手綱を弾く。

 兄はさらに加速して弟をぐいぐいと引き離す。

 眩いばかりの金箔で仕上げられた車体に黄金色の太陽が降り注ぐ。

 白い二頭の馬に引かれたチャリオットのシルエットは、まるで砂漠を走る神の船のように煌めき美しい。 

 先頭のトトメスが弟を振り返った。

 右手で繰り返し何かを指さした。

 一頭の大きなダチョウだった。

 ダチョウは車輪の音に驚き、兄のチャリオットの右斜め前方を猛スピードで駆けている。

「よく見てろ!」

 兄は目を輝かせ、大きく弓を引きダチョウに狙いを定めた。

 アメンヘテプは下唇をきつく噛み、矢を射ようとする兄と、逃げるダチョウを見守った。 トトメスはチャリオットをグングン加速させ、ダチョウを一気に追い越した。

 その瞬間、兄は振り返り、

 シュッ!

 勢いよく矢を放った。

「当たった!」

 射貫かれたダチョウはよろめき、焼け付く砂漠に砂埃を上げ横倒しになった。

 兄はアメンヘテプを振り返り白い歯を見せる。 

 アメンヘテプは兄の合図に応えず手綱を握りしめ、倒れたダチョウから目を離さなかった。

 チャリオットが射貫かれたダチョウの近くを通り過ぎた。

「……」

 大きな鳥はまだ死にきれず苦しんでいた。

 前方の兄のチャリオットはさらに加速していた。

 アメンヘテプはダチョウが気になりながらも兄を追う。 

 しばらく走ると群れから離れたダチョウがもう一頭、猛スピードで走っているのが視野に入った。

 兄はアメンヘテプを振り返り、

(次はおまえの番だ)

 と、逃げるダチョウを指さした。

 アメンヘテプは、

(僕には出来ません)

 と何度も首を横に振るのだが、兄は繰り返しダチョウをやれと合図する。

 兄がさらに加速しダチョウを追い越すと、すぐに振り返り「今だ」と指で合図した。

 アメンヘテプは兄に言われた通り躊躇いながらも弓を大きく引いた。

 チャリオットが猛スピードで逃げるチョウを追い抜く。

 その瞬間、彼は、振り返りざまに矢を放った。

 シュッ!

 放った矢は鋭く空を切りダチョウの頭上を遙か超え遠くに飛んでいった。

「……」

 難を逃れたダチョウは猛スピードで方向を変え、あっという間に二人の前から姿を消した。

 アメンヘテプが申し訳なさそうに兄の方を見ると、兄は表情一つ変えず、すぐに方向転回して王宮に向かってチャリオットを走らせた。

「兄さん……」

 酷く怒っているのは兄の鋭い目つきと、あのきつく結んだ口元から明らかだった。

 アメンヘテプが兄に続いて王宮に戻りチャリオットから降りると、先に着いた兄がゆっくり彼のところに歩いてきた。

「どうしてワザと外したんだ」

 兄は厳しい表情でアメンヘテプを問い詰めた。

「わざとじゃありません」

「嘘をつくな。いつもおまえはそうだ」

「……」

「何故なんだ? どうしておまえは本気で狩りをしない?」

 兄が睨み付ける。

 上背が二メートル近くあり、胸板も厚く、戦いとスポーツを好む知略に富んだトトメス。

 兄は生まれながらの戦士であり英雄だった。

「僕には殺せません……」

 アメンヘテプはそう言って下唇をきつく噛み、兄の視線にじっと耐えている。

 兄と好対照のアメンヘテプは、上背は兄ほどでないにしても長身だが、細身で物静かな、読書と思索を好む王子だ。

 ただ、内に秘めた激しい情熱を持ち兄にはない不思議な能力、第六感を持っていた。

「なぜ殺さない」

 トトメスは、なおも問い詰めた。

「兄さんは、可哀想だとは思わないのですか?」

「そういう感情は持ち合わせてない」

「……」

「戦場では一瞬の躊躇いが命取りになる。我々の一瞬の迷いが何万もの兵士とその家族の命を奪いかねないのだ」

 兄は鋭く光る目で弟アメンヘテプを見下ろした。

「狩りは戦争ではありません。逃げる無抵抗の動物を殺す必要がどうしてあるのでしょうか」

 兄に厳しく叱責されることは覚悟の上だった。

 アメンヘテプは肩をすぼめ兄の鋭い視線にじっと耐えている。

「あの二頭のダチョウは群れからはぐれていた。いずれ豹や狼やハイエナの餌食になる運命だ」

「だからといって、人間に生きる可能性を奪う権利はないと思います」

 アメンヘテプは唇をさらにきつく噛みしめる。

「……」

 しばらくの沈黙の後、

「おまえは優しすぎる」

 そう言って、兄は怒るどころか目尻を緩め、アメンヘテプの両肩に手をおいて優しく叩いた。

「兄さん、ごめんなさい」

 アメンヘテプは肩を落とす。

「謝る必要はない。そういうところがおまえの良いところなのだ」

「でも僕は兄さんの期待に応えられなかった」

「確かに。だが、思ったのだ」

「え?」

「俺たちはお互いに無いものを補い合う存在なのだ」

「そんな、兄さんは唯一人で完璧です」

「それは違う」

「僕は何一つ兄さんに勝るものはありません」

「自分を卑下するな」

 兄がアメンヘテプを軽く諫める。

「でも……」

「おまえは俺にない優れた魅力がある」

「魅力……」

「そうだ。おまえの強い意志、深い優しさ、物事の本質を見抜く鋭い洞察力、それが人を惹き付ける魅力なのだ」

「そんな、兄さんは僕に自信をつけさせたくてそんなことを」

「違う。そろそろ気づいてほしい」

「気づくって、いったい何を……」 

 兄弟は話しながら王宮の奥へ歩き、いくつもの大きな扉と、赤、青、緑で彩色された巨大な列柱を通り抜けた。

 王宮の天井や壁の至る所に、スクロール、ローゼット、フリーズなどの幾何学紋様が描かれ、それら交互に重ねられた図柄が、赤、青、白、黒、緑、黄……色鮮やかな彩色で施されている。

「兄さん」

 アメンヘテプが早足の兄を追う。

 兄に追いついたアメンヘテプは、予てから思っていたことを、この際、兄に告げることにした。

「兄さん、僕は……」

 アメンヘテプがそう言いかけたとき、

「おまえが必要なんだ」

 兄は振り返り、強い口調で彼の言葉を遮った。

「え……」

「神官になるな」

 兄はアメンヘテプの心を見抜いていた。

「……」

 アメンヘテプはうろたえ、押し黙った。

「おまえは神に愛されし者だ」

 そう言って真剣な眼差しで彼を見詰める。

「神に……」

「そうだ。そのことを決して忘れるな」

「……」

「やがておまえがなすべきことが自ずと見えてくる」

「僕が成すべきことって何ですか!」

「俺にもわからない。だが、時が来れば神が明らかにするだろう」

 兄はそう言うと、王宮で最も大きな扉の前に立ち止まった。



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