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聖牛アピスの儀式

 朝早くまだ六時になったばかりの、召使い達が忙しそうに食事の用意をしはじめた頃、マルカタ宮殿のアテン神を祭る礼拝堂でアメンヘテプが朝の祈りを神に捧げていた。

「祈りはすんだか?」

 祈りを捧げ終わったところに父王アメンヘテプ三世がやって来た。

「父上」

 アメンヘテプは立ち上がり父を振り返る。

「そろそろ行こう」

 父王は息子を手招きした。

「畏まりました」

 アメンヘテプは恭しくアテン神にもう一度頭を下げ父王の後に続く。 

 

 聖牛アピスの力を授かる牡牛の儀式の日が近づいていた。エジプト王朝でファラオとなる者は、古来からメンフィスで祭られている聖牛アピスの角を握ることでアピスの守護と力を授かることができると言い伝えられていた。この儀式をファラオから与えられる王子は後継者と見なされたも同然なのだ。それだけに王族の中で誰がこの儀式にファラオから指名されるのか高い関心の的だった。

 もちろんティイ王妃の唯一の息子であるアメンヘテプ四世が指名されるだろうと言うことは当然と言えば当然だったのだが、王族の中では依然イスラエル系のファラオが誕生することを好ましいと思わない勢力が暗躍してアアヘベルが儀式にでれるよう工作をしていた。さらにテーベのアメン神官団も王家に露骨な圧力をかけてアアヘベルを推挙するよう揺さぶりをかけていた。

 緊迫した状況下にありながらもティイ王妃は子飼いの神官や官僚たちから情報収集し、アメン神官団や反イスラエル系の王族や官僚らの巻き返しを根絶やしにすることに成功。王子の王位継承の下地を着実に固めていった。


「輿を止めろ」

 アメンヘテプ三世は港から二十メートルほど手前で輿を降りて歩き出した。

「父上、港は目の前なのに何故輿を使わないのですか?」

 アメンヘテプ三世は太って大きな体のわりには運動神経が抜群だったが、時折、持病の糖尿病で壊死しかけた左足の親指を庇うような歩き方をしていた。

「今日は体が思ったより軽いのだ。今日は大事な日だ。おまえとこうして少しでも歩きたかった」

 父王はアカシアの木で作られた丈夫で硬いステッキで左の体重を支え、王子に白い歯を見せて笑う。

「わたしも嬉しいです」

 王子は自分が心から父親に愛されているのを感じる。

「そうか」

 親子は並んで歩きながら、砂漠の中に造られた森や田畑や色とりどりの建物が並ぶ美しい景色を眺めながらビルケットハブの船着き場に向かって歩き続けた。

「アテン神を国神とするのだ」

 父王が唐突に言った。

「父上」

 アメンヘテプは父王を驚きの目で見つめる。

「テーベのアメン神官団は王家を滅ぼし、自らがファラオになろうとしている」

「いくらテーベのアメン神官団といえどもそのようなことは」

 アメンヘテプは言葉に詰まった。

「よいか、エジプトは今や武力も経済力も世界最大の帝国となった。歴代の王は神に感謝し莫大な富をアメン神に寄進した。ところがアメン神官団はその富で私腹を肥やし帝国最大の巨大組織と変貌した」

「たしかにテーベのアメン神官団は神託と称して、信心深い民を騙し、政にまで介入してきました。神域での汚職や淫行は常態化し、腐敗の極みに達しています」

「わしはバランスを保つためアメン神以外の神々にも寄進した。同時にテーベの大司祭の任免を王宮ができるよう制度改革したのだが」

 父王は杖を握り締め、立ち止まった。

「だいじょうぶですか」

 アメンヘテプは心配そうに父の顔を覗き込む。

「大丈夫じゃ。若い頃は馬に跨がり砂漠を何時間も駆け巡ったものだった」

 そう言って、ふたたび杖を握り、ゆっくりと歩き始めた。

「テーベに大司祭として我らが送り込んだメリプタハも、金に目が眩んだのか、すっかりアメン神官団に取り込まれています」

「メリプタハは泳がせておくのだ。テーベのアメン神官団の背後には奴らを操る黒幕がいる」

「黒幕。いったい誰ですか?」

 アメンヘテプの切れ長の目が鋭く光った。

「神官団に密偵を送り込んでいるのだが、今だ掴めないでいる」

 父王は左の拳を握り締める。

「国神を王家の神アテンに切り替えよ。神の前で祭祀を執行できるのは古来ファラオのみである。そのことを徹底して思い知らすのだ。さすれば、アメン神官団の権威は失墜し寄進はなくなり、困窮したアメン神官団は王家に反旗を翻すであろう」

「父上はそこまでお考えでしたか」

「あやつらを侮るでないぞ」

「はい」

「よいか、王家とアメン神官団が極限の緊張関係下におかれたとき、仲を取り持つ者が必ず現れる。その人物こそが黒幕だ」

 父王はそう言って若き王子の目を見つめた。

「はい」

 アメンヘテプは唇を固く結び小さく頷いた。


「お待ちしていました」

 ビルケットハブの船着き場には巨大な帆船が停泊していた。

 アメンヘテプ三世王と王子はその船に乗り、王族専用の豪華な船室に入った。

「出発だ!」

 船頭の合図で船は静かに港を離れた。 

 ビルケットハブという人口の湖はアメンヘテプ三世が王妃ティイのために造った巨大な人造湖で、船遊びが好きな王と王妃はこの船に乗って湖を一周し、魚の丘と言われる大きなキオスクでお茶を飲んだり食事を楽しんだりした。

 ビルケットハブはいわば巨大なレクリエーション施設だったが、この巨大な湖はナイルと繋がっていたので、ここから船でエジプト各地へ自由に行き来することが出来る便利な港でもある。 

 アメンヘテプ親子を乗せた船はマルカタのビルケットハブからナイルの流れに乗り、下流のナイル河口付近のデルタ地帯にあるメンフィスへと向かった。

 

 メンフィスはエジプトに最初の統一王朝を建設した伝説上の王、メネス王が建設した都と伝えられている。紀元前三一○○年頃のことである。

 メンフィスは上エジプト国と下エジプト国の間にあたり、両国の天秤メハト・ターウィと呼ばれた。

 メンフィスはナイルデルタの要で、レバノン周辺や紅海やサハラ砂漠に行く交易ルートの交わるところでもあり、地理的にも重要な拠点だった。そして何よりも重要視されていたことは。古王国時代からメンフィスを制する者が帝国の正当な支配者であるという伝説があった。すなわち正当なファラオの後継者はこのメンフィスで戴冠式をとりおこなうのだ。テーベでの戴冠式はこの儀式を追認する形式的なものにすぎない。

 その頃メンフィスでは牛の飼育係であるチャアが餌を与えながらオーロックス牛の体をブラシで丁寧に研いていた。

 神々に捧げるために肥育したオーロックス牛をイワーと呼び、特にプタハ神の化身をアピス牛と呼んで聖牛と崇めた。

 アピス牛が死ぬとミイラにされ、国全体が喪に服した。後継のアピス牛はプタハ大神殿の神官が、多くのオーロックス牛の中から、様々な特徴を調べ、全ての条件をクリアーした牛を一頭選ぶ。その唯一選ばれた一頭のオーロックスがアピス牛、すなわち聖牛とされプタハ神の化身として死ぬまで大切に飼育されるのだ。


「どうですかアピス様のご機嫌は」

 アメンの神官の格好をしたカフィが後ろに手を組んで立っていた。

「どなたかと思えばアメンの神官様か」

 チャアは牛の横っ腹の近くに屈んで毛繕いをしながらカフィを見上げた。

 カフィはチャアのすぐ横に中腰になって、

「儀式がはじまる直前にこの神の水を桶に混ぜて牛に飲ませろ」

 耳元で囁き小さな革の袋を手渡した。

「わかりました」

 チャアは用心深く袋を懐にしまい込んだ。 

 マルカタを出ておよそ二十日後、王と王子が乗った船がメンフィスで最も大きい港、ペル・ネフェルの港に着いた。

 ペル・ネフェルはナイルデルタの要に位置する軍港で、住宅、建材、兵器などの工場や、エジプトや近隣諸国の商人達の倉庫や様々な職人達の工房が集まり、物流の拠点として繁栄していた。

 その日の儀式は極一部の王族と神官にしか知らされていなかったので、村人が大騒ぎすることはないのだが、なぜか港には大勢の村人がファラオと王子を一目見ようと詰めかけていた。

「この騒ぎはなんだ?」

 国王が怪訝な顔をした。

「今日の聖牛の儀式のことが知れ渡っているようですな」

 宰相のラモーゼも険しい顔をしながら港に詰めかけた群衆を見渡している。

「良いではありませんか。父上は民にこんなにも親しまれているのですから」

 アメンヘテプは船のデッキから人々に手を振って応える。

「全く、おまえは人を疑うということを知らんようだな」

 王は息子の隣で同じように笑顔で人々に手を振った。

「父上、どういう意味でしょうか」

「明日の儀式は我らと極一部の神官しか知らない行事なのだ。誰かが噂を故意に広めたに違いない」

「父上、ますますわかりません。確かに我々はお忍びで来ましたが、知られてまずいことではありませんし、むしろオープンに儀式をした方が民も喜びます」

「それもそうだが……」

 父王はそれ以上何も言わず民の方を向いてにこやかに手を振り続けた。


 翌朝、儀式の準備が整うと、王様と王子アメンヘテプはアピスがいる、プタハ神殿を訪れた。もちろん前日から神官らがファラオを迎えに来ていたのだが。

「王様、王子様よくお越し下さいました。我々はこの日が来るのをとても楽しみにしていました」

 大司祭がうやうやしく挨拶をする。

「ごくろうさま。で、儀式の準備は整っているか?」

「もちろんでございます。いよいよアメンヘテプ様が、ファラオの共同統治者になられるのです。この日をどれだけ待ちわびたことか」

「大司祭どのも相変わらず大げさよのう」

「めっそうもございません」

 大司祭は恐れ入って、慇懃に頭を下げた。

「父上あれを!」

 アメンヘテプが指さしたほうに、神の化身と崇められている、鋭く長い角をもつ大きな体格の牛、アピスがいた。そばにはチャアが入念に世話をしている。

 アピスはプタハ神の化身とされ、体に特別なしるしを持つ牛が選び出されて神殿に捧げられたものを指す。その特別な牛とは、オーロックスと呼ばれた家畜牛の先祖であり、ラスコーの壁画でも有名な大きな角の牛である。体長は約三・一メーター、体髙は約二メーター、体重は最大で一・五トンの巨大な体格を持ち、鋭く長く太い角で外敵を圧倒した。

「アピス神の手入れは行き届いているか」

 プタハの大司祭はさらに念を入れろと言わんばかりにチャアを叱りつけた。

「は、はい!」

「儀式は形式的なものだ。アピスの角を握るだけでいい」

 王様はそう言って、アピスから数歩離れた。

「聖なる水を与えます」

 チャアは王とアメンヘテプが見ている目の前で、薬を混ぜた水をアピス牛に飲ませた。

 アピスに変化はない。

 

 儀式が始まった。

 アメンヘテプは自分の背丈を超えるほどの、大きな牛の前に立ち、ゆっくり彼に近づいた。それからアピスの角に触ろうとした、

 その瞬間、

「オオオォオ──」

 アピスは耳を破るような大きな叫び声を上げ、角をすくい上げながら、暴れ出した。

「いかん! アピスを止めるんだ!」

 王様が声を張り上げた。

「どういうことだ」

 アメンヘテプは鋭い角から身をかわし、アピスの右斜め後ろに回り込んだ。

「アピスを取り押さえよ!」

 屈強の若者達が駆けつけ、暴れ牛を抑えようとしたが、従者は次々とアピスの大きな角にすくい投げられてしまった。

「王子様が危険だ!」

 神官達が顔面蒼白になった。

「アメンヘテプ、はやく乗れ!」

 王様は戦車を指さす。

「アピスは毒物で興奮しているようです」

 アメンヘテプは暴れまくるアピスの目が異常に充血していること、口から胃液を垂れ流していることに気づいた。

 王子は向かってくるアピスから身をかわそうともせず、牛の頭を軽く触ると、急におとなしくなった。

「一体何が起こったんだ」

 王様は、地面に足を折って座り込むアピスの背中を、優しくさする息子を呆然と眺めた。

「おそらく興奮剤でしょう。アピスの心の声を聞きました」

 アメンヘテプの傍でアピスが目を閉じて心地よさそうに眠っている。

「儀式の前に何者かがアピスに薬を飲ませたというのだな」

「チャーに違いありません」

 大司祭が儀式寸前までチャーがアピスの面倒をみていたのを思い出していた。

「チャーを連れてこい!」

「チャーの姿がありません」

「全員で捕らえるのだ」

 大司祭がヒステリックに号令かける。

「もうよい」

 王様は唇を固く結んだ。

(テーベのアメン神官団が黒幕であろう)

 この日の儀式をもって、アメンヘテプ三世は政務から遠ざかり、政務のほとんどを王妃ティイがとりしきった。


 アピスの儀式が終わるとアメンヘテプはネフェルティティと結婚し王妃とした。

 翌年、長女のメリトアテンが生まれ、翌々年、二女のマケトアテンが生まれた。王家家族は幸福に恵まれた。

 アメンヘテプ三世の治世三十八年、王は糖尿病の病にて死亡、推定死亡年代は四十歳から五十歳ごろだったと言われている。王の遺体は、王家の谷の西側にある西谷の王墓に埋められた。

 アメンヘテプ三世の王墓は第十八王朝の王墓の中で最も大きく、極彩色の壁画は最盛期のエジプトを象徴するにふさわしい華やかなものだった。



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