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聖地アマルナ

「父上、母上、少し旅に出たいのです」

「まあ、今度はいったい何処へ」

「ヘリオポリスです」

「あんな遠くの町へいったいどうしてかね」

 王様は眉をひそめた。

「はい、ヘリオポリスはエジプトの神々が生まれた原初の丘があるとききました。その丘を見てみたいのです」

 王様やお妃様の心配をよそに王子は生き生きと話し続けた。

「どうして見てみたいのですか?」

 ティイは息子の真剣な眼差しをみつめた。

「原初の丘に行けば命の謎が解けるかもしれないと思うからです」

 ヘリオポリスは下エジプトのナイルデルタにある宗教都市で対岸にはクフの大ピラミッドで有名なギザがある。

 ヘリオポリスの東側にはベンベンという丘があり、その丘の最も高いところにベンベンという再生復活を司る神の石があった。この石が天から降ってきて天地創造が始まったと伝えられている。

 太陽が昇り沈んではまた昇ることが再生復活を表すことから、太陽信仰や世界最古のヘリオポリス創世神話がこの丘から生まれ、古くから信仰の町として多くのエジプト人に親しまれてきた。

「命の謎を解きたいのです。何故、兄は死んだのか」

 王子の目は真剣そのものだった。

 王様と王妃様は顔を見合い頷いた。二人は息子の旅の目的を理解したのだ。命の謎が解ければ兄トトメスの死に向き合うことが出来るに違いない。

「よかろう」

 王様は息子を信頼した。

「必ずラモーゼを連れていきなさい」

 王妃様は優しく我が子を抱きしめた。

「父上、母上、ありがとうございます」

 アメンヘテプの目が久しぶりに輝くのを見て、王様も王妃様も安堵した。

 両親の許可を得たアメンヘテプはすぐにラモーゼと数人の部下を従い、ヘリオポリスに向かって船出した。下エジプトのヘリオポリスにはナイルを船で行くのが早いからだ。早いと言ってもマルカタからヘリオポリスまでは大型の高速船でもかなりの長旅だった。

 

 アメンヘテプの伯父アアヘベルが、ふかふかの長椅子にうつ伏せて、ゼノビアに背中をマッサージをさせて寛いでいたとき、

「殿下、耳寄りな話です」

 部屋の入り口付近から男の声が響いた。

「もうよい。下がれ」

 アアヘベルはその男が宝石商のヘヌトだと気づくと、ゼノビアを部屋からすぐに追い出した。

「お楽しみのところ申し訳御座いません」

 ヘヌトは恭しくそう言ってアアヘベルに近づいた。

「ほんとにおまえはこれからという時に何時もわしの楽しみを邪魔する」

 アアヘベルは肥満した体を不自由そうに動かして上体を起こし、右足から順に足を床に下ろして、長椅子の中程に腰掛けた。

「ゼノビアとのお遊びもお飽きになったでしょう」

 ヘヌトは意味ありげに笑う。

「おまえはいつもわかりにくい。はやく申せ」

 短気なアアヘベルはすぐに顔をしかめる。

「実は……」

 ヘヌトは周囲に誰もいないのを確認すると、アアヘベルの耳元でささやいた。

「なに王子がラモーゼと数人の部下だけでヘリオポリスに行くだと」

 アアヘベルは思わず声を上げた。

「で、殿下」

 慌ててヘヌトは唇の前に指を一本立てた。

「確かな情報であろうな?」

「もちろんです」

「よい知らせじゃ。持ってきた宝石は全部買い取ろう」

「毎度ありがとうございます」

「宝石箱ごとテーブルの上に置いていけ」

「かしこまりました」

 ヘヌトはそれ以上何も言わず両手で重そうに宝石箱を抱きかかえると、近くのテーブルの上にゆっくり置いた。

「で、いかがなさいますか」

「絶好のチャンスだ」

「どこで仕掛けましょうか」

「テーベとヘリオポリスの中間地点あたりがよかろう」

「その辺りならラモーゼも油断していることでしょう」

「すぐに追い越して先回りしろ」

「畏まりました」

「正統な王位継承者である私を排除してまんまと王位を簒奪したヘブライ人らめ。忌まわしい奴らだ。今に目に物見せてやる」

 アアヘベルは顔を真っ赤にし怒りで全身を震わせた。

「殿下の時代は目の前にございます」

「それもお前の働きにかかっているのだぞ」

「命に賭けても」

 ヘヌトは恭しく頭を下げると、すぐにアアヘベルの前から姿を消した。


 アアヘベルの邸宅を走り去るとヘヌトはテーベの裏町の安酒場にパロイを呼び出した。

 王子暗殺に失敗したパロイを始末するようアアヘベルに命じられていたが、利用するためわざと殺さずに泳がせていたのだ。

「わかっているだろうな。今度こそうまくやれよ」

 ヘヌトはパロイに凄んだ。

「ああ、任せとけ」

 パロイはあたたかなビールを一気に飲みほした。

 ヘヌトは革袋に入った金をテーブルに置くと、酒場から姿を消した。

(今回も奴は失敗するだろう。だがそれでいいのだ。夢見るファラオが誕生すればエジプトは弱体化する)

 馬を走らせながらヘヌトはほくそ笑んだ。


 アメンヘテプは甲板から夕日を眺めていた。そばにはプントから着いてきたオオカミのヒラールがいる。船はヘリオポリスまでのおよそ中間地点に近づいていた。天気は良く船旅は快適で船は追い風に煽られ思ったより速く航行していたのだ。

「王子様、この調子ならヘリオポリスまであと十日前後で着きそうです」

 ラモーゼはデッキに立ち、さっきからずっと夕日を眺め続けるアメンヘテプに話しかけた。

「はやく原初の丘というものを見てみたい。ラモーゼ、おまえは見たことがあるのか?」

 アメンヘテプは自分の右隣に並んで立つラモーゼを見上げた。

「随分昔のことですが……」

「行ったことがあるのだな!」

「もう二十年以上も前のことです」

「どんな所だった?」

 王子が顔を乗り出してきた。

「そうですな……」

 ラモーゼは躊躇った。

「いや、言わなくてもよい」

「ご自身の目で確かめられたほうが宜しいかと」

「楽しみはとっておこう」

「はい」

 その時、船に激しい衝撃が走り、アメンヘテプをはじめ甲板にいた者達はデッキのあちこちに投げ飛ばされた。

「アメンヘテプ様!」

 ラモーゼは両手をデッキについて這いつくばり、かろうじて上体を起こすとすぐに周囲を見渡した。

 ところがたった今ままで側にいた王子の姿が見つからない。

「ラモーゼ様! 船が沈みます!」

 船長が叫んだ。

「何が起きたんだ」

「さっきの衝撃で船底に大きな亀裂ができたようです」

 ラモーゼは傾き始めたデッキの上をよろめきながら立ち上がる。

「亀裂だと!」

「はい、川底の巨石にえぐられたのです」

「なぜ気づかなかった!」

「この航路には今までなかったのです」

「水の変化で気付かなかったのか!」

「も、申し訳ありません」

 その時、王子が流されるのが見えた。

「アメンヘテプ様!」

 ラモーゼはすぐにナイルに飛び込み王子を追った。

 その後すぐに船は大きく傾き始め甲板にいた船頭をはじめ、残りの船員たちも全員ナイルに飛び込んだ。

「アメンヘテプ様!」

 川の流れは激しく船の崩壊に驚いたワニや河馬たちが暴れだし、ラモーゼは容易に王子に追いつくことができないばかりか、自分の命でさえ危うくなりかけた。

 ラモーゼを追って後からナイルに飛び込んだ者もワニの餌食になったり、川の流れに足をすくわれて溺れ死んだりした。

「アメンヘテプ様……」

 王子の姿が瞬く間に視界から消えるとラモーゼは力尽きナイルに呑み込まれてしまった。

 対岸の岸壁から作戦の成功を見届けたヘヌトはニタリと笑った。

「あの程度のことなら王子は死ぬまい。作戦成功だ」

 ヘヌトはすぐにアアヘベルに知らせるため馬を走らせた。

 と同時に、利用価値のなくなったパロイ殺害を部下に指示した。


 その頃、アメンヘテプはナイル東岸で意識を失って倒れていた。

 傍には白銀のオオカミが周囲に睨みを利かせている。ヒラールが溺れかけた王子を助けたのだ。

「うぅ……」

 朦朧とする意識の中で突如金色の光が現れ王子の全身を包み込んだ。

「アクナテン」

 神は王子をアクナテンと呼んだ。

「……」

「この地に我が神殿を建て、そなたの王都を築け」

 神は王子に命じた。

「は、はい」

「神殿は天に向かって開かれるように作れ」

「畏まりました」

「よかろう」

「か、神様……お願いがあります」

「何だ」

「どうか兄を生き返らせてください」

 神に王子は嘆願した。

「そなたの兄は私の元で幸せに暮らしている」

 神はそう言うと、王子に兄トトメスの幸せそうな姿を見せた。

「よかった……」

 アメンヘテプは兄の笑顔を見ると安心し再び意識が遠のいた。

 ラモーゼも砂浜に打ち上げられていた。

「こ、ここは」

 四つん這いになった途端、ラモーゼは泥水を何度も吐きだした。

「あ、あれは」

 近くの砂浜にアメンヘテプと王子を守るようにヒラールがいる。

「アメンヘテプ様!」

 ラモーゼはよろめきながら立ち上がり、五メートルほど先の川縁に倒れている王子のところに走った。

「アメンヘテプ様!」

 ラモーゼは俯せになった王子の体を仰向けにし、胸に耳をあて心臓の鼓動を確認した。

「大丈夫だ」

 ラモーゼが繰り返しアメンヘテプに呼びかけると、王子の目が微かに動き、うっすらと目を開けた。

「……」

「アメンヘテプ様!」

「兄に会った」

「何処でございますか」

「神の元で」

「神の……」

「神様が会わせてくれたのだ」

 王子は微笑んだ。

「なんと有り難きことでしょう」

 ラモーゼは王子の言葉に大きく頷く。

「神様のところで兄は幸せに暮らしている」

「そうでしょうとも。とてもお心が優しい方でしたから」

 ラモーゼは何度も頷いた。

 王子は立ち上がり衣服についた砂や泥を払うと、

「ラモーゼ、ここは何処だ」

 そう言って周囲を見渡した。

「船で最後に確認した時にはアシウトを通過したところだったので、おそらくアシウトとヘルモポリスの中間辺りアマルナではないかと思われます」

 ラモーゼも王子とともに辺りを見渡してみる。

「神がここに神殿を建てよと申された。そして都を造れとも」

「神殿と都を……」

 驚くラモーゼをよそに王子とヒラールは砂浜から東の丘陵目指して歩き出した。

「アメンヘテプ様」

 慌ててラモーゼも後を追う。

「何もない荒涼とした大地で御座いますな」

「だから神はここを選ばれたのだ」

 王子とラモーゼが足を踏み入れた丘陵は小さな村一つなく、殺風景な大地が東に向かって永遠に広がっていた。

「美しく、とても清潔な大地だ」

「……」

「精妙な波動を感じる」

「なるほど」

 ラモーゼは目の前の景色から何も感じることはなく、何をどう見ても荒涼とした大地が永遠に続いているとしか思えなかった。

「ラモーゼ、見える物に囚われては駄目だ。私たちに見える物はこの世界の一割ほどにすぎない。残りの九割は見えないのだ。だがそれは明らかに存在する」

「それでは私は目が見えないも同然ですな」

 ラモーゼは王子が意味不明なことを言うので、まだ夢から覚めていないのではないかと思った。

「見える物がこの世界の全てとは思わないことだ」

「では見えない残り九割の世界はどうしたら見えるのでしょうか?」

「感覚を研ぎ澄ませることだ」

「感覚を」

「そうだ。感性が鋭敏になれば見えない残り九割の世界を見ることが出来る」

「感性を鋭敏にするにはどうすればよろしいのでしょうか」

「心だよ」

「こころ」

「心に曇りがなければ感性が研ぎ澄まされる」

 王子はそう言ってラモーゼを見つめた。

「ああ、曇りなき心ですか……」

 ラモーゼは王子に心を見透かされたような気分になりどぎまぎした。

「ははは、ラモーゼ恐れることはない。おまえの忠臣ぶりはよくわかっている」

 王子は白い歯を見せて笑い、ラモーゼを見上げた。

 まだ少年のアメンヘテプが数々の驚くべき言葉を語り、発せられた言葉は大人顔負けの鋭い分析力と洞察力に裏付けられていることにラモーゼは驚嘆した。

(アメンヘテプ様は神に選ばれしおかた)

 ラモーゼは王子の高い知能と高い精神性に畏怖すると同時に、天才肌の王子にとてつもない可能性と恐ろしさを感じた。

「ラモーゼなにをしている! こっちだ!」

 アメンヘテプの声に物思いから我に帰ると王子は小高い丘陵から彼を呼んでいる。

「いま参ります。暫しお待ちを」

 ラモーゼが慌てて走り丘陵を見上げると王子の姿が消えていた。

「アメンヘテプ様!」

 ラモーゼが丘陵に着くと王子が太陽を抱きかかえるように思いっきり両手を広げ空を仰いでいる姿が目に飛び込んできた。

「アメンヘテプ様……」

「神よここにあなたの神殿を建てます」

 アメンヘテプはそう言って跪き大地に接吻した。

 その姿を見ていたラモーゼも反射的に跪き大地にひれ伏した。

「ここは神の都となるであろう」

 王子は立ち上がり太陽を背に振り返った。

「神の子」

 ひれ伏したラモーゼの瞳に太陽を背にした王子が飛び込んできた。その姿はまるで神の子が目の前に舞い降りたように神々しかった。


 ヘヌトから王子暗殺成功の知らせを受けたアアヘベルは大喜びし、肥満体にもかかわらず足取りも軽くティイ王妃のもとに向かった。

(船が難破して王子が死んだ)

 内心の喜びはあまりにも大きく、アアヘベルは笑いがこみ上げてくるのを必死でこらえた。

「王妃様」

 いつもよりアアヘベルは神妙な面持ちでティイの前に現れた。

「アアヘベル、火急の知らせとは何ですか」

 ティイ王妃は黄金の椅子に深々と腰掛けアアヘベルを見つめた。

「アメンヘテプ様が……」

 そう言いかけたときティイが彼の言葉を遮った。

「そうなの。無事だったとたった今知らせがありました」

 ティイの話しにアアヘベルは言葉を失った。


 丘陵からナイルを眺めるとラモーゼはようやくここがヘルモポリスに近いことに気づいた。

「アメンヘテプ様、対岸にヘルモポリスがございます」

「ヘルモポリスか」

「さようでございます」

「そうか、それが、この地に神殿と都を建てよという神の御言葉の意味だったのか」

「まさに世界の始まりの地でございますな」

「そのとおりだ。八柱神が産んだ卵が太陽となり、一本の美しい睡蓮のネフェルテムによって、生まれたばかりの太陽が天に上がり世界を照らし出したのだ」

 アメンヘテプは大きく頷き、あらためて大地を踏みしめた。

「ヘルモポリスへ行くぞ」

 そう言うと王子はサンダルを履き、あっけにとられるラモーゼを後に、すたすたと丘陵を降り始めた。

「アメンヘテプ様!」

 王子とヒラールがどんどん今来た道を引き返すので、ラモーゼも慌てて後を追う。

 ナイルに近づくとティイ王妃の指示で派遣された兵士達が大勢駆けつけ、アメンヘテプの前にひれ伏した。

「ご無事で何よりです」

「大丈夫だ。それよりナイルに沈んでいる大きな石を撤去するのだ。船の航行に支障が出る」

「畏まりました!」

「私はヘルモポリスへ行く」

「すぐに渡し船を用意します」

「頼んだぞ」

 アメンヘテプはそう言うと兵士達が乗ってきた大型の船に乗り衣服を着替えた。

 船のデッキでついさっきまでいた丘陵をアメンヘテプが眺めていると、

「渡し船の用意が出来ました」

 ラモーゼがデッキに駆け上がってきた。

「よし、行こう」

 アメンヘテプがデッキを急いで降りるとラモーゼが続く。

「予定していたヘリオポリス行き、如何されますか?」

「神がこの地に導いたのだ。行く必要はなかろう」

「ではあのナイルの大きな岩石は神の仕業だと」

「いや、あれは何者かが私を亡き者にしようと仕組んだのだろう」

「ならば神のお導きとは……」

「神はあらゆる出来事を使われて人を導かれるのだ。私を暗殺しようとする企てさえ」

「恐れ入ります。ですがあの岩を沈めた下手人を捜さねばなりません」

「もうよいではないか」

「ですが、またいつ何時、命を狙われるやしれません」

「よいのだ。私は不死身だ」

「アメンヘテプ様」

「ラモーゼ、良からぬことを考えすぎると、そなたの想念が宇宙を動かし、余計な災いをもたらすかもしれんぞ」

「そ、それは困ります」

「であろう」

「は、はい」

「ならばもう良いのだ」

「畏まりました」

 アメンヘテプはラモーゼの心配がよくわかっていた。だが、すでにこれだけの大軍をティイ王妃が差し向けているのだ。当然、ティイは今回の船の事故を疑っているのは明らかで、なにも自分が犯人捜しの指示を出さなくても既に王宮サイドで密かに捜索が始められているのだと察していた。 

 アメンヘテプとラモーゼそしてティイ王妃が差し向けた兵士達は次々と渡し船で対岸に着くと、対岸では王妃から知らせを受けたヘルモポリスの神官らが恭しく出迎えた。

「アメンヘテプ様、ご無事で何よりです」

 ヘルモポリスの大司祭ネフメスが王子に挨拶をする。

「もう母上から知らせがあったのか」

「ティイ王妃様はエジプトに起こる全てのことを知り尽くしておられます」

 アメンヘテプはネフメスの言葉が終わる前にため息をついた。

「何もかも母上はお見通しだ」

「有り難いことです」

 そう言いってラモーゼがクスッと笑い王子を見ると、

「わかっている」

 アメンヘテプは苦虫を噛み潰したような顔をしてラモーゼを睨む。

「こちらへどうぞ」

 アメンヘテプとラモーゼの一行は大司祭ネフメスに案内されヘルモポリスのトト神殿に入り、そこで一夜を明かすことになった。

 

 ヘルモポリス「古代名で『クムヌ』」は上エジプトに古くから存在する信仰の中心地の一つで、ヘリオポリス「古代名で『 オン』」の主神が太陽神ラーであるのに対し、ヘルモポリスの主神が知恵の神トト神を祀ることからトトの町とも言われていた。

 ヘルモポリスは、神殿が所有する土地や財産はヘリオポリスにつぐ豊かさを誇っていた。しかし、他の宗教都市の神官団のように王家と政権争いをすることはなく、政治的には一貫して中立の立場を貫いていた。

 

 ヘルモポリスの神官団や巫女達の歓迎を受けたアメンヘテプは王族のための大きな部屋に案内されると、ベッドに横になり意識を失うように眠ってしまった。船の難破や砂漠での出来事は、まだ少年の彼には負担が大きすぎて疲れ果てていたのだ。

 どれくらい眠っていたのだろうか、夢も見ず熟睡していたアメンヘテプは、心地よい歌に目を醒ました。

 窓の外を見ると空が白んでいる。夜明け前のようだ。

「美しい歌声……」

 アメンヘテプは裸足のままベッドから滑り降り、声がする神殿の中庭に向かって歩き出した。長い回廊に妖精が奏でるような美しい歌声が響いてくる。

 中庭に続く大きなアーチ型の門の所まで歩いてきた王子は大理石のステージで歌う少女を見て思わず声を上げた。

「まさか!」

 ところがアメンヘテプの声を聞いた少女は驚き、慌てて逃げようとした。

「待って!」

 アメンヘテプは逃げようとする少女を優しく呼び止める。

「申し訳ございません」

 少女はすぐに跪き今にも泣きそうな顔をして謝った。

「なぜ謝る」

 アメンヘテプは少女の前に同じように屈み込んで初めて彼女の顔を見た。

「き、きみは……」

「キヤと申します」

「キヤ」

「カルナク神殿の巫女ですが、昨日から始まったこの神殿のチャリティーコンサートに参加しています」

 少女が自分の名と素性を話すとアメンヘテプは我にかえり、

「すまなかった」

 と申し訳なさそうに謝った。

「君が死んだ妹にあまりにも似ていたから」

「妹様に……」

「さあ、立って」

 アメンヘテプはキヤの手を優しく取った。

「王子様、恐れ多いことでございます」

 キヤは恐縮し顔を強張らせる。

「なぜ王子とわかる?」

 アメンヘテプは微笑みながら訊ねる。

「昼間、王子様がお越しになったのを皆と見ていたからです」

 キヤは恐る恐る顔を上げアメンヘテプを見つめた。

「遠慮はいらぬ」

 アメンヘテプは白い歯を見せて笑う。

「妹様、お亡くなりになったのですね」

「マラリア熱で死んだ」

「マラリア……」

「君と同じくらいだろうか」

 王子はそう言うと遠くを眺めるようにして妹と楽しく過ごした時を振り返った。

「妹様のこと思い出させてすみません」

「キヤは謝ってばかりいるね」

 アメンヘテプはそう言ってキヤを見て笑う。

「それにしても、どうしてこんなに朝早くから歌を?」

「起こしてしまったのですね」

 キヤは申し訳なさそうな顔をする。

「そんな泣きそうな顔をしないで。責めているんじゃないよ」

 アメンヘテプはキヤに笑顔を見せる。

「一日でも早く素敵な歌姫になりたくて毎日練習しているのです」

「もう十分に素敵な歌姫だと思うよ」

「いいえ、まだイシス様には遠く及びません」

「カルナク神殿のイシスか」

「はい。わたしの師匠であり恩人でもあります」

「そうか。イシスの歌声は天使のようだからな」

「王子様は天使を見たことがあるのですか?」

「いや。ないよ」

「でも今イシス様は天使のようだと」

「あ、ばれたか」

「やっぱり見たことがあるのですね」

「いやないよ。あえて言うならイシスこそ天使のような気がすると言ったんだ」

「ばれたというのは嘘がということだったんですね」

「嘘はつかないよ」

「ではやっぱり天使をご覧になったのですね」

「天使は光の羽だよ」

「光の羽」

「見たわけじゃない。存在を感じたんだ」

「分かります。その感覚」

「君も光だね」

「わたしがですか」

「光だから君も天使だ」

「王子様もです」

「そういわれると嬉しい」

 二人は顔を見合わせ両手で口を押さえながら笑った。

「ところでさっきの質問だけど、どうして君はこんな夜明けに歌の練習をしていたの?」

 アメンヘテプは話を振り出しに戻した。

「夜明けは精霊と繋がり語り合うことが出来るのです」

「歌は精霊との対話?」

「はい」

 キヤが頬を赤らめ俯くと、アメンヘテプは彼女により好感を持った。

「なぜ裸足で歌うの?」

 そう言ってアメンヘテプはキヤの白くて長い足を見た。

「大地と繋がるためです」

「大地と……」

 アメンヘテプが繰り返すとキヤが小さく微笑んで彼を見つめた。

「大地を踏みしめ目を瞑ってみてください」

 アメンヘテプが目を瞑り大地を踏みしめグラウンディングすると、キヤは神に捧げる歌を優しく歌い始めた。《神の光は大地を山を川を覆い、神の愛はナイルの流れをつくり、野と大地を愛で満たされる。天の無数の星々は神の愛で光輝き、その愛は天空を遍く満たされる……》

 アメンヘテプは無心になって聴き入った。キヤの歌声はまるで光の天使が自分の魂に直接語りかけてくるような、そんな深い愛に満ちていた。精霊の化身。まるでキヤは歌うために生まれてきた天使のようだった。

「……」

 まだ天空には星々が煌めいていた。

 アメンヘテプはキヤの歌声に身も心も魂でさえも清められるような心地よさを感じた。

「……精霊の囁きが聞こえる」

 アメンヘテプがうっすらと目を開けると東の空に太陽が昇り始め、彼とキヤを金色の光で包み込んだ。

「僕らは神に祝福されている」

 アメンヘテプが真剣な眼差しでキヤを見つめた。

「ありがたいお言葉にございます」

 キヤは遠慮がちに頷く。

 太陽は昇りつづけ神殿の中庭を、ステージの上の二人を、溢れるほどの金色の光で満たした。



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