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キヤ

 テーベの貧しい煉瓦職人の家にキヤという娘がいた。キヤの家族は遠い昔、西アジアからエジプトに入植したヘブライ人の家系だった。エジプトにヒクソスが攻め込みエジプトを支配していた時代は優遇され、キヤの一族は高位高官に上り詰め王家と血縁で繋がるほどの名家になっていた。ところがヒクソス王朝が倒されエジプト人の王朝になるとヘブライ人は冷遇され没落したり国外に逃げ出したりした。

 キヤの一族も没落しその子孫達はエジプトの最下層で苦しい生活を強いられていたが、キヤの父親は煉瓦職人として腕が良く家族の生活は比較的安定している方だった。

 キヤが七歳の時、兄と二人でテーベのカルナック神殿を探検した。もちろん両親には秘密に。イスラエルの神を信仰する両親はエジプトの神々を信仰することを快く思わなかったからだ。 

 キヤと兄がカルナック神殿を訪れた時は丁度豊作を祝う祭りがあっていて、エジプトで最高のアリーナでは大司祭の娘である歌姫イシスのコンサートが開催されていた。

 熱狂する人々に呑まれキヤは兄とはぐれてしまったが、彼女は大人達の足下を小さな体ですり抜けステージの最も近いところまでたどり着いた。キヤが思いっきり背伸びしてみると目の前のステージには女神のように美しい歌姫イシスが、会場に詰めかけた一万人を超える大観衆の前で精霊のように美しい歌声でアメン賛歌を高らかに歌い上げていた。

 キヤはその歌声に心も体も痺れるような感覚におそわれ、大きな瞳から涙が止めどなく溢れ出た。

「わたしも歌手になりたい」

 キヤはそう思い胸の前で両手を組んでイシスの歌声を心と魂に刻み込んだ。

 コンサートが終わった頃、兄はようやくはぐれた妹をアリーナの最前列で見つけ出した。

「キヤ、捜したぞ」

「あ、兄ちゃん」

 キヤが大観衆に手を振るイシスを見上げた。

「綺麗な歌手だね。歌も凄くうまい」

 兄もイシスの歌声に感動し彼女の美しさに目を見張った。

「兄ちゃん。わたしイシスのような歌手になりたい」

 キヤは真剣な眼差しで兄を見つめた。

「なれるよ」

 兄はそう言って妹を勇気づけた。

「ほんとに?」

「ほんとうさ。おまえ歌がうまいからな」

 兄は優しく妹の頭をなで白い歯を見せた。

 兄妹はそれからしばらくの間熱狂する大観衆の中でステージのイシスを憧れと尊敬の眼差しで見つめ続けていた。 

 その日以来、キヤは毎日のようにカルナック神殿を訪れてはイシスの歌を盗み聞きするようになった。そしてある日キヤは神殿の柱の陰に隠れているところを神官に見つかってしまったのだ。

「こそ泥!」

「泥棒じゃないわ。離して!」

 神官に襟首を掴まれたキヤは逃げようとして激しく抵抗したが、大人の力にはとうてい及ばない。

「何の騒ぎですか」

 その時、騒ぎを聞きつけたイシスが現れた。

「お嬢様、ヘブライ人の子供が盗みをしに忍び込んでいたのです」

「わたしは泥棒じゃないわ」

「ここで何をしていたの?」

 イシスはキヤに優しく微笑んだ。

「イシスさま……」

 キヤはイシスとわかると急に無口になった。

「お腹が空いているの?」

 イシスはキヤの目線まで屈んで優しく訊ねる。

「物乞いに慈悲を与えては駄目です。すぐに仲間が来ます」

「あなたは黙っていて」

 イシスが神官を睨むと男はキヤを放した。

「お父さんやお母さんはいるの?」

 キヤはイシスの質問には答えず、

「歌を聴いていたのです」

 そう言ってイシスを憧れの眼差しで見つめた。

「わたしの歌が聴きたかったのね」

 イシスが笑顔になると、

「はい!」

 キヤも笑顔になって目を輝かせた。

「歌が好きなの?」

「大好きです。わたしもイシス様のような歌手になりたいんです」

「歌手に」

 イシスは優しい目でキヤを見つめた。

「なれますか」

 キヤはイシスに見つめられ今にも心臓が破裂しそうだった。

「なれるわ」

「え……」

「あなたが真剣に願えば神様はあなたの夢を叶えてくれるはずよ」

「は、はい」

「明日から歌のレッスンをしてあげましょう」

「お嬢様」

 神官が口を挟もうとしたが、イシスは許さなかった。

「明日から毎日この神殿に来れるかな」

 イシスが優しく訊ねた。

「来れます」

「いいわ」

「あ、ありがとうございます」

 キヤは白い歯を見せて満面の笑顔を見せた。


 翌日からキヤは毎日カルナック神殿に通った。もちろん両親にばれないように。

 イシスは練習熱心なキヤに感心し、毎日正しい発声方法やボイストレーニングをしてキヤを一人前の歌手になれるようレッスンした。

 ところがある日、突然キヤが現れなくなった。心配したイシスは最も信頼できる神官に彼女の消息を調べさせたところ、キヤの父親が仕事のトラブルでエジプト人を殺して処刑されたという。裁判の記録は、キヤの父親が一方的に暴力をふるい犯行に及んだということだったが、真相は現場監督のエジプト人が以前からキヤの父親の作業代をピンハネしていたことが原因で大喧嘩となり倒れた監督官は打ち所が悪く死んでしまったということだった。

 キヤの力になれれば、そう心配したイシスはキヤの家を訪れたが既に家は空っぽでキヤ家族の消息はつかめなかった。 

 その頃キヤは母親が再婚したことからテーベの新しい父親の家に住んでいた。兄は義父と気が合わなくて大喧嘩してとうとう家を飛び出した。行く当ても無かったので兄は食べるために軍隊に入り、ホルエムヘブと名乗った。名前を変えたのはヘブライ人であることを隠すため、エジプト人を殺した父のことを隠すためだった。 

 キヤも義父が嫌いだった。義父はキヤが懐かないので苛立ち、躾けといっては激しい体罰を繰り返した。母親は依存心が強い女で新しい夫から嫌われることを極度に恐れ、キヤを守ることができないでいた。

 ある日、母親が仕事で出かけているとき義父がキヤに抱きついてきた。嫌がるキヤを義父が無理矢理押し倒したとき、戸棚の花瓶が彼の頭に落ちて動かなくなった。打ち所が悪く義父は死んだのだ。

 キヤは死にものぐるいで義父の死体の下から這い出ると、家から逃げだして夜の町を彷徨い歩いた。 

 夜が明けようとしていた。

 キヤは疲れ果てもう歩けなくなっていた。

 意識が朦朧とする中でどこからか歌声が聞こえてきた。

 優しく懐かしい声だった。

 キヤの意識は遠のき、気を失った。

「……」

 気がつくとキヤはベッドの中にいた。

 真っ先に優しいイシスの顔がキヤの目に飛び込んできた。

「イシス様」

「よかった気がついたのね」

 不思議そうに見つめるキヤの額にイシスはそっと手をあてた。

「熱も下がったようだわ」

「ここは……」

「カルナック神殿。わたしの部屋よ」

 イシスが微笑むとキヤは安心したのかゆっくり目を閉じて再び眠りに落ちた。

 それから数日間キヤは死んだように眠り続け、その間イシスはキヤの母親の所在を確かめようとしたのだが、消息は掴めないでいた。ところが数日後、ナイルの辺のロータスの茂みに女の溺死体が打ち上げられたニュースが飛び込んできた。キヤの母親の遺体だった。警察の捜査で死因は夫を殺害したのを苦にして入水自殺したのだと断定された。 

 キヤに行く当てはない。わたしがこの娘を保護しなければ。

 イシスは深く悲しみ、母親のことはキヤには伝えまいと決心すると、その不幸な少女をカルナックの巫女として引き取ることにした。 

 意識を取り戻しすっかり笑顔が戻ったキヤ。

「わたしイシス様のような歌姫になって人々の心に幸せの光をとどけたい」

 キヤはそう言ってイシスを喜ばせた。

「カルナックの巫女になるのなら思い存分歌が学べるわ」

 イシスは少し不安げにキヤの返事を待った。なぜならキヤが、はい、と言ってくれるか心配だったからだ。もし嫌と言えばたとえイシスでもキヤを無理に巫女にすることは出来ない。そうなったらキヤを神殿で保護することは出来なくなる。

 だが心配には及ばなかった。

「巫女になります。でも、わたしはヘブライ人です。それでもアメン神殿の巫女なれのですか?」

「勿論なれるわよ。あなたが太陽神アメンを神として受け入れるなら」

「わたしエジプトで生まれ育ちました。だからエジプトの神様をずっと見て育ちました」

「わたしもそうよ」

「わたしエジプトの神々が好きなんです」

「じゃあ決まりね!」

「宜しくお願いします」

 キヤはイシスの前で跪く。

 イシスはキヤの曇りない瞳の輝きを見て安心した。

(この娘は精霊の生まれ変わりなのかもしれない。悲惨な体験をしてきたにもかかわらず少しも捻くれたところがない、それどころか苦難がこの娘の魂をますます光輝かせている。キヤはきっとわたし以上に人々の心と魂を揺さぶる歌手になるに違いない。)

 そう思うとイシスはまるでキヤを自分の本当の妹のように愛しく思った。

 こうしてキヤはカルナック神殿の巫女となり、イシスについてエジプト神学を学びながら、毎日、歌の練習をした。

 やがてキヤはイシスが教えることが無くなるほど巫女としての素養を身につけ、さらにアメン賛歌はおろかエジプトの神々の宗教音楽に精通して自分で作詩や作曲まで手がけるようになったのだ。



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