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ネフェルティティ

 十四歳になったアメンヘテプは、長身で細身ながら見違えるほど健康な王子になった。その一方で、父王アメンヘテプ三世は持病の糖尿病や歯槽膿漏が悪化、政務は王妃ティイに任せっきりになっていた。そろそろ王位を継ぐときが近づいていたのだ。 

 アメンの神官たちは繊細で夢見がちな王子がファラオに相応しいと思わなかった。それどころかファラオになって欲しくなかった。もし仮に王子が王位に就いてもおそらく王妃ティイが摂政として政務を取り仕切るだろうと思っていた。 

 ところがそんなアメンの神官団の思惑とは裏腹に王妃ティイは、王子に王位を継承させるため、我が子が王となったときの新体制の政府高官を、着々と自分の側近で固めていた。そして最も重要なのは王子と供にこのエジプト帝国を治めることが出来る妃の選定だった。

 ティイは将来自分の後を継いで王妃となる王女を探しておかなければならないと、王族や貴族の血を引く娘たちから候補者選びを始めた。ところがティイが気に入る娘はエジプトの王侯貴族の中から見つからなかった。

 そこでティイはエジプトと同盟関係にある諸侯の王女、あるいはエジプトの属国となった諸国の王の娘から候補者選びをはじめた。

 前例はあった。トトメス四世の妾妃すなわちアメンヘテプ三世の母はミタンニ国王アルタタマ一世の王女だった。歴代ファラオは北東アジアや西アジアの属国の諸侯の子供たちを多数エジプトに連れてきて、エジプトに忠実な王や王女となるよう教育させていた。 

 さらにファラオは、友好国との同盟関係強化のため、国益を守る有効な手段のため、諸国の王女や属国の王女たちと積極的に結婚した。アメンヘテプ三世も外国の諸侯の王女を幾人も側室に迎えた。様々な国から嫁いで側室となった王女たちは五十人をはるかに超え、後宮には百人を超える妾妃がいた。 

 外国から来た王女たちは、召使いや料理人、髪結い、衣装係に至るまで百人前後の付き人を従えた。彼女らは母国の文化や伝統や信仰までもエジプトに持ち込んだので王宮は異国情緒で溢れかえったが、王の寵愛を巡って側室同士のトラブルは絶えなかった。 

 ティイはさっそく諸侯の王女たちの教育係に、王妃に相応しい娘はいないか意見を訊いた。だがどの教育係の意見を訊いても同じ答えが返ってきた。それはフェニアティ候の娘イゼベルという名だった。

 イゼベル(後のネフェルティティ王妃)は幼い頃フェニキアから妹のムウトベネレトと一緒にエジプトに来て、親族のアイ「弓兵長」「馬の監督官」の妻ティが乳母としてエジプトで最高の教育を受けさせていた。イゼベルは十三歳だったが、知的で明るく聡明で、笑顔の可愛いい、美しい女性だと評判だった。

 アイは出自が王家と縁が深いアクミームの人物で、王妃ティイと地縁もしくは血縁で繋がっていると思われる。後に「神の父」というもっとも重要な称号得られたのは、アイの妻ティがネフェルティティ王妃の乳母であったことが大きな要因であったと言われているのだ。 

 ティイはさっそく、そのイゼベルに会ってみることにした。

 マルカタ宮殿の王妃専用の別邸でティイが金箔で飾られた椅子に腰掛けて待っていると、教育係のヘカレシュが美しい少女を伴ってきた。

「王妃様、イゼベルをお連れしました」

 ヘカレシュと少女が跪き恭しく頭を下げると、

「イゼベル、近くに」

 ティイは彼女を手招きした。

「王妃さま」

 イゼベルはティイの前で跪き頭を垂れた。

「面をあげなさい」

「はい」

 イゼベルは顔を上げティイを見つめた。

 ティイは一目見て、イゼベルの純粋で清らかな瞳を好ましく感じた。

「美しい娘」

 ティイは微笑んだ。

「身に余るお言葉です」

 イゼベルはティイの言葉に恐縮した。

「あなたをわたしの執事に採用します」

 ティイは微笑んだ。

「……」

 イゼベルはびっくりして心臓が止まりそうになった。

「王妃様……」

「なんですか?」

「……わ、わたくしには」

 ティイはイゼベルの言葉を遮り、

「近いうち王子に会わせましょう」

 そう言ってイゼベルに笑顔を見せた。

「お、王子様に……」

 イゼベルはあがってしまい言葉が見つからなかった。

「きっと王子もあなたのことを気に入ると思います」

 ティイは緊張するイゼベルの白くて細い手を優しく握って微笑んだ。 

 多くの候補者の中でもイゼベルは知的で美しく、ひときは光り輝いていた。人々は「美しい人がやって来た」〈ネフェルティティ〉とイゼベルを褒め称えた。

 そこでティイはイゼベルにネフェルティティと名付け彼女をマルカタの宮殿に住まわせた。執事として自分の身の回りの世話をさせながら王妃としての素養を身につけさせるためだ。

 こうしてティイ王妃のもと、ネフェルティティはエジプトの王妃として相応しい女性となるため、エジプトの歴史や文化、宗教や芸術をはじめとする、ありとあらゆる教養や学問、作法を学ぶことになった。

 アメンヘテプ王子がネフェルティティと初めて会ったのは、王子がアフミームに遊びに来ているときだった。

 アフミームは国王の所領でティイの両親イウヤとチュウヤが所有する広大な土地に隣接する行楽地だ。

 ティイがアメンヘテプ三世と出会ったのもこの土地だ。

 テーベの堅苦しいしきたりから離れ、自由気ままに過ごすことが出来るので、若い王族の人気スポットだった。 

 一足先にアフミームに遊びに来ているアメンヘテプをティイがネフェルティティを伴って訪ねたのは、太陽が天頂に差し掛かるころだった。

 王子はアフミームの城館の二階の広い部屋に陣取り、風通しが良い場所で豪華なクッションに片肘をつき、なかば横たわるような格好で読書を楽しんでいる。

「せっかく遊びに来たのに、部屋で本ばかり読んでないで、みんなと外で遊んでみるのもいいわよ」

 ティイが話しかけても、アメンヘテプは母とネフェルティティには目もくれずパピルスに書かれた物語を読んでいる。

「母上はこの物語を読んだことがありますか?」

 王子はティイの言葉には答えず、最近読み始めたシヌヘの物語について訊ねた。

 この物語は百年も前に書かれた官吏の物語で、国王の特命を受けたシヌへが外国の情報を集めるため危険な旅を続け、最後は死んで名誉を全うするという物語である。有名な物語だが難解で書記の試験にしばしば用いられていたほどだ。

「子供の頃に読んだことがあるわ」

 そう言ってティイは息子の手から、幾重にも巻いたパピルスを取り、物語に軽く目を通した。

「こんな文章を読ませて何の意味があるのでしょうか?」

 アメンヘテプは静かに言う。

「意味はあります。物語の善し悪しではなく、この難解な文章を読み解く力、つまり緻密な思考力や情報の分析力、記憶力や忍耐力を総合的に身につけることが出来るからよ」

 ティイはそう答え、物語が書かれたパピルスの巻物を両手で丁寧に巻いて息子に返した。

「確かに母上の仰る通りかもしれませんが」

 その時、ティイの後ろに控えていたネフェルティティが口を挟んだ。

「大帝国の統治には、ファラオの手となり足となり、時にはファラオの叡智の一端を担うことが出来る優秀な部下がいてこそ可能なのだと思います。シヌヘの物語を読み解く力は優秀な人材を育成するという意味で十分価値があると思います」

 ネフェルティティはそう言うと、アメンヘテプの前で跪き頭を下げた。

「君は……」

 王子はネフェルティティの美しさや優美な身のこなしに息をのんだ。

「フェニキアのネフェルティティでございます」

 まだ十三歳になったばかりだったが、ネフェルティティは美の女神の生まれ変わりではないかと思えるほど美しかった。

 切れ長の大きな瞳、高くて上品な鼻、愛らしい薔薇のような唇、透き通るほどの白い肌。そして何よりも人を惹きつけてやまない微笑み、特に微笑んだ時に出来る頬のエクボは見る人を瞬く間に魅了した。

「この娘は聡明な娘よ。仲よくしてあげてね」

 ティイは素っ気なく言って二人を引き合わせ部屋の外に出て行った。

 アメンヘテプは予期せぬ来客に顔を赤らめた。

「よく来てくれましたね」

 王子は手招きして自分の前にネフェルティティを呼ぶ。

「ありがとうございます」

 ネフェルティティは物怖じしなかった。

「ここに」

 ネフェルティティは王子に勧められるまま、彼が座っている長いクッションのすぐ右隣に腰をおろし微笑んだ。

「あまり見つめないでください。恥ずかしいですわ」

 彼女のエクボに魅了されたアメンヘテプ王子は、あまりの愛らしさに思わず見とれてしまった。

「ネフェルティティ」

「はい」

「フェニキアから来てくれたんだね」

 アメンヘテプ王子は優しい眼差しで彼女を見つめた。

「はい」

「君のフェニキアでの名は?」

「イゼベルです」

「素敵な名だ」

「ありがとうございます。ですが、今はネフェルティティと呼ばれています。わたしもこの名前が好きです」

「そうか、ならネフェルティティと呼ぼう」

「嬉しいわ」

「ところで」

 アメンヘテプ王子がそう言いかけたとき、

「先ほどの御無礼申し訳ありません」

 ネフェルティティは咄嗟に退き謝った。

「謝る必要などない。むしろ感心しているのだ」

「えっ」

「この大帝国を統治するにはファラオの叡智の一端を担う優秀な家臣が必要だ。だからシヌヘの物語も教材として役に立っているのだろう」

「はい」

 ネフェルティティは微笑んだ。

「だが優秀なだけでは駄目だ」

「なぜですか?」

「優秀で有能な人間ほど迷いが大きく欲も膨らむものだ」

「ではどのような人間であればいいのでしょうか?」

「心と魂だ」

「清い心と美しい魂を持つ者という意味でしょうか」

「まさにその通りだ」

 そう言ってアメンヘテプ王子の頬が緩んだ。

「ありがとうございます……」

 ネフェルティティは畏まった。

「君の言うとおり、清い心と美しい魂が必要だ。だが人間は何があってもそれを守り通せるのか」

「人間はそんなに強くありません。でも、神を信ずる心があれば正しく強くなれると信じています」

「正にその通りだ! 神への信仰心、信心深さだ!」

 アメンヘテプ王子は深く頷いた。

「はい」

 ネフェルティティは自分を率直に認めてくれる王子に深い信頼をよせた。

「つまりファラオに必要な家臣とは」

「優秀で心と魂が清く信心深い家臣ですね」

 アメンヘテプ王子は俯いて腕を組んだ。

 沈黙が続いた。

「いや、それだけでは駄目だ。もっと大切な何かが必要だ」

 王子はフェニキアの美しい少女をじっと見つめた。

「もっと大きな何か、ですか……」

「絶対に必要な何かが」

 そう言ってアメンヘテプは窓の外に目をやった。

 空は蒼く高く無限大に広がっている。

 王子が大地に目をやると、緑のブドウ畑が運河の彼方まで続いていた。

「絶対に必要な……」

(これ以上どんな条件が必要だというのかしら……)

 ネフェルティティは暫く思考を巡らしたが答えを導き出せなかった。

 アメンヘテプは口を開くと真剣な眼差しで語りはじめた。

「ファラオの下には巨大化した官僚機構がある。その組織はエジプトをはじめフェニキア、シリア、レバノン、ミタンニ、ヌビアの最南端にいたる広大な地域に、まるで毛細血管のように張り巡らされている。そのネットワークに善人、悪人、様々な人種がいて、様々な神を崇めている。しかも彼らはあらゆる役職に存在する」

「たしかに信心深くても人種も信仰もまして価値観まで違えば……」

 ネフェルティティは言葉に詰まる。

「もし……」

 アメンヘテプ王子は躊躇った。

「もし、何ですか?」

「いや、ここまでにしよう」

「王子様、お聞かせ下さい」

 ネフェルティティは真剣な眼差しをむけた。

 アメンヘテプはしばらく考え込んでいたが、

「ならば君だけに話そう」

 そう言って立ち上がり、ネフェルティティの手をひいてバルコニーに出ると、二人は欄干の手すりにもたれ、遙か遠くまで続く葡萄畑を眺めた。

「どうだ。この葡萄畑」

「美しいです」

「葡萄棚に蔓が絡み何処までも伸びていく様は、世界の隅々まで張り巡らされている帝国のネットワークに似ている」

「ええ、確かに……」

 返事をしたものの、ネフェルティティには王子の意図することがつかめない。

 アメンヘテプは続けた。

「官僚機構あるいは行政機構が優れ、世界の隅々にまで帝国のネットワークが張り巡らされようとも、そこで働く人々がどんなに優秀であろうとも、所詮、権力や法や武力で人を縛ることは出来ない」

「人の心は自由ですわ」

「その通りだ。人の心は自由だ。だから人は必ずしも正しく考え、正しく行うとは限らない」

「悪魔の誘惑に打ち勝てず、非人道的な行い、不正や横領や暴力がはびこるというのですね」

「そうだ。腐敗は上から始まるのだ。そうなると組織は腐敗し、不正、横領がはびこり、社会の秩序は乱れ、正義は損なわれ、やがて国に内乱がおこり戦争に発展していく」

「わたしは戦争が大嫌いです」

「わたしもだ」

「この世から戦いをなくすことは出来ないのでしょうか?」

「出来る!」

「どうすればいいのですか?」

「宇宙をこの世界を創世した神が一柱の神であり、世界の神々もまた一柱の神であると人々が目覚めるのならば」

 アメンヘテプは一呼吸おいた。

「世界中の人々の心が一つになって愛と平和を共有する事が出来ると言うことだ」

「神々もまた一柱の神……世界中の人々の心が一つになる」

 ネフェルティティは小さく繰り返す。

「そうだ。それが答えだ」

「わたしにはわかりません」

「ネフェルティティ、よく聞くがいい」

 彼女は小さく頷く。

「エジプトには様々な神が信仰されている。その神々とは、実は宇宙とこの世界を創世したある一柱の神の様々な性質、側面を様々な姿かたちに表現したものなのだ。いわば神の化身だ」

「神の化身……」

「そうだ。その通りだ。ある一柱の神の化身がラーであり、イシスであり、アメンであり、他の全ての神でもある」

「神々は実は一柱の神の分身だというのですね」

 アメンヘテプは大きく頷く。

「フェニキアではエル神やバール神が信仰されていると思うが、フェニキアの神々もその一柱の神の化身だとすると、いや、世界中のあらゆる民族が信仰している全ての神が一柱の神の化身ならば」

「世界の神も一柱のみ」

「正にその通りだ!」

「確かにアメンの神官がそのようなことを宗教学の授業で講義していたような記憶があります。ですが、それはあくまでもエジプトの神々のことについてでした」

「アメンの神官はアメンこそが全ての神々の根源とでも言ったのであろう」

 鋭い目付きでアメンヘテプは言った。王子がアメンの神官を嫌悪しているのは明かだった。

「ええ、アメンは風の中にも雨の中にも神殿の石の中にも存在すると、あらゆる神の姿はアメン神の様々な側面を形にしたものだと」

 ネフェルティティは正直に答える。 

「どうせそんなところだろうと思った。あいつらは何かにつけてアメン、アメンだ。馬鹿の一つ覚えのように。それでも信心深いのならまだ赦されるのだが、貪欲で私利私欲にまみれ、おまけに利己主義のかたまりだ!」

 アメンヘテプは語気を荒げた。

「やれアメンが奇跡を起こした、やれアメンが戦いを勝利に導いた、怪我が治った、子供が生まれた、受験に合格した、商売が成功した……奴らはありとあらゆる事にアメン神を担ぎ出し金品を貢げと迫る。まるでハイエナのように……いや、ハイエナが可愛そうだ。奴らにそんな価値はない。アメンの神官は帝国のゴミ、クズだ!」


 王子は激昂した。

 ネフェルティティは驚かなかった。

「ティイ王妃はそのシロアリの力を削ぎましたわ」

「母上は偉大だ」

「王子様はもっと偉大です」

「わたしが?」

「勿論ですわ」

「母上に聞かれたらとんでもないことになるぞ」

「いえ、ティイ王妃様は王子様が偉大なファラオになると信じています。勿論わたしもそう信じています」

 アメンヘテプは、ネフェルティティが自分に媚びて心にもないことを言っているとは思えなかった、それほど彼女の瞳は澄みきって真剣そのものだった。

 二人は見つめ合い沈黙した。

 少ししてアメンヘテプ王子は彼女から目を逸らし葡萄畑の果てのキラキラ輝く運河を眺めた。

「話を戻そう」

「はい!」

 ネフェルティティは嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔があまりにも明るかったので、頑ななアメンヘテプの心も和み、二人は一緒に目を細め、白い歯をみせて笑った。

「ここは陽ざしが強い。あそこのベンチへ行こう」

「はい」

 二人は欄干から離れ、陰があるテラスの出入り口付近くまで戻ってくると、レバノン杉で作られたオシャレな長椅子に二人並んで腰掛けた。

 長椅子の脚は台座に乗ったライオンの脚の形に似せて作られ、爪の部分には象牙があしらわれている。背もたれの部分は座り心地を良くするため緩やかな湾曲に加工され、象牙と黒檀で美しい幾何学模様がデザインされていた。

「ああ、良い香りがします。まさかこの椅子は」

「そうだよ。君の故郷フェニキアのレバノン杉から作った椅子だ」

「良い香り、そして懐かしい手触り」

 ネフェルティティは背を伸ばし、目を閉じると深呼吸した。それから右手の指先と手のひらで、肘掛けの丸く加工された部分や緩やかに湾曲された座面の木肌を愛おしむように触った。

 

 ネフェルティティの故郷フェニキアは良質のレバノン杉の産地で、エジプトは大量のレバノン杉をフェニキアから輸入していた。レバノン杉は大きいもので高さ四十メーター、幹周り十メーターにもなり、ツヤがあって腐食や虫に強く堅い木材だったので、神殿や船の建築資材、ミイラの棺、テーブル、本棚などの家具や工芸品等あらゆる資材に最適だった。また芳しい香りを放つレバノン杉の樹脂は良質の油や保存剤や芳香剤としても優れていた。


「エジプトのあらゆる建築物がレバノン杉で出来ている。いや、大きな建造物だけではなく、小さな工芸品にいたるまで。まるでエジプトの血と肉のようにレバノン杉は帝国のありとあらゆる細部に使われている。そういう意味でエジプトは君の故郷と家族のようなものだ」

「そう言って下さると嬉しいです」

 ネフェルティティはエクボを作り王子を見つめる。

「つまり」

 アメンヘテプは微笑み穏やかな口調で話し始めた。

「つまり、世界中の人々が真の神の元で人類がみな一つであることに目覚め、清い心と美しい魂をもてば、世界は国家や人種を超越した愛と平和の世界となる。これが答えだ」

「夢のような素敵な世界ですわ」

「夢ではない。やがて現実のものとなる」

「その真の神さまはどのようなお姿をしているのですか?」

 ネフェルティティの胸は期待に膨らんだ。なぜなら最も偉大な真の神の姿を初めて知ることになるのだから。ところが王子の答えはとても素っ気ないものだった。

「ない」

「え、いま、なんとおっしゃいましたか?」

 ネフェルティティは自分の耳を疑った。

「真の神に姿はないのだ」

 王子はしっかりとした口調で繰り返した。

「お姿がない神様など、初めて聞きました」

 ネフェルティティは頭が混乱した。王子の言っていることが本当のことなのか、あるいは冗談なのか。それとも自分が今まで見てきた神の姿が幻であり、全ては人間の手によって作られた偶像に過ぎなかったのか、解らなくなってしまった。

「わたしも世界が愛と平和に満ちあふれることを夢みています」

 ネフェルティティは躊躇った。

「なんだね、言ってごらん」

「人間は目に見えるものを信じます。いや、目に見えないと信じることができないとも言えます。ラーもイシスもオシリスも、全てのエジプトの神が人々から信仰されているのは、お姿があってのこと。お姿があるからこそ神を依り代にできるのです。姿形のない神様を信じろと言われてもどう信じてよいものか、人間はそう簡単に信じることは出来ないと思います」

「確かに君の言うとおりだ。人々の意識の変革には時間が掛かるかもしれない。だが、人々の意識が変わらなければ、人々はいつまでも偽りの信仰に翻弄され、アメンの神官らに搾取され続けるのだ」

「あっ」

 そこまで訊いてネフェルティティは王子の言わんとすることが朧気ながら分かってきた。

 アメンヘテプは続けた。

「神の偶像などみなまやかしなのだ。人々は神の偶像を崇め、偶像に跪き、偶像に寄進し、偶像を畏怖している。しかも神の神託は神官から人々に告げられる。だから神官は神の代弁者として人々から畏怖されることになる。人々は神を拝んでいるつもりが、実際には神官を拝むことになり、神の神殿、神の偶像への信仰と寄進は全て神官への信仰と寄進になってしまう」

「たしかに仰るとおりです。神と人々との間に偶像と神官が介入することで、人々は神様から遠ざけられています」

 ネフェルティティも目が覚めるような思いだった。

「やっと分かってくれたようで嬉しいよ」

 王子は笑顔になり椅子に深く腰掛けた。

「意識の革命は必ず成功すると思います」

「意識の革命か……確かに信仰に対する意識革命を起こさなければ人々は真の愛と平和を手に入れることは出来ない」

「しかし……」

 ネフェルティティは遠慮がちに王子を見つめた。

「まだあるのかい」

 アメンヘテプはこれ以上ないと思えるくらい優しく微笑みながらネフェルティティを見つめた。

 神経質で気難しい王子も、目の前の太陽のように明るく、美しく、聡明で好奇心旺盛なフェニキアの王女にすっかり心を許し虜になった。

「は、はい」

「何だね」

「世界中で信仰されている神様が実は姿の見えない、一つの神の化身であることを、どうやって人々に証明するのですか?」

「証明する必要はない。人々が目覚めるよう導くのだ」

「人々の目覚め?」

「そうだよ」

「人々がそう簡単に今までの信仰を捨て、見えない神を信じるとは思えません」

「今の信仰を捨てるのではなく気づくのだよ。それがさっき君が言った意識の革命じゃないのかな」

「確かにわたしは意識の革命は必ず成功すると申しました。ですが、人々の心は脆く弱いものです。慣れ親しんだ神々が真の神の化身だと頭で理解できても、人々は今まで信仰してきた神々の姿を信じるのではないでしょうか。いやむしろ真の神の化身であれば尚更、今のままでいいと思うのではありませんか?」

「つまり民は真の神の化身であっても偶像を信じると言うんだね」

「民だけでなく多くの高位高官にあるものや神官でさえも」

 アメンヘテプは暫く沈黙した後、再び語り出した。

「エジプトの社会構造はよくピラミッドにたとえられる。帝国における我々の立場はその頂点に位置する。しかも全体を百とするならこの国を動かしている王族、貴族、高位高官にあるものはこの国の一パーセントにすぎない」

「残りの九十九パーセントは平民や奴隷が占めるというのですね」

「その通りだ。だからこそまず我々が目覚めなければならないのだ」

「一パーセントが目覚めれば九十九パーセントが目覚めるのでしょうか?」

「難しいだろう。表面上は覚めたように見えるかもしれないが人々はやがて日常に戻ってしまう」

「わたしもそう思います」

「根本的なことを変えさせねばなるまい」

「権力や法や武力で人々の心を縛ることは出来ません」

「そのとおりだ」

「やはり人をいきなり目覚めに導くのは難しいと」

「たしかに何もしなければ人々は今まで通りの日常を過ごすだろう。だが社会が大きく変われば人々は気づき目覚めざるおえなくなる。さらに目覚めた者の数が一人また一人と増えてゆけば、ある時を境にその数が爆発的に増え、一気に新しい流れへと向かうのだ」

「その大きな社会の変化とは何でしょうか?」

「ファラオの威光をもって真の神を国家神と崇め、真の神のための王都を新たに築くことだ。これは神意なのだ」

 ネフェルティテイは王子の驚くべき計画に心臓が止まりそうになった。

「真の神とファラオの威光が世界にあまねく光渡ることでしょう」

「だがこれは小さなきっかけに過ぎない。世界を変えるには世界中の人々が愛と平和に目覚めなければならない。そのためには一人一人の意識が変わることが必要なのだ」

「意識がどう変わればいいのでしょうか?」

「真の神は宇宙を創り世界と人間を創造した。つまり我々人間を含む生きとし生けるもの全てが一つ、同じだということだよ」

「そ、それはあまりにも危険な考えではありませんか」

「なぜ危険なのだ。これが真実なのだ。真の神は一神のみ。その一神から創造されたこの世界も我々もみな一つなのだ。同じなのだ。つまりこの世に存在する全てが神の前で皆平等なのだよ。人間に性や人種や国籍や身分の区別などなく皆等しく神の子なのだ」

「恐れながら……」

「遠慮なく続けたまえ」

「恐れながらそのお考えでいくとファラオも臣下も平民も奴隷でさえも神の前では皆等しく平等だと言うことになります」

「まさにその通りだ。さらに付け加えるとすれば、王族、貴族、神官や職人や軍人、商人、奴隷という呼び名は全てこの世で神から与えられた役柄なのだよ」

「や、役柄ですか」

「そうだ。我々人間は神から与えられた自分の役柄を演じて魂を磨いているのだよ」

「魂を磨いている」

「その通り。役を演じながら魂を磨いているにすぎない」

「どういう意味でしょうか?」

「わたしは生まれた時から小さく病弱で体が弱かった。とうとうある日のこと、大病を患い何日も高熱が下がらずあの世とこの世の境を彷徨った」

「オシリス神に会われたのですか?」

「いや、オシリスの審判などなかった。わたしはその時神に見せられた。自分の魂の転生の記録を」

「魂の転生の記録」

「わたしは様々な星や異なる時代の異なる国に転生し、色々な人生を歩んでいることをその時知ったのだ。男性だった人生、女性だった人生。貧しい人生、奴隷の人生、それぞれの人生の中で様々な役柄を演じてきた」

「……」

「それで分かったのだ。人間とは神の愛の光に近づくために転生しながら魂の旅を続けているのだということを」

「神の愛に近づくために転生し魂の旅を続けている……」

 ネフェルティティは頭が混乱してきた。

「神は自らの光を分けて人間の魂をお創りになられたのだ」

「ならば神の御霊分けしたものが人間の魂だということでしょうか?」

「そうだ。神は自らの光を分け人間の魂をつくり、大地から創造した人間にその魂を入れたのだよ」

「アメンヘテプ王子!」

 ネフェルティティは彼の言葉に驚愕し唇の震えが止まらなかった。なぜなら王子はファラオの神性を自ら否定していたからだ。

「何を驚いている」

「恐れながら、ファラオの神性は如何なるのでしょうか?」

「ファラオも民もみな神の魂が宿っている。ファラオにも民にも神性があるのだ」

「それではファラオも民も皆同じということになってしまいます」

「その通りだ。神の前で人間は皆等しいのだよ。だが、神から与えられた役柄が異なる。違いはそれだけだ」

「役柄……」

「さっきも申したとおり、人間の魂は転生を繰り返しながら魂を磨いている。様々な人生を味わいながら魂の輝きを増しているのだ。いまわたしは男で君は女だ。だが前の人生で、或いは次に生まれ変わるとき、わたしが女で君が男かもしれない。しかも君がファラオでわたしが王妃いや召使いかもしれない。このように転生の過程でそれぞれの役柄も立場も異なるのだ」

「わたくしには理解できません」

「今は理解できなくともやがて時期がくれば分かる」

「……」

「目覚めのきっかけとは、すなわち、我々が今この世で与えられている立場役柄は、全て神の意思、魂の意思なのだと気づくことだ。その事実に謙虚になることだ」

「神はなぜそのようなことを」

「自らの光をより光輝かせるために」

「神は何の目的でより輝く必要があるのでしょうか?」

「宇宙を神の愛で満たすため。さらに悪魔を封じ込めるためだ」

「悪魔を……恐ろしゅうございます」

「この宇宙を巡り神と悪魔は戦い続けている。多次元構造の宇宙の中で神は殆どの次元を制圧したと言われている。だが我々が存在するこの三次元の世界は違った。次元の低いこの世界は悪魔にとって格好の領域なのだ。だから神は悪魔を封印するためより輝きを増す必要があったのだ。そこで神は人間を創造しその中に自らの分身である魂を入れた。それは神にとって大きな賭でもあった。なぜなら今我々が住んでいる世界があまりにも波動が低く穢れているからだ」

「創造主が神であっても、人間は土から創られた脆くて弱いものでございます。日照りが続けば乾燥してひび割れ、雨が降れば泥となって崩れてしまいます」

「そのとおりだ。弱くて脆い人間だからこそ神にとって賭だったのだ。だがその弱さを克服しながら人間の魂はより輝きを増す」

「弱い人間だからこそ自分の弱さに向き合いながら生きることで魂が磨かれるというのですか」

「そうだ」

「その反面人間は弱く脆いものだから悪魔の誘惑に負けてしまうこともあるのではないでしょうか?」

「まさにその通りだ。神はわざと人間を不完全に創った。それは不完全なるが故にその弱さや醜さと向き合い克服する過程で魂が磨かれるからだ。人間が死と再生すなわち転生を繰り返しながら様々な人生を経験するのは、転生することによって魂により磨きをかけ輝きを増すからなのだ。だが人間は脆くて弱く愚かしい。だから悪魔に魅入られてしまうことも確かにある」

「だから神にとって賭だったのですね」

「その通りだ」

「脆くて弱い人間が強くなるにはどうしたら良いのでしょうか?」

「愛だよ」

「愛」

「愛の力を高め神の愛に限りなく近づくことだ」

「神の愛に人間のような愚かな存在が近づくことなど出来ないのではありませんか?」

「ネフェルティティ、思い出してごらん。確かに人間は脆くて弱く愚かな存在だが、それは神がわざとそのように創造したことを。人間の中に宿る魂は神が御霊分けした光であると言うことを」

「神の御霊分けした光なれば、人間は神の愛に必ず近づける」

「神の愛に近づくだけではない。神はより光輝くために我々を創造した。我々は魂に磨きをかけることで神の愛の光にまで、いや、それ以上に輝きを増すことが出来るのだ。それが神の望みでもあるのだよ」

「世の中から戦争を無くし悪魔を殲滅するには、わたくしたち人間がより魂に磨きをかけなければならないと言うことなのですね」

「まさにそういうことだ。勿論、全てが悪魔の仕業とは言えない。人間の心の弱さから起きていることも沢山ある。むしろその方が多いのだろう」

「ああ、でもそうだとしたら、人間の脆さ弱さゆえに醜い争いが絶えないのなら、神は人間を完璧な存在として創造された方が良かったのではと思ってしまいます」

「それはちょっと想像すればわかるはず」

「どういうことでしょうか?」

「完全なる存在である神が同じ完全なる神のコピーを星の数ほど創造しても神は神でしかない。完璧だからだ。完璧な世界からはもうそれ以上何も生み出せないのだ」

「だから神はわざと人間を不完全に創造する必要があったのですね」

「不完全だからこそリスクも伴うが、それ以上に得るものも大きいと言うことだ」

「人間はより光輝くために不完全に生まれてきた」

「それが神の望みでもあるのだ。どのような親でも親ならば我が子がより光輝く人生を送って欲しいと願うはず」

「神の御霊分けされた光、魂が宿る私たち人間は神の子となるのですね」

「だから神は一神であり我々人間はみな神の子であり平等なのだよ」

「だから神が一神であることに目覚める必要があるというのですね」

「その通りだよ」

「神は元々は一神なのだ。これは国や民族が変わろうと普遍の真理だ。ところが神の様々な側面を分けて崇めたところから間違いがおこった。民族や国が異なるとなおさらその複雑さが増し、様々な民族が固有の神々を崇めたところから、他の民族の神を尊重しないというエゴが生まれた。そのエゴを増長したのはほかならぬ神に仕える神官であり、支持した民衆でもあった」

「神官は自分たちのエゴのために神を利用したというのでしょうか」

「全ての神官がそうだったとは言えないが、多くの神官が自分たちの本来の使命を忘れ信仰から逸脱した行為をしてきたのは事実だ」

 アメンヘテプはネフェルティティの左手を優しく握ると、

「行こう」

 そう言って彼女を別荘から外に連れ出した。

「何処に行かれるのですか?」

 アメンヘテプは彼女の質問には答えず急に走り出す。

 ネフェルティティは必死になって走る。なにしろ左手を握られているのだ、スピードを緩めるわけにはいかない。

「王子様、息が切れそうです」

 透き通るほど白く長いドレスが脚に絡みついて走りにくい。そんな彼女の都合などお構いなしに王子は走り続けるのだ。

「もうすぐだ」

 しばらくすると二人はバルコニーから見た葡萄畑を間近で見渡せる小高い丘に着いた。

「どう? 目の前で見るとまた違った美しさを楽しめるだろう」

 あれだけ急に走ったのに王子の目は意気揚々としている。

 王子は華奢なわりに体力があった。少年時代から始めた旅が体を自然に鍛えていたのだ。

「はい、美しいです。そしてとても良い香りです」

 そう答えながらも彼女は肩で息をした。

「わたしのお気に入りの場所さ」

 アメンヘテプはさっきまでとは別人のようだった。

 まるで普通の青年のように振る舞うのだから。

「一緒に葡萄狩りをしよう!」

「はい!」

 二人は葡萄畑の中に入って行き、葡萄棚をしばらく歩く。

「あれが美味しそうだ」

 アメンヘテプはよく熟れた葡萄の房を指さした。

 実が沢山あって粒がまん丸としている。

「はいどうぞ」

 アメンヘテプは大きな葡萄の実を一つネフェルティティに手渡すと、彼女は嬉しそうに目を輝かせて口に含む。

「美味しい!」

「ここの葡萄は最高だろう!」

「甘くて、ほのかに酸味が効いて、舌がとろけそうなほど美味しいわ」

「大人達はこの実をわざわざ潰して葡萄酒にするけど、このまま味わった方が美味しいと思うんだ」

 アメンヘテプはそう言うと、口に含んだ葡萄の種を勢いよく遠くに飛ばした。

「君も飛ばしてごらん」

「えっ……」

 ネフェルティティが躊躇っていると、王子がまた葡萄の種を「ぷっ」と遠くに飛ばして見せる。

「ぷっ」

 つられてネフェルティティも飛ばし頬を赤らめる。

「ね、楽しいだろう」

「はい!」

 二人は大笑いすると、葡萄を食べては種を遠くに飛ばして遊んだ。

 その時、二人の背後から声がした。

「まぁ、二人ともそんなお行儀の悪いことをして」

 ティイが肩で息をしながら立っていた。

「母上もいかがですか? 葡萄は潰して飲むより、こうして食べるのが一番ですよ」

 そう言ってアメンヘテプは母親の目の前で葡萄を一つまみ口に含み、美味しそうに味わうと、種をプッと勢いよく遠くに飛ばして見せた。

「おまえはなんてことをするの。ネフェルティティが呆れているでしょ」

「王妃様、そんなことはありません。わたしも楽しいんです」

 ネフェルティティはそう言いながらティイにエクボを作って見せる。

「あなたの笑顔には負けます。いつもほんとに素敵なんだから」

 ティイはネフェルティティのエクボが好きでたまらないといった感じで、言葉では叱りながらも顔は笑顔そのものだった。

 その時、ティイとネフェルティティの足下にとぐろを巻いた蛇が鎌首を持ち上げシューッと威嚇した。眠りを妨げられたことに腹をたてたのだ。

「コブラだ。落ち着いて」

 アメンヘテプは二人に動くなと手で合図する。

「蛇使いを呼んで来るのです」

「王妃さま……」

 ティイもネフェルティティも足がすくんで今にも卒倒しそうだ。

「黙って」

 アメンヘテプがゆっくり屈んでコブラに近づくと、コブラは王子を振り向き威嚇した。

 王子とコブラの睨み合いが続く。

 ティイは息子を身代わりには出来ないと、咄嗟に自分の身を投げ出そうとした。

 その時、王子の軽快な笑い声が響いた。

「ははは、やった!」

 気がつくとアメンヘテプの手にコブラが握られていて、長い胴体は王子の右腕にぐるぐると巻き付いていた。

「ア、アメンヘテプ……」

 ティイもネフェルティティもその姿を見て顔は青ざめ、腰が抜けるほど驚いた。

「この子と友達になりました」

 アメンヘテプは白い歯をみせながらコブラの頭を撫でて見せる。

「お、お願いだからはやくその毒蛇を逃がすのです」

 ティイは恐ろしさのあまり心臓が激しく動悸した。

「王子様、はやく蛇をどこか遠くへ」

 ネフェルティティも全身の震えが止まらない。

「わかりました」

 アメンヘテプは笑い、コブラの頭にキスをすると、右腕を地面に近づけた。するとコブラはにゅるにゅると地面を這いあっという間に姿を消した。

「蛇はみな友達なんだ」

 そう言って王子が二人を振り向くと、ティイは緊張が解けた反動でよろめいた。

「王妃様!」

 ネフェルティティは咄嗟にティイ王妃の体を支えた。

「母上!」

 アメンヘテプもすぐに母親を支た。

 それから二人でティイを近くの、表面が赤い花崗岩で美しく化粧された、長椅子まで抱きかかえるように連れて行き座らせた。

「母上、もう大丈夫です」

 王子の落ち着いた声を聞くと、ネフェルティティも緊張が解けたせいか、へなへなとその場に座り込む。

「王子様は蛇とお友達になれるのですね」

 ネフェルティティが、青ざめた顔で訊いた。

「蛇だけじゃないよ。蠍も、毒蜘蛛も、カバもワニも、生き物すべてが友達かな」

 そう言いながらアメンヘテプは彼女の手をとって立たせ、ティイのすぐ隣に座らせた。

「心臓が止まりそうになったわ」

 額をぬぐいながらティイがやっと重い口を開いた。

「まだ足の震えが止まりません」

 ネフェルティティの内股がまだ小刻みに震えている。

「恐れるから警戒されるのです」

 アメンヘテプはベンチには座らず地べたに腰を下ろし胡座をかいて微笑んだ。

「あなたの勇気には恐れ入ったわ。でもお願い、もう二度とあんなことしないでおくれ」

「母上、勇気ではありません。信頼関係です」

「あなたは小さな頃から不思議なことをよく言ってたわ」

「人間が本来持っている能力です」

「昆虫や動物と話せる能力がですか?」

 ネフェルティティが興味津々に訊いてくる。

「話すと言うより感じるというほうが正しいかもしれない」

「じゃおまえはさっきのコブラと心が通い合ったとでも言うのかい?」

「もちろんです」

 アメンヘテプは自信満々にそう言って胸をはった。

 ティイはあきれ顔で息子を見つめていたが、神様が授けてくれた御子ならば本当かもしれないと思いなおした。ましてエジプトの王権の象徴ウラエウスはコブラそのもの。そのコブラが息子を認めたのだ。

(息子は偉大なファラオとなるに違いない)

 そう思うとティイは目の前の王子を誇らしげに見つめた。



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