神との契約
山の中腹では──
「あれから四十日になる」
ラモーゼが洞窟から外へ出て朝日を浴びた。
食料と水は、村の主であるプント王の計らいで、村人によって定期的に届けられている。
「アメンヘテプさまのご命令とは言っても、これ以上待つことは出来ん」
カフタが神妙な面持ちでラモーゼに苦言を言う。
「だがアメンヘテプさまは絶対に登ってはならんと」
「それも限度がある」
「船の遭難から助かったお方だ」
「助かったのは奇跡としか思えない」
「その奇跡は神々の守護があってのこと」
「だが四十日もお戻りにならないのだ。山頂に食料と水があるのか?」
カフタは心配でたまらないといった様子で幾度も白煙に覆われた山頂を眺める。
ラモーゼも心配でならなかったのだが、王子に不思議な神の守護があることを、王子の幼少の頃から目撃すること頻りだったので、信じていた。だが、ここ数日、心配性のカフタの言葉を繰り返し聞かされているうちに、さすがのラモーゼも内心信じる気持ちが揺らぎはじめていたのだ。
「たしかに四十日は長すぎる」
「ラモーゼ」
「我々はもっと早く出立すべきだったのだ」
「急ごう」
「うむ」
意見の一致を見たラモーゼとカフタは、アメンヘテプの指示を破り、王子捜索のため山頂へ出立することにした。
その時、アティが声を上げた。
「王子さまだわ」
アティが大はしゃぎで走り出したので、ラモーゼとカフタもアティが駆けていく方を目で追った。すると、オオカミを従え、顎髭を長く伸ばしたアメンヘテプが彼らの目に飛び込んできた。
「アメンヘテプさま!」
アティがアメンヘテプの腰に飛びつくと、王子は優しく少女の頭を撫でた。
「ただいま」
ラモーゼもカフタも目を潤ませアメンヘテプの無事を喜ぶ。
「みな、どうしたのだ。わたしはこの通り元気だ」
ヒラールは自分の任務が終わると、人々から少し離れた岩場へ行って腰を下ろし、後ろ足で耳の裏を掻いてノミの駆除をはじめた。
「神さまはなんと」
「神さまは我ら人間に大切なメッセージを与えられた」
「いかようなものでございましょう」
「大切な戒めだ」
「戒め……」
「カフタ、筆と紙を」
「畏まりました」
カフタが急ぎ筆と巻いたパピルスを持ってきた。
「ラモーゼ、わたしの言葉を書き留めよ」
アメンヘテプは二人を伴い洞穴に入っていった。
「あたしも神さまの言葉を聞きたいです」
アティは真剣だった。
「アメンヘテプさま。今回ばかりは如何なものかと」
「ラモーゼ、何を申す。このメッセージは地球上の全ての人間に対するメッセージなのだ。男も女も年齢も人種も身分でさえも無関係なのだ」
「はは──っ」
ラモーゼもカフタもアティもひれ伏した。
アメンヘテプら四人が洞穴に入ると、ヒラールが入り口付近に四肢を折って座り、門番をはじめた。
「ここにしよう」
アメンヘテプが洞穴に少し入った所に腰を下ろし胡座をかくと、後の三人は王子に向き合うように座った。
「紙を」
ラモーゼはカフタから渡された紙を膝の上に広げ筆を握った。
アティはラモーゼとカフタの後ろに控えアメンヘテプを見守っている。
「よいか」
アメンヘテプはそう言って目を閉じた。
「はい」
筆を握りしめたラモーゼの右手が微かに震える。彼は全身の感覚を針のように研ぎ澄ませた。
洞穴の空気が一瞬にして張り詰める。
目を閉じたまま、アメンヘテプは口を開き、神から与えられた戒を、一言一句、静かに、丁寧に、しかし、張り充ちた力強い口調で語りはじめた。細いアメンヘテプの体から発せられるその声は、まるで神自身が語るようにエネルギーと威厳に満ち溢れていた。
「わたしは光り、愛の光り。私は全ての神であり、神々はわたしである。わたしは女であり男である。故に神は一つなり、人々の心も一つである。したがって世界も一宇宙もつなのだ。
神の名をみだりに唱えてはなりません。
偶像を崇拝してはなりません。
父と母を敬いなさい。
殺してはなりません。
姦淫してはなりません。
盗んではなりません。
嘘をついてはなりません。
隣人を妬んではなりません。
いついかなる時でも寛容でありなさい。
人を赦しなさい」
神の戒を語り終えたアメンヘテプは、両目を静かに開け三人を見つめた。すると、目の前の三人はまるで神を前にしたように目を見開き放心したように王子を見つめた。
アメンヘテプは、一呼吸おき、カット目を見開き、あらためて口を開いた。
「この戒を国造りの基本となし、王族、貴族、官僚、神官、民をも含む、全てのエジプト人の戒律とする。この戒律により全てのエジプト人の心と魂を目覚めさせるのだ。特に腐敗し堕落した神官はなおさらだ」
アメンヘテプは語り続けた。
「この戒律を世界に広め、世界中の人々の心と魂を覚醒させるのだ。世界中の人々が神の愛に目覚め、心が一つになるとき、この地上から、あらゆる争い、憎しみ、欲望、疑惑、妬み、怒り、悲しみは消滅し、世界に永遠の愛と平和が訪れる」
アメンヘテプが一気にそこまで語り終えたとき、
「恐れながら申し上げます。この戒を一気に断行するのは、まだ早すぎるのではないかと。人間は神の愛に目覚めるほど心も魂も熟しているとは思えません」
ひれ伏したままのカフタが全身を震わせながら異を唱えた。
「カフタ、よく聞くのだ。神はわたしに見せたのだ。人間がこれまで繰り返し文明を興しては傲慢になり滅んできた数万年の歴史を」
「数万年の……」
カフタは気の遠くなるような数字に言葉が続かなかった。
「確かに古い資料で、数千年いや、数万年もの大昔、この地上に高度な文明が存在し、大洪水と地獄の炎で、一瞬にして滅んだと、読んだことがあります」
ラモーゼが、昔、オンの町の古い神殿に残された記録のことを思い出した。
「神がわたしに見せた映像は、まさにそのような映像……地上の殆どの人々が、大洪水に呑み込まれ、目もくらむような高熱に焼かれる惨い映像だったのだ」
ラモーゼもカフタもアティも、大水と高熱で、逃げ惑い、苦しみながら死に行く人々の惨たらしい姿が目に浮かぶようだった。
「人類は過去に三度もそのような過ちを繰り返した」
アメンヘテプは哀しみのこもった目で洞穴の外に目を向けた。
遠くには青い空が広がり、その下には山々の峰が連なっていて、小鳥たちの囀りが聞こえる。平和で幸せに満ちた世界。だがその静寂もこれからの人類の選択次第で大きく変わるかも知れないのだ。
「三回も破滅を」
ラモーゼがつぶやく。
「人間は同じ過ちを繰り返し三回も滅びたのですか」
アティは胸が張り裂けんばかりの声を発した。
「人間があまりにも愚かすぎて神の悲しみはとても深いのだ」
アメンヘテプは眉間に深い皺を寄せた。
洞穴の中は外の暑さとは打って変わって、神殿の中にいるような、精妙で、ひんやりとしていて、時折、冷気に肌が触れると、目に見えない何かを感じるようだった。
人知を越えた存在とでも言うべき何か。
神の存在とも言うべき何かを意識させられた。
「我々は、神の想う世界を描く、神の絵筆なのだ」
アメンヘテプはぽつりと言った。
「あたしは喜んでその絵筆となります。綺麗なお花や美しい野山や海、幸せそうな人々の姿を沢山描きたいわ」
アティは立ち上がり、まるで自身が絵筆となったように、楽しそうに舞う。
「我らも神の絵筆となって美しい世界を描きましょうぞ」
ラモーゼが続けると、
「何故か心が躍ります」
カフタが珍しく微笑んだ。
「ありがとうラモーゼ、カフタ、アティ。わかってくれてありがとう。これで神との約束が果たせる」
アメンヘテプは三人の前に進み出て、彼らの手を握り肩を抱きしめた。
「守りましょう。この美しい世界を」
と言って、カフタはあらためて外から聞こえてくる小鳥たちの囀りに耳を傾けた。
「エジプトは大国ゆえ神に選ばれたのだ。エジプトは世界の雛形にならねば。それがこの国の使命なのだ」
アメンヘテプはそう言って右手で、固く握り拳をつくった。
「神さまのお姿を名をお教え下さい」
ラモーゼの言葉に、カフタもアティも、アメンヘテプに注目し、全身を耳にして、王子の言葉を待った。
「神は目も眩むほどの太陽の光だった」
「太陽の光」
三人が王子の言葉を同時に繰り返す。
「小さな光が輝き、一瞬にして、巨大な光りとなってわたしを包みこんだのだ」
「光りが」
「そうだ。あの光りは……」
「太陽の光だと思います」
アメンヘテプの言葉を聞いてアティが思わず声をあげる。
「そうだ太陽の光、アテンだ」
アメンヘテプは大きく声を震わせた。
「アテン」
ラモーゼとカフタが小さく繰り返す。
「神は太陽の光なのだ。すなわち目に見えない存在だ。だからこそ人々に受け入れがたいのであろう。だが、考えてもみたまえ、もともと人間は神秘的な何かを感じるとき、その存在が神か悪魔かわからないにもかかわらず、太陽や月や大地と雨の恵みに自然と感謝し、手を合わせる。その時、その信仰の対象と人間の間に偶像や神官は存在しない。みなが自由に祈ることが出来るのだ」
「太陽の光に手を合わせるだけで人々は救われると言うことですか」
「太陽光線を崇拝するのに人種も階級も国もなにもあるまい。いずこの国でも太陽は古来から神として崇められてきた。これこそ神が望んでいらっしゃる、ONEの法則に他ならないのだ」
「ONEの法則」
「ONEの法則とは世界や宇宙が一つであるという法則だ。一握りの人間達が世界を一元管理するという意味ではない」
「可能なのですか?」
「人類が目覚めれば可能だ」
アメンヘテプが天の太陽を見上げるとラモーゼ、カフタ、アティも太陽を仰ぎ見た。
「ラモーゼ、カフタ、神の光を心に刻むのだ」
「はっ!」
「アティ、そなたもな」
アメンヘテプはにっこりして、アティの頭を軽く撫でた。
「は、はい」
アティは嬉しそうに微笑み、太陽へ感謝を捧げるため、両手を胸の前で静かに組んで目をゆっくり閉じた。それから心の中で何度も祈りを献げた。
アメンヘテプは洞穴から外へ出て大空を見上げた。三人も後に続く。天頂には巨大な太陽が真っ白に輝いていた。王子は天の太陽に向かって上体を仰け反らせ、まるで太陽を懐に抱き抱えるように、太陽光線を体全身に浴びるように、両手を思いっきり左右に伸ばした。
「神よ、我らは、あなた様の絵筆となって、この世界に美しい絵を描きます」
アメンヘテプが太陽に向かって目を閉じた。
王子の体を目も眩むような光が包み込んだ。
ラモーゼもカフタもアティも、その姿があまりにも神々しかったので、思わずその場にひれ伏し、額を大地に押しつけた。