神の戒め
切り立った岩場ばかりの険しい山肌をアメンヘテプは登り続ける。
彼の前にはヒラールが先導しており、まるで神の使いの如く王子を導く。
空が白みはじめていた。もうすぐ夜が明けるのだ。太陽が昇らないうちに、山頂へ辿り着かねばならない。
溶岩が固まって出来た岩場。
山頂に近づくにつれて急な勾配が続き山肌から焼けるような熱が伝わってくる。
「生きている」
神の山とアシールの人々から崇められたこの山が、まるで、意志を持った巨大なエネルギーの塊のように感じる。
その時、先頭を行くヒラールがふたたび「アォーン」と吠えた。
ヒラールは白い噴煙があがる火口に立ち、息をつきつき這い上がってくるアメンヘテプに「急いで来い」といわんばかりに吠え続けた。
「ヒラール、いま行くから」
アメンヘテプはアカシアの杖を握りしめ、一気に、斜面を駆け上がる。
ついに燃える山の頂に立った。
「神よ私は来ました!」
火口の淵に立ちアメンヘテプは両手を広げ叫んだ。
赤茶けた岩肌の火口は、巨大なクレーターのように大きな口をあけ、底のほうから重く低い音を立て白い噴煙をあげている。
火口の底に見え隠れする溶岩の湖は金色の光りを放ち、その周囲を真っ赤な溶岩が生き物のように動く。
硫黄の卵の腐ったような匂い。
辺りには大小様々な溶岩が無数にころがり、絶え間なく吹きあがる白い噴煙。
火口の底に落ちればあらゆる物質は蒸発し、猛毒のガスが一瞬にして命を奪うのだ。
アメンヘテプが今にも爆発しそうな火口を覗き込んでいると、大地を揺らす地響きと共に大きな噴煙が噴き上がった。
「あっ」
恐怖に足がすくみアメンヘテプは近くの大きな岩に必死にしがみつく。
吹き上がった噴煙が立ち所に山の頂を厚い雲で覆うと、雲の中に光りの球が現れ、アメンヘテプを目もくらむような金色の光りで覆うと火口に運んだ。
「アメンヘテプ」
神は彼の名を呼んだ。
「神よ」
アメンヘテプは光りに溶けそうだった。
「わたしは、ありてある者だ」
光りの中に神の姿は見えなくて神の声だけが響いている。
「心を開きなさい」
アメンヘテプは自分が何を言われているのか分からず戸惑っていると、神がすぐに映像を王子の脳裏に流した。その映像とは、愛のエネルギーの塊としての神が、自身の愛のエネルギーによって宇宙を創造し地球を人類を生命を創造した歴史だった。
「全ての存在が神の愛のエネルギーで創造されている」
「……」
「あなたに見える全てが愛なのだ」
「……」
神が見せる映像は人類が誕生し、やがて輝かしい高度な文明を築くと精神が堕落しエゴの塊となって魂の輝きを落としてしまう、人間の醜くく哀れな姿だった。
「人類はこれまで三度誕生し三度滅んだ。あなたの文明は四回目の文明なのです」
「四回目の文明……」
「わたしはこれまで何万年ものあいだ人間を信じた。しかし、人間は文明を手にすると、傲慢になり堕落した」
「神を信じ、日々感謝の心を忘れず、謙虚に生きる人間もいます」
アメンヘテプは弁解した。
「存じている。だが殆どの人間が他者に心をむけず、自分の欲を満たすことしか考えない」
「余裕がないのです」
「他者の為に心の中で祈ることぐらいはできよう」
「……」
神の言葉にアメンヘテプは返す言葉もなかった。
「人間はもう二度と過ちを犯しません」
「何千万年ものあいだ、人間は同じ過ちを繰り返してきた」
「神さま……」
「あなたはまだ若い」
「未熟ですが、神さまを信じる心に偽りはありません」
「わかっている」
「神さま」
アメンヘテプは神の言葉に涙した。
「わたしは新しい文明が起こる度に、わたしの言葉に耳を傾ける人間を捜しだし、人間が過ちを犯さぬよう戒めを与えてきた。今の文明では……ノア、アブラハム、そして、今あなたがいる」
「わたしが」
アメンヘテプは言葉を失った。
「そなただ」
「わたしには、そんな資格はありません」
「アメンヘテプよわたしの言葉を心と魂に刻みなさい」
神はそう命じアメンヘテプに語り始めた。
「わたしは光り、愛の光り。私は全ての神であり、神々はわたしである。わたしは女であり男である。故に神は一つなり、人々の心も一つである。したがって世界も一宇宙もつなのだ。
神の名をみだりに唱えてはなりません。
偶像を崇拝してはなりません。
父と母を敬いなさい。
殺してはなりません。
姦淫してはなりません。
盗んではなりません。
嘘をついてはなりません。
隣人を妬んではなりません。
いついかなる時でも寛容でありなさい。
人を赦しなさい」
「アメンヘテプよ、人々にこの教えを伝え守らせなさい。それが、あなたが生まれる前にわたしに誓った約束です」
「生まれる前に誓った約束……」
呟いた瞬間、アメンヘテプの脳裏に、天国で神と一緒に人間世界を眺めている自分の姿と、人間世界の神殿で、世継ぎとなる男の子を欲しがる母の姿が映し出された。
「お母さま……」
「そなたは、母の願いに応えたのです」
「神さま、思い出しました。母を助けるためにエジプトに生まれることを願いで、神の子として仕えると誓ったのでした」
「よくぞ思い出しました」
「神さま」
「我が子よその時が来たのです。この戒めを全ての人に説きなさい」
「エジプト人に、世界の人々に」
「大国エジプトが変われば世界が変わります」
「世界が変わる」
「あなたの決意で世界が一つになり永遠の愛と平和の楽園となるのです」
「神さま、世界を愛と平和の世にしてみせます」
「その誓いを決して忘れてはなりません」
「誓います」
「あなたが発した言葉は、あなたの心の中の誓いではなく、わたしとの契約なのです」
「契約」
「あなたが誓いを破ればあなとあなたの王朝は滅びるでしょう」
「決して誓いを破るようなことはしません」
「言葉には魂が宿るということを決して忘れてはなりません」
「言葉に魂が宿る」
「常日頃、自分が使う言葉に細心の注意を払いなさい。あなたが発した言葉は必ず現実化します。そして良きにつけ悪きにつけ自分の人生に、社会に大きな影響を及ぼします」
「心します」
「いついかなる時でも寛容でありなさい。人を赦しなさい、赦すのです……」
神の言葉はそこで終わった。
「神さま」
そう言葉を発すると、アメンヘテプを包んでいた光りが激しさを増し、稲妻で全身を貫かれるような衝撃が走った。
王子はその衝撃で仰け反り天を仰ぐと、丸い光の輪郭が見えた。
「神よ……」
そう呟きながら意識を失った。
アメンヘテプが岩場に倒れていると、ヒラールが王子の頬や顔を繰り返しぺろぺろ舐めた。
「うっ……」
ぼんやりと意識が戻り、目を微かに開けたアメンヘテプの前に、心配そうに主を見つめるオオカミの鼻先があった。
「ヒラール」
アメンヘテプはゆっくり片手をついて上体を起こし、周囲を見渡した。
神さまの言葉が鮮明に思い出される。
「戒め」
アメンヘテプは心の中で繰り返した。
神との対話は一瞬の出来事のように思えたが、実際には山頂に登って既に四十日が過ぎていた。